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花惑い

作者: 百合川庵


気がつくと、そこは見渡す限り何もない、まるで空気すらも希薄であるような純白の世界だった。

その真っ只中で、正にその空間で、中田翔太はしばらくいつもただ呆然としている。

そこは半球形に無限に白で覆われているわけであるらしいから、いくら周りを見渡そうとそこは不変である。いくら喚こうが空間の全ては関与してこない。

ある時、いや、ふと気がついた時と言ったほうが当てはまるかもしれない、どこからか声が聞こえてくる。

それは突然として、何の意味もない同じ母音「A」の羅列で始まる事が通常であった。

突如として様々な方向から音の流れが押し寄せる。あえて言えば、その声が聞こえる直前に翔太には微かな前兆がある事がある。

些細な感覚、気付きかねないような小さなものであったが、その方向から指が触れるようだった。そしてそのような事が起こる時は必ず、途中で声の質と中身が変化する。それまでは中年の男の怠けた声。ただ流れ去る音であるが、たまに女の声に変わる時がある。若い女ではない。少し重厚な、メゾ・ソプラノの声である。


―またこれか―

翔太は朝まだき、幾分、薄光の中で目覚めた。

ウィークデイの間は、カーテンは閉めず就寝する。翔太には朝日によって起きるような体質があった。

最近この夢を見ることが多くなった。ただ夢を見ているだけとそう考えるのが自然で普通なのだろうが、翔太はこの夢を漫然と考えられなかった。

―なにか、良くないことが起こるんではあるまいか―

なにか灰色の胸騒ぎがいつも起きた後に残る夢。仕事をしている内に忘れ去る事がほとんどなのだが、こうも頻繁に同じ夢を翔太は見たことがない。

加えて昨今のメディア等々は、このような不可思議、不明確極まりない事象を取り上げてなにやらいかがわしい談議を繰り広げることもさして珍しくない。

―いけない、時間が―

翔太の住んでいる貸しアパートは、都心にある勤め先まで電車で一時間はかかる。最寄りの駅までも自転車を使い十五分ほどの距離である。まだ現在の会社に勤めて間もないのであまり豪勢な所には住めない。

しかし、思いのほかここでの生活も悪くない。

住めば都、と言うほどではないが都心にはない自然がここには多少あるのである。平屋作りのアパートに共用の、仕切りのない庭が付いている。綺麗に花を栽培している中年のご婦人もいらっしゃるが、無造作に芽吹く雑草たちも都会で暮らす者にとっては幾分か心を落ち着かせられる。少なくとも翔太はその一人であった。

ベッドに張り付いた重い体を痛めないようゆっくり引き剥がし、まずは朝食の準備にかかる。

―いつも同じだなあ―

よく焼いたパンに近所のスーパーで買ったオレンジ・マーマレードをぺたぺたと塗って食べる。コーヒーはブラックが翔太の好みだ。

そこに休日まとめて作ってあるポテトサラダが付いて朝食となる。冷蔵庫に入れておけば、これは結構日持ちする。

毎日このメニューだが、翔太はあまりそういう事を気にしない性質である。

間単に朝食を済ませると、これも型通りのフレッシュマン・スーツに身を包む。翔太のスーツは限りなく黒に近いブルーの配色、ネクタイはこれといって取り上げようもない青と白のストライプ。地味と言えば地味だが、王道と言えば王道である。ここにもさして翔太のこだわりは無いと言ってよかろう。

―今日も行こう―

代わり映えのしないウィークデイの始まりである。五日勤めて、二日休む。たまに例外もあるだろうけれど、概ねこのリズムが崩れる事は無い。

少し奮発したスポーツ仕様の自転車にまたがり、駅までの平坦な道をひたすら漕ぐ。

部屋の近くにバス停があって駅までバスで行くことができるのだけれど、なにしろ翔太の仕事は主にデスクワークが中心である。訛りゆくであろう体に少々気を使って、せめて駅まではこれで行く事にしている。

―あ、今日もいるな―

バス停に女がいる。翔太が愛車で出発する時間帯にいつも女がそこにいる。

―どんな人柄だろう―

面差しは美しい部類に入るだろう。朝の太陽に映える面差しではないのだが、どこか気品のある眼をしている。恐らく夜の帳の中では相当に怪しくなるのではあるまいか。鼻梁は真っ直ぐに伸びていて、シンプルな印象がある。総じてあっさりとした、しかし奥ゆかしい面持ちである。三十歳前後であろうか。

