5 少女、少しだけ本気を出す
「い、いたた……」
私はおでこを抑えて立ち上がる。
「だ、大丈夫!?」
額からだらだらと血が流れ、頬まで垂れてくる。手で拭うと真っ赤な血で染まっていた。
ライラさんがゴブリンの身体から剣を引き抜く。ゴブリンが崩れ落ちる。
「頭をかち割られて死んだかと思ったわよ!」
ライラさんは叫ぶ。
まずい、これはまずい。
ライラさんに能無しだと評価されてしまう。
どうしよう。
少しくらいは活躍しないと。
額から血を流しながら、私は動揺していた。
しかも、敵はこの機を狙っていたのか、推定二百の軍勢が一斉に包囲を狭めてきていた。たぶんゴブリンだけじゃない。いくつかの異なる種族も混ざっている。敵もライラさんの無音移動のような魔法を使っているのか、音や気配を消しているようだ。
ライラさんがはっとしたように顔を上げた。
「探知魔法に二匹のゴブリンが引っかかった」
こんな時でも、なお演技を続けるライラさん。
これほど近くに来るまで気が付かないはずはないし、そもそも敵は二体どころじゃない。
最初のゴブリンと合わせてこの三匹のゴブリンはただの囮なのだ。
私は身体を起こす。
失敗は挽回しなければならない。
「せめて、二匹のゴブリンくらい私が……」
立ち上がろうとして、ライラさんに止められる。
「だめ、座って。急いで応急処置をしてこの場を離れましょう。手負いのあなたをかばいながら視界も足場も悪い森の中で戦うわけにはいかない。今日はもう中止よ」
「そんな……」
私は制するライラさんの手を振り払って立ち上がる。
「私、まだやれます! 本当に!」
「だめよ、あなたは失敗したの。まだゴブリン退治は早かった。これは私の判断ミスでもあるの。私がサポートすれば大丈夫だと思ったけど、奢りだったわね」
ライラさんが優しい目を向けてくる。私はいたたまれない気持ちになった。
その時だった。
「まずい、ゴブリンが!」
ライラさんが叫ぶと同時に二方向から飛びかかってくる存在があった。
両手に小型の曲刀を持つゴブリン。二体とも二刀使いだ。
四本の刀が私たちを襲う。
ライラさんは反応が遅れた。
ゴブリンを攻撃するより、私を守ろうと防御に徹することにしたためだった。
私の前に背を向けて立ちはだかる。
四本の刀が同時にライラさんに振り下ろされた。ライラさんは長剣で受け止めようとする。
――身を挺してまで私を守ろうとしてくれるなんて……
ゴブリンの曲刀がライラさんに振り下ろされる様子がゆっくりと見える。
超感覚――。
兄との稽古で何度も味わった不思議な感覚だ。
時間の流れが遅くなったように感じ、相手の反応速度を遥かに凌駕する対応ができる。
ここだ、私はとっさにそう思った。
失敗を挽回する最高の機会だと思った。
二体のゴブリンを薙ぎ払い、さらには包囲網を狭める二百の敵を同時に威嚇する。
うまくすればその数を減らすこともできるかもしれない。
ここは絶対に失敗できないと思った。
私はライラさんの背後で、短剣を振り上げ逆Vの字に振るった。
超高速の動き。
短剣の残像だけがその場に残る。
訪れる一瞬の静寂。
時が止まったかのように動きを止めるゴブリン。
そして遅れてくる轟音。
続いて起こる激しい突風と、なぎ倒される木々。短剣から放たれた風切り音と木々が倒れる大音量が生み出す不協和音。
ゴブリン二体の身体は水平斬りされ、大量の血液を拭き上げながら、上下の身体はそれぞれ別方向へと吹き飛んでいく。
視界の木々は数十本先まで幹が切断されて樹体は倒れる。
無数の切り株だけがその場に残される。
木が倒されたことで頭上の視界も開けた。
黒い雲で覆われた空が見えた。薄暗い空は不気味だった。今にも土砂降りがきそうだ。遠くでは稲妻が明滅していた。
呆然と立ち尽くすのはライラさん。
私はぐっと拳を握る。
よし。
ライラさんを避けてゴブリンを斬ることができた。
ほっと胸をなでおろすと、開けた視界の先には複数の魔物が見えた。
その数は百体をゆうに超える。
そのうちの数体は腹から血を流したままうずくまっている。幸運にも包囲していた魔物たちまで私の攻撃が届いたようだ。
これはライラさんも褒めてくれるかもしれない。
調子に乗った私は背後にも短剣を振るう。
再び突風と轟音が発生し、結果、私たちを中心として周囲の木々はなぎ倒され、広範囲に視界が広がった。
私たちの周りには数百本の木々が横たわっている。そして二人を包囲する魔物の群れ。
推定二百ほどの姿が完全に露出した。
お兄ちゃんから聞いていた存在たちを今、私は直接目にしている。
ゴブリンメイジにゴブリンロード。
おまけにゴブリンゾンビやゴブリングールまでもがいる。
彼らを率いているのは高い知能を持ち、死を司ると言われるリッチという存在。
黒く厚い雲のせいで薄暗いが、かろうじて魔物まで視界が届く。そこでは彼らが不気味に目を光らせて待ち構えているようだった。
頭上では雷の音が聞こえてきた。
轟く雷鳴が私たち二人の運命を暗示しているようだった。
「な、何、こいつら……。何が起こったの……」
ライラさんは絞るように声を出した。
「あいつら、周囲の木々を一瞬で薙ぎ払ったっていうの?」
ライラさんはがくりと膝を落とす。
「無理……。こんな強大な力で森を切り裂くような非常識な奴ら相手に、どうしようもない……」
ぽつり、ぽつりと雨粒が落ち始めた。
魔物たちの唸り声が響いてくる。
ライラさんは両膝を地面に付いたまま、両手で自分の体を抱えている。
恐れるようにがたがたと震えだした。