五話 そして、彼女らは歩き出す
そもそも、地獄の番狼とは一種の特殊個体である。
本来は一般の狼と比較してもさほど変わらず、大きい個体でも虎やライオンよりは小さいのが三頭狼だ。
そんな三頭狼の中で際立って呪力を持つ個体や、それを制御できない個体だと、時折成長が止まらず、むしろ急加速し肥大化するように成長することがある。
その結果、大型トラックなどに近い体躯になった個体を、呪い師などは『地獄の番狼』と呼ぶ。
別称としてケルベロスというものもあるが、より低い確率で二頭狼も番狼化するため、あまり頻繁には用いられない。ちなみに、二頭狼の番狼も同じ由来でオルトロスと呼ばれる。
そして番狼たちは、群れに一体しかいない。番狼ではない普通の三頭狼をリーダーに据える群れもあるほど、番狼の個体数は少ないのだ。
だが、藍夏たちが見ているのは紛れもない現実だった。
前門の虎、後門の狼どころの話ではないだろう。前門にも後門にも虎を超える狼がいるのだから。
「海那、どうにか狼は抑えるから、走って逃げて」
今この状況で海那はそれほど敵視されていない、と藍夏は思う。勿論敵として認識され、隙あらば殺そうと迫ってはいるが、藍夏や咲川より優先するとは思えない。
ならば海那だけでも逃がすべきだ。犠牲者が三人か二人か。少ない方がいいに決まっている。
「藍夏、勝てるの?」
静かな声だった。悲しげでさえあった。
「邪魔だっていうなら、逃げるよ。私がいなければ藍夏が助かるなら、逃げる。でも、そうじゃないなら……」
それ以上、海那は告げなかった。
そして、それで十分だった。海那が逃げることはない。藍夏にも、海那を知らないはずの咲川にも理解できた。
「私だって呪い師なんだから。自分のことも分からなくても、呪い師なんだから」
それは鼓舞する声だ。
藍夏も、ようやく思い出す。今この状況を覆せるのは、海那しかいない。その海那とて確実ではないし、可能性としては期待するのも馬鹿げているほどだろう。
それでも、海那のまだ見ぬ呪いしか勝機をもたらさない。
「時間を稼ぐ。できる限り」
独りごち、咲川が吠えた。踏みしめる足が地面を砕く。肉体強化の呪いだ。
更に増した膂力によって振るわれた大斧は容易く狼を両断する。前方の番狼も吠え、突進する咲川の迎撃に回った。
「海那は私たちの間に入って!」
藍夏が叫び、二つ目の炎の渦を放つ。前は咲川に任せるしかない。体躯で優る後ろの番狼に向けて、螺旋を描く二重の炎を走らせた。
「グゥルルルル」
番狼は呻き、息を吸う。
直後、突風のごとき息吹が放たれた。片方の炎が散らされる。
「冗談」
藍夏が呆れて呟く。ただの息であれだけの炎を消すのは、流石に図体が大きいだけの三頭狼だと一蹴するわけにはいかない。そもそも呪力すら燃料にして燃える呪いの炎が一吹きで消えたことが藍夏には信じられなかった。
「上には上がいるっていうけど、番狼の上って、まだまだ大量にいるはずだよね……?」
地獄の番狼は亜族の中で中流に位置している。支配層とされる竜や吸血鬼などには劣り、どちらかといえば狼の軍勢と合わせて数で押す駒として数えられることが多い。個の力では竜に遠く及ばないはずだ。
だというのに、この圧倒的な力。人間の域を越えた呪い師を更に凌駕する化物たちが亜族なのだと痛感させられる。人間が相対することさえ間違いではないかと、嘆きたくもなった。
だが、それでも。
藍夏は炎を放ち続ける。
藍夏の両親は地獄の番狼と影の王に殺された。武の派閥と亜族による泥沼の戦争の果てに、弔い合戦の果てに死んだ。呪い師、亜族ともに、その最終決戦を生き延びたものはいない。
呪い師は貪られ影に沈み、亜族は斬られ燃え尽きた。
「同じ運命は、辿らない」
まだまだだ。あの時の父さんはもっと強い番狼と、もっと厄介な影の王と戦って死んだ。それなのに、今の自分は。
恨みさえ自身に向け、藍夏は怒りでもって鼓舞した。
「負けられない」
負けたくない、と言い添える。
「ゥオオオオッ!」
咲川も死に物狂いだ。この先に何かあるような口ぶりだったのを藍夏は覚えている。誰にも自分自身の目的があるのだろう。
「が、頑張れっ!」
