魔女編03話 いとまごい
世界歴一〇〇〇九年一ノ月。
この世界での月の数え方は植物の生育に由来していて、そのナンバリングが農作業の目安として活用されている。
芽吹きの月である一ノ月というのは、体感で言えば《科学世界》の三月の初めくらいの陽気である。
ただ夜になるとまだまだ冷え込むし、特にこの北方の国であるエイヴィス共和国では、日陰に残雪も見られるほどに寒い日が続いている。
「うう……さっむ」
俺は羽織ったブランケットを軽く引っ張って隙間風が入ってこないようにしつつ、机に向かって書き物をしていた。
もう何年も会っていない“妻”に宛てた手紙と、それから、手記をいくつか。
俺が旅先で出会った人達、数々の出来事、その土地の風土、風習をまとめた旅の記録だ。
これらをまとめて出版する事で、“妻”の小遣い稼ぎにして欲しいという思いから、潜伏場所が漏れるのを覚悟の上で書き留めているのだ。
幸いそれらは《銀の魔女の風土記》として魔法国の中でも人気の読み物となっているらしいことを、風の噂で耳にした。
その噂こそがアロエの息災を知らせる何よりの頼りだと俺は考えている。
さて、今日は何を綴ろう。
少し前に森の中で会った少年の話を、少しだけ脚色して書いてやろうか。
死に別れた婚約者の遺児との邂逅──なんつって。
俺はどのように記述しようかと逡巡し、それからしばらくして今日は筆が乗らないと判断して、ペンを置いた。
寒空に凍りつく粗末な色ガラスの窓を見る。
安物のガラスでは外を見通すこともできず、ただ夜闇に反射する自分の姿がぼんやりと見えるだけだった。
相変わらずの、美しい見た目。
髪が長く伸びたからか、どことなく十代の頃の自分に似ている気がする。
実際、《魔法世界》の人間は二十を境に見た目の変化が極端に少なくなるから、俺の見た目もあの頃からあまり変わっていないだろう。
美女というより美少女と言っても通用するかもしれないな。
ここ何ヶ月も鏡なるものを見ていないから完全に推測だけど。
今日、この安宿を借りたのだってほんの気まぐれ。
たまには人間らしい生活に触れたいという希望と、そろそろ手紙を出さなくてはという焦燥が、俺の足を動かしただけ。
しかしこれによって、俺の特徴的な見た目から、すぐに魔闘士連中に居場所がバレるだろうな。
まったく、嫌になるぜ。
「ちょっとだけ仮眠しよ。せっかくベッドもあるんだし」
俺は固くて軋む古臭いベッドに身を預けると、机を照らしていた光魔法を消した。
暗闇に包まれる室内。
なんだ、この角度からなら月が眺められるじゃないか。
ガラスの屈折でひどく歪んだ月の輪郭を目線で辿っているうちに、俺の意識は微睡みの中へと落ちていった。
──
─
翌日。
生憎の曇天の中、森の中に潜ませておいた“夜闇のドラゴン”クロウを駆って西海岸の集落を目指した。
集落と言っても、そこは街道からも随分と離れ、大した産業もなく、自給自足の生活を営む数世帯が細々と暮らしている寂れに寂れた場所だ。
隠れ里、と言い換えても良い。
住人たちは皆、過去に何かしらの闇を抱えた札付き、あるいはその子孫であり、そのため苗字を隠して生きるものも多い。
残念ながら、このエイヴィス共和国にはこういう集落が少なくないのだ。
「おいクロウ、降りるぞ」
がう、と小さく返事した黒きドラゴンは、旋回しながらゆっくりと降下して集落の側の海岸へと降り立った。
そこにはクロウよりも二回りほど小さな全長四、五メートルほどの赤いドラゴンもいて、暇そうに横たわりながら潮だまりに炎を吐き、海水を沸騰させて遊んでいるのだった。
「おうフェタミン、元気そうだな」
俺が声をかけると、奴は思い切り炎のブレスを吐いてきやがった。
やれやれと肩を竦めつつ、俺は炎をかき消した。
幼体のブレスなんて、大したことも無い。
「……お前も先代みたいに聞き分けが良くなると良いんだがな」
「グルル……!」
唸る二代目フェタミンだが、クロウがひと睨みすると途端に押し黙る。
ドラゴンの社会は完全に力関係で決まるのだ。
俺はクロウにその場に待機するように命じてから、集落の方へと足を向けるのだった。
海岸は切り立った岸壁に囲まれていて、集落へ入るにはここを登る必要がある。
一応道も申し訳程度に整備されているものの、流石に山道を三十分もかけて登るのは面倒だから、俺は風を纏って集落へとひとっ飛びで移動した。
なるほど、相変わらずの侘しい空気感。
雪に覆われた畑ではまだ種まきも行われず、あばら家の軒下では鮭の切り身が吊り干しにされている。
出歩く者は誰もおらず、谷間を轟轟と風が吹き抜けている。
畑の準備すらしていないのならば、クロウをここに下ろしても不都合は無かったかもな。
俺は集落の、そのまた外れにある木造の家のドアを叩いた。
返事を聞くまでもなく、俺は扉を開ける。
