奴隷女と宰相~③
「ご、ご主人様?・・・」
アリーの悲痛な声が静寂の中に静かに響く。 奴隷とは資産と見做される事もある為、それを金銭や物々交換で取引される事は自らの立場上仕方がない事だとアリーも理解はしていた。 しかも高級奴隷として他国にも名の通った自分なら貢ぎ物としての価値も高いし、元々帝国から接収しただけの神国にも損は無いだろう
アリー自身も一つの手段として自身がそのように扱われる可能性を考えてはいたが、まさか今この場面で自分が使われるとは思っていなかった。 正直、通常の商取引や貴族間の交渉事なら自分という存在は必勝の切り札にもなっただろうし自らの価値にその程度の自信はあった。
しかし国家間の取引になれば一個人である自分の価値は相対的に低くなってしまう。 しかも相手国は奴隷の所持を基本的に認めていない国なのだ、そうなれば余計に価値は無くなるのは当たり前だろう
つまりこの交渉事に置いて自分の価値は最後の一手であり、ある程度の交渉の末に最後の一押しとして使うべきだと考えていたのだ。 こんな序盤、しかも単にバーンが犯した失敗を取り繕うだけに使われたという事は主人がアリー自身にその程度の価値しか感じていなかったという事であり、それは高級奴隷としてのプライドを打ち砕く程の衝撃を与えるものだった
「ふむ、バーン殿。貴公は自身の言葉の意味を理解しているのかな?」
「も、勿論でございます。使者として自身の発言に責任を持つのは当たり前の事です」
取り繕う様に自信満々で答えるバーンであったが、ジオブリントの言っている意味を理解していないのは明らかだった。 昨晩アリーが説明したかの王の為人は朗らかで人当たりの良い優しいだが、権力に阿る者や不正を嫌い、人を力で従えるのを何よりも嫌う苛烈な面もあると散々教えたのに身に付きはしなかった様で、アリーは遣る瀬無さで一杯であった
「そうか・・・以降はアクセルに任せる。善きにはからえ」
「確かに承りました。バーン殿以降は私が交渉の窓口になります」
「は?、い、いや、しかし・・・」
先程までの朗らかな笑顔では無く、厳しい表情のまま退出していくジオブリントの言葉に愕然としたまま、しかし交渉再開の目途はまだ残されている訳だし、とジオブリントの後姿とアクセルの顔を交互に見つめるバーン。 その表情は困惑と安堵がコロコロと入れ替わる不思議な物だった
「では、バーン殿。交渉の再開の条件としてアリー殿を差し出すという事で良いのですな?」
「う、うむ。・・・い、いや違う。友好条約の締結とザービス教の布教に対する認可に対してだ」
「それは聊か無理のある話だ。それを飲むという事は我が国は、か弱い女性を条件に友好を結んだ卑劣な国という事になってしまう。ザービス教も教えを広める為には女性を犠牲にしたと言われるのは本意では無いでしょう?」
「それは当然だ。至高の輝きを放つザービス教がそのような事をする筈が無いだろう」
自信満々のドヤ顔で言い切るバーンだが、その理論が既に崩壊している事に気が付いていない。 その様子を後ろからアリーは呆れたように見つめる。 既に貢ぎ物として台に乗せられた様な状態の彼女が口を挟む訳にはいかず、しかし宰相の言葉は巧みにバーンを追い詰めていっており、如何とでもなる状態なのが見て取れていた
「では、どうします?彼女を差し出すといったのは聖ザービス神国側である貴方だ。我らとしては非人道的だと言って交渉を拒む事に問題はありませんよ?」
「ムムム・・・」
アクセルの理論が実は破綻している事にバーンは気が付いていない。 交渉再開であろうとも友好条約の締結であろうとも、アリーが貢ぎ物として存在している以上は王国側だって醜聞なのだ。 しかし一方的に交渉を跳ね除けるつもりが無いのは、今こうしてバーンと話している以上は考えればすぐに判る事だ
「よし、アリーの事は交渉再開の条件で良いだろう。改めて条約の締結と布教の許可を求める」
「判りました。で?貴国はそれに対してどのような対価を考えていらっしゃいますか?」
「な、なんだと!対価だと!友好に対して対価を求めると言うのか!!」
こうなるのは当たり前だった。 交渉再開に対して対価を渡した以上は交渉事では既に後手に回ったという事がバーンには判っていないのだ。 対等な関係ならば交渉に挑むのに対価など要らないのが当たり前で、どちらにも利があるからこそ話し合いのテーブルに双方が共に着く
しかし今回の様に交渉してくださいと神国側から申し出たのであれば王国としては、しょうがない、んで?なんぼ払うつもり?と答えても差障りが無いのだ。 ましてやアクセルにとってバーンは御し易い相手なのだろう