―目が合った―

ぞくっとする。女は優しく笑いかけている。

翔太は毎朝軽く会釈をした後、耐えられずに目を逸らす。朝にあって薄く、また爽やかな関係の人であった。

―さ、今日も頑張ろう―

翔太は毎朝このタイミングで英気を養っているのかもしれない。知った人では無かったが、なぜか懐かしい香りのする人だ。

―何かあるかもしれない―

小さな期待を抱きながら、今日も淡々と毎日の道を行く。


いつも駅には早めに着く。時間には余裕を持つようにしている。新参者は時間に律儀でなければ務まらない。

構内に入る前にコンビニエンスストアをぶらっと眺める。お気に入りは特に無いが、その時に思いついた物を買う時がある。まあ、ここはさながら戦場に赴く直前の兵士の詰め所である。

簡易総合商店を後にし、改札をくぐり、構内へ並びに向かう。

―今日は少ないな―

少ない、というのは地域によって語弊になる場合もあろう。とりわけ都会の通勤列車と言うものは、田舎のワンマン列車とはわけが違う。というより別世界である、と言ったほうが良いかもしれない。

とにかく人だらけなのである。乗車率と言うものはもはや意味を持たない。ここで言う少ない、とはなんとか一本目の電車に入る、と言うことである。

―毎日これはきついなあ―

とはいっても仕方が無い。自分で選んだ環境である。無論、ここに来る前には想像もできなかったことではあったが。

―さあ、いよいよだ―

並んで前から十番目あたりに翔太はいつも自分をキープする。シルバーの箱から人があふれ出す。幸運なことにこの駅の周辺だけはオフィスビルがひしめき合っているからである。

―よし―

今日は良い日である。窓際の位置を取れた。

いつもは少し禿げかかった中年に盗られるのだが、今日は何かの都合でこの列車にはいないらしい。

とにかく、これで小一時間の苦しい旅路を良い気分で送ることができる。時間が短く感じられる。

走る列車から窓に流れゆく景色を見ていると、とかく飽きない。全く同じ光景はそこには無い。ある日は子供が歩いている。またある日は奥様方の井戸端会議を傍観する。ほんの一秒にも満たない時間だが、翔太はそんな一瞬を飛び飛びに観るのが無邪気に好きだった。


ふと、気がつくともう勤め先の近辺まで来ている。

これだから、窓際はやめられない。


―もうすぐだ―

改札を抜け、歩いて二、三分の場所に翔太の勤め先はある。ものすごく大きなビルだ。田舎の駅では到底ありえない。田舎はせいぜいひとつデパートがあればいい方である。

そのビルの二十四階に目的地は据えられている。ワンフロアすべて翔太の勤める会社で占められている。その辺が一流の会社なのであろうか。翔太はこの辺も無頓着である。地方の有名大学を出、なんとなく選んだ会社がここだった。

理由などなかった。なんとなく、都会で適当な強かさを持って暮らしていければいいと思って入社した。

翔太は商社の人事部に在籍している。今は見習いのみではあるが。

ここでの業務は書類の内容をパソコンにひたすら入力すること。忙しい求人の季節以外は、別の部署の雑用をやったりもする。大きい企業は、立ち回りが微かに曖昧なところがある。重役はともかく、必死さはそこらへんに戯れている一般社員の雰囲気に感じることができない。会社が潰れる可能性は総じて極めて低いから、社内は重役ルームから係長以上の人間が顔を出さない限り、ほがらかなムードが漂っている。ましてこの法律遵守化社会、よほどのことがない限り不当な解雇は無いものである。そんな環境に社員はあるところ、甘えているようだ。和気あいあいとでも言えば、上司に多少示しが付くのかもしれない。


見た目の平凡さから見て翔太は人並み以上に頭脳明晰である。多分人にはわからない才能は自分にあるだろうと思っている。能ある鷹は爪を隠しているのか、それとも隠し続けて日の目を見ない爪なのかはわからないが、あらゆるボーダーラインを瞬時に理解するのは得意な脳だった。それほど入れ込まず社会で生きていくには必須の能力であろう。別にボーダーすれすれの生活を理解するだけならばある程度の脳で事足りる。翔太はそれに加え周囲の全てに愛嬌と感情の緩やかな起伏を振りまくことの大切さを半ば無意識に理解している。よって最低限の業務をしていても、見た目の平凡さと相まってある程度の理解は得られると言うものだ。