「やあ、ロイン。調子はどうだ」
「カナデ……様」
元魔闘士協会マムマリア王国支部長、ロイン・ケーシィが粗末なベッドの上に横たわっている。
綿が潰れて薄くなってしまった掛け布団の上に、鹿の毛皮を毛布代わりにして敷いている。
それでもこの北国にあっては、寒さを凌ぐには不十分だろう。
老人はすっかり弱りきっていた。
「ああ、良いよ起き上がらなくて。寝ていて大丈夫だから」
「かたじけない……ケホッ」
そう言って咳き込み始めるロイン。
俺は彼の体を横向きにして、背中を擦ってやると共に、器に湯を入れてロインの口元へ寄せた。
こういう介護のときは魔法腕が役に立つ。
自分が動かなくてもすべての作業を同時にこなせるからな。
「そういえば、エスはどこにいる?」
いつもなら扉を開けるなり飛びついてくる元気な女がロインの介護をしているはずなのだが、今日はいやに静かだ。
うるさくないから奴がいなくても全然問題ないのだけど。
「彼女は若いのを連れて食料調達へ行きました。最近彼らの仲が良いのです。もしかすると、村の人口が増えるかもしれませぬ」
若いの、というのは魔闘士時代にロインの腹心の部下だった男だ。
若いというのもロインの主観であり、年齢は五十を超えていたんじゃないかな。
《魔法世界》の特性により、見た目は同い年くらいに見えるから、組み合わせとしてはアリなんだけどさ。
「……いや、しかしその前に人口が一人減るかもしれませんがな」
「──もう、長くないのか」
老人はその顔に浮かぶ皺を深くした。
それは笑顔とも取れるが、悲壮にも映る、どこか後悔と安堵を含む複雑な顔だった。
「悪を、憎んできました」
彼は、嗄れた声でゆっくりと語り出す。
「魔闘士として百年近く戦ってきましたが、倒しても倒しても、悪の芽は次々に生まれてくる。次第に私は、その状況こそが許せなくなったのです。悪を滅ぼすためには自らも悪に足を踏み入れなければならない。必要悪──そのように考えていた折に、ハーヴェイ殿よりあなた様を紹介されました」
「そうだったな」
「私はあなた様に協力したことを悔いてはおりませぬ。非合法なれど、悪人が次々に消えていく……あれは快感でございました。夢のような時間でした」
ロインは目を閉じて、満足げな表情を浮かべる。
きっとあの頃の俺達の活躍を思い出しているのだ。
そんな瞑想の時間が数分続く。
いよいよロインがくたばったかと思い、念の為に声をかけると、彼は再び目を開けた。
「私には心配なことがございます」
ロインは首を傾け、乾いた瞳で俺を見つめた。
「あなた様の行く末です。──あなたはまだ若い。これからいくらでもやり直せる。どうか、自暴自棄にはならぬよう、お願いいたします」
「俺は、自暴自棄に見えるか」
老人は小さく横へ首を揺らした。
「今は、まだ……としか言えませぬ。しかし、ここ数年であなた様の纏う空気は明らかに変わった。いやに落ち着いているように見えますが、私にはそれが怖い」
何だよいつか爆発するかもしれ無い爆弾みたいに言いやがって。
ま、自分でもその通りだと思うから何も言い返せないのだけど。
「安心してくれ。死ぬようなヘマはしねぇよ」
俺がそう言い返すと、老人は声を出さずに笑っていた。
それは、俺が初めて見る、ロインの満面の笑みだった。
──そうしてしばらくの間、ロインと言葉を交わした。
彼は時々眠ったように目を閉じて押し黙ってしまうのだが、それは俺の言葉を咀嚼するように噛み締めている仕草なのだと遅れて気がついた。
都度てっきり、会話の最中にくたばってしまったのかと肝を冷やしたものだ。
正午近くなっても、エス達は戻って来なかった。
人目につかぬところで本当にしっぽりやっているんじゃないだろうな。
「さて、そろそろ俺は行くよ」
「今日は泊まっていかれないので?」
「ああ」
今日は、ロインやエスに暇乞いをしに来ただけなのだ。
俺は今夜、エイヴィス共和国の国境を抜けてマムマリア王国へ入るつもりだ。
まだ明るいうちに南下して国境付近には行っておきたい。
「そうですか……お別れ、ですな」
「ああ。……エスにもよろしく言っといてくれよ」
俺はそう言い残すと、あばら屋を出た。
「カナデ様、お元気で」
老人の声に片手を上げて返事をした。
扉が閉まり、俺は振り返ることなく歩き始める。
思い残すことは何もない。
残雪の隠れ里を横目に、俺は前へ進むだけさ。
曇り空の下、低くなった空から風に乗って氷の結晶が降りてくる。
北国では、こんな時期でも雪がちらつくのか。
だがいつか必ず春は来る。
俺は一足先に、春を求めて南へ行くことにしよう。
せめて次の春までは生きていてくれよ、ロイン・ケーシィ。
そして、温もりの中で死ぬがいい。
さようなら。来世で会ったなら酒でも飲もうぜ。
クロウに跨り、空へ昇った。
雲の切れ間、光の射す方へ。