海那はあわあわと慌てながらも声援を送っている。それ以外には何もしていないが、それだけで藍夏の力になった。派閥というのは、仲間というのはそういうことなのだろうか。
「あぁ、くそ」
攻撃が荒くなってきた。
すぐ横合いまで迫ってきていた狼の腹に回し蹴りを入れ、すぐ後ろにいた海那を掴んで大きく跳ぶ。藍夏が立っていた地面を番狼の足が踏みしめ、海那がいた虚空を牙が薙いだ。
「そこはお姫様だっこの方が……」
「はいはい、帰ったらいくらでもするからね」
言い捨て、そういえば海那は力がないな、とどうでもいいことを考えた。呪い師は、呪いの種類にかかわらず身体能力が高い。特異個体と呼ばれる者たちは更に常識外れの身体能力を持つことが多いが、その反対というのはあまり聞かなかった。
体育でも目立った成績がないどころか、平均以下の海那。それも呪いの影響だろうか。
そこまで回った思考を振り払い、眼前に迫った番狼の爪から逃げつつ炎を投げる。
番狼は表情一つ変えずに炎を受け、続けて踏み込んできた。
逃げるので精一杯だ。苦し紛れに放つ炎も拳に蹴りも、守るための攻撃でしかない。これではいつまで経っても終わらないし、下手をすれば本当に『終わって』しまう。
「咲川、そっちだけでも片付けられる?」
「可能性はある。だが、私とお前以外に囮役がいれば、だ」
それは可能性がないということだ。
海那が何か言いかけたが無視し、藍夏も考えを巡らせる。
管理局の端末が頭に浮かんだものの、あれは一方通行だ。発信手段としては使えない。では携帯電話はというと、そもそも色褪せた世界は電波も遮断する。
狼煙など持っているわけもなく、あるとすれば呪いの炎か。ただ、それで誰かが来てくれるなら既に来ている。誰も向かってきていないことはないだろうが、いつ到着するかは分からない。
万事休す。
それ以外の結論に辿り着けない。
「いっそ逃げる?」
どうやって、と更に自問する。
そう考えている間にも、番狼は暴れ回った。藍夏たちが逃げに回らざるを得ないせいで戦場も少しずつ移動している。このままでは稼働中の工場にも被害が出るかもしれない。
まぁ、そんなこと言ってる場合でもないんだけど。
藍夏は内心でそう自嘲し、前に踏み出た。周囲を回らせて有象無象の狼たちを蹴散らしていた炎から呪力を吸い戻す。消えた炎に代わって、番狼に炎の奔流が迫った。
「これでも高等種やってんだよ」
形振り構ってなどいられない。この隙を狙おうと迫ってきた狼たちは、しかし噛みつけるほど近付きはしてこなかった。
髪と服が焦げ臭い。海那も暑いというより、熱そうな表情を見せている。
遠からず自滅するにしても、今でないよりマシだと割りきっていた。一秒でも稼げば、何かが変わるかもしれない。
と、その時。
「グャウっ」
背後で聞き慣れない声がした。
一瞬だけ振り返ると、咲川が抑えていたはずの番狼が、燃えている。そんなところに炎を向けたつもりはないし、その余裕もない。
それは、つまり。
「いやぁ、ねぇ?」
少女の声だった。
「黙れ、焼き殺せ」
次は男の声だ。
嬉しさと安堵から笑みをこぼし、どこにいるかも分からない呪い師に向けて口を開いた。
「助かる。まずはそっちを――」
言い終える前、絶叫が響き渡った。
眼前で、藍夏を追い詰めていたはずの番狼が大量の血を流している。胴体を数十、三つある頭もそれぞれ十か二十の刃が貫いていた。
「まずはそっちを、なんだ? まずはそっちを殺せ、とでも言いたかったか? 馬鹿馬鹿しい」
声の主は番狼の頭上にいた。細い刃の上に立ち、背や腕から数えきれないほどの刃を伸ばしている。
「こんな雑魚相手に、何を死にかけているのか」
男は笑った。嘲笑にも近い。
「お前は――ッ」
咲川の怒号。
「あぁ、貴様は善戦した。あとは死ぬだけだったが、命拾いしたらしいな」
恐らく、藍夏はその男を知っている。
生成系、刃。高等種の中でも際立った力を持ち、たった二人で武の派閥を翻弄する無名の派閥戦闘員の一人。
剣戟の亡者。
「いや、でも、勉強になったよ? 炎ってああやって使うんだね。シェレにはまだ使いこなせないなぁ」