ある程度良心の呵責はあるが、今はこの状態がとても性に合っている。ゆくゆくのことはゆくゆく悩めばよかろう。自分に情けなさを感じることも無くは無かったが、今が人生とは別段思うところはなかった。

―毎日同じか―

翔太自身、将来生活に飽きることもあるだろう、と思ってはいる。いるのだが…そこが若さなのかもしれない。よく言えばただただ自由。悪く言えば自堕落なのだろう。あまり日々の仕事に追われる、という印象もないからよけいに無気力な考えになりやすいのかもしれない。


同じような会社での毎日を終え、駅への道を歩み始めるのは午後五時。よほど仕事の依頼が無い限り、新人に残業の機会は巡ってこない。その点は良いと言えよう。

―真っ直ぐ帰ろう―

同期の社員に誘われても、翔太はほとんど寄り道をしない。断りきれぬときは仕方なしに付き合うのだが、ともかく部屋へ帰り着きたい欲望の方が強い性質らしい。部屋に着いても特にすることはないのだが。


「ただいま」

誰もいない部屋の真ん中に向かって乾いた声をつぶやく。人類共通の癖ではなかろうか。

たわいない想像を巡らしながら、翔太は風呂と夕食の準備にかかる。

まず湯船に栓をし、少しぬる目の湯を張る。

翔太は肌に刺すほどの熱い湯より、まとわり付いてくるほどの温度が好みである。これにゆっくり浸かっていると疲れが体中の小さな体腔からやんわりと抜けていくような気がする。

そそくさと風呂場を出ると、次はキッチンに立つ。

今日のメニューはハンバーグ。夕食のメニューは約一週間、日曜日にまとめて決めてしまう。その方が無駄な出費が抑えられる。

―主婦みたいだな―

台所に立ってせっせと料理をしていると、嫌でもそう思ってしまう。翔太は家事全般をすることを厭わない性格である。それぞれが洗濯や掃除で綺麗になる想像をすると、なんだか訳も無くにやけてしまう。

―女に生まれればよかったかな―

頭の中で半ば堂々巡りの一人遊びをしながら、その間にも料理は着々と進んでゆく。後は特製のグレービー・ソースをかけて完成である。

―我ながら、良い出来だ―

大きな白い円形の皿に、半分を占めるのは楕円形のふっくらとしたミートバーグである。加えてソースのなんとも芳醇な香りが鼻を突く。向かって左上に茹でたキャベツを、右側には朝方と同じポテトサラダ。これらをソースにつけても、またおいしい。

後は茶碗にご飯を盛り、ビールを一本つけて夕食の完成だ。少々統一された雰囲気のない食卓であるが、気にしない。おいしければいいのだ。無論食べ方も良く褒められたものではない。

―旨かった―

我ながら満足である。少し張り出した腹で、風呂場へ直行する。


湯を半刻ほど堪能した後、テレビをつけてだらしなく床に転び、溶けていくような時間を過ごす。この時間も、また翔太にとってはかけがえの無い、大切なものだった。

―もう、寝るか―

文字盤は十一時を少し過ぎたあたり。まだ一週間の始まったばかりだし、無駄に夜を過ごして疲労を溜めては、良い事はないだろう。

瞼を閉じたまま、布団に滑り込んだ。

しばらく半覚醒の状態が続く。今日のことをゆっくり思い返す。その時、瞼の裏辺りにふと朝の女が現れた。

―やっぱり美しいなあ―

なにぶん翔太の脳で美化処理はしてあろうが、その女は翔太の方を向いて笑っている。品の良い笑い方である。まるで視線とともに翔太に向かって慕情を流しているような瞳だ。

―明日、声をかけてみようか―

到底実行しないであろう場面を想像して、翔太の脳は底深い闇に落ちていった。


次の日は、さほど疲れも残らず、楽に起き上がることができた。やはり早めに寝ることは体にとって良いらしい。常識ではあるが、その事を体験できるような朝のひとときである。

