六話 派閥の仲間
昼休み。
藍夏は自分の椅子に座り、海那は机を挟んで前に座っている。その椅子は前の席から借りてきたものだ。
時折なんとなく、何気ない言葉を交わすだけ。あとはおかず用の大きな弁当箱と、一人ずつのご飯用弁当箱、そして口の間を箸が往復する。
そこに不自然な空気はなかった。わざわざ話すまでもない、とでもいうのだろうか。話さないからと仲が悪くなったわけでも、不穏なことがあるわけでもない。無言で間が持つというのは、良い関係を築けている証拠だ。
「美味しいね、卵焼き」
「だから、それ、海那が作ったやつでしょ」
初日とは違い、わざとだろう。にっぱり笑う海那につられ、藍夏も笑みをこぼした。
拍子抜けするほど変わらない日々。
番狼と戦い、目の前で人が殺された日から二週間しか過ぎていない。
あの日は士英とシェレに連れられて支部だというビルに行った。中にはいつか見た赤コートの女と、明らかに列島人ではないが呪い師にも見えない女だけがいた。支部長はいなかったらしい。
そこで二人を紹介され、西洋人らしい女、エリスから料理を振る舞われた。ちなみに士英の奢りという扱いになったようで、ぶつぶつ文句を言っている姿は今でも覚えている。
もう一人の女は伶衣といって、士英に比べれば常識人に見えた。見えただけだが。
それから夜になる前に、二人は家まで送られた。三人とは電話番号も交換した。支部長の従者だという亜族、雫虫も預かっている。雫虫は小さな蜂のような姿をしていて、二十から四十体ほどの蜂からなる群れで一つの個体だ。彼らは離れたところにいる同じ群れの仲間に意思を伝えることができ、さながら電話のように機能する。
それから二週間。思い切って三人それぞれに電話をかけた以外で特に変わったことはなかった。まだ知られていない、ということは流石にないはずなのに、他の派閥からの海那個人を狙った襲撃はない。
無名の派閥そのものからの連絡も一切なく、時折エリスから食事の誘いが来る程度だ。ちなみに、先週は二回奢ってもらった。
「もっとこう危ないこととか、嫌なことがあると思ったんだけどな……」
藍夏は独りごつ。
「他のところはどうなの?」
海那の問いに「まぁ、よくは知らないんだけど」と前置きしてから、小さな声で答える。
「大きなところだと、最初は登録。制服があるところは制服を渡されて、それから直属の上司っていうか上官っていうか、まぁ先輩みたいな人と会う。武の派閥だと少なくても週に一回は集団稽古があるって言ってた。他には戒律の徹底とか色々」
列島発祥の大陸級の中では最も自由だと言われる武の派閥でも、ある程度の決まった出勤や出席、要は顔を出すことが求められるという。藍夏の両親がいた頃はそういう決まりだった。
小規模で個人経営のような、あるいは部活やサークルの延長のような派閥ではそうでもないというが、無名の派閥は構成員の数こそ少ないものの、戦闘力では中小にも引けを取らない。
というより、あの後何度かあった戦闘の結果、無名の派閥は準列島級、つまり武力だけなら列島内で通用するという称号を得ている。一度は支部であるビルを包囲、襲撃されたのに、士英と伶衣の二人で殲滅してしまった。
「高等種って、みんなあんななの?」
海那は恐る恐る訊ねる。近くにクラスメイトはいないが、それでも相当に小さな声だった。
「いや、あれは例外。ていうか、武でも幹部クラス」
呪い師の戦闘は現代的な戦争の真逆に向かっている。情報や数の力も当然あるが、それ以上に個の力が大きすぎるのだ。持って生まれた呪いと、それをいかに鍛えてきたかで勝敗が左右される。大陸級派閥の幹部クラス五人で百人以上からなる中小派閥に勝てる、というのは、虚言の類いではない。
「私も追い付かないといけないんだよなぁ」
じゃないと、いつまでも安心できない。
それは口の中でだけ言ったつもりだったが、海那は「無理しないでね?」と心配するように声を投げてきた。年齢よりずっと子供っぽいのに、人の心は読んでくる。