少女の声は、男のすぐ後ろからだった。地に伏した番狼の死体の頭に降り立った男の後ろで座り込んでいる。小さな手は指揮者の真似をするように振られ、呼応するように炎が吹き荒れた。向こうの番狼は、もう悲鳴の一つも上げない。
「馬鹿げてる」
思わず呟いていた。
「あぁ、そうだとも。呪い師とは馬鹿げたものだ。化物たる亜族と渡り合う人間、それが呪い師だろう?」
冗談じゃない。あまりに常軌を逸している。
反射的にそう思ったが、しかし、と藍夏は感情を翻した。
「助かった。感謝する」
助けられたのは、事実だ。言動に不遜な色はあるが、今のところ害意は見えない。
「素直なのはいいよね。ええと、藍夏ちゃん」
少女の方が満面の笑みで言った。
「あ、ありがと!」
その少女に海那が笑いを返す。
「おぉ、良い子だよ、あの子。ねぇ良い子!」
少女はきゃっきゃと嬉しそうに跳びはねる。死んだ頭の上で。
「お前たち、何をしに来た」
と、唯一敵意を見せているのは咲川だ。藍夏も安堵から一転、不穏さに気付く。
何かあるのは分かっていたが、まさか。
藍夏は思い出した。
無名の派閥との争いでは、鉄の派閥からも被害は出ている。
「緋田と水面、お前たちには名乗っておく」
男が朗々と声を上げた。
「無名の派閥所属、枝園士英だ。剣戟の亡者という二つ名を貰った」
「シェレはシェレ。士英の従者。うん、よく分かんないけど炎使えるよ」
ほとんど確信に近かった予想が事実だと証明される。
しかし、士英は無名の派閥と名乗った。藍夏はそこに違和感を抱いたが、それどころでもないらしい。
「さて、どうする? 女」
士英はなおも笑っている。刃が空けた穴から血が流れ出し、周囲の狼たちも逃げたか絶命したか、生きている狼は見えない。代わりに、腐肉食の亜族が顔を出してきた。
「殺す。今すぐ」
言い放ち、女は大斧を掲げる。肉体強化は施されたままだが、番狼との戦いで負った傷は癒えていない。
何より。
「どうやって……? 相手は、私たちが倒せなかった番狼を――」
それ以上は言えなかった。咲川の憤怒の一端を垣間見てしまったのだ。
あれはもう、殺せるかどうかなど考えてはいないのだろう。殺すために戦う。それしか頭にないように見えた。
「愚かだがな」
士英の声に嘲る色はなかった。
「お前はどう思う? どうするべきだと思う?」
続いて、藍夏に視線が向けられた。だが、それに対する答えなど藍夏は持ち合わせていない。
「……」
沈黙する。
工場跡を、小さな腐肉食の亜族が蠢き這い回る音だけが包んだ。
「決まってるよ。戦うしか、ないじゃん」
そう答えたのは、海那だった。
「助けてもらったけど、戦いなんて嫌だけど、人が死ぬのなんて見たくないけど、だって、それしか……」
意外だ、というのが、藍夏の正直な感情だった。
「シェレ、二人を頼んだ」
士英が優しい声で言う。シェレは頷き、藍夏と海那の方に歩み寄った。
「少し、避けてるよ。大丈夫、すぐ終わるから」
番狼の頭から、士英も降りてくる。
二つの死体に挟まれ、無数の亜族と死体に囲まれ。
十重二十重の刃と、三日月型の大斧が衝突した。
×××
時は少し遡る。
「なんでしょうか、支部長」
石に囲まれた部屋で声を上げたのは士英だった。
「あの方からの呼び出しだ」
支部長と呼ばれたのは、頭髪が灰色に染まった初老の男。
「フランさんの方ですか? 珍しいですね、この頻度は」
以前亜族の世界で話した時から、まだ一ヶ月も経っていない。これまでは支部に対する指示すら二ヶ月に一回あるかどうか、個人に対する言葉など半年に一回あれば多い方だった。
ちなみに、無名の派閥の支部は極東列島に一つあるのみ。あとは亜島と環状列島に一つずつ、カノンとフランがそれぞれ本部だと主張するものがある。
「ともかく、呼び出しだ。入れば分かると仰っていた」
「ということは、環状列島ではなく亜族の世界ですか。何度も何度も怖いところに呼びますね」
そんな言い草に初老の男は眉をひそめたが、それ以外に反応はなかった。
「シェレ」
士英が呼ぶと、シェレがどこからともなく傍らに現れた。呪い師と亜族の間で交わされる『契約』の中で最も繋がりが強いものを二人は結んでいる。この程度のことは朝飯前だ。
