4:馬車の中で_01
窓の外で、ゆっくりと風景が流れてゆく。
草月の爽やかな陽射しを受けて遠く輝く青海原。整えられた広い表街道は人や馬車が歩きやすく、道端には小さく可憐な野花が咲いている。とてものどかな、心休まるような景観である。
(ああ……)
リィザ郊外の牧歌的光景は、しかしセレシアスの心には何の感慨ももたらさなかった。なぜなら青年の胸中は、すでに悲嘆と焦燥で飽和状態だったからである。
(なんだってこんなことになってしまったのか……)
ハーラル行き馬車の中で、セレシアスは本日何度めかの頭を抱えたい衝動を堪えていた。
この国では一般に、馬車が高頻度で利用されている。
北端と南端を除けば主要都市を結ぶ街道がほぼ全域に敷かれていること、公費運営の乗合馬車は安価で使い勝手が良いことなどから、庶民の足として古くから活躍していた。
セレシアスが今現在乗っているのも、そうした公共馬車のひとつである。客室の内装は多少古びた感じが否めないものの、座って時間を過ごすのが苦にならないよう配慮が施されており、移動手段としてはそれなりに快適だ。
だがセレシアスは、もう一人の乗客のように馬車の旅を満喫するのは到底無理だった。
こうしている間にも都から着実に遠ざかっている。夢見姫を極秘裏のうちに連れ戻すのが与えられた任務だというのに──
「乗合馬車って意外と揺れるんだね~。普通の馬車より大きめだから何か仕組みが違うのかな?」
逃げ出した夢見姫を一刻も早く保護し──
「あ、うわぁ、綺麗。水平線だあ……! あの船ってリィザ湾から出港した廻船だよね。どこへ行くのかなぁ」
上司に状況報告を入れ──
「そうだ。ねえ焼き菓子食べる? 良い匂いのする露店で買ったんだー。さっきひとつ食べたけど美味しいよ?」
無事に元の場所へと送り届けなければならない。
……なのに!
(俺、どうして姫と一緒にハーラル行き馬車に乗っているのだろうか……)
呆然として頭を抱えるより他はない。
それは、時間をさかのぼること少々。このような経緯からである。
*
中央馬車乗り場。
次の便を待つ人々の中に淡い黄金色の髪を発見して、セレシアスは息を飲んだ。
光を含んだような金髪が、外套と一体化した頭巾から左右に流れて風に踊る。いきいきと辺りを見回す双眸は青空色で、小柄な身体に活力が満ちているのが伝わってくる。
背嚢を背負った旅備え。少年のような質素な服。連れはいない。
見つけた、と思った次の瞬間には彼女のもとに駆け寄っていた。
いきなり現われた人影に驚いたのか、少女はきょとんとした顔でセレシアスを見上げてくる。
「《クリスタロス》三課の者です。姫、貴女様を迎えに上がりました。どうかお戻りください」
一呼吸で状況を悟った少女は、ああもう発見されてしまったのか、とでも言いたげな表情を浮かべた。
セレシアスは周囲を窺いながら、他人に怪しまれぬよう小声で繰り返す。
「お戻り願います」
小柄な少女は、明らかに困った顔でセレシアスを見つめた。
「それはできません」
「っ、なぜです?」
「あたしは、望んであの館にいたわけではないんです。戻れない。もう、あのままではいられないから」
まったく要領を得ない説明だ。もどかしそうな様子から察するに、考えを言語化して相手に伝えるのが不得手なのかもしれない。もっともセレシアスとて他人のことを言えた義理ではないが。
それでもなお明瞭な意志を込めた視線が、まっすぐにセレシアスを射貫いた。
強い言葉。それ以上に逼迫した、静かな熱を帯びた眼差し。
周囲のざわめきが瞬時に遠のき、彼女の存在だけが色濃く際立つような錯覚を感じた。
新年を迎える式典で薄布越しに聞いた祝辞と同じ声で、少女はさらに重ねて否と言う。彼女を推戴する《クリスタロス》を拒む。
一瞬たじろいだセレシアスだが、抵抗はあらかじめ予想されたことだ。促されてすんなりと帰れるほど深窓の姫君の覚悟は甘くない、といったところか。
「お言葉を返すようですが……一人きりで外に出て一体どこへ行こうというのですか」
貴女様の居場所はひとつでしょう、とまでは口に出せなかった。
セレシアスには理解できない。
帰るべき場所があるのにそこから逃れようとする者の気持ちを量りかねて、ただ眉根を寄せる。
夢見姫は《クリスタロス》の旗頭。先見の異能で国家の道行きを照らす大任を負っているという。
その役割ゆえに窮屈な生活を強いられているのかもしれないが、どこにも属さず自分が何者かも判然としないよりは余程ましではないのか。
雲上人には雲上人なりの苦悩があるということか。
改めて見れば彼女は非常に年若く、衣食住に困ったことなど一度もないであろうと察せられる佇まいをしていた。
貴族の娘。特権階級。仮にそうでなかったとしても現に長老会長の役職にある御方である。本来ならばセレシアスのような者が直接言葉を交わすことなど許されない。
理解できずとも当然なのだ。
セレシアスと彼女とではあまりにも住む世界が違いすぎ、そしてそれ以上に相手のことを何も知らないのだから。
「そう、ですね。たしかに行くあてなどありません」
次の瞬間、夢見姫が発した言葉はセレシアスの内に大きな波紋を巻き起こした。
「でも、居るべき場所は、自分で決めたい」
──胸を、衝かれた。
彼女の口調は先ほどと比べても決して深刻ではなく、明日の天気を語るように何気なく響いたけれど、その双眸を見れば嫌でも分かる。
少女はどこまでも真剣だった。