間話 抱えた夢
「ねぇ、シェレ!」
少女の声が、背の高い草に覆われた草原に響いた。
「今日は何して遊ぼっか。鬼ごっこ? それとも決闘? ねぇ、何しようって言ってるのっ!」
無邪気な、無邪気すぎる声。
「なら、隠れんぼ。俺が鬼な」
シェレと呼ばれていた少年がぶっきら棒に答えた。
「それはやだ。前にやった時、シェレ帰っちゃったもん。夕方になってシェレが迎えに来てくれなかったら、亜族に食べられちゃってたかもしれないんだよ!?」
「それ、俺が迎えに来たんだからいいだろ。さっさと隠れろよ」
やはり愛想はない。少女もそれには慣れているようで「むぅ……!」と頬を膨らませてみせたものの、どちらかといえば楽しそうだ。
「今日はシェレが隠れる番だよ。私が鬼になって、さっさと帰ってやるんだから!」
少女は、ふふんと満足げに言う。
「分かった。じゃあ一分数えて」
「え? うん。分かった」
目をつむり、いーち、にーい、と数え始める少女。
そのまま、さんじゅいーち、とリズムに乗せて言ったところで、不意に「あっ!」と顔を上げた。
「しまった。なんか聞き分けが良いと思ったら、あいつ帰ったなっ!?」
少女は、しかし楽しそうだった。
「でも、鬼ごっこになっただけだよ? シェレ。それとも、やっぱり隠れんぼかな」
そんな独り言を、シェレはしっかり聞いていた。帰ってなどいなかったのだ。
いや、勿論、そのうち帰るつもりではいたのだが。
「ねぇ、シェレ」
空が茜色に染まっている。
「お星様見に行かない?」
「今から空見ればいい。一番星なら見えてるんじゃない?」
「なんで疑問形? 少し見て確かめればいいじゃん」
「面倒」
はぁ、と少女が大きなため息をつく。
「でも、違うんだよ。空いっぱいの星空が見たいの」
「なら、勝手に見に行けばいい。それで亜族に食われてこいよ」
「それは流石にひどい」
またもため息が漏れる。
「シェレ、そうは言うけどね、私はなんか、死なない気がするんだよ」
「なら一回死んでこいよ」
「やっぱりひどい」
三度目のため息。少女は楽しそうにため息をつく。
「シェレはさ、私が死んでも悲しくないの?」
少し、沈黙が流れた。自然の中にいるせいで静寂にはならなかったが、それが余計に冷たい。
「知らない」
シェレは消え入るような声で言う。
「毎月、誰か死ぬ。先週も死んだし、今月はあれで三人目。俺たちも生き残れるか分からない」
初めて不安げな表情を見せていた少女が、一転して嬉しそうに笑った。
「それって、悲しいってことだよね?」
「もう慣れたってことだろ」
今度は即答だった。少女にはそれが何より嬉しかったようだ。
「ふふん。シェレは私のこと好きだからね、絶対」
「そういう――こそ、いや、それはないな。絶対ないな。むしろ嫌だ」
「うわ、今のは本当にひどい」
何故か、少女の名前だけがぼやけていた。確かに名前だと分かるのに、どんな名前なのか、欠片も掴めない。
「シェレ」
「なんだよ」
「私、やっぱり死なないと思うんだ」
「……どうして?」
「シェレがいるから、かな」
「黙れよ」
そして、少女はうつむいて黙り込んだ。
「お前か」
男の声だった。怒号とさえ言っていい。
「お前がやったんだな」
なんのことか、シェレには分からなかった。ただ、何か下らない疑いを向けられているのだということだけは分かる。
「なんのことだよ。何があったって言うんだ」
盗みだろうか。でも、ここに盗むようなものはない。食べ物を盗めば犯人かどうかにかかわらず難癖をつけられて盗んだ以上に腹が減るし、服や日用品などは外から見て分かるため以ての外だ。
「おい、ガキだからってよ――」
男はまだ何か言おうとしたが、横合いからの手に止められた。もっと立派な身体付きの、いっそ夜道で見れば熊と見間違えそうな背格好だ。
……まぁ、ここの住民は夜中に出歩いたりしないのだが。
「何をしたか、分からないのか?」
シェレに負けず劣らず愛想のない声。
「知らないって言ってんだろ」
そうか、と熊のような男は頷いた。
「なら、見てくればいい。村の外れだ。昼には食われて消える」
食われて、ということは亜族か、獣だ。
しかし消えるということは、亜族以外に考えられない。
腐肉食、という言葉をシェレは知らないが、その腐肉食の亜族がいるせいで死体は一日と残らないのだ。ただ、そうした亜族がいなくても、こちら側で死んだものの肉体はそう長く持たないのが常だった。
「なんだよ、くそ」
行きたくはないけど、面倒だけど、早く行かないと、あいつがうるさい。
