暗躍編01話 魔女は笑う
一面の青空。
上も下も右も左も真っ青な世界。
いや違う。
下にあるのは鏡面のように輝く水面。空では無い。
キラキラと輝くゆっくりとした水の流れが、視界一面を覆いつくしているのだ。
海のように縁のない水。
しかしその流れは一定方向に偏っており、向きが変化することはない。
水の中を覗き込もうとすると、途端に脳が焼き切れるんじゃないかという痛みに襲われた。
この感覚は知っている。
時の大河を視界に入れた時の、あの感じ。
「ッ──!」
痛みを堪えるためにこめかみを抑え、なるべく水面が視界に入らないように上を見た。
相も変わらず、どこまでも続く青い空。
体は地面に接することもなく、宙に浮いているような感じ。夢の中で空を飛んでいる感覚。
ここはどこだ。
確か、アロエと一緒にベッドに入って少し戯れた後、割とすぐに眠りについたはず。
と、なるとこれは夢なのか──それにしては先ほどの痛みは本物だ。夢だとは思えない。
しかもただの痛みではなく、魂までぐしゃぐしゃにシェイクされるような奇妙な感覚だった。
それは間違いなく、《三竦みの世界》を俯瞰する11次元の世界特有の現象に他ならない。
だがここは、あのような混沌が整然と並ぶような、煩雑と虚無が両立するような奇妙な空間では決してない。
ここには何もない。水面以外は、何も。
「おいおい、ここは何だ? 11次元の世界……じゃない?」
呟いた言葉に反応するかのように、目の前から声がかけられた。
「いいや。11次元の世界で正解だよ、カンナ・ノイドさん♪」
虚空から声が聞こえる。
俺が瞬きをしたほんの僅かな時間の先に、そいつはいた。
目の前には黒いローブを着た三角帽子の女。
艶の無い長い黒髪に、黒く沈んだ無感情な瞳。
目を細め、口角を上げるような仕草をしているにもかかわらず、絶対に心から微笑んでいないとわかる、不気味な表情。
「久しぶりじゃないか、黒の魔女。今日は裸じゃあないんだな」
「ボクが裸だったのは、主に君の感覚に波長を合わせていたからなんだけどねぇ☆」
……その言い方だと俺が変態だから裸になっていたみたいじゃないか?
俺が不機嫌なカオをすると、魔女は顔に貼り付けた不気味な表情をいっそう濃いものに変える。
彼女は「ふふふ」と感情のこもらない声を出しながら“笑う”と、ローブの端をつまみ上げ、恭しく頭を下げた。
「いや、それにしても本当にお久しぶりだね。銀の鴉のリーダー、カナデ様★」
「うわ。カナデはともかく、組織名を弄るのはやめてくれよ」
「やめてって言うけど、キミが考えたんじゃないか。ボクはカッコいいと思うな♡」
確かにその名前を考えたのは俺だ。
あれは、エスが「組織の名前を決めよう」と言い出した時だったか。
【カナデ様がよく魔法詠唱の時に使っている言語、あれカッコいいですよねッ! アレで行きましょうッ!】
【ん? そうか、じゃあ例えば……】
そうして適当に呟いた俺の台詞が、そのまま組織名として採用されてしまったのだった。
中学生男子が考えそうな安っぽいネーミングに身震いし、なんとか忘れてもらおうとしたのだが。
【だーめーでーすッ! 銀の鴉、カッコいいじゃないですかッ!】
こうして、押し切られてしまったのだ。
元々名前なんてどうだっていいと考えていた俺だったが、流石に黒の魔女に弄られるとこっぱずかしさがこみあげてくるというものだ。
俺は盛大な溜息を吐いてから、さっさと話題を切り替えることにした。
「……で、何か用か。黒の魔女」
「うわ。露骨に話題を逸らしたね、キミ」
さもないと、お前は俺のネーミングセンスを馬鹿にし続けるだろうからな。
「うるさいな、さっさと用件を言えよ」
「えー、用がなくっちゃぁ呼んじゃダメなのかい? 定時連絡だよ、て・い・じ・れ・ん・ら・く♪」
つまり、特に用もないのにこんな異空間に呼び出されたのか、俺は。
しかも定時とか言いながら、しれっと十年くらい間隔をあけやがった。
前回は確か修学旅行の前……そう、あの時は11次元の世界に長居しようとして、目覚めた後で大変な目に遭ったのだっけか。