「でもシェレちゃんとは、仲良くなれる自信あるな」
ほんわかと海那が漏らす。
「無邪気すぎて怖いけどね」
ひとまず脅威は去ったのだろうか。そう自問する。
でも、これからは激しくなるはず。そう自答する。
ゆっくりしていられるのは、今だけかもしれない。もう夏休みが近いのだ。
普段は会社に学校、その他の社会生活で忙しくしている呪い師たちにも、夏休みは来る。そしてそれは、色褪せた世界が活発になるということだ。
「ねぇ、海那」
「なに?」
くりくりとした、小動物のような瞳。
「いいや、なんでもない」
言おうとしたことを心の奥に追いやり、弁当に箸を伸ばした。
「卵焼き、美味しいよ」
「だよね、うんっ!」
どうして、海那だったのだろうか。
自問したが、納得できる答えなど、出るはずもなかった。
何事もなく一日は終わる。
もう夕方だが、まだまだ明るい。これが暗くなってくると亜族が活発になり、夜が始まる。その頃には何も考えず寝ていたい藍夏だったが、まぁ無理だろう。
マイナス方向に走りかけた思考を頭の片隅に追いやるのとほぼ同時に、二つの音が鳴った。一つはヴヴヴヴというバイブレーションの音。もう一つは藍夏の記憶にもある童謡。
「そんなのに設定してるんだ」
藍夏は呆れるように言って、携帯を取り出す。メールの着信音だ。
「探したんだよね、これ好きだから」
海那のものにも同時に届いたということは、送り主も推測できる。
果たして、エリスだった。
『至急支部へ。遣いを向かわせてある』
読み、理解するより先に走り出す藍夏。海那の手もちゃんと握っている。
「え? ……えっ!?」
動揺する海那をよそに走り続けた藍夏は、周囲を見回す。同じ制服を着た生徒はいない。
「逃げるか? 普通」
待ち構えていたような声に、ため息を返す。
「学校まで来る奴がいるか。誤解されたらどうする」
藍夏は相手を見据えた。士英だ。傍らにはシェレもいて、まだ手を握っていることから亜族の道を通ったことが分かる。
「俺たちに誤解は付き物だろ。それより、急ぐぞ」
「何があったの?」
訊ねながら、二人は士英たちに続く。流石に気を遣ったのか、支部ビルまでは距離があるのに亜族の道を通ろうとしない。仮に通ろうとしても、藍夏は断っていたが。
「そう構えなくていい。一も二もなく襲撃されるようなら俺も迎撃に回っている。まだ戦闘には入らず、そもそも戦闘に発展するかも分かっていない」
「じゃあ、何が――」
言いかけ、口をつぐんだ。分からないからと何もかも聞いていては、いつまでも後塵から抜け出せない。
「良い傾向だ」
士英は小さく笑った。
「先輩を敬う気概もあれば更にいいがな」
「伶衣が敬語使わなくていいって言ったんだから、その同期のあんたにも敬語はいらないでしょ」
藍夏と海那、二人の中では一にエリス、二に伶衣、三、四がなくて、五に士英だ。どうしようもなく敵対してしまった者として仕方ないにしても、躊躇なく人を殺したところを見てしまっている。海那も少し苦手そうだった。
ちなみに、直接の構成員ではないシェレは藍夏にとってエリスの次、海那にとってはエリスに並んで親しみやすい相手だ。
「……士英、不器用」
そのシェレが小馬鹿にするように笑う。
「え? 何か言いたかったの?」
思わずといった調子で海那が問うてしまう。そこはスルーするべきだと藍夏は思ったが、気にならないわけでもない。
「士英が言葉遣いなんて気にするはずないんだよ。自分で考えようとするのは良い傾向。でも、まだ足りない。それは何?」
そして、どん底に叩き落とされた。
「……はい、強くなるための努力が足りませんね、努力が。あと意地も思いも何もかも」
藍夏も、高等種と言われて図に乗っていたわけではない、と言いたいところだったが、少し安堵し、心なしか満足してしまっていたのも確かだ。
「士英、不器用だから。昔好きだった子にも何も言わなかったんだよ?」
「あいつは下僕だ。でなければ妹だ」
「この前と反対だね、面白い」