シェレは内心で言い捨て、言われた通り、村の外れまで走った。
そして、それを見ることになる。
「……は?」
何も見えなかった。
いや、見ていたはずだ。確かに見たはずなのだ。
それなのに、見えなかった。
ただ、ただただ、そこで少女が死んでいるということだけが、理解できた。
「……いや、おい」
脱力した笑いの色さえ含んだ、乾いた声だった。
「死なないんじゃ、なかったのかよ」
×××
冬みたいだな、と思ったのを、藍夏は覚えている。
そう思ったのは、もう一年も前か。
だが、その感情をちゃんと言葉にできるようになったのは、昨日の夜のことだ。
藍夏の両親は亜族に殺された。
緋田夏と、緋田藍。自分たちの名前をそのまま子供に付けるのはどうなんだろう、と思わないでもなかったが、そう感じるようになったのは二人が死んだ後で、不満に見せかけた感謝を伝えることはできなかった。
武の派閥は戦争をしていた。
夏はいつも通りの笑みを絶やさなかったが、藍は時折焦燥するような表情を覗かせていたから、まだまだ子供だった藍夏にも事の重大さは理解できた。
それももう、一年前なのだ。
あの日、二人は夜になるような頃に家を出た。
「ちゃんと寝なさい。夜のうちに帰ってこられるかは分からないけど、朝はいつも通り起こすから」
そう言って、家を出た。ずっと寝ずに待っていたのに、その朝、誰かが起こしに来ることはなかった。
それを予期していたわけではあるまい。
しかし、冬のようだとは思っていた。
凍え死ぬような冬を藍夏は知らない。
冬というのは、春の前の季節だ。寒いけど、いずれ春が来る。夜と同じだ。明けない夜はないし、春が来ない冬もない。そう信じていた。藍夏だけでなく、恐らく、ほとんどの人々が。
あの時の二人はどうだっただろうか。
藍夏には、父親の考えていることは分からない。普段は母親の方がずっと大人っぽいのに、いざという時は、普段へらへら笑っているだけの父親が頼もしく、でも不思議だった。
だから、分からない。
それでも、春が来ると信じていたはずだ。冬は終わり、春は来るのだと。
「でもさ、ねぇ、父さん」
冬が明けた時、そこに父さんはいるのかな。
父さんの時間は、冬のまま止まるって知ってたんじゃないのかな。
そう思ったが、答えなど知る由もない。
藍夏は信じていた。冬は必ず終わり、春は必ず訪れる。
やはり信じていた。たとえ誰が死んでも、冬の後には春が来る。
「春を迎える人がいないんじゃ、冬が明けても意味なんかないのに」
中学にも慣れた。もう二年目だ。二年生だ。
武の派閥からの誘いは断ったけど、上手くやれている。と思う。
途切れそうにない感情に区切りを付け、藍夏は立ち上がった。
線香は上げない。遺骨も、遺影も、何一つないのだから。
×××
「つまり、これは、そう、そういうことだね!」
底抜けに元気な声。
「うん、でもほら、何もないんだよね、私」
海那はしょぼんと呟いた。一人、呟いた。
船の一室で、他の二人は寝ている。士英と藍夏は揃って昔の夢でも見ているようで、何かにうなされたり懐かしそうに微笑んだりしていた。なかなか気味が悪い。
「二人とも、色んなことがあったんだろうね」
どうして声に出しているのか、海那はふと自問した。
「まぁそこに誰かいそうだから、だよ。シェレちゃん」
呟き、また思考に耽る。
「呪い師だからってわけじゃ、ないんだろうね。ただの偶然なんだろうけど、運命なんだろうけど、やっぱり、何かが違うんだと思う」
なんだか大人びているような、しかし子供らしいままのような。
「別に、そんなのどうでもいいんじゃない? シェレだって何も分からないし」
「シェレちゃんとは違うよ。思い出せないのと、何もなかったのは違う。全然違う」
突然現れたシェレに驚くこともなく、海那は言う。
「でも、どっちが良いかって話でもないよね?」
シェレが笑った。海那も笑うしかない。
「ありがと。優しいね」
「えっへん」
「なんか、似てる?」
「似てるんだろうね」
二人は笑い合った。
船は北上しているはずだ。今は明け方だろうか、薄闇が部屋を包んでいる。
到着はどのくらい後だったかな、と海那は頭を巡らせた。
「シェレちゃん、到着って、いつ?」
「知らな~い」
「だよね、私も知らない」
また笑い、今度はため息をついた。
それから、二人揃って横になる。海那は藍夏の隣、シェレは士英の隣だ。
「ふふ……」
「ふふふふ……」
二人の気味の悪い笑いだけが、船の一室に沈んでいった。