いつも通り朝食を食べ、作業服に身を包むと勢い良く外へと飛び出した。

アパートの片隅にある乱雑な自転車置き場に着くと、何か違和感を覚え、そしてそれは即座に狼狽へと変貌した。

―パンクしている―

後ろ側のタイヤが力なくしぼんでいる。シャープに接地するはずの部分が搗きたての餅のようにだらしなく垂れている。

今から修理することもできないし、翔太は仕方なくバス停へと足を進めた。

―いる―

あの女だ。昨夜の想像が手伝ってか、より一層美しく見えた。照りつける朝日とつばの広い、純白の帽子が作り出すコントラストがとても綺麗だ。

―こっちに気付いた―

女は微笑みかけている。そして一定の距離に近づくと、いつものように会釈を交わした。

女の隣に並んだ翔太は、胸の高鳴りがひどく乱雑になっていくのを感じた。

「おはよう」

女の方から思いがけない声が聞こえた。なんとも清々しい、とげの無い声である。

「おはようございます、いい朝ですね」

高鳴る胸を声に出さぬように、調子を整えて答えた。

「ええ、ほんとに。あなた、自転車はどうしたの?」

「パンクしたみたいで…。修理しないと」

「それは大変ね。あなたのこと、毎朝気持ち良さそうな人だなって眺めていたわ」

女は笑いながら言う。丘のように形を作る目の輪郭がより一層翔太の胸を打つ。

「いつもお辞儀していましたもんね。気持ち良いですよ、朝の自転車は」

「そうねえ、買おうかしら。まだ乗れると思う?」

「大丈夫、乗り方は忘れないものです」

翔太は幾分緊張しながらも、ほぼ初対面の女と滑らかに話せていることに驚いた。恐らく女の雰囲気が張り詰めているのではなく、包み込むようなものだからだろう。物腰が程よく柔らかい。

「じゃあ、一緒にサイクリングしましょ、お互いの休日の朝にでも。いいかしら?」

翔太は一瞬驚いたが、すぐに持ち直して、

「いいですよ、楽しみにしてます」

「そうね、あ、バスが着たわね」

女が乗り、続いて翔太が乗り込んだ。社内には二人で座るタイプの椅子があり、目を上げると前の方で女が手招きしている。

そそくさと歩き、女の側に立った。

「お隣、よろしいですか?」

「ええ、もちろん」

二人は駅まで約五分程度、たわいの無い日常を話しながら過ごした。女の名前は広田亜希子。現在は服飾関係のお店に勤めているという話だった。頷ける、亜希子はとても服のセンスが良い。というより、己が体躯に合った物を選ぶのが上手なように感じられた。白い半袖のブラウスに淡い桃色のスカートを着ていた。すらりと伸びた長い足に良く似合っていた。もともと小さい頭をより小さく見せる様でもあった。

「それでは、また」

「ええ、お互い頑張りましょう」

そんなような言葉で二人はそれぞれの電車へ向かった。

―亜希子さんか―

翔太は電車を待っている間、訳も無く亜希子の名前と姿を思い浮かべていた。小さな顔と気品のある顔、細く白い、まるでギリシア彫刻から取ってつけたような首。胸の膨らみは控えめで、亜希子の体躯に合っている、総じて大きければいいというものではなかろう。

腰はしなやかにくびれ、伸びた足は適度に女特有の膨らみを帯びていた。

―好きな人はいるのかなあ―

答えのでない問いを淡い色彩のもやがかかった頭で考えながら、翔太は電車に乗り込んだ。


それから亜希子との関係は、ゆっくりではあったが着実に進んでいった。

次の日曜日に約束通り、自転車で出かけた。パンクを直すまでバスに乗っていた翔太は亜希子にさりげなくアプローチをかけていた。約束の日、目の前に現れた亜希子は薄いクリーム色の折りたためる自転車を買っていた。

「この辺も最近物騒だから」

確かそのような理由だったと思う。二人並んで閑静な道を、周りに広がる小さな畑を望みながら近くの喫茶店へ向かった。

「この辺りの風景は素敵ね。遠くに見えるビルが嘘に見えるわ」

「そうですね、僕も好きです。都会には馴染めない」

「わかるわ、その気持ち」

たわいない話をしながら、二人はペダルを漕ぎ続けた。


喫茶店の乾いたベルの音が客の来店を告げた。

「いらっしゃいませ」

さっきの音とは違い、軽やかな声がいささか小さい店内に響いた。

「たまにくるのよ」

「そうなんですか。雰囲気のいい店ですね」

壁にはどこか外国の田園風景を思わせる写真が飾ってある。静かな木目が四方に広がり、一層都会の賑わいから遠ざけてくれるようである。

二人はコーヒーを注文し、翔太は小さな窓から外の風景を覗いた。

もう、すぐそこに駅前のビルが見える。妙な違和感のある店舗だった。まるで窓が違う世界を映し出しているように見える。それほどこの室内は空気が違っていた。

―いい感じ、かな―

二人を包むような空気が感じられるようでもある。翔太と亜希子のオーラが微かに交わり始めているような心地がした。亜希子はまるで屈託が無い。まだ話し始めて一週間も経っていないのに、まるで相当な年月親しくしたような笑顔を放っている。

