七話 船と屋敷と奴隷たち
夏休みに入って間もない頃、藍夏たちは亜島に向かうべく船に乗っていた。
無論、それは国際法的に見て正規の船ではない。
極東列島の東側から出た船は旧大陸を避けて北東に進み、新大陸との間にある隙間のようなところを通って北へ抜けて、更に北西へ進む。
船旅の間、一般人の目は誤魔化せても、常に監視しているような国家機関の目は掻い潜れない。そこは呪い師としての権力を振りかざすことになる。
未知の新大陸はともかく、旧大陸は環状列島に次いで呪いが盛んな土地だ。国家と呪い師の付き合いには慣れている。
「空路の方が早いって意見は認めるがね」
三角帽子を頭に乗せた浅黒の男が言う。どこの出身かは分かりにくいが、西洋ではなさそうだ。
また、その気取った格好から、海那とシェレは二人で話し合い『外見から入るタイプの人』と結論付けた。ちなみに船長である。
「空の方が隠蔽も準備も面倒だからな。飛行機なんぞ論外で、現実的な手段は呪いか亜族。現実的な、とは言いつつ、現実的でもなんでもない」
まぁその亜族で世界中巡れそうな呪い師を二人ほど知っているが、と士英は言葉を結ぶ。
「移動だけなら亜族の道を使った方がずっと早い。だが、自分の従者すら信用しない輩が多いからな」
更に声を返したのは船長だ。
「お二人さん、なんだか仲良さそうだね」
話の半分は理解できているのだろうか、海那がひょこっと顔を出して言った。
「そういえば、士英と船長は元々知り合いだったみたいだけど、常連? やっぱり亜島に行く時はこれ使うの?」
と、話に乗っかったのは藍夏。言ってからシェレのニヤニヤ顔に気付いたようだが、時既に遅し。
「いや、乗るのは久しぶりだ。あれはいつだ? ……もう十年経ったか?」
士英が笑いかけると、船長が引きつった笑みで応える。
「忘れるものか、十五年前だ」
そんな答えに、何かあるのだろうと藍夏は納得する。無理やり納得させる。これ以上踏み込んでは――
「十五年前、何があったの?」
藍夏の内心を嘲笑うかのように軽快な声だった。船長はもう乾いた笑いしか上げず、士英は鼻で笑うのみ。
「士英はね、亜島出身なんだよ」
二人の代わりに声を上げたのはシェレだ。
「あれ? 日本人じゃないの?」
「列島人っぽいだけ。士英ってのも、偽名だよ。本名は……なんていうの?」
「俺が聞きたいわ」
なんだか出来の悪いコントを見ているかのような錯覚に囚われ、藍夏はため息をつく。
「記憶、曖昧だって言ってたね、そういえば。亜島で何があったの?」
毒を食らわば皿まで、ではないものの、ここで後戻りはできまい。
「亜島の現状は知っているか? 五十年以上前、実質的な最高機関として動いていた準大陸級派閥の『王家』が滅ぼされた。侵攻は東側から始まり、島の中心地にあった王家本部まで到達。王家の連中は西側に逃げ、そこから持久戦に入ったが、結局は一方的な蹂躙。一ヶ月そこそこで終わった」
藍夏には聞き覚えのある話だったが、海那は初めて聞くらしく、ほへぇと気の抜ける声を返す。藍夏にしても、そう詳しく聞いたことはない話だ。深く調べない限り、ある種の『逸話』としてぼんやりとしか語られない。
「だが、一ヶ月もあれば亜族は棲みつく。奇襲同然で始まった侵攻で東側はすぐに落とされ、王家構成員ともども住民は西に逃げた。残ったのは人が消えた土地で、元から亜族が多い島だから、その東側は亜族の巣になるのも早い」
ここまでが、亜島の現状だった。今でも東側に住む人間は非常に少ない。というよりは……。
「そんな亜族たちの中で暮らそうという呪い師がどれだけいるか。時には亜族を追い払って領土を広げようとする者もいるが、多くは違う。東側に住むのは、西側で暮らせなくなった連中ばかりだ。毎月、下手をしたら毎週、亜族に食われるか仲違いするかして、人が死んでいく。子供が産まれるより、大人が西から逃げてくることで人口を保っているような村がほとんどだ」
そんな状況下にあっても、いくつか村があることが藍夏には驚きだった。村ではなく街を作り、設備は今一でも、手を取り合った方が効率的だろう。
しかし同時に、人間とは、もっと言えば呪い師とは、そういうものなのだとも思える。
「元から法律がないのに、東にいるのは逃げてきたような連中。そりゃ、信用もできないか」
