2:朝市_02
「美味しい……!」
甘い匂いにつられて買い求めた焼き菓子を頬張りながら、アリアは上機嫌だった。
前もって調達できなかった細かい品々は、朝市をひと巡りするうちに揃えられた。
刃物屋ではしばらく迷ったものの、なかなか良さそうな短剣が手に入った。腰の留帯に吊っているだけでも防犯効果があると書物には書かれていたし、店主の言っていたような野山での作業や、保存食として買った燻製肉を切り分けたりもできるだろう。
(今のところ追手らしき人は見えない。路銀の用意よし、お天気もよし)
立ち止まって振り仰げば、自身の瞳と同色の冴えた空がどこまでも広がっている。
太陽の位置からして、夢路御殿を抜け出てから結構な時間が経過しているだろう。市もお開きが近く、あちこちで片付けを始めていた。
傍らを、子どもたちが駆け抜けていく。「学校に遅れちゃう」と口走りながら。
アリアはそれを少し羨ましい気持ちで見送ってから、再び歩き始めた。
結い上げた髪が、風を受けて揺れる。いつの間にか頭巾が外れてしまっていたらしい。かぶり直しつつ周囲を見回す。
(馬車乗り場ってどのあたりかな)
今までアリアが暮らしていた邸は公都の東端にあった。
公都の東側はほとんど丸ごと、国家元首たる大公の居城──日輪公宮を中心とした行政庁区画となっており、夢路御殿はさらにその東の端にひっそりと建っている。
基本的に余人の出入りが厳しく制限されている上に、アリア自身は滅多に外出が許されなかったので、公都の町並みについての知識など無きに等しかった。定期的に発行される新事誌の記事から想像するのがせいぜいである。
とはいえ、こうして人通りの激しい西側の商業区に入ってしまえば、そう簡単には発見されないだろう。思い切って朝市の立つこの界隈に来たのは、足取りを掴ませないためと荷の補充を兼ねてだ。
夢見姫の不在を知れば、長老会はすぐさま捜索の手を広げるに違いない。買い出しを終えた以上、ひとつところに留まるのは良策ではなかった。
二つめの菓子を飲み下して、アリアは道の片隅で地図を広げた。
プレアデス全土図はもちろん、各地の詳細な街道なども載っている愛用の小冊子である。
半年ほど前に発刊されたばかりの最新版だが、ページの端がところどころわずかに擦り切れている。何度も繰り返し手に取っているうちによれてしまったのだ。
──御殿では、書物だけがアリアの楽しみであり、友だった。
物心ついた頃から外出もろくに許されず、側仕えの侍女たちとも最小限の会話しか交わせない。一生出られない揺りかごのようなあの場所は、海の底の沈んだ小さな貝にも似て冷たく、固く閉ざされていた。
昨日と同じ今日。今日と同じ明日。
そんな日々の中、本に記された物語や冒険譚に心を添わせることで、降り積もりゆく孤独を和らげていたのである。
まだ見ぬ地へと幾度も心を解き放ってくれた地図を眺めつつ、アリアは思案顔になった。指先でそっと紙面をなぞる。
ここから近いところといえば、双星都市と呼ばれるハーラルとディアス。どちらも公都に付随して発展してきた街だ。
西寄りのハーラルは大きな運河を擁する交易のまち。
北寄りのディアスは、公都へ入る人やセージ河を渡る人が行き来する宿場町。
(ハーラル運河かぁ……見てみたいな)
折り曲がらないよう丁寧に地図帳を背嚢へしまうと、アリアは馬車乗り場を探し始めた。
本当は、馬を買いたかった。
アリアは乗馬ができるのだ。長老会のお情けで年に数回だけ、気晴らしに乗馬術や護身術を教わることを目こぼししてもらっていたから。
徹底して人払いされた郊外の牧場で過ごすひと時は、書物を読みふけるのと同じくらい胸の高鳴る時間だった。
けれど、どうやら朝市で馬を取り扱う店はないようだ。やっぱりそうだよねと納得が胸に落ちる。さすがに誰かに訊くのは躊躇われ、なおも諦めがたくて一応は自力で探してみたものの、案の定である。
だが公都からは数多くの馬車便が出ているはずだ。行政庁区画から商業区までは徒歩で来られたけれど、さすがにそれ以上の移動となると馬車を使ったほうが速くて安全だろう。
アリアは案内板を見つけて微笑み、足早に大通りへと向かった。