「失礼ですが、亜希子さんはおいくつなんですか?」

古来失礼に当たるとされるこの質問だが、昨今の女性はほぼ、気にしない傾向にある。

「私、今年で二十八よ、嫌になっちゃう」

何が嫌になるのだろう、と思ったが当人にしかわからない微かな変化が何かしらあるのだろう。表情にも自分に対する嫌悪が見えた。

「そうなんですか。いや、そんなことないですよ」

「そんなことあるわよ。翔太さんはおいくつ?」

「僕は、えーと、今年二十三ですね、ちょっと離れてるけど…」

「そうね、やっぱり若いとまわりの空気がすかっとしているわ」

「そうかなあ、自分ではわからない」

はにかむように笑った後に、

「亜希子さんは親しい人はいないのですか?」

思い切って聞いてみた。言葉の意味はわかるだろう。

「知りたい?…いないわ。最近ずっと一人よ。ちょっと寂しいときもあるけど、慣れたみたい」

「意外です」

「なかなかないものよ、出会いって」

そんなものかもしれない。いくら当人が美しかろうと、なにかきっかけが無ければ本当の意味での巡り会いというものは少ないのかもしれない。いくら釣り針をたらしてもそこに魚がいないのと同じことだろう。

「翔太さんは?」

「いませんよ、こっちに出てきたばかりだし」

亜希子はやわらかく笑う。翔太はこの瞬間が好きだ。亜希子の笑顔はなにか、そう周囲の空間に綺麗な花を咲かせるような力を持っている。鈍色の、混沌とした空気を鮮やかな原色の世界に作り変えてしまう。

「笑顔、素敵ですね」

思わず翔太は口走ってしまった。まあ、いい。

本当のことだ。それに亜希子もその類の言葉は言われなれているだろうし、翔太の心は亜希子に対してほぼ開きつつあった。

「ありがとう」

また、亜希子は笑った。


その日は店を出た後、軽く街中を散策して帰路に着いた。途中こらえ切れず手を握ろうとしたが、

「まだ…ごめんなさい」

そう言われては仕方ない。素直に亜希子の言葉に従った。再来週の土曜日、また会う約束をして別れた。

―まずかったかなあ―

部屋に帰りついた翔太は、呆然とそう考えていた。恋愛こそしたことはあるものの、まだあまり女性の扱いには慣れていない気がする。

―でも、楽しかった―

こちらに越してきて、久しぶりに、いや初めてかもしれない。こんなに充実した一日を過ごしたのはなかったと思う。

―次は―

男の恋愛は段階的に進めようとする。次は手を握ろう、次は口付けてみよう、次は体を…などと随分と計画的な所がある。女性はどうなのかわからない。もちろんそういうところも無くは無いだろうが、男よりは漠然とした部分の占める割合が多いような気がする。

―まあ、いいか―

真実楽しかった。亜希子といると、もうそれだけで生きていけるような心地になる。柔らかい人、それが亜希子に一番当てはまる言葉だった。

―明日からも仕事だし、寝よう―

亜希子との麗らかな時間を思いながら、翔太は眠りに入った。


その夜、翔太はまたあの夢を見た。

純白の空間が、限りなく広がる。もちろんここにいる時間は、夢の中で時間とは無いものかもしれないが、夢だとは気付かない。

何事かといつもと同じように辺りを見回す。一点も曇りの生じない世界、ただただ戸惑う。

―どうなってる―

やがて、Aの大群が押し寄せる。全方位から男の声が流れる。その辺りから、いつも翔太の意識は平静を取り戻し始める。そしてその世界の住人になりきってしまう。誰しも経験のあることだろう、状況は目覚めてからおかしいと思う。しかし、夢の時間は見意味に翔太を包み込み、また翔太の中を作り変えてしまう。腹の底の積み木を積み変えて全く違うものを見事に作り上げる。目覚めた後にいつも不思議に思うが、こればかりはその瞬間、どうしようもない。