独りごちたつもりだったが、士英に頷かれた。
「俺が住んでいたのもその村の一つだ。親と一緒に逃げたのか、村で産まれたのかは分からない。親が誰だかも覚えてないしな」
士英はあっさりと言う。藍夏にはまだ理解し難いが、呪い師の中には親兄弟を軽く扱う者も少なくない。海那のように、親と分かり合えずに育つ者がそれだけいるのだ。
「言った通り、毎月人が死ぬ。その月は特に多かった。半月か、まぁ長くても三週間、その間に三人死んだ」
小さく、集中していなければ見逃すほど小さく、士英が息を吸った。
「そして、四人目の死体が見つかった。村の外れで、女が死んでいた。歳は俺より下だったか?」
「多分上」
「俺より少し年下の女が死んでいた。……あぁ、あの頃は俺も子供な。十三か、まぁそのくらいだ」
藍夏にも、士英の混乱というか、何か強い思いが見て取れた。
「あいつの名前は覚えてない。ただ、俺のことを変な名前で呼んできた阿呆だ」
「変な名前じゃないもん。気に入ってるもん」
シェレの発言に「いいから邪魔するな」と士英が返した。その『変な名前』が『シェレ』だということを藍夏と海那は既に知っている。
「そいつの死体がどういう状態だったのか、俺は覚えていない。とにかく、ほとんど記憶がなくて、覚えていることの方が少ない」
それは、ここしばらくの付き合いで藍夏も知っていた。昔のこととなると、士英は曖昧な言葉が多くなる。藍夏なら両親との会話を事細かに思い出せるし、時にはふと幼い頃、まだ物心つくかどうかといった時期のことすら思い出しもした。
だが、士英は違う。派閥に入る前のことはほとんど覚えておらず、藍夏でいうところの『物心つくかどうかといった時期』のような記憶しかないのだ。
「そいつが亜族に殺されたのか、人に殺されたのか、自分で死んだのか俺には分からないが、ともかく、俺が疑われた。村で一番の呪い師が俺に死ぬか出ていくか言って、俺は逃げ出した。中には追ってきた奴もいたが、殺したか勝手に死んだかした」
そこでようやく、藍夏も本題を思い出す。
「呪い師だろうと、亜島の西側は人間が一人で生きていける土地じゃない。俺は死ぬんだろうと思いながら逃げ続けて、偶然、船を見つけた」
藍夏がちらりと船長を見やると、そこには苦々しい顔があった。
「まぁ、ほとんど覚えてないんだけどな」
けろっと言い捨てた士英から言葉を引き取るように、今度は船長が口を開く。
「そいつは勝手に乗り込んできていた。俺たちも知らなくて、気付いたのは亜島に戻るより極東列島に向かう方が早いような頃だった。旧大陸の方に上陸の許可は取っていなかったから、そちらには行けなかった」
士英は士英で記憶を辿っていたようだが、船長はより鮮明に思い出しているようだった。それも、相当に辛い過去を。
「その夜、見回りに行った船員が一人戻らなかった。何人かの船員で探したが、その中の一人も戻らなかった。そこでようやく、何かがいると確信した」
夜と言ったか、今。
藍夏は声に出しそうになったが、どうにか堪えた。問わずとも、すぐに答えてくれる。
「客と船員を全員集めて、俺たちは朝を待った。夜のうちに亜族と戦うのは危ない。だから朝を待って、それを見つけた」
船長は深く深く息を吐いた。
「子供だ。顔も服も血まみれの子供。近くには船員の死体が二つあったが、亜族の仕業か、子供の仕業か、かろうじて船員だと見分けられる状態だった」
もう、明白だろう。
藍夏は海那を一目見て、なんとか微笑みかけた。
「こいつは、俺の仲間を殺した男だ」
船長は士英を顎で示し、目を背ける。
「だがな、呪い師相手に船乗りなんぞやるからには覚悟している。亜島の方では便宜も図ってもらっているから、否とは言わない」
そこまで聞いても、士英はけろりとしていた。
この男は人を殺した。そして恐らく、血を吸ったのだ。肉を食べたかもしれない。
確証はないものの、藍夏だって馬鹿ではない。船旅の最中に食料が不自然に減れば気が付くはずだし、そもそも逃げていたはずの子供が意味もなく大人を襲うはずもないだろう。
何より、士英は吸血種の特異個体だ。吸血鬼的な特徴を持ち、夜には力が増す。血を吸って呪力を作り出し、それを燃料に変えることさえできたはずだ。
「よくもまぁ、平気な顔でいられる」