二人は度々こうした会話を繰り広げる。シェレ曰く『好きだった人』や『恋人』で、士英に言わせれば『妹』か『下僕』。誰か派閥外の女性のことを指していることは藍夏にも分かるのだが、深く訊ねることはしてこなかった。
そのほとんどが過去形で行われていることも、一因だろう。藍夏とて、自身の両親のことを喋るのは少し抵抗がある。
「知りたくなったら、言ってよ」
そんな内心を見透かすように、シェレが言う。
「許可はいらんぞ。……それより、俺は炎幻の話を聞きたい。生成系として見習うこともあるだろうからな」
「あんたは遠慮というものを知らないのか」
でも、まぁ。
「悪い気は、しないけど」
小さく、小さく独りごつ。
口の中で転がしたような声すら聞き取るほどの耳を士英が持つとは知らずに。
緋田夏。
武の派閥で幹部候補として数えられていた一人で、戦闘力は折り紙つき。かといって殴り合い一辺倒というわけではなく、頭脳戦や他の構成員との付き合いも上手かった。
二つ名は、『炎幻』。
文字通り、炎で幻を作ってしまう男だった。
暑い日に見える陽炎や、蜃気楼。熱というのは、――あくまで視覚的にだが――空間を曲げる力を持っているとされる。
夏は自身の呪いで、その幻を作った。
空間は揺らめき、物体はあるはずのところに見えず、ないはずのところに見える。
ただ幻惑させるだけでなく、夏はその幻を現実のものとした。
干渉系の領域にすら手を伸ばした、空間操作の力。
身を貫いたはずの剣は虚空を貫き、避けたはずの炎が身を焼く。生成系の域を越えた呪いに二つ名が与えられるのは、そう時間のかかる話ではない。
「紹介しよう」
藍夏の思考は、そんな言葉で掻き消えた。
「今更だが、私の従者たちだ」
伶衣が言い、足元に手を向ける。
「名前はヌイとクイ」
そこにいるのは二匹の大型犬。……か、もしくは狼。藍夏の知識ではどちらなのか分からないが、真っ黒な体毛と赤く鋭い眼光は、どちらにせよ恐ろしい。
「見た通り、影の子たちだよ。私の二つ名、『雷影』にも連なっている」
緊急の呼び出しに顔を出してみれば、用意されていたのは豪華な料理。支部長は今日も留守だが、エリスと伶衣は石の椅子に座って待っていた。
「ほら、士英。あんたも」
そう促された士英は、面倒臭そうに立ち上がる。視線はテーブルの上の焼き鳥から離れない。
「ちゃんとやったら、後でまた焼くから」
エリスの言葉で彼の瞳に強い意思がこもったのを、藍夏と海那は見逃さない。
「繰り返すが、俺の従者はこいつだ。正体は知らん。カノンさん曰く亜族で、契約も通用する。だが一般人に姿を見られたこともあるから、正直フルートと同じ類いかもしれない」
フルートというのは人名だろうか、と思った藍夏の元に、小さなメモが渡される。カノン、リリアン、フルート、他諸々。亜島の本部に身を置く者たちの概要だった。
「それから、俺は吸血種だ」
一瞬、ぽかんとしてしまった。
「吸血? 鬼? ヴァンパイア? まさか血を吸うの?」
海那が冗談半分、戸惑い半分で言った。恐らく、というか、絶対に理解していない。
「阿呆、特異個体だ」
士英が言い捨てる。
特異個体。生まれながらに、呪い以外の亜族的な力を持つ者たち。竜、鬼、獣、幻などなど大まかな分類の中に、それぞれの種がある。
先ほど士英が言った吸血種というのは、戦闘的なものが集まる鬼の特異個体の中でも特にずば抜けて戦闘向きの特異個体。
「確か……」
藍夏の記憶が正しければ、数ある特異個体の中でも純粋な運動能力に秀でていたはずだ。呪いでいえば強化系自己肉体強化に加え、一部の拡張系の力を備えたような種。士英の場合は、そこに生成系でも攻撃的な呪いときている。
「ええと、吸血鬼さん? 今、まだ日が出てるよ? あと、ほら、これ多分ニンニク! それに銀食器!」
「それ、銀じゃないからね?」
海那の発言にエリスがツッコミを入れるが、耳には届かなかったようだ。
「流石の吸血鬼でも、そんな古風な弱点を残したまま生き残れるわけないだろ。馬鹿か」
呆れ果てた声音。事実、亜族の支配層に連なる吸血鬼たちは昼でもこちら側にやってくる。