あの気持ち悪さを味わうのは二度と御免だ。さっさと退散するに限る。
「じゃあ、俺はこれで」
俺がそう言って振り返ると、黒の魔女は慌てた素振りをしつつ俺の肩に手を掛けた。
そう言えば、俺の身体がちゃんと認識できる。
以前のように、“無いようで有る、有るようで無い”といった曖昧さ、不完全さはまるで感じない。
「ちょっとちょっとぉ、もう少し話をしようよ♪ 九年ぶりの再会じゃないか☆」
「……お前にとっては、そんなに長い時間じゃなかったろ」
コイツの見た目は、はじめて会った時からほとんど変わっていない。
今となっては、むしろ俺の方が年上に見えるのではないだろうか。
「まあねー★」
彼女は演技臭く肩を竦めておどけて見せた。
「それにこの場所、前に来た時と比べて随分と様変わりしているようだが」
「それはねー、キミがこの空間に馴染んできた証拠だよ。この空間が変わったんじゃない。キミの認識が変わったのさ♡」
魔女は手で口を押えるような仕草をして、くすくすと笑う。
なるほど、以前はこの異空間に順応できていなかったからあんな無茶苦茶な世界に認識されてしまったけど、今はある程度空間に溶け込めているというか、上手く馴染めているので不快さが幾分か軽減されているのだろうな。
魔女が服を着ているのも、そう言った理由なのかもしれない。
俺としては服を着ていない方が好みだったがな。
「空間に慣れるって言うと、アーケオみたいに長時間過ごしても大丈夫になったってことか?」
アーケオとは、何千年か昔に黒の魔女と交流を持ったというアーケオ教の始祖にして巫女の名だ。
彼女は数時間もの間11次元に留まることが出来たと、誰かさんから聞いた覚えがある。
魔女はアーケオの名にピンときていないのか、人差し指を唇に当てながら目線を右上に動かした。
記憶を探っている動き。
「えと、アーケオって言うと宗教の開祖だよね♪」
「お前と会っていたんだろ?」
「……ああ、そういう……☆」
魔女はにこりと微笑むと、空中に座るような挙動をして宙に浮き、脚を組んだ。
その際、ローブが翻って中身が垣間見える。
彼女は何も身に着けていなかった。眼福眼福。
「アーケオとボクは、きっと未来で出会うんだよ★」
「はぁ? それだと時系列がおかしいだろ」
アーケオは既に過去の人。
遥か昔に黒の魔女から教えを受けたからこそ、現段階での世界宗教の祖になれたわけじゃないか。
「キミさ、時の流れから外れているこの空間で時系列の話をすることはナンセンスだよ♡ きっと未来のボクが、過去のアーケオに会うことになるのさ♪ そういうことも、起こりうるんだ」
「へぇ……何でもありだな」
要するに、過去にコンタクトすることも、未来の誰かと会話することも可能だから、今俺と話しているこの魔女が、必ずしも過去の時間軸の誰かと接触しているとは限らないということか。
時そのものをを俯瞰しているわけだから、考えてみれば当然。
そもそも、未来にいるはずの黒の魔女が、二十余年前の大浅 奏夜に語りかけられるくらいなのだから、時間の概念がめちゃくちゃでもおかしくはないのだ。
「聞くが、俺と会っているお前は、ちゃんと時系列順なんだよな?」
「……というと?」
「実は俺の人生を遡るようにして観測しているんじゃないかと思ったんだ」
「なるほど、そういう発想もアリだよね☆」
この反応は、時間に逆行はしていないと考えて良いということか?
「ボクは転生前のキミに接触してから、キミの人生を順番に追っかけているんだよ★ 物語のネタバレをされたら嫌だからね」
コイツ、俺と言う大河ドラマの視聴者みたいなポジションだな。
「自分が魔女に成った瞬間を、覚えていないんだっけか。まさか、そこに至るまでずっと俺を監視し続けるつもりか?」
「うん、もちろんだよ。キミの人生は見ていて飽きないからねー。次は何をしでかすのか楽しみで仕方がないよ♡」
そう言って魔女はよだれを袖で拭う素振りを見せる。
実際によだれを垂らしたわけではなく、そういう“フリ”だ。
「まあ、それもあと少しで終わりかな。実際、キミは昔のボクに遭遇しているわけだしねー」
は? なにそれ、初耳なんだが?
