序章1話 黒の魔女
気がつくと、混沌の中にいた。
目も眩むほどの暗闇、整然とした無秩序。
体の感覚がない。
手も足も、胴体も頭も存在しない。
ただ知覚だけがそこにある、そんなイメージ。
何だここは──そんなささやかな疑問すら空間に呑まれて霧散するような奇妙な感覚がする。
思考がうまくまとめられず、自己の人格すら曖昧になる。
存在しないはずの足元を流れるのは、ひどく濁った泥の大河。
河の中を覗き込もうと目を凝らすと、瞬間、神経が焼き切れて脳が弾ける感覚がして慌てて目を逸らす。
いや、逸らす目すら無いのだけれど、しかしそれで目が覚めた。
大丈夫、俺はここにいる。
「見ないほうがいいよぉ~♪ それは時の流れ。覗き込んだらものすごい量の情報が君に流れ込んで、魂が壊れちゃうからね」
声がした。どこからだ?
「こんにちは☆ ──・──さん」
「誰……だ……?」
目の前に女性の姿があった。
焦点が合わず、顔が見えない。
浮かび上がるのは長い黒髪をなびかせた白い体だ。
「み……その……」
「あれ? その姿……ああ、どうやら少し前のキミにアクセスしちゃったみたいだね★」
向こうからは、こちらの姿が見えているのだろうか?
やっと焦点が合う。
違う、《彼女》じゃない。俺の知っている人物の中にこんな人間はいない。
まず、日本人ではない。
真っ先に想起したのは“よくできたゲームのCG”だ。
登場人物が全員美形すぎて気持ち悪いくらいの日本製のゲームキャラ、それも西洋風のやつ。
そもそも、こいつが人間なのかどうかも怪しい。
エルフのように尖った耳、額に埋め込まれた黒い玉石。
──いや、あれは目だ、第三の目。
僅かに視線のような、得体の知れないものを感じる。
女はその体に一切の衣服をも身に着けず、彫刻のように整った裸体を晒している。
不思議とエロさは感じない。
体の各部に黒い紋様が彫り込まれているところもある。
足首まで伸びた長い髪は吸い込まれそうなほどの艶消しの黒。
漆黒の瞳。
産毛も生えていないような滑らかな白い肢体はきっと、黒を引き立たせるためのキャンバスだ。
全身を見通しても印象は変わらず、やはり黒。黒い女だ。
「お前は誰だ?」
無いはずの喉から掠れたような声が出る。
「黒の魔女」
「ま、じょ……」
黒の魔女は、口角を歪ませる。
「あははっ! そんなに身構えないでおくれよ♪ ボクはただ、キミに挨拶に来ただけなんだからさ♡」
「どういうことだ?」
「恨み言と、お礼、かな☆」
いったい何のことだろう。
俺はこんな女に出会ったことなど一度もない。
こんなに存在感を放っている人間なら、いくら人の名前を覚えるのが苦手な俺でも忘れるはずがない。
「これから出会うんだよ~。だって、キミはボクを生み出してくれた人間なんだからね★」
これから出会うってなんだよ。
まるで未来からやってきたみいな言い草だが……いや、状況からして本当に未来のことを知っているのだろう。
この異常な空間が彼女の話に説得力を与えている。
ともすれば俺の未来の行動が、こんな得体の知れないものを生み出したということになる。
俺は一体何をするんだ?
「正確に言えば、キミがボクの家族を皆殺しにしてくれたおかげで、“成った”んだけどね♪」
女はさも楽しそうに笑う。
その姿だけ見れば“魔女”のイメージからは程遠く、その話し方のみ聴けば“黒”のニュアンスからも縁遠い存在に見えなくもない。
しかし、こいつの中身は空虚で満たされている、そんな気がするのだ。
底抜けに明るい話し方も、屈託のないその笑顔も、全部ガワに過ぎない。
魂の奥がすっぽり抜け落ちた虚無の外側に張り付けられたハリボテ。
ただ、はじめから何故か怖いという印象はなかった。
――俺も、似たようなものだからかな。
「だから、恨み言とお礼だよ。こうなる前のボクはとっても幸せだったのに、キミがぜぇぇんぶブチ壊したんだからね☆ でも、そのおかげでボクはこうして超越者に成れた。だから、ありがとう★」
何とも反応に困るお礼の言われ方だ。
どういたしまして? 家族を殺しておいてそれを言うのか。
いや、礼を言われているのだから返答はすべきだと思う。無視は良くないからな。
「どういたしまして」
「──あっはははは!」
すると魔女はまた笑う。
面白すぎて涙が出ちゃう、あーおかしい、そんな素振り。
しかしその挙動に反して彼女の瞳からは感情の色を微塵も感じないのだ。
「キミさぁ、普通は『家族を殺してくれてありがとう』なんて言われたら、どう返事をするか迷って、言葉を濁すものだよ! だのに『どういたしまして』を選択できるなんて、やっぱりキミは凄いや♪」
ものすごく皮肉を言われている気分だ。
実際皮肉なんだろうけどさ。
「さて。せっかく過去のキミに会えたんだ。このままキミと、キミの周りの人たちの人生を観察させてもらうことにするよ♡」
「なんだよ、それ」
「ボクがどうやって生まれたのか、そしてキミがどう生きて何を残すのかを見てみたいんだ! 今のボクにはその力があるからね☆」
コイツからすれば、一種の映画鑑賞のようなものなのだろうか。
人の人生を覗き見るなんて、趣味が悪いけどな。
「安心しておくれよ、夜の大運動会はなるべく見ないようにするからさ★」
「たまには見るってことじゃ無いか」
「それはそれよー」
ほんの少し、目の奥が光った気がした。こいつ変態か。
服も着てないし。
おそってや
このせかい
あれ
「ああ、時間切れかな。超越者じゃ無いキミにとっては、この11次元の世界はあまりに情報過多だからね♪」
──
「魂が擦り切れる前にお帰り♡ きっとここでの記憶は薄れちゃうだろうし、時の流れには逆らえないからきっとボクが生まれる流れに行き着いてくれるだろうけど」
……
「今後の展開のために、一応言っておくよ☆」
「キミは、サイコパスだ」
──
───くん
「そーくん」
「ん……。なに」
微睡みの中、目を覚ます。
見慣れない天井。
暖色系の間接照明。
柔らかな感触。
右に目をやる。外から見えないように扉が取り付けられた窓枠。
左に目をやると、金髪にピンク系のメッシュを入れた、ド派手な女が俺の方を見つめている。
髪のわりにおとなしい顔つき。どこかのお嬢様がハメを外した感じか。
「ねえ、そーくん。もっかいしよ?」
俺の上に覆いかぶさるようにして、女が体を起こした。
被っていた布団がずり落ちて、隠れていた肌色が露わになる。
うわー、胸でっか。
薄暗い照明は女の明るい髪によって絶妙に照り返され、彼女のシルエットを妖艶に浮かび上がらせる。
「ん。いいよ」
「んふふー、五かいせんめー」
俺は上体を起こして女の唇に口付けをし、舌を絡ませながら女と体の上下を入れ替えた。
既に“俺自身”は収まりが効かない状態になっている。
しかしなぜだろう。
うたた寝の中でもっと美しいものを見た気がするのだ。
絵画のような、彫刻のような美しさ。
なんとなくだが、《彼女》を思い出した。黒っぽいところが似ていた気がする。
俺の情欲は、ちょうど目の前の女の中に収まったところだ。
潤んだ女の瞳を見つめながら、大きく、しかしゆっくりと動くのだ。
そして思う。
こいつ、誰だっけなぁ。