「また頼む」
「そんな顔して、本当はシェレと手を繋ぎたいだけ――」
「黙れ」
「はいはい」
二人は手を繋ぎ、次の瞬間には闇の中に立っていた。
闇で待つこと一分弱。
足音こそ聞こえなかったものの、明らかな気配が近付いてきた。
「珍しいですね」
先に口を開いたのは士英だ。
「状況が状況だ。仕方あるまい」
闇の向こうに立つ者は答えた。女の声、フランだ。
「列島の状況は知っている。旧大陸では連邦まで動き出している。他はまだ動いていないが、時間の問題かもしれない」
フランの声は淡々としていた。カノンと話す時とは比べ物にならない。
「カノンから支部に出されている指示を言ってみろ」
「水面海那の安全の確保です」
士英はけろりと言う。
「最近は炎幻の娘も一緒ですね。運が良いのか悪いのか。俺たちからすると、まぁ運が悪いことになりますか」
さして感情もこもっていない声。代表からの指示である以上、何かしら裏があることは分かっている。だが、その内容までは士英もまだ知らない。ならば熱くなる道理もない。
精々、その過程で起きる他の派閥との小競り合いで暇を潰せる程度。
「対象を連行しろ」
唐突と言っていいのだろうか。フランは言い放った。
「手段は問わん。これが私からの命令だ」
「命令、ですか」
にやりと笑う。
「手段は問わない、ということは、それがどのような状態でもいいわけですね?」
「あぁ」
そこでフランの気配が消えた。
「シェレ、帰るよ」
言うと「もう?」という声が返ってきた。
「なら、もう少し後でもいい。あいつらとて、三十分は持たせられるはずだ」
×××
三日月が宙を舞う。
鎧には幾本もの刃が刺さり、幾重にも血の小川を作っている。
「……っ」
喉さえも貫かれている。声は出ない。
「これで満足か? 果たせもしない復讐に命を散らし、仲間の元に逝く。それで満足か?」
冷えきった声にも、答えは返されない。返せない。
高く高く舞っていた斧の破片が地に落ちる。膝をついた咲川の前に、それは落ちた。
それを見たからだろうか。血ではない小川が生まれた。
「終わった……?」
海那の声が小さく、小さく鳴った。
「終わったよ、終わった。もう、終わっちゃった」
藍夏の声も震えている。何もないはずだった。咲川も士英も、助けてはもらったが、それ以上の何物でもないはずだ。
それなのに、何故だか胸を衝くものがあった。
「お前たちは、どうする?」
士英の声は変わらず静かだ。表情も静かで、嘲笑さえ浮かんでいない。
「それは、どういう……?」
まさか戦うか、などと問うているわけではあるまい。
そうは思ったが、藍夏は士英を知らなかった。否定するだけの材料もない。
「今回の件で思い知っただろう? 自分たちの無力さを。庇護下になければ、いつ死んでもおかしくないことを」
辛辣な言葉だった。だが事実で、言い返せない。藍夏には言い返す気もなかったが。
「なら、どうしろって? まさか」
「あぁ、うちは歓迎する。無名の派閥に来い」
士英はあっさりと言い捨てた。藍夏の傍らで、シェレが何度も頷く。
「同じ戦争中の派閥なら、無名より武に入った方がマシ。鉄でも管理局でもいい」
今まで派閥に入るという選択肢を取らなかったのは、後悔こそないが失敗だったと藍夏は思う。
だが、だからといって。
「鉄の派閥か。どうして、こんなところに元は鉄の派閥にいた女が来たと思う? 俺を追っていたはずの女が、何故無関係の無所属に助太刀する?」
問い詰めるような言葉。静かだった表情に笑みが差す。
「データベースには未だに水面のことが載らない。呪いが分からずとも、名前だけでも載せられるのが常だ。それなのに、まだだ。それは何故か? 分かるはずのことがまだ分からないから、保留せざるを得ないんだよ」
藍夏には何か違和感があった。有名でもないはずの海那を知っている。
焦って端末を出して、調べる。名前では出ず、更新履歴からも漁った。だが海那に関する項目はない。主に情報で食べている管理局にしては、遅すぎる。
「何が、言いたい?」
海那もシェレも黙っていた。士英が笑みを向け、藍夏が睨みを返す構図だ。