黒の魔女と俺は既に遭遇している、だと。
いや、それはありえない話だ。
会った回数は極端に少ないとはいえ、俺は魔女の姿をはっきりと覚えている。
どこかですれ違っただけならともかく、顔を突き合わせることになれば必ず気がつくはずなんだ。
「何を驚いているんだい。仕方ないさ、昔のボクと今のボクとでは姿が違うのだから」
姿が違う? それも新情報だ。
つまり、俺が魔女を見定めるのに容姿の情報は役に立たないということじゃないか。
「魔女成ってからその姿に変化したってことかよ」
「さぁて♡」
「性別まで違うってことは無いよな」
「ふっふっふ♪」
……誤魔化した。これは何かを知っているな。
どれだけ聞いたって教えてくれないのだろうけどさ。
どのみち俺とこいつはどこかで遭遇して家族をぶち殺すという運命なのだ。
能動的に探すなんてことは今後も無いだろうから、聞くだけ無駄というものだ。
「だけど」
俺は黒の魔女に近づき──どうやって移動しているのか自分でもよくわからないが──、奴の額の黒い頭頂眼に狙いを定めた。
中指を曲げ、親指で固定し、力を込める。
「あいたっ!? 何をするんだい、酷いじゃないかっ!」
必殺のデコピンである。
なんていうか、その態度にムカついたからだ。
魔女は額を擦りながら俺を半目で睨みつけてきた。
下の瞼にほんの少し涙が滲んでいる。
──なんだか、黒の魔女の中にほんの少しだけ“人間の少女”を見た気がするな。
魔女は深く息を吐き、何か空中を手で払うような動きをした後、再び俺を見つめてきた。
その頃にはもう、元の魔女の顔だ。
感情を打ち消してしまったような、彫像の顔だった。
「やれやれ。この空間への順応度が高くなるとこういう不測の事態も起きるのだね。勉強になったよ☆」
「そりゃどーも」
俺が気の抜けた返事を返すと、魔女は再び笑顔の仮面を嵌め直した。
三角帽子の角度を直し、脚を組み替えながら前傾すると、今度は全く違う話題を振ってくる。
「そういえば、キミ、カイン・コーカスを組織に加えたよね★」
「……誰だっけ、それ」
「……本気で言っているのかい?」
今度の魔女は呆れ顔。
わざとらしい表情変化だが、これはきっと本気で呆れている。そんな気がする。
カイン・コーカスというのが誰だか知らないが、魔女が反応するということは、これまでのどこかで俺と言うドラマの中に登場していたキャストの一人なのだろう。
──ああ、そういえば最近雇い入れたやつの中に、妙に俺のことを知っている風な男がいたな。
俺はずっと狐の面をしていたのに、髪と声だけで正体に勘付きやがった。
あいつ、俺に関わったことがある人間だったのか。
道理で馴れ馴れしい訳だよ。
「じゃあ、早いうちに使い潰して消さないとだな」
「あはは、やっぱりキミはすごいや。即座にその発想に至るなんて、本当にサイコパスだね♡」
なにがサイコパスなものか。
向こうは俺の正体を知っている訳だから、どこかで情報を漏らされる危険性がある。
そうであれば、さっさと殺しておいたほうが良いという考えは当然の帰着だと思うがな。
俺の正体を知る者は、初期メンバーだけでいい。
「その調子でマイシィ・ストレプトも潰すのかい? エメダスティ・フマルも?」
「──俺のやることを嗅ぎ回っている、あいつらな」
マイシィ一派については目下、俺の最大の悩みの種である。
俺の裏の顔に気が付いているのかいないのか、俺の行動に逐一探りを入れてくるのだ。
消してしまえば楽なのだろうが、幼馴染ということもあり、表立って排除できない。
裏で手を回すことも考えたものの、彼女達の持つコネクションが強力でガードが硬く、暗殺も難しいときた。
何より彼女ら自身とその親衛隊が割と強い。
無論、俺にとっては敵ではないが、彼らを打破するということは、“それだけの実力を持った犯人”の特定に結びついてしまう可能性があるのだ。
故に、迂闊には手を出せない。
「俺の蒔いた種とはいえ、ここまで不都合な存在になるとは思っていなかったよ」
それにしてもマイシィのあの求心力、どこか俺に似ていないか。
俺は異次元からの転生者であることが原因で生まれつき魂の総量が人より優れており、故に人が寄り付きやすいということだが、もしかするとマイシィも……?
いや、まさかな。
「なあ黒の魔女、マイシィが俺と同じ転生者である可能性はあるのか」
すると、魔女はニヤリと笑って答えた。
「さーて、どうでしょう♪」
──結局その日、魔女はそれ以上何の情報も与えてくれないのだった。