藍夏は毒づく。ほとんど無反応の海那が心配で、せめて八つ当たりでもいいから意趣返ししておきたかった。
「無論だ」
士英は鼻で笑う。
「向こうには法がある。だから嫌いな奴でも信用できる。だが、呪い師に法はない。嫌いな奴は信用するな。自分にだけ従っていればいい」
答えになっていないように思えた。
だが、それは紛れもなく答えだったのだろう。
「海那、海、見てこよっか」
突っ立ったままの海那の手を引き、藍夏は部屋を後にした。すぐに外というわけではないが、部屋の中よりは心地が良い。甲板に出れば少しは気持ちも晴れるはずだ。
亜島。
亜族的、あるいは呪い師的な特徴を持つ島。
世界から意識されず、貿易をはじめとした様々な経済交流から隔離された島。
そう言われて、藍夏は未開の地のようなものを想像していた。管理局のデータベースにも写真などなかったのだ。
しかし、船から降りてしばらく歩くと、そうした今までの認識は簡単に砕かれた。
近代的な高層ビルこそないものの、民家や商店が建ち並び、更には宿泊所らしい三、四階建ての低層ビルまである。
「おぉ! すごいっ! なんていうか、あれだね、あれ! 観光地みたい!!」
早速、海那がはしゃいでいる。
何故だろう。藍夏には、自分の方が船での一件で衝撃を受けていたように思える。
「まぁ、田舎ってほどじゃないけど、地方の観光名所って感じだね。列島っぽくはないけど。旧大陸風?」
洗練されてはおらず、雑多な印象。しかし汚くはなく、どちらかといえば祭りの賑わいに似ていた。
「えっと、観光していい? いいよね? あっち行ってみたいっ!」
返事も聞かずに走り出しそうな海那に呆れて続こうとして、ふと気付く。
「あまり騒がないでもらえますか?」
四、五メートルしか離れていない。すぐそこで、女が藍夏たちに視線を向けていた。
「あ……、すみません」
海那は小さく謝り、上目遣いで女を見やる。そういえば、彼女は日本語を話していた。
「亜島といえど、外部の呪い師がいないわけではありませんからね。現にあなた方がいます。まだ公表できる段階ではないので、周囲の目には気を付けてください」
はい、と答えようとして、「ん?」と声を上げてしまう藍夏。
「……まさか」
「おはようございます。今は……、イーリィさんですかね?」
藍夏の横で士英が頭を下げる。イーリィと呼ばれた女は「えぇ。今は寝ています」と会釈を返した。
「お姉さん、呪い師さんでしたか」
「ここの住人はほとんど呪い師です。……が、私は呪い師ではないですよ」
イーリィは微笑んだ。
「ていうと、一般人さん?」
「そんなわけないでしょ。普通の人に呪いとか亜族は見えないんだから。でも、っていうことは……」
藍夏は言いかけ、すぐに口を閉じた。それ以上は失礼どころの話ではない。
「いいんですよ。事実ですから」
またも微笑み、イーリィは視線を逸らす。そちらにあるのは、商店街風の通りと人の流れ、あとは道端に止まった馬車がいくつか。
「馬車は既に手配してあります。あの二頭立てのものです」
そう言って歩き出すイーリィに藍夏が続く。
「……で、どういう人?」
「後で教える」
小声の海那も藍夏の横を歩き、ちらりと後ろを見た。
「お前はどうする。久しぶりだろ」
「そんなに時間経ってないよ。……でも、まぁ少し歩いてくる」
立ち止まったままだった士英も二人の後を追い、シェレは違う方向に歩き出した。
半亜。
それは大きく分けて三種類存在する。
最も多いのは人間と亜族の混血。これは説明不要だろう。人間と亜族が交わることで産まれた子供だ。
次に、人間と亜族が混ざり合った者。広義では混血に近いが、大抵は人為的に両者の肉体を混ぜ合わせたものを指す。最近は亜族の手によるものも増えてきたが、多くは人間が生み出すものだ。
そして最後に――
「亜族に寄生された人間。宿主を殺して肉体を奪う種から、宿主の意思を乗っ取る種、時には共存する種もいます」
イーリィは「私は共存しています。今は彼女も寝ていますけどね」と微笑んだ。
「寄生って、……寄生ですか?」
海那が恐る恐る問う。
「えぇ、寄生です。彼女の場合は殻を必要とするだけですから、彼女自身も命を持っています。まぁ一つの身体に二人が住んでいるようなものですね」
あっさりと言うが、藍夏が思うに、これが一番残酷な寄生だ。