「誰が味方かは言うまでもない。お前たち互いだけが味方だ。なら、敵は誰だ?」
無名の派閥というのは、ただ勝手に戦争をしているだけだ。勝手に戦争をしているというなら、武の派閥も変わらない。そこに藍夏たちとの関連性はないと思っていた。
それなら、敵などいないはずなのだ。なのに、藍夏は無意識のうちに無名の派閥を警戒していた。漁夫の利を狙う他の派閥も同様に警戒していたと言える。
では、敵とは誰か。
本来、藍夏の考えであれば、敵などいないはずだった。そもそも戦争とは無関係なのだから。
「戦争した理由を教えて」
「武力をもって接触してきた。武力で返さずどうする」
単純明快。
「じゃあ、どうしてここに来たのか教えて。無関係のはずの私たちを、どうして助けたのか」
答えてほしくはなかった。無関係だと、あるいはそこに咲川がいたからだと言ってほしかった。
「代表からの指示だ。水面海那を保護するために、闖入者と鉄からの刺客を排除したまで」
最悪の事態ではなかった。だが最悪から数えて二番目の事態ではある。
「海那に、何が……?」
すがるような声だった。本人すら何も分からないのに、周りが知っている。周りだけが動いていく。
それがどれほど気持ち悪いか。
「俺も知らん。だが、代表には心当たりがあるらしい。他の派閥の上層部も同じ見当を持っている。武も鉄も、全面的ではないにせよ貪欲な連中が狙っているはずだ。管理局と中立域は静観している。もう分かるか?」
二体目の番狼が現れた時、絶望の片鱗を見た。
そして今は、片鱗どころではない。
「全てが、敵? 敵じゃないにしても、味方じゃない」
口に出してから、失敗したと思い至る。当事者は藍夏ではないのだ。当事者は海那で、藍夏はそこに偶然近付いただけの第三者。
なら、当の海那の心情は藍夏に想像できるはずもない。
「夜の王を知っているか?」
「え? それは、勿論」
夜の王。それは藍夏が知る限り、北の亜島で準大陸級――これは武力のみが大陸に通用するという区分だ――の地位にいた『王家』を自身と従者のみで壊滅に追い込んだ超級の呪い師だ。
今はその亜島で隠居していると聞いていた。
「彼が俺たちの代表の一人だ。彼からの指示で、俺はそこの女を保護する。嫌なら逃げろ。嫌でなければ、こちらに来い。どちらにせよ、守ることは変わらん」
何故、どうして、なんで。
渦巻く疑問に終止符など打てない。
「ねぇ、藍夏?」
混沌とした思考の中に、海那の声が染み渡る。
「私にもよく分からないけど、藍夏を巻き込みたくはないよ。だからさ――」
海那は息を吸った。吐いて、更に吸って、また吐く。
「だからさ、どっちの方がいいか、教えてほしいな。無名っていうのと、他のところと。どっちの方が、藍夏はいいと思う?」
あぁ、と藍夏は納得した。
海那は親のもとから逃げてきたのだ。生まれてからずっと違う世界を見てきて、誰とも世界を共通できず、生きてきたのだ。
両親に理解があって、同じ世界の人間とだけ生きてきた藍夏などより、ずっと慣れているのだろう。
「それとな、炎幻の娘」
士英は笑った。楽しそうな、心の底から喜ぶような声だ。
「うちでは亜族殺しに文句は言わない。俺も亜族だって呪い師だって殺してきた。だから殺し合いは日常茶飯事だが、お前、そういうのは嫌いか?」
退路を塞がれたのだと、藍夏はようやく理解した。
「なら、どうしろって……」
もう、考えたくもなかった。
全てが敵。敵じゃないと自分から言ってくる奴なんか信用できない。助けてやると言われれば、裏があるのが常識だ。
藍夏は乾いた笑い声を漏らす。
「まずは飯でも食ったらどうだ? うちに料理が上手い人がいる。エリスさんっていうんだが、知っているか?」
「知ってるよ。無名の派閥の非戦闘員。あぁ、もう。それも勧誘じゃんか」
横を見る。
海那は笑みを向け、答えを待っていた。
「美味しい料理、食べよっか」
諦めると、藍夏は身体中から力が抜けるのを感じた。痛い。噛まれたところと、引っ掻かれたところと、自分の炎で焼けたところと、あとは呪力の消耗で全身が痛い。
腹も減っていた。頭も疲れきっている。
ただただ、横で海那が笑っていてくれることが、嬉しくて、有り難かった。