4:馬車の中で_02
アリアの送ってきた日常は、静謐、の一言に尽きる。
『夢路御殿』の窓から遙かな雲の行方を眺めて一日の大半を過ごすような日々。
侍女はいるものの必要最低限の接触しか許されず、それ以上の会話など望むべくもない。食事の時ですら彼女らは主の食卓を整えたら隣室で待機することになっているのだ。呼び鈴を使えばすぐに来るとはいえ、同じ部屋にはいてもらえない。生活の全てにおいてそんな調子だった。
透明な厚い幕に隔てられているかのように、全てが遠い。閉じている。永遠にどこへも行けない。
書斎、書架庫、東外苑に設けられた星見台や屋内泳場、薔薇園。いずれも幼い頃からよく知った場所であり、アリア一人のために整えられた設備でありながら、常にどこかひんやりと冷たい印象がつきまとっていた。
たとえば、誰もが家族や親しい友と共に祝うであろう誕生日。
あるいは、高熱にうなされ寝台の上でただ朦朧として過ごす時。
特別な日もそうでない日も、アリアの境遇はずっと同じだった。独りきり。言葉を交わし一緒に過ごす相手など存在したためしがない。
たまたま休憩室の前を通りすがった際、普段は決して余計な口をきかない侍女たちがおしゃべりに花を咲かせているのが聞こえた時は、胸の底に石塊が沈み込むような心地になった。今この部屋に飛び込んで行ったら皆きっと貝のごとく黙ってしまうのだと、はっきりと悟らされたのだ。
物心ついてから続いていたその様態が、実はとても特殊なことなのだと気づいたのはいつのことだったか。アリアはもはや覚えていない。
心に決定的な亀裂が入ったのは、まだ本当の子どもだった頃のこと。父親が亡くなった時のことだった。
離れて暮らし、直接会った記憶すら持たない遠い存在とはいえ、実の親である。幼心に受けた衝撃は決して小さくなかった。
血の繋がった父親、家族が、手の届かないところで死んでしまった。会うこともできず、別れすら言えないうちに、扉は永遠に閉ざされてしまったのだ。
そして何よりもアリアを打ちのめしたのは、ひとつの動かしがたい事実だった。
──報せを、もらえなかったのだ。その時に、誰からも。
アリアが訃報を知り得たのはまったくの偶然だった。もし新事誌を読む習慣がなかったら何か月も知らないままだったに違いない。
間接的にそれを知った時、自分の中で、何かが音を立てて砕け散った気がした。
相変わらず夢路御殿から外へ出ることもできず、不満や不安を訴える相手もなく、ただひたすらに疎外感が日ごと募っていく。
《クリスタロス》の名誉会長という役職は完全に名ばかりだった。文書報告を受けることすらもなく、世界は自分と無関係に刻々と動いていく。
自分の名を、誰かに名乗ったことが一度もないと、不意に気づいたのはその頃だ。
周りを取り巻く侍女たちからは単に「姫様」としか呼ばれず、他人に名を明かす場面のまったくない人生を送ってきた。
名前。自分という個人を区別し、代わりのない唯一の存在として定義づける大切なものだ。
誰かしらが、何らかの想いを込めてこの名前を授けてくれたのだろうけれど。
それを必要としない己は、なんと滑稽でみじめなのだろう。
凍えるような諦念に腰まで浸かり、幼いアリアは静かに思い知った。
このままでは、きっといつか気が狂う、と。
のちに、歳の離れた姉が密かに手紙を寄越し、実父の逝去という重要なことを伝えるのが遅くなってしまったと丁寧に詫びてくれたのだけが、わずかな救いとなった。
姉は姉でひどく大変な立場にある人なので、込み入った話を手紙に書き送ることはアリアには躊躇われ、結局できず終い。
悲しみ、思慕、寂寥、焦燥。そのどれもが近況を知らせ合う手紙の話題としては相応しくない。思い詰めた挙げ句、幾度か書こうとしても書けなかったのだ。
飲み込めない、溶けて小さくなるどころか逆にじわじわと重さ大きさを増していく生きた氷塊を、胸に飼っているかのようだ。年月と共に成長し宿主の首を絞める、冷たい呪いである。
やるせない複雑な想いに蝕まれながら、アリアの孤独な日々はその後も続いた。
このままではいけない。
焼けつくような焦燥は繰り返し噴き出してはアリアを苦しめた。
自然と、書架庫に収められた無数の書物に慰めを求めるようになっていった。
まだ見ぬ何か。ここではないどこか。それらに焦がれて手を伸ばし続けた。
しかし一方では分かっていた。それでは何ひとつ変わりはしない。
一歩めを踏み出さなければ。