肉体を殺して奪う、あるいは意思を乗っ取ってしまう。そうした類いの寄生なら、宿主にされた人間の苦痛は少ない。どちらにせよ感じることさえできなくなれる。
しかし共存とは、自分の中に異物を住まわせたまま生きることだ。それも悪性腫瘍や意思を持たない植物などではなく、意思ある化物の亜族を。
「死にたくもなりましたけどね。彼女は殺させてくれませんでしたよ、勿論」
「そりゃ、宿主が死んだら自分まで死んじゃいますからね」
イーリィの自虐に付き合える士英に、藍夏は少しばかり感謝した。士英がいなければ海那と揃って絶句し、ぎこちない沈黙が流れるところだ。
「えと、その、それなら今はどうして……?」
どうして、なんだというのだ。海那の言葉に意見したかったが、言えなかった。言葉としてはよく分からないものの、問いたかったことが分かるからだ。
そして、その答えを知りたかったから。
「カノンさんがいますから、今は」
イーリィはそれだけを答えとした。
今一分からず、まぁ愛情やら何やら、そういう神秘的なものなのだろうと藍夏は納得しておく。
「行けば分かる。だが忘れるな。絶対に『イエス』は言っちゃいけない。気を遣ってもいいが嘘は言うな。後になって弁明しても手遅れになりかねん」
納得したのも束の間、士英が亜族や武の派閥構成員を前にした時よりも緊迫した口調で言ってきた。
「ええと……?」
「見れば分かる。見なければ理解はできん。……だが、見た後なら教えてやる」
士英はそれきり黙った。
馬の足音と車輪が地面を噛む音、そして外からの喧騒だけが響く。
いつの間にか寝ていたようだ。しばらくして、御者の「着きましたよ」という声に藍夏は起こされた。
大きな門がある。
背の高い馬車がそのまま入ってもまだ余裕があるだろうか。世界の富豪を紹介するバラエティ番組でしか見ないような大きさだ。
「いらっしゃいませ、士英さん」
内側から門が開けられ、一人の少女が現れた。
「藍夏さんと海那さんは、初めまして。主の従者をしています、フルートです。シェレは……いないようですね?」
「街を見ている。呼ぶか?」
フルートと名乗った少女は「いえ、大丈夫です」と首を振り、それからイーリィに目を向ける。
「お疲れ様です。もう休んでいいと、主人が言っていました」
イーリィは「後は頼みます」と答え、姿を消す。亜族の世界に潜ったか、契約を利用して主の元に行ったか。どちらにせよ、もうここにはいない。
「従者ってことは、あなたも亜族……ですか?」
代表の従者ということは目上だろうが、年齢はどう見ても下、どころか、敬語で接するのが難しい歳にさえ見える。海那はぎこちなく問うた。
「えぇ。主人曰く、呪い師になるはずだった亜族だということです。産まれる前に、亜族にさらわれたとか」
さらりと言ってのけたフルートは、「では」と身を翻す。
「……士英」
船での話もあって未だに少し話しかけづらいものの、藍夏は小声で訊ねる。
「カノンさんって、どれくらい従者いるの? 普通、多くても伶衣みたいに一対の二体くらいだよね? それに、人型が多いし……」
人『型』と表現するのは気が引けたが、亜族である以上、人間ではない。イーリィとフルート、どちらも元人間ではあるらしいが。
「分からん。正確に従者と呼べるのは多くても二十か三十だろう。……だが、あの人に限ってはその認識が通用しない」
士英は続けて説明しようとしたが、ふと横に視線を向けると、そちらに意識まで向けてしまった。
「花、咲いたな」
あまりに内容に合わない無愛想な声だったが、相手はすぐに振り返り、嬉しそうにキラキラとした視線を投げてきた。子供だ。二人組で、どちらも歳は小学校の低学年ほどだろうか。
「はい、昨日咲いたところです。ちょうどよかったですね!」
髪の長い方が笑って答えた。
「なんて花なんだ?」
藍夏と海那からするととても珍しい光景だ。士英が自ら子供に話を振っている。案内係を引き継いだフルートも立ち止まり、見守っているようだった。
「……あの、分からないんです。ご主人様か奥様に聞けば分かると思うんですけど、やっぱり、その…………」
髪の短い方が目を伏せて言う。
「ふむ、そうか。……まぁ、名前や種類なんぞどうでもいいか」
自分から聞いておいてそれはどうなんだ、と藍夏は思わないでもなかったが、黙っておいた。
