四話 炎と斧と狼と
海那の転校から一ヶ月ほど、そろそろ初夏と言って差し支えない時期になる。
武の派閥は戦争の終了を宣言せず、未だ戦争中という構えを崩していない。
鉄の派閥は武の派閥ほどではないにせよ被害が出て、部分的な敵対を認めた。
しかし、名前通り中立を掲げる中立域は、自らに被害が出ていないことから静観を貫いており、管理局はあくまで調査という建前を崩さずに第三者として時には戦闘も容認している程度。
極東列島の四大派閥のうち、積極的に争う姿勢を見せているのは武の派閥だけだ。
それでも、騒ぎは徐々に大きくなってきている。
「中小の派閥は漁夫の利を狙うってわけじゃないけど、少し活気づいてるね。好戦的な剣の派閥なんかは独自調査に乗り出して、反対に消極的な鳥の派閥はいつも以上に静か」
休日だというのに、……いや、むしろ休日の方が、藍夏は忙しい。平日なら学校という集団の中に、勉強という言い訳に逃げ込める。
「どうして武の派閥が戦争をしているのか。無名の派閥を調査するために向かった部隊が壊滅させられたから。ただ、いくら武の派閥でもそれだけで全面戦争を始めるとは思えない。相手は未だに四人しか出てきてないのに」
藍夏は半ば独り言として分かっている情報を並べていく。
「それに、無名が武を殲滅した理由も分からない。管理局の調査隊も一蹴してるから、何か探られたくないことがあるのか。それとも、敢えて喧嘩を売ってるのか」
その流れでちらりと視線を流すと、一瞬だけ目が合った相手、海那はびくりと肩を震わせた。
「ええと、何か狙ってるものがある、とか? 相手より先に取らなくちゃいけないから、戦争してでも倒しておく、みたいな」
おずおずと言った海那に、藍夏は「それもあるね」と頷いてから、「無理に意見出さなくてもいいからね?」と優しい声を作る。
「でも、やっぱり、無名の派閥の方に争う目的があるって考えるのが妥当だよね。表向きは先に手を出したのが武の派閥でも、内容からすると無名の方が実質的な先手になる」
管理局をはじめとした四大派閥――もっと言えば列島級程度の中規模派閥――による調査というのは珍しくない。特に新しい派閥となれば、少なくとも管理局は黙っていないだろう。
そうした意味では、あまり快いことではないにしても、調査というのはあらかじめ予想できることだ。それを上手く受け流すわけでも、いっそ逃げてしまうわけでもなく、迎撃し殲滅した。
藍夏はそこに違和感を覚えたのだが、逆に言えば、それ以上は何も分からない。
「でも、私たちって無所属だよね? 大陸級とかいうおっきな派閥の戦争に関係あるの?」
海那はのほほんと声を上げた。
「あるよ、勿論。……ていうか、当事者を除けば、私たちみたいな無所属が一番危ないから。守ってくれる後ろ盾がないから、形振り構わず巻き込んでくる連中もいる」
そうじゃなくても、私は目立っちゃってるから。
そう締めた藍夏は、首を振ってコップに手を伸ばす。先ほど入れたつもりだった麦茶は、もう生温い。
「炎幻さん、だっけ? 藍夏のお父さん」
「そ。武の派閥の構成員だったんだよ」
炎幻というのは、勿論氏名ではない。藍夏と同じ生成系炎の呪いを持っていた父、緋田夏は、炎幻という二つ名で知られていた。
生成系は比較的単純な性質で、炎なら炎を出現させて操るだけだ。
しかし夏は、その常識を粉々に打ち砕いてしまうほどの力を誇っていた。武の派閥で幹部になれなかったのは、ならなかったからだ、とも言われる。
「父さんの呪いは、まぁ、真似できないかな……」
同じ呪いで高等種になった藍夏でも、まだ遠すぎる。
「その武の派閥が、今は戦争してるんだよね?」
海那は不安げに問うた。
「武の派閥は戦争好きなんだよ。五年に一回は戦争してる。それに、父さんも母さんもいないなら、武でも鉄でも関係ない。ただの関わりのない派閥その一、その二」
言い捨て、藍夏は立ち上がった。まだ暑くてどうしようもない時期ではないが、生温い麦茶は美味しくない。氷でも入れた方がいい。
「私、どうすればいいかな。まだどんな呪いなのかも分かってないし」
