1:アリア出奔_01
濃紺の闇に包まれた世界──
目覚めたのは、まだ早朝というのにも早すぎる夜明け前だった。
日の出まであとどのくらいあるだろうか。辺りにひっそりと夜気が沈殿しているのを感じながら、アリアは青空色の目を開けた。
「……う~……」
寝ぼけながらも、ふらふらと身を起こす。
他の人はどうだか知らないが、もともと寝起きは決してよい方ではない。
いや、むしろ相当悪い。おまけに羽毛の掛布にしっかりくるまって寝たというのに、妙に手足の先が冷たくなっている。
頭もうまく働かず、身体は整備不足の機械のように軋む。半身を起こしたものの、すぐには寝台から出ず、意識がはっきりしてくるのを静かに待った。
アリアは生まれてこのかた十四年間、重篤な寝起きの悪さと親友づきあいをしている。この症状、毎度のこととはいえ少々うんざりしないでもない。いつだって起き抜けは不快そのものだった。
普段なら、こんな刻限に目が覚めることはほとんどない。
だが、その日に限って眠りは彼女をあっさり手放した。まるでこれから起こる何かを察知したかのように。
「う~ん」
猫の仕草に似た大きな伸びをひとつ。ようやく頭と身体が動き始めてきたらしい。
眠気の残滓に目をしばたたかせながら、アリアは瀟洒な乳白色の窓掛けを開き、外の様子を覗った。
今はまだ夜の気配の方が濃いが、東の彼方では太陽が新たな一日の準備をしているのだろう。
それを満足げに眺めることしばし。
やがてアリアは光を遮る窓掛けを閉め直すと、寝室の壁に掛けられた鏡によたよたと歩み寄った。
夜目が利くタチなので、足取りが危ないわりには闇の中で調度品にぶつかるようなことはない。
磨き込まれた鏡に映るのは、どことなく物柔らかな少女の顔。寝起きであることを差し引いてもなお、ふわふわとした雰囲気がある。
潤んだように光を湛えた碧眼と目が合って、アリアは両頬を押さえて表情を引き締めた。
やおら彼女が取りかかったのは、二度寝ではなく身支度だった。
寝台脇に置かれた水差しの水で手巾を濡らし、無造作に顔を拭う。化粧などはしない。
大雑把に髪に櫛を入れると、慣れない手つきで結い始めた。
華奢な背中に波打つ金髪は豊かで、蜂蜜のような艶がある。頭の左右で二つに括ってみれば、耳の垂れた兎を彷彿とさせる姿に仕上がった。
今までにない髪型に満足したアリアが、純白の夜着の代わりに身につけたのは、可愛らしさの欠片もない麻色の衣類だった。まるで平民の少年のような格好である。実用一点張りで飾り気がない。足首の上までを覆う靴も同様だ。
思わず小さな鼻歌がこぼれ出た。意外なほど着心地が良いのだ。動きやすくて丁度良い。
その服装のまま寝室を忍び出て、隣接する衣装部屋へと滑り込む。素早く、でも物音を立てないよう慎重に。
大きな衣装棚に半ば身体ごと入り込みながら、息を殺して手探りする。すぐに引っ張り出したのは最も地味な外套だった。
全身の映る姿見の中。外套を羽織った自分の出で立ちを確認する。よし。
アリアは抜け出たばかりの寝所へ戻り、その豪奢な寝台の下から小ぶりの鞄を取り出した。
旅行者用の、収納がたくさんついている背嚢だ。あらかじめ荷造りしてあったので程よい重みが感じられる。
中身は再度あらためるまでもない。着替え、洗顔用具、小布や簡易手燭。保存食や水筒は事前に手に入らなかったが、商業区に着きさえすれば買うことができるだろう。
もっともその前に、いくつかの金品とひき換えに現金を入手しなければならないが。
「準備万端っと」
最後に巾着袋の中を確認し、やや緊張した口調と共に鞄を背負う。
ふと置時計に目をやると、まもなく夜が明けようかという刻限にさしかかっていた。
あと一刻はこの私室を訪れる者はいない。
衛士たちは昼夜問わず巡視しているが、以前から睨んでいたとおり、やはりこの時間帯は手薄らしい。
しかも彼らが警戒するのは外からの侵入者ばかりだった。秘された奥邸を抜け出していこうとする者の存在は、おそらく最初から想定外なのだろう。
――とうとうこの日がやって来たのだ。
アリアはゆっくりと、ためらわずに部屋を後にする。
こうして彼女は静謐な日常に終わりを告げた。
籠の鳥であるよりも、自らの翼で翔ぶ野の鳥でありたいと。
それは憧憬であり覚悟でもあり、彼女の抱く願いそのものでもあった。
長いあいだ胸の中で育ち続けた想いはとうに煮詰まり、今や焦げつき始めている。
抑え切れない衝動が、彼女を突き動かす。
少女の名はアリア。
その名を誰かに呼ばれたという記憶を、彼女は持たない。
物心ついて以来、名前で呼んでくれる者など傍らには一人もいなかった。
これは、そんな少女の物語である。