Aの羅列が次第に止み始める。いつもはこの辺りで目覚めるのだが、今回は少しばかり違った。

「…翔太」

誰かが自分の名を呼んでいる。声の発生しているであろう方向をぐるりと振り向くが、もちろん何も無い。ただ白い。

「翔太」

もう一度聞こえたかと思うと、風景が突然真っ黒になり自分の指先さえ見ることができなかった。自分の鼓動のみが大きく、響く。

―どうしたんだ―

身動きができない。闇の鎖に縛られている。恐怖と混乱が絡み合って翔太の足を重いものにする。

―助けてくれ―

必死の思いを誰にでもなく願ったその時、次の朝が訪れた。


―なんだったんだ―

はっきりと覚えている。空間の流れ、Aの羅列、ブラックアウト。

―全く変な夢―

そう思うより仕方なかった。解決などできるはずもない。一生懸命自分なりに解析してみることはできようが、さりとて数学のように確実な答えが出るものではない。

―とりあえず、急ごう―

翔太には珍しく、寝過ごしてしまったらしい。部屋を出るいつもの時刻が迫っている。

―朝食は駅で簡単に済ませよう―

早々と服を着替え、翔太は扉を飛び出した。

「おはようございます」

大きな声で、いつもの場所にいる亜希子に向かって挨拶をした。

「おはよう」

亜希子の声が聞き取りにくいまでに翔太の自転車は進んでいたが、翔太にとって亜希子の笑顔で十分であった。翔太は微笑みながら駅への道を急いだ。



亜希子との関係は順調だった。一緒に公園を散歩したり、あるいはデパートを散策したりと、人並みではあったがすこぶる順調に交際は進んでいた。少なくとも翔太はそう思っている。この前亜希子とドライブに行ったときも、これは亜希子の運転だったが、手を握った。もう抵抗されず、極自然な形で成り立った。

―ほんとに好きだな―

翔太は夜布団に包まれながら、少しずつ確実に恋にのめり込んでいく自分に驚いた。今まではここまで、月並みな表現だがその人しか見えなくなるような、そんな恋はないと思っていた。自分にはまるで縁の無いことだと信じていた。

―大丈夫かな―

亜希子ではなく、自分の感情についてである。二人の関係に何も障害は無いが、いや翔太はないと思っているが、このままこれほど想いを続けたらいつか音を立てて崩れるのではあるまいか。理由は無い。全く無い。しかし、このようなある種の予感は、総じて的中しやすいものだ。無意識の内に肌で感じ取ったものが滲み出てきている気がする。

―でも―

翔太の心は決まっている。亜希子が好きだ。

とても愛している。あの笑顔がいつも傍に在ってくれたら、もう何もいらないと思う。

―自分の気持ちを伝えてみようか―

二人はそれなりに親しい間柄ではあったが、そのような関係に込み入った話は一度もしていない。そろそろ前に進むなら進むで、確信を得るべき時期に差し掛かっているかもしれない。

幸い、明日は二人で会う日である。今度、旅行にでも誘ってみようか。きっと賛成してくれるに違いない。夕日の見える風景、微笑ましく寄り添いながら芝生の上を歩いていく。ほっとするような光景。翔太は亜希子との近い未来を描きながら静かに眠りについた。