一ヶ月が過ぎようとしている今になっても、海那の呪いは一度も見える形で出てきていない。単に地味な呪いだから気付けていないだけなのか、幸か不幸か一度も呪いが発動するような状況になっていないのか。
ともかく、ただ呪い師と亜族の世界に巻き込まれるというだけで、あとは無力な一般人と変わらないのが今の海那だ。
「まぁ、あまり人が集まることには行かないこと。人が寄り付かないところにも行かないこと。できれば家から出ないこと」
冷凍庫で巨大な塊と化した氷と戦いながら、藍夏は答える。
「……ねぇ、藍夏?」
海那の声には期待の色が混じっていた。たった一ヶ月の付き合いでしかない藍夏にも分かる。
「泊まりたい時は泊まりに来ればいいよ。……ちゃんとお泊りグッズ持ってくれば」
質問を先読みして答えると、海那はにぱっと笑った。満面の笑みとさえ言えるだろう。
「じゃあ今日から戦争が終わるまで泊まるねっ!」
これは嫌とは言えまい、とでも言いたげな満足顔に苦笑する藍夏。
「一人暮らし、寂しいの?」
「当たり前じゃん!」
まぁ、今でも三日に一回は泊まりに来るんだけど。そのまま二泊することも多いんだけど。
そう思う藍夏だったが、無論、嫌ではなかった。
わざわざ籠城する立場にはない。
しかし迂闊な行動も控えるべきだ。
そう考えていた藍夏だったが、それなら何故、こんな状況に陥っているのだろうか。
「グァルルゥ」
列島ではあまりに非日常的な、狼の唸り声。それも一つや二つではない。
背後は取らせないようにしているが、扇状に狼が並んでいる。その数は、二十前後。全てが藍夏に敵意を見せている。
そして、その藍夏の足元には煌々と照る炎。これは藍夏が自ら出しているものだが、攻撃というよりは防御のためだ。
今は姿を見せていないものの、ここには狼型以外の亜族もいる。
影食いと、影縫い。合わせて影の子と呼ばれることが多い奴らの習性は分かりやすい。
両者とも種として共通の姿は持たず、個体ごとに何かしらの動物の姿を持っている。生き物の影を食べて生きるのが影食い、影食いに食べられた影で遊ぶのが影縫い。
片方だけならば無視しても問題ないほど危険度が低い亜族だが、両方揃うと厄介だ。
影食いは影を食べ、影縫いは肉体と影の関係を逆転させる。
例えば影食いによって腕の影が失われた状態で影縫いと遭遇すれば、影縫いの悪戯によって本体からも腕が失われてしまう。そこには呪いの力や頑強な鎧など関係ない。
だから、藍夏は足元を炎で照らしている。動き回って安定しなかったり、薄かったり、小さかったり。影の子たちはそういった影を好まず、本領を発揮できない。常に影を揺らめかせてくれる炎は効果的だった。
かといって、それで万全というわけでもない。
なんせ今回は、影の子の他にも狼がいるのだ。
「ただの偶然って考えるのは、まぁ楽観的すぎるよね」
亜族の習性というのは未だに解明されていない。影の子と狼が一緒にいるのはあまり見ないが、前例は数多くあったはずだ。
ただ、こうも連携して一人の呪い師を襲うだろうか。
藍夏は思考を巡らせたが、結論は出なかった。
「目立たず、騒がせず、さっさと、片付ける」
小さく言って、呪いを意識する。
狼の群れの只中で、渦巻く火柱が爆ぜるように立ち昇った。
事の発端は一時間ほど前に遡る。
管理局が主導しているデータベースだが、単独では情報量に限界があると考えられたために、早い段階から中立域との共同で提供されてきた。
その中立域が掲げる『中立』は生半可ではない。いかに管理局とて出し抜くことはできず、時には管理局自身が不利になるような情報さえ、データベースに載せられることがある。それは中立域とて同じだ。
そんなわけで、データベースの情報確度は信用できる。
だが、情報の速度は現代のインターネットなどに一歩劣っていた。裏取りや何やらで時間を取られているうちに状況が変わってしまう、というのは、戦争中には間々ある。
それに、勿論、インターネットに呪い師や亜族の情報など載せられない。載せた瞬間に削除されて、載せた呪い師も次の日には消える。
そのため、新鮮な情報を集めるには自分の足で歩くか、情報で飯を食べている一部の層に頼るしかない。
藍夏は前者を選んだ。
運悪く、戦争の主戦場は藍夏が住んでいる地域の周辺だった。