なにせザービス教や教皇の名を出せば勝手に自滅するのが判っているのだ。 相手動きの分かる将棋の様な物で先手先手と攻め幾らでも布石を打つことが可能なのだ。 せめて昨日のアリーの言葉を思い出す事が出来ればまだ交渉という形にはなったかもしれない
しかし元々選民意識の強いバーンはザービス教の信徒では無い奴隷の言葉を思い出すような男では無かった。
「おや、我が国としては元々それ程帝国と仲が良かった訳では無い。帝国が神国に変わったからと言って我が国にとって殊更仲良くする理由は無いですな。しかも、先程から大層ザービス教をご自慢されているがザービス教は布教にあたって懐を痛める気は無いという狭量な教えなのですかな?」
「な、何を言う、聖なる教えに対価を求める方がおかしいのだ。民の為になる聖なる教えを邪魔する為政者こそが狭量なのだ」
「では、如何なされます?狭量な為政者を排除する為に帝国を打ち滅ぼしたように我が国にその牙を向けるという事ですかな?」
アクセルの言葉は極端から極端へと向かう例え話でもって相手を追い詰めるやり方だった。 本来ならば曖昧な言葉で言質を取らせない様にするのが交渉事の常だ。 しかしアクセルの用いている手法は相手の言葉の揚げ足を取り前の発言との矛盾を付いて相手を追い込んでいる
こういう時は冷静に揚げ足を取らせない様に中庸な言葉で理路整然と反論すればいいのだが、ザービス教という言葉に反応してしまうバーンは面白い様にアクセルに操られてしまう
「もうよろしいでしょうアクセル殿?そちらとしても争いは望まない筈です。友好条約だけでも結ぶわけにはいきませんか?そうすれば少なくともザービス教の牙が貴国へと向かう事は防げるでしょう?」
「な!き、貴様は黙っていろ!!」
「いいえ黙りません!この交渉は既に詰んでいるんです。抑々王国側には神国と条約を結ぶメリットは少ない。その上でご主人様の失態が重く圧し掛かっています。相手は経験豊富で才気ある宰相。此処まで条件が揃っては勝ち目はないでしょう」
「グッ!し、しかし教皇様より賜った使命を投げ出すわけには・・・」
「あの聡明な教皇様が交渉の困難さに気が付いていない訳がありません。帝国全土を治めたといってもまだ混乱の最中の神国にとって王国という小さいけれども強国と言って良い国と友好条約を結んで来れば十分な成果と言える筈です」
「・・・」
「交渉が始まった時点で君は王国の物なんだがね・・・しかしバーン君、彼女が言う事は事実だ。確かに貴国は帝国をも打ち滅ぼした武力を持っているのだろう。しかし我が国とて帝国の脅威を防ぎ切った事実が有る。まだ混乱の最中にある貴国が我が国と事を構えるのは得策とは言えないだろうね」
アクセルの言葉は攻め込むなら攻め込んでみろ、といったある意味挑発的な物だった。 しかしその安い挑発に乗るにはアリーが言う様に神国の状態が整っていなかった。 元々交渉の落し処は友好条約が精々だっただろう。 突然隣国に現れた宗教国家が説く教えを素直に受け止める為政者などいる訳が無いのだ
ジオブリントとアクセルはアルベルトからの書簡の事も有ったので友好条約ですら結ぶつもりは無かった。 しかし戦争の事を考えれば一方的に跳ね付ける訳にもいかないので、形だけの友好条約というのが一番無難であったのも事実だ
マーリンの存在を明かして終末教の事まで突っ込んで警告していれば違った結末だが、そこを伏せた書簡では布教の許可は出さないにしても友好条約まで突っぱねるのは難しい状態であった
「わ、私は・・・ただ神国とザービス教の素晴らしさを伝えたかっただけだ」
「行き過ぎた愛国心はそれだけで周辺国を下に見始めるものだ。結果それが諍いの理由になり戦争は起きるのだよ」
「余計な口出しをしてすいませんでした。しかし私は主人の栄達の為にだけ存在する卑しき奴隷です。短い間でしたが主人の為に最後の御奉公を受け取ってください」
アクセルの言葉は自身を諌める為の言葉なのかも知れない。 床に両手をついて落ち込むバーンに果たしてその言葉は届いただろうか・・・そんな事を考えるアクセル
一方落ち込むバーンに寄り添う様に慰めるアリーは別れの言葉を投げ掛けていた。 彼女にしてもいきなり差し出されたような状態には思う処もあるだろうに、その様子からは最後の献身といったものしか感じ取れなかった
抑々彼女が居なければ友好条約の話まではいかなかっただろうとアクセルは思う。 ジオブリントとアクセルが彼女に価値を見出さなければアルベルトの書簡通りの事になっていただろう
これが吉と出るか凶と出るか・・・せめてその責任くらいは自分で取りたいと思うアクセルだった・・・
ちょっと強引・・・