暗躍編23話 新闘技場の戦いⅢ
シアノによる処刑宣告に、私は慌てた。
もしもアセットの言う事が虚勢ではなく真実ならば、彼を殺害する事で何の言い訳も立たなくなってしまう可能性がある。
話だけでも聞いておいた方が良いのではないか。
「シアノ、そんな簡単に決めては」
私が“駄目”と言おうとすると、そこに被せるようにシアノが駄目押しをする。
「駄目ですよ母様。こんなところで迷っている時間は無いはずです。わらわ達はたとえ脅され、騙されたのだとしても既に姉様の手先。引き返すには、遅過ぎる」
「そんな事はナイ。カンナを裏切ればあるいは」
「姉様を──裏切る……?」
シアノが私を睨んだ。
瞬間、背筋が凍りつく。
全身の毛が逆立つ感覚。
久しぶりに感じた、シアノの本気の殺意だ。
「いくら母様でも、許しませんよ、そんな事」
「……すまなカッタ。忘れてくれないカ」
私が謝ると、シアノは先程の怒り具合が嘘のように一転して満面の笑みに変わる。
普段以上に可愛らしさ増し増しの、どこか人を戦慄させるような無邪気さで。
……“姉様”。
シアノがカンナの事をそのように呼ぶようになったのは、いつ頃だろうか。
飛空艇事故から数年は、シアノからは“帝国派の人形”が抜け切らずにいた。
自己が無く、誰かの言いなりに動き、故に起きた事象に一切の責任を感じることも無い。
たった一つ。
彼女の中に芽生えたのはたった一つの感情だった。
──カンナ・ノイドを許さない。
家族を皆殺しにした張本人であるカンナへの憎しみ、恨み。
それだけがシアノを構成するただ一つの要素となった。
そんなシアノの心を、私は数年かけて解きほぐしていった。
愛情を持って接し、善悪の判断ができるように躾け、真っ当な人生を歩んでもらおうとした。
その目論みは半分以上成功したと言えるが、同時にカンナに対する感情だけが不可解な方向に歪んでいった。
カンナに会うたびに憎まれ口を叩き、不機嫌な表情をするという態度はいつまで経っても変わらなかったが、その実シアノの目はカンナに会う度に生き生きとして、カンナが魔法国へ帰る頃になると今度は露骨に酷く落ち込んでしまうのだ。
それはまるで、恋慕の情に似ていた。
私は確信した。彼女の中にあったカンナへの憎悪は、いつの間にか信奉に変化したのだ。
決して素直に態度には表さないが、シアノはカンナに普通以上の感情を抱いている。
おそらくそのように、カンナに誘導されて。
……そうだ。
今の私に選択肢など初めから用意されていなかった。
たとえアセットの誘いが正しくて、カンナを裏切るのが最適解だとしても、その選択肢ではシアノが納得しない。
それどころか彼女の感情が暴走して、もっと酷いことになるかもしれない。
私達は後戻りはできないラインをとうに越えているんだ。
──これもお前の計算の内か? カンナ・ノイド。
生活保障という目に見える見返りの他に、心で我々を繋ぎ止めるのか。
……否、繋ぎ止めるではなく、縛り付けるが正しいか。
「母様、やっぱり、おじさんはわらわが殺すね」
「ぁ……」
今度は、止める事ができなかった。
きっと私は躊躇ってしまう。
決してアセットの命が惜しいわけでは無いが、自分達の未来の可能性を潰すのには抵抗があるから。
シアノに任せよう。
彼女の罪の意識がカンナに塗りつぶされている今だけは、命を奪ったという重圧に苛まれる事はないはずだ。
アセットは力を緩めて、仰向けに手足を投げ出したような格好になると、全てを諦めたように苦笑する。
自らの境遇を嘲るが如く。
「はは……。何故ビアンカ・カリームがシアノ・ニクスオットに母と呼ばれるのかとか、そもそもなんで生きているのかとか、聞きたいことは山程あったんだけどな。残念だ」
シアノのことはやはりバレていた。
名前を呼んでしまったし、顔から髪までばっちり見えてしまっているから仕方がない。