無名の派閥に二人いる戦闘員の一人は『赤衣の雷影』という二つ名で呼ばれている。特徴から推察するに、一ヶ月前の下校途中に見かけた女だ。目に見えるほど近くで戦争が行われているというのは、疑う余地もない。
闇雲に歩いたところで効率は良くないが、それでも歩かなければ始まらないと自分に言い聞かせ、藍夏は家を出た。
そして、しばらく歩いて人気のない工場区画に来た時のことだ。
ふと見かけた狼型の亜族に違和感を抱き、数瞬立ち止まった。今なら藍夏にも分かる。一も二もなく走り去るべきだったのだ。
五分とかからずに退路を塞いだ狼の群れが藍夏を威嚇する。
その影の中で蠢く影の子を見つけ、事態の不自然さを確信したのが十分ほど前だ。
しばしの膠着の後、藍夏の爆炎によって動き出した戦場には、少なくない血と吠え声が散っている。
「ルルゥウウウ」
狼の脇に蹴りを入れ、即座に跳んで距離を離す藍夏。
自身の影に炎を放つと、中から焼けただれた何かがでろりと出てきた。影の子は大人になる前後に潜んでいた動物から肉体を奪うことで成体となる。これも以前はあちら側、色鮮やか世界の住人だったのだろう。
「でも、悪いけど、亜族に敬意なんか払わないから」
影の子と狼。奇しくも、忌々しい組み合わせだ。
あの時の敵は、影の子たちを率いる影の王と、二頭狼や三頭狼を率いる地獄の番狼だったという。
「それに比べれば、これくらい……!」
藍夏の戦いは鮮やかだった。生成系の本分である遠距離戦闘にこだわらず、むしろ自ら接近して肉弾戦に持ち込むことすらある。流石に強化系には及ばないものの、呪い師である以上、常人離れした身体能力は備わっていた。
蹴りと殴打に織り交ぜて、あるいは距離を置いて一息ついた時に、はたまた隠れ潜んだところへ、炎は放たれる。
生成系は一対多の戦闘に向いた呪いだ。強大な一体を相手取る場合は強化系に譲るものの、個の力ではなく数の力で押してくる相手に負ける道理はない。
一瞬の隙に、周囲を見回す。乱戦に持ち込んだせいで細かい数の把握が疎かになっていたが、死体の数は最初に見た敵の数に近付いている。
眼前に長い腕を持つ猿が飛び出してきた。猿は藍夏の顔に手を伸ばし、瞬時に焼かれる。と同時に、足元で炎が吹いた。藍夏の影からは同じ見た目の猿が現れる。それは死んでいた。
姿からは断定できないが、一体目の猿も影の子だったのだろう。捨て身の陽動だ。
「今ので影は最後か」
もう影の中に気配はない。遠く離れたところにいるのなら分からないが、それならそれで接近するのに時間がかかる。
今は無視して大丈夫だろうと判断し、藍夏は残る狼に鋭い視線を向けた。
「人間の言葉、理解できる?」
行動に移そうとしていた狼の動きが一瞬だけ止まる。藍夏はその一瞬で頭の中を整理し、作戦の組み直しに入った。
「これ以上は無駄な気がするんだけど、まだ逃げない? それとも、自殺志願?」
伝わるかどうかも分からない無駄話に時間を費やすくらいなら、さっさと殺してしまいたい。そうは思うが、何か裏があるという疑いは忘れていなかった。
「……グォル」
狼の一体が小さく吠えた。
残るは三体。何も裏がなければ、危なげなく終わらせられる。
「クォーンっ……!」
やはり、裏があるのは確実だろう。
先ほど吠えた狼が遠吠えをしたと思ったら、他の二体も同じく吠える。それを繰り返すばかりで、三体とも藍夏に攻撃しようとはしない。
「先手必勝、……なんて、言えないか」
独りごち、藍夏は大きく後ろへ跳んだ。
それとほとんど時を同じくして、跳んでくる影があった。
稼働しているのかいないのか分からない工場を軽く跳び越え、それは地を踏みしめる。
鋭く巨大な牙が並ぶ裂けた口は三つ。その後ろには六つの目に、三つの頭、そして三つの首が一つの身体に続いていく。
狼と言うには大きすぎる。
しかし、大きさを除けば狼としか呼べそうにない姿。
三頭の狼。
だが、三頭狼とはもっと小さな個体を指す。これほど大きく成長した、――いや変異した個体は、別の名で呼ばれてきた。
「地獄の番狼、ケルベロス」