「一応、夜の間に力を使いすぎれば昼にバテるが、同程度の奴と本気の殺し合いでもしなけりゃ問題ない。それと、血は吸うぞ。血に劇毒を入れれば吸血鬼対策にはなる」
勿論捨て身だ、という士英流の冗談に笑いを返したのはシェレとエリスのみ。他は呆れている。
「さて、それじゃ、次は私ね」
まだもっと説明することがあるんじゃないか、と藍夏も海那も思ったが、エリスはそんなこと気にせず立ち上がった。
「呪いは拡張系、味の理解。一口食べただけで素材とか成分が分かる呪い。当然下等種。弱いよ」
以上、とばかりに、エリスは座る。
「え? それだけ?」
海那が声を上げたが、士英の「追い打ちはやめてやれ」という言葉で引き下がった。心なしか、エリスの目が濁っている。
「つまり、こういうこと?」
三人ともが自己紹介したところで、藍夏にも理解できた。
「至急の呼び出しは、先輩方の自己紹介のためだった、と」
呆れた。大いに呆れた。勿論そうした紹介というのは必要だろうが、そんなに不安を煽らずともいいだろうに。とはいえ、反応を見る意図があった可能性も否定できない。
流石に声には出さなかったが、顔には出ていたはずだ。藍夏を一瞥した士英が、「いや」と声を上げる。
「本題はこれからだ」
士英が笑い、伶衣が視線を逸らし、エリスが表情を曇らせる。
「状況は芳しくない。数で押せず、少数精鋭でも無理だと分かった武の派閥が今後どう動くか。鉄の派閥は一部が独断専行に走っただけだが、あの女の死が構成員に火を付けたという話もある。中立域は無視できるにしても、管理局の研究者魂は無視できん」
朗々とした声に気圧されながら、同時に、頭の底が冷えていく感覚に襲われた。
「春は終わった。寝起きだった連中の動きが激しくなり、これから夏も本番になる」
海那は「えと」とか「あの」とか何か言いかけるが、それ以上は続けられず、その度に目を伏せた。
「奴らを一掃するのは構わん。本当に必要なら代表たちが乗り出すだろうし、不要でもそうしたければ頭を下げに行く。だが、それは根本的な解決にならんだろう」
あれだけ不遜な士英だが、二人の代表に対しては謙虚だ。むしろ呆れるほどに力量差を認め、情けないほどに頼ろうとする。ある意味では賢い、と藍夏も思わないでもない。
「何が言いたいの、かな?」
海那はおずおず問うた。
「お前の呪いに興味がないといえば嘘になるが、それがなんだろうと、執着はしない。代表が意識し、大陸級派閥が欲しがる呪いに興味がわいているだけだ」
どう受け取るべきか、海那は元より、藍夏にも捉えきれない。
「狙われている理由、お前が自分自身を知らないという事実、そしてそれを理解した上で何が望むのか。重要なのは、その三つだ」
やはり分からない。しかし、すぐに答えを教えてくれるのだろう。
藍夏の期待に、士英は応えた。
「三つともどうしようもない今、海那、お前はどうしたい」
それから、藍夏の方を見やる。
「お前もだ。孤高を気取っていたお前は、その女と、そして自分に何を望む?」
「孤高なんて、気取ってないし」
反射的に言い返し、自問の渦に迷い込む。
「今すぐ答えろとは言わん。そんなのは無理だと知っている。だが、時間はない。……ならば、どうするか」
藍夏にも少しだけ状況が理解できた。この三人の中で最も立場が上のエリスは何も言わず、士英に立場、武力ともに並んでいる伶衣も口を挟もうとしない。
これは、士英が主導したことなのだろう。
「時間を作る、とか? でも、どうやって……」
藍夏の答えは、海那の思いでもあったはずだ。二人の視線を正面から受けた士英は、そして言う。
「逃げる」
当たり前だろう、とでも言わんばかりの表情だった。
時が過ぎるのは早いもので、そろそろ八月が目前に迫っている。
藍夏と海那が通う高校は夏休みに入っていた。課題は大量に出されたが、無視してもいい。最悪、士英に手伝わせる。何故か英語だけでなく外国語全般が得意らしい。社会や理科は比較的苦手なようだが、そこは伶衣が得意だった。上手い具合に頼れる。