次の日、翔太は普段通りを装いながら亜希子と自転車を走らせる。今日も気持ち良さそうに風を浴びる亜希子。翔太の胸を高ぶらせてならない。

自転車を止め、広い芝生公園のベンチに腰を下ろした。

「亜希子さん、少し良いですか?」

「なあに?いいお天気ね」

「僕とお付き合いしてもらえませんか?」

翔太ははっきり亜希子の目を見て伝えた。亜希子の笑顔が一瞬伏せる。

―やっぱりだめか―

強気ではいたが、やはりずっと強い気持ちではいられない。とりわけこのシーンは男は弱気に陥りやすい状況だといえよう。

「…そうね。いいわ。大事にしてください」

真っ白になった。あの夢の状況と酷似している。全ての音が一斉に遠ざかるとともに、今は胸にたぎる熱い想いが流れる。

「うん、ありがとう」

「ただ…もしよ?」

「うん?」

亜希子はまた顔を伏せて呟く。表情は思いのほか良くない。

「もし…私が居なくなってしまっても誰にも言わないで。もし、ほんとに、もし。それしか言えないけれど…」

消えるとはどういうことだろう。居なくなる、というのはともかくその中身がわからない。

桃色が残る心でしばらく、時間にしては短いだろうが考えた。

「死ぬ…ということ?」

「わからないの。でもそんなことがあるような気がして」

「そうなんだ、亜希子は消えてしまう人なのか?」

幾分冗談交じりに尋ねた。

「わからない。だけど…ごめんなさい。私幸せ。とっても嬉しい気持ちでいっぱい。」

いまだによくつかめない話だが、こんな時は女を抱きしめるのが男の仕事だろう。翔太は亜希子の顔を優しく胸に抱き寄せた。

「今度一緒に温泉にでも行こう、ゆっくり浸かって日ごろの骨休めでもしよう」

「…ええ、ありがとう」



半月ほど経ったある日、翔太と亜希子は約束通り温泉旅行へと旅立った。そこで初めて、亜希子を抱いた。

大事な言葉を一つずつ惜しむように、呟くように互いに話していた。あまりに美しい光景が二人を半ば放心させ、無口にさせていたのだろう。暗い闇に銀色に輝く月の糸が零れ落ちるきれいな風景を望んでいた。その光に淡く包まれた、溢れる自然を二人で眺めていた。翔太は後ろから亜希子を柔らかく抱く。浴衣の首元から指をそっと、忍び込ませる。

「だめ…」

亜希子のだめはもうノーを意思を示してはいなかった。浴衣の下はちょうど手に入るほどの乳房だった。小さな隆起は、次第に堅く高く盛り上がる。

「あ…」

薄い歓喜と恥ずかしさとが入り乱れ、一層妖艶な声を出させる。愛撫は次第に下腹部へと伸びていく。

もう亜希子は声にならない声を断続的に、リズム感無く呟き続ける状態だった。目を閉じ、自分だけの闇を作っていた。

「好きだ」

「私も…」

二人は大きな窓からいまだ、銀色が降り注ぐ室内で、満月が淑やかに見つめる銀色の光の溢れるほとりで重なった。二人の初めての甘美な、陶酔の時だった。


「…満月の夜には、人は何かに誘われるようにどこかへいってしまうことがあるらしいわ」

亜希子はまだ頬を上気させながら、頼りない声で翔太に呟いた。

「前にいってたあれ?本当に?」

「ええ、そう聞いたことがあるの、お婆様から。ちょっと怖いみたい」

そう言いながら亜希子は、少し震えるような仕草を見せた。もっとも、顔は笑っている。

「大丈夫、いつも一緒にいる」

「うれしいわ、ありがとう」

ほんの短い会話の後、また二人は重なった。

後はどちらともつかず、男女の奏でる甘い香りの中で次第に眠りの中へ入っていった。


朝まだき、翔太は薄い光の中で目を覚ました。すぐ近く、周りを見渡しても亜希子がいない。

―まさか―

亜希子の香りの残る布団を蹴って立ち上がる。

―どこだ―

慌ててくるりと首を回すと、開け放たれた窓の外に亜希子が立っている。昨日の夜、悠然と光っていた庭に一人でいる。いつもと変わらない調子で言った。

「いい気持ち。素敵な朝ね」

「いないから驚いたよ、消えていなくて良かった」

翔太は本心からそう言った。亜希子が消えては彼が生きる術を失うのと同等だった。

「女が消えるのは、幸せなときじゃないわ」

「解るのか?」

「なんとなく、ね」

二人は柔らかに、しかし幸せが確かに一歩近づいた笑顔で笑った。

―亜希子を幸せにしよう―

漠然とした気持ちが、芽吹いた気がした。


―もうあれから十年か―

今、翔太は三十二歳になった。

亜希子がこの世に居たならば、三十八歳。どんな人になっていただろう。いくら彼女の事を思えど脳裏に浮かぶのはあの頃の笑顔である。心を解きほぐすようなあのすばらしい表情。

翔太の前から亜希子が姿を消して、六年になる。親類の必死の捜索も空しくいまだに行方不明らしい。警察など、全く持って当てにできたものではなかった。

亜希子がいなくなった夜、正確には居なくなったと分かる前日の夜、翔太は夢を見た。いっときよく見た、あの夢である。

純白の風景。あの時と同じ、輝くような光の降り注ぐ風景。なにもわからない翔太は辺りを見渡す。そのときは亜希子が向かって右に、大人しく立っていた。

「亜希子」

答えない。ずっと翔太に笑いかけている。そしておもむろに手を左右に振り続ける。

「あのね、さよなら。もう、会えないわ。ごめんなさい。とても楽しかった」

亜希子は雪に溶けるようにその身をとうとうと、地面にとろかせていった。純白の景色に亜希子が溶け込んでも、その白はいつまでも変わらず白だった。

朝起きて、

―良かった―

夢だった。そう一旦は思った。


実際に亜希子は消えていた。亜希子のあらゆる居場所を探しても、いない。草の根を分けて探すだけの日が何日か、何ヶ月か続いた。挙句には警察にも随分問いただされ、ありもしない虚偽を問われ彼らには途方の無い、そしてどこにも行き場の無い怒りを覚えた。夢と現実が全く同じ結末を見せる正夢。