神話由来の名を持つそれは、狼型の亜族を統べる狼の王たる存在だ。その大きさは個体差があるものの、眼前にいるものなら、人より車や建物と比較した方が分かりやすい程度には大きい。海那の住んでいたアパートよりは小さいが、体当たりで容易く破壊できるだろう。
「ルァウ。ルゥ、ルゥア」
番狼が三つの首をそれぞれ振りながら声を漏らす。周囲の狼たちが呼応するように跳び跳ねた。その後ろ、工場の陰からは新手の狼も這い出してくる。
「……流石に、まずいな」
逃げるか。
こういう時の即断は藍夏の長所だ。放った当人すら目が痛くなるほどの炎を撒き散らし、藍夏は番狼から目は離さずに走り出す。
生成系は一対多に向いた呪いだ。強大な一体を相手取るのは強化系に譲る。
「いつかは戦ってみたいけど、それは今じゃない」
言い訳するように工場跡を走り抜け、すぐさま細い路地に逃げ込む。
追ってきた狼たちに逃げ場のない炎を投げ、更に走る。走る。走る。
そろそろ狼の姿が見えなくなったかという頃、地響きのような音が轟いた。眼前に番狼が降り立っている。
「……こんな焦げ臭さじゃ関係ない、と」
呪い師と亜族が生きる色褪せた世界は、色鮮やかな世界と物体を共有している。しかし、完全に一致しているわけではない。色褪せた世界では色鮮やかな世界によって作られた物に対する影響力が著しく低下するのだ。
例えば、建物などを破壊するには色鮮やかな世界で破壊する以上の力を必要とする。それは延焼も同様で、そもそも燃えやすい物が少なかった工場跡では、番狼の嗅覚を誤魔化すほどの臭いを発するには至らなかったというわけだ。
「……仕方ない」
諦め、ため息をつく。
「今ならまだ、一対一。高等種を、呪い師を舐めたらどうなるか――」
自身を鼓舞するような言葉は、最後まで続かなかった。
「藍夏!」
横手から、ここでは聞きたくなかった声が響いたからだ。
どうして。
どうして、海那が。
高速で回る思考をかなぐり捨て、藍夏は声がした方を見た。
「なんでッ!?」
「いや、だって、なんかすごい亜族が出てきたって速報流れたから教えようと……って、あれ? ええと――」
海那は崩れた塀を挟んだところにいた。元は別の工場があったのだろうか、ほとんど目隠しにもならない塀を挟んでいるだけで、それなりに開けた場所だ。
「ごめん。なんか、ごめん」
ひょこっと塀の高いところに隠れたが、もう遅い。
「グルォオオオオオ――ッ」
番狼の咆哮。この数十秒のうちに狼たちも追いつき、藍夏を緩く包囲した。海那にもいくらかの狼が回っている。
逃げるには、形振り構っていられないかもしれない。
藍夏はそう考えたが、すぐに改める。
「形振り構わずやっても、どうにかできるかどうか」
思わず弱音が漏れる。
無所属の呪い師にとって、何より重要なのは自己防衛だ。自分を守るためなら手段を選ばないし、勿論、ある程度の力量差があっても自衛できる策は練っておく。
だが、それは全て一人の時の話だった。
今は海那がいる。
家から出ないように言っておいたのに、と頭を抱えたくなったが、危機感が足りなかったのは自分も同じだ。そのくらいの客観視は藍夏にもできる。
「どうすれば……?」
何を思っているのか、狼たちは動かない。少しずつ包囲を狭めてはいるが、警戒しているにしても遅すぎる。亜族なりの考えがあるのは間違いなかった。
「なら、やっぱり」
周囲の狼を一掃する程度の炎は操れる。距離的に海那も巻き込むことになるが、それなりの火傷で済むだろう。呪い師なら、色鮮やかな世界に戻る時にある程度傷も消える。
謝る言葉は考えなくちゃいけない。嫌われるかもしれない。
それでも、と藍夏は覚悟を決め、呪力を集中させる。下っ端の狼はともかく、番狼は気付いただろう。
問題はその番狼だ。今はまだ積極的な攻撃を見せていないが、逃がしてくれるつもりはないらしい。
しかし、それでも策がないわけではなかった。
藍夏だけで仕留めたり逃げきったりすることはできなくても、街に連れ込めば嫌でも他の呪い師が寄ってくる。比較的亜族を相手取ることが多い武の派閥か、一般人を含め治安維持を意識する鉄の派閥。どちらでもいい。恐らく、どちらも構成員を差し向けてくる。
それに、海那は速報が流れたと言っていたから、既に番狼のことは知られているはずだ。海那が到着したことを考えると、他の呪い師が来てもおかしくない。