ただ、それは最悪の場合だ。知識の差が勝敗を分けることもある。一見呪いとは無関係だからと蔑ろにはできない。
「忘れ物はない?」
横で大きな旅行鞄に頭を突っ込んでいる海那に声を投げた藍夏は、自分の鞄の中身も確認していく。
あの日からずっと、海那は本当に連泊していた。もう住んでいると言っても過言ではない。
アパートの家賃も携帯の利用料も学費も仕送りも親持ちだったはずだが、海那はその親からの連絡は一切ないと言っていた。本来であれば親失格だと切り捨てるところだが、今回ばかりは好都合だし、仕方ない一面もある。
「お土産忘れてた! 何か買わないと……」
リュックから顔を出した海那は開口一番叫ぶ。
「どこに行くと思ってるの? お土産なんて――」
「だからこそのお土産だよ? 礼儀はしっかりと、ね?」
二人は士英に連れられて、夏休みの間だけ列島を出る。士英たちの話では連邦という旧大陸に本拠地を置く世界最大級の派閥も動いているということだったが、主戦場はここ極東列島だ。物理的に距離を置くだけでもいくらか安全になる。
そして、向かう先は北北東、亜島だ。
亜島に空港はない。呪い師がやっている船に乗るか、長距離移動に長けた亜族に頼るか、いっそ亜族の道を通るか。士英は「どうせだし」と船を選んだと言っていた。
そこで何事もなければ、夏休みの終盤には西の環状列島に行く予定になっている。代表の一人、フランが住む土地だ。
ただ、両者とも注目と警戒の的である。隠居期間が長いため常に監視されているわけではないというが、表立って会うことはできない。そういう意味でも、正規の交通手段は使えなかった。
「ほら、そろそろ時間だよ」
藍夏が立ち上がると、海那も焦って続く。
「じゃ、じゃあ――」
まだお土産のことでも考えているのだろうか、と微笑ましく思った直後、その藍夏を中心に色が褪せていった。
『聞こえるか?』
いつの間にか耳元に現れていた蜂の羽が男の声を紡ぐ。
「玄六さん……いえ、支部長、なんですか?」
『どちらでも構わん』
蜂の姿をした亜族、雫虫の羽ばたきで答えたのは、その主人である支部長、嘉喜玄六だった。
『船が予定より遅れている。問題は起きていないが、万が一にも起こさないためらしい。多少遅れてもいいが、それでも三十分ほどだ』
それだけ言うと、藍夏の反応を待たずに、雫虫が羽ばたくのをやめた。世界に色が戻る。
「えっと、要するに、ゆっくりお土産買う時間ができたみたい?」
海那が困惑しながらも微笑む。
「日本っぽい食べ物がいいよね、やっぱり」
そう言いながら大きすぎる鞄を持ち上げようとして、……持ち上げられなかった。
「交代」
藍夏は自分の比較的小さな鞄を海那に差し出し、何を入れたのかと小一時間説教したいほど重い鞄を代わりに持つ。両手でもまだ辛い。
「亜島ってさ、どんなところなのかな」
藍夏の気を知ってか知らでか、海那が呑気なことを言い出す。
「私も、初めてだな」
甘やかしすぎだよね、と自嘲するも、改めようとは思えない。
士英は藍夏が孤高を気取っていたと言う。藍夏にそんな自覚はないし、不本意ですらある。でも、海那と一緒にいると何故かほっとして、今までどうして意地になっていたのかと思ってしまうのも事実だった。
「環状列島ってヨーロッパだよね? なんかすごいんだよね!?」
「観光はできないけどね。……でも、やっぱり本場のパスタは食べたいかな。あとピザ」
「藍夏の方が観光気分っぽい」
二人はしばし笑い合い、それから思い出したように、一緒になって声を上げる。
「お土産買う時間なくなっちゃう」
ドタバタと家を出て、鍵をかけるために戻ってきて、電気を消して窓の鍵をかけたか確認するためにまた戻ってきて、今度こそ出掛けたと思ったらまた玄関の鍵をかけ忘れて。
慌ただしく、しかし平和な一時だった。
最後の平穏ということもないだろう。
だが、当人たちが思っていた以上に貴重な時間だということは、間違いなかった。