「この子たちも従者? それとも、ええと、子供?」
海那は勇気がある。
「いえ、僕たちは奴隷ですよ。ご主人様に買われた身です」
さしもの海那も、これには言葉を失った。
「あなたも来る?」
子供の誘いにぶんぶんと首を振って、海那は士英に視線を送る。助け舟を求めているらしい。
「じゃあ、機会があったらまた後で。そのうちシェレと会ったら、元先輩としてよろしく頼む」
「はいっ、勿論!」
門から玄関まで歩く間に、藍夏と海那は改めて亜島の『常識』を教わった。奴隷のこと、呪いに関する外部との差異点などなど。やはり藍夏には納得しきれなかったが、理解はした。郷に入れば郷に従え、だ。
そして、何人もの奴隷を見かけた。
中には恥ずかしそうに、あるいは暗い雰囲気をまとってコソコソと行ってしまう者もいたが、多くは人懐っこく、そうでなくとも好意的だった。
奴隷の多くは若い女だ。幼い子供も少なくない。だが、青年期に差し掛かった男や、明らかに人間ではないと分かる人型の亜族もいた。角が生えた少年など、その最たるものだろう。
その多くに共通していて、藍夏たちに違和感を抱かせたもの。
それは『主人』のことを話す時の表情だ。
「あのさ、まさかとは思うんだけど」
「俺の予想で七割だ。七割の確率で口説いてくる。絶対に断れ。囲いに入りたかったら好きにすればいいが、嫌なら気遣いなんざ捨てて断れ。いいか。絶対に頷くな」
馬車で言っていたのはそういうことか、と藍夏は納得し、同時に呆れる。流石に嫌悪感や拒否感は自制した。
ここにいる奴隷のほとんどが、カノンと『そういう関係』なのだ。
「私には少し信じられないかな」
海那はぼそっと言った。どうやら口に出してしまったことにも気付いていない様子だ。
「あの人に俺たちの常識の大半は通用しない。覚悟するように」
士英がきっちり言い捨てると、先を歩くフルートが少し、ほんの少しだけ声を漏らして笑った。
「まさに、その通りですね。主人は頭がおかしいんだと思います」
「頭の一つや二つおかしくなけりゃ、やっていけないんだろうな」
冗談、ではないのだろう。
藍夏が気を引き締めてすぐに、フルートは立ち止まる。玄関から何度も廊下を曲がり、階段も上った。
「ここが主人の部屋です」
フルートがノックをすると、中から雑音が聞こえてきた。シーツがこすれるような音まで届く。ノックで遮音効果が切れるような仕組みでもあったのだろうか。
というより、どうしてシーツなのか。
まさか、と藍夏は身震いしたが、部屋の中からは「いいよ」という返事が投げられた。
「では、失礼します」
フルートが扉を開ける。
中は存外に広かった。大きな窓から差し込む光が白いカーテン越しに室内を照らし、頑丈そうな机には本やビンが並ぶ。ベッドは当然のようにキングサイズで、今ちょうど整えられたかのように、ふんわりとしていた。幸い、そこには誰も寝ていない。
代わりに、というか、当然といえば当然だが、男が部屋の中心近くに立っていた。
若く見える。普通に見ればまだ二十代中ほどで、大人びた高校生だと言われても納得できるだろう。しかし、事前情報を信じる限り、見た目から年齢を想像することはできない。
「はじめまして」
藍夏は頭を下げた。怖くないと言えば、それは嘘だ。
「あなたが代表のカノンさんですか?」
男、カノンは鷹揚に笑った。
「実際に会うのは初めてだね。藍夏君、海那君。ようこそ、僕の屋敷へ。いっそ住ま――」
「住まないです」
海那は即答した。自己紹介より先に断りの返事だ。
「士英君?」
「俺は特に何も言ってませんよ。ただ変人には気を付けろ、と常識について語りながら来ただけです」
この一分足らずで、藍夏にもよく分かった。
こういう派閥なのだ、ここは。
性別どころか種族さえ無視した男が代表をやっていて、人の血を吸った者が平然と歩く。
だからこそ、なんだか悲しいことではあるものの、藍夏は気が楽になった。
まともな派閥で気を遣いながらやるよりも、ずっといいだろう。
「これから、よろしくお願い致します」
藍夏が頭を下げると、慌てて海那も続いた。
カノンは静かに椅子を勧める。そこにはいつの間にか丸テーブルが現れていた。傍らではフルートが微笑んでいる。
おかしなことに、とても平和な光景に見えてしまった。