「さようなら」
シアノは毒素を霧状にすると、アセットに吹きかけた。
これで奴がひと呼吸すれば、いや、どこかの粘膜に霧が触れれば間もなく致死性の毒が作用するだろう。
ところが彼はしぶとかった。
と言うより、はじめからとどめを刺されるつもりはなかったのかもしれない。
霧が体に触れる寸前のところで風魔法を使い、地面スレスレに、仰向けのまま物凄い勢いで平行移動を始めたのである。
一見すると滑稽で奇妙だが、体が動かせない現状では理にかなった移動方法だ。
しかし我々にとっては手痛い誤算だった。
私が奴の会話に乗ってしまったのがいけなかった。
殺すのを躊躇ったせいで敵に魔法を使用できるだけの気力を回復させてしまったのだ。
「うわっ!」
アセットの移動に伴う風圧で、毒霧は術者であるシアノ本人に吹きかかってしまった。
彼女も咄嗟の判断で跳び下がって回避したようだが、それでも少しくらい毒素に触れてしまったかもしれない。
「シアノ、平気か!?」
「うん、大丈夫。すぐ、解毒するから」
……つまりしっかり毒霧は貰ったと言うことか。
あの男、やってくれたな。
よくも我が愛しの娘を。
アセットは風の力でゆっくりと体を起こす。
どうも本人の言うとおり右腕と首以外に力が入っていない様子だが、奴は不敵な笑みをその顔に張り付かせて宙に浮かび始めた。
おもむろに右腕で脱臼していた左肩を掴み、鈍い音を立てながら関節をはめ直す。
これで上半身は元通りというわけだ。
「戦闘は無理でも、逃げる気力はございますよ、ってね!」
「チィッ」
私は苦々しく舌打ちをした。
何という狡猾な男……いや、私が迂闊な女なのか。
結局、度重なる私の判断ミスが、娘の身を何度も危険に晒したのだから。
「はっはっはっ! 俺様を睨んでいる暇があったら娘を助けてやったらどうだ」
「言われなくてもそうす────」
ドンッ。
「は?」
突然、事態が動いた。
むしろ別の場所で異なる事象が同時進行していたと述べるべきだろうか。
悔しさに歯噛みしていた私の耳に届いたのは、これまでとは比較にならないほどの大きな破壊の音。
音の源は山の向こう側、つまりカンナ達のいる方向だ。
何かが燃えている気配。夕焼けのように真っ赤に染まる空。
私の背後の森林火災と相まって、空全体にかかる雲に、赤い光が映し出されているのだ。
あちらでも光魔法や炎魔法が使われたのかもしれない。
「な、何じゃありゃあ!?」
続いて、アセットが驚愕の声を張り上げた。
彼もまたカンナ邸での戦闘規模に驚いているのかと思いきや、そうではなかった。
「あれは……フェタミンか」
彼が声を上げたのは、私達がいる新闘技場のすぐ近くの森から、大きな影が上空に向かって飛行を開始したからだ。
影の主は、けたたましい咆哮を上げながら、一気に高度を上げていく。
それは一頭のドラゴンだった。
赤い鱗、黒い眼に蒼い虹彩。
広げた翼は十メートルに迫り、樽のような胴体に、棘のある長い尾を引き連れて、遥か上空へ向かって急上昇を続けている。
付近の森に忍ばせておいた、エスの愛龍、“赤き鱗のドラゴン”だ。
なんだか事態は刻一刻と変化して、止まることを知らないみたいだ。
むしろ加速度的に状況の変化が起きているのではなかろうか。
「まさかアレもお前らの仕業か?」
「ああ、そのとおりダヨ」
その硬い外皮は生半可な攻撃など通さず、その攻撃力は他の龍種をも凌ぐと言われる。
我々の最高戦力であり、秘密兵器だ。
しかし気になるのは、何故今ドラゴンを呼び寄せたのかという点。
秘密兵器を動かさなければならない状況に陥ったということなのか、それとも万全を喫して早めに動かしたということなのか。
後者であれば良いが、前者ならば……。
それに、先程の大きな爆発音。
尋常では無い事態になってしまっている可能性がある。