これはどの程度の確率で生ずるものなのだろう。まして、このような元々起こるかわからない事象と夢とが絡み合う確率は、ゼロに等しいのではあるまいか。ゼロに限りなく等しい有限の数。それはどこまで途方無いものなのだろうか。

彼女の捜索が一通り終えられ、一時は自分の全てを何かに打ちひしがれ、一切の事象が身に付かなかった。魂が抜けた日々がしばらく続いた。

しかし時間というものは酷にも、全てを忘れさせる超能力を備えている。一年が過ぎ、二年が過ぎた。翔太は妻を娶り、子供ができた。こうなると時間とも相成って、昔の事に拘っている場合ではなくなる。子孫がいるのだ、歴史の、生物の唯一にして崇高なる目的だ。本能的に人間も動く事があると知った。

現在は勤め先の会社で係長をしている。人事部から本格的に営業部に回り、それなりに必死さを持って生き抜いた結果である、実に様々な意味を含めて。

―亜希子がいたら―

そのようなほどよい生活の中にも、時折激しい炎が心の中にくすぶる事がある。亜希子は事実上、結果上いなくなってしまった訳だから、炎はもう彼女という実体が作り出す風を得て燃え上がることは無い。それでもくすぶりだす瞬間は、

―亜希子が帰ってきたのではあるまいか―

訳もなくそう思うときが確かにある。あの夜の夢での出来事は、

―最後に会いに来たんだ―

そうとしか思えない。意固地にそうとしか思いたくない。

―死んだのかな―

翔太の心には、少し前からその思案が固まりつつあった。恐らくそうだろう。理由は探しえないが、どこか人目につかない場所で、誰にも悟られないように。今も少しずつ朽ちていっているのであろう。

―少し違うかな―

朽ちるという表現方法は、翔太が亜希子を想うのに幾分かはばかられた。土に帰したのだ。この地球と一体化し、また新しい命を芽吹かせる。決して消えることはない。少なくとも翔太自身はは亜希子のことを風化させないだろう。

「あなた、ご飯よ。佳恵ちゃんも」

書斎で思案にふけり過ぎたようだ。一時間ほど顔を伏せていたらしい。

「ああ、今行く」


パタパタと、娘の走る足音が聞こえる。食卓に着くと、そこには一輪の花が真新しい、スマートにカットされたガラスの花瓶に挿してあった。

「いいでしょ、この花。名前は知らないけれどなんだか私を見ているようだったから。育っていた所から切って持ってきてしまったの」

翔太は見覚えがあった。というより畏怖を覚えずにはいられなかった。確かにこの花を以前に前にしたことがある。それは亜希子と当てもなく野原を散策しているときだった。


その時、また亜希子の声が耳奥で響く。遠い、時間の檻に沈められた過去が突然の反作用ですっくと首をもたげる。

「綺麗ね、この花。まるでこの世の美しさを全て吸って育ってきたみたい」

「うん、確かに綺麗だ」

「ねえ、翔太さん」

「なんだ?」

「今、決めたわ。私、もし消えてしまってもこの花になってあなたに会いに行くわ、必ず」

「馬鹿なことをいうなよ、ずっと一緒だ」

「もし、よ。ありがとう」


―女にはこんな一生を辿る人もいるんだ―

その薄紫色の花を今改めて見たとき、呆然とそう思った。見た目とは違い、気丈で強情なところが多分にある人だった。翔太にとっては単純に、気持ちのいい人にしか見えていなかった部分だが、思い返してみると通常以上に暗にほのめかす、自己主張の強い人だったように思えた。


「あなた、花ばかり見てないで食べて、冷めちゃう」

妻の言葉で食卓へと目が移った。妻は幼く見える。可愛らしい。夏に咲く向日葵のように熱くたぎるような表情を持っている。高原の風をまとっているような。彼女の風の粒子がいとおしい。

一旦目を離し、また花の中心を見つめてみた。

薄く紫がかった美しいその花は、しきりに翔太に何かを訴えているようだったが、妻への感情を聞き届けたかのようにゆっくり頷き、道端でつけたであろう露を花弁から下に向かってそっと流した。そしてそのまま、少しだけうつむいたまま、美しい薄紫はもう翔太に目を合わせることはなかった。


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