「……状況が変わった。逃げるのはやめだ。俺様も行かねぇとな」
アセットが真面目くさった顔付きで呟いた。
「そんな体で何が出来ル?」
「やれることをやるだけさ」
アセットは模範解答のようなことを言って、途端、強力な力場を展開した。
私もシアノも、彼が再び私達に攻撃を仕掛けるつもりなのかと警戒を強める。
しかしそうではなかったようで、アセットは風を纏うようにして上空へと飛び上がるような挙動を取った。
まさか、ドラゴンを追いかけるつもりなのか。
成り行きを見守る私達。
そんな我々を横目でチラリと確認したアセットが、どうしてだか、悲しげな表情で呼びかけてくる。
「なあビアンカ・カリーム」
「な、なんダヨ」
「……その子を守りたいのなら、お前達は今すぐにこの国を離れろ」
「は?」
意味深な台詞に私が反応した直後、彼は風の勢いを強めた。
そして一気に高度を上げ、そのまま弾丸の如き勢いで飛び去っていった。
“やれることをやる”と言っていたが、確かにあれくらい気力と体力があれば、下半身不髄でも戦えるのかもしれない。
「わらわ達も追いかけないと!」
「ああ」
頷きはしたが、アセットの言葉が頭から離れない。
彼は、ひょっとして私たちの存在を伏せてくれるつもりなのか。
だけど、最後までカンナに味方すると決めたからには、少なくとも今日の戦いの行く末を見届ける必要はありそうだ。
さてと。
やることは決まったが、私はシアノにように長時間高度を維持出来るだけの飛行能力はない。
山を越えてカンナ邸に向かうためには、途中で何度か気力回復が必要となる。
休憩を挟みつつ飛行するよりも、むしろ、ペースを崩さないように地表を走っていった方が早いだろう。
「シアノは先に行ってクレ。あたしは後から追いかけるヨ」
「うん」
シアノは首肯し、即座に魔法力場を展開した。
先程のアセットと同じように、風を集めて体を浮かせる。
しかし、何を思ってかシアノはそこで魔法の発動を止めてしまった。
私が声をかけると、彼女は不安げな視線をこちらに投げかけながら、言った。
「母様と一緒に行く」
どうした急に。
一人で先行するのが心細く感じたのだろうか。
シアノの手が細かく震えている。
「母様……姉様は大丈夫かな」
やれやれと肩を竦め、私はシアノに手を差し出した。
「あたしたちが助けるんだから、大丈夫サ」
彼女はすぐに私の手を取って、もう一度頷いた。
娘の掌は汗ばんでいる。
死線を越えてなお、次の戦場が待ち構えているわけだから緊張は仕方のないことだ。
「行こうカ」
「うん」
ここからカンナの別邸がある見晴台までは、魔法学校の前を抜けていく道が早い。
少々迂回気味にはなるが、道も広くて駆け抜けやすいからだ。
ところが、またもシアノは妙なことを言い出した。
「母様、山越えの道にしましょう」
「……? どうしてダ?」
「バンダナもどこかにいっちゃったし、人に見られる危険が少ない方が良いかと思って」
シアノの言う通り、髪を覆い隠す布を紛失してしまったのは痛い。
私達の髪の色は目立ちすぎるんだ。
もしも人目に触れるようなことになれば、そこから素性を辿られて飛空艇事故の生き残りがいることや、現在の潜伏場所まで全てが明るみに出てしまうかもしれない。
ニクスオット家に所縁の無いマムマリア王国ならまだしも、魔法国内で、しかもこのような大規模戦闘が行われた夜に目撃されるのは非常に危うい。
「わかった、お前の言うとおりにしよう」
私はシアノに軽く微笑みかける。
少し息を吐いて気合を入れ直すと、娘の手を引いて、私は山に向かって駆け出した。
シアノも後に続いている。
心なしか、私の手を握る彼女の手に力が込められた気がした。
──
─
この時。
私と一緒に行くというシアノの選択、山道を抜けるという選択が私達の運命を決定づけた。
私がそのことを知るのは、もう少し先のことだ。