そこで一旦思考をやめ、藍夏は目を閉じた。
一瞬の後、目を開いた藍夏は集中させていた呪力を炎として放とうと目を開けた藍夏は、それを見た。
上から、三日月が降ってきたのだ。
三日月の大斧。
足の先から首元まで、顔は見せているものの頭も覆った全身鎧。胸元にある歯車の翼を持った竜の紋章は爪痕のような線で消されている。元は鉄の派閥の呪い師。今は離反者ということか。
「緋田藍夏。私はお前を知っている」
女は冷たい声で言った。
落下とともに振り下ろされた大斧は番狼の右首をかすめたが、反撃に右前足の一撃を向けられて少し藍夏の方に近付いている。
「そちらは……?」
「咲川。今は無所属だ」
藍夏も聞いたことはなかった。
しかし、身の丈を超える大斧を軽々と振り、番狼相手に一切引いていないところを見れば、その実力も想像できる。
恐らくは強化系の自己肉体強化。呪いの相性もあって、藍夏では運が味方につかないと負ける。
「一応聞こう。状況は?」
「……分からない。最初は影の子と狼だけだったけど、今ではこの通り。動きからして、あの影の子も番狼の手下だったと考えた方がいい」
番狼は狼型の亜族を率いるのみで、亜族の中でも立場はそう高くない。また影の子といえば影の王に率いられるのが常で、番狼の下で戦うというのはあまり見かけない光景だ。
「了解した。共闘願えるか?」
「勿論」
咲川の背中に頷きを投げた藍夏は、塀の向こうに視線を向ける。
「海那は少し離れてて。今一人で行くのは危ないから、怖くても逃げないように」
今ここにいる狼だけなら追わせないようにできるが、他に伏兵がいてもおかしくはない。藍夏からすると、目が届くところにいてくれる方が助かる。
「うん。えと、頑張ってね」
海那は意外と落ち着いていた。肝が据わっているのか、それとも鈍感なのか。大人が怖がるホラー映画を笑いながら見る子供にも似ている。
「まずはこっちをお願い。私は向こうを先に」
藍夏が言うと、咲川は無言で頷いた。ひとまず番狼と周囲の狼は任せていいだろう。
崩れて高さがまちまちになっている塀めがけて、炎を放つ。海那もいるためあまり規模は大きくできないが、その姿相応というべきか、狼型の亜族は戦闘における知能はそれなりにある。
水平に走る炎の渦を嫌うように、狼たちは数歩下がった。狼の中央にいる海那は「おぉ……!」と目をキラキラさせている。
「海那、こっちっ!」
あまり番狼と近くにいるのは良くないが、藍夏と離れている方が危ない。藍夏は塀の低いところを飛び越え、すぐそこまで来ていた海那を抱き上げる。
「ふへへ、お姫様だっこ」
「笑ってる場合じゃないから」
ただ、恐怖で我を失ったり、動揺して逃げ回ったりするよりはいい。
海那の童心に感謝と呆れの念を抱きながら、藍夏は再び咲川の背後に回る。咲川は防御に専念していたが、藍夏が戻ったことに気付いて体勢を変えた。
「流石に今の鎧では番狼の攻撃は防げない。避けるから、そのつもりで」
咲川の声。今の鎧、というのは、紋章が消された離反者の鎧ということだろう。
鉄の派閥の戦闘用制服である鎧は、構成員の手によって恒久生成の上に超長期強化がかけられた逸品だが、離反してしまえば、いずれ強化系の呪いも切れる。もうその刻限が近いということだ。
「藍夏、私にできることってある?」
「あまり動かずに、色んな方向見てて。それで動きがあったら教えて」
藍夏は後方に薄く炎を張る。かろうじて向こう側が見える程度の炎の壁に、狼たちは怯んでくれるだろう。
「ハァアアアッ」
後ろは任せられると判断したのか、咲川が大きく跳ねる。水平に近い跳躍からの斬り上げは番狼の前足に阻まれたが、すぐさま切り返して水平斬り。番狼が後退した直後、咲川の目の前から炎が迸った。
横向きの火柱は更に下がる番狼を追う。工場跡は人間からすれば広いが、巨体の番狼からすればそう広くもない。すぐに工場の壁に追いやられ、方向転換を余儀なくされる。
そして、右か左、二択まで絞られた進行方向に咲川が跳んだ。
「お前ごときにかかずらっている暇はないッ!」
咲川の読みは当たった。まぁ横に三つ並んだ首のうち一つでも進行方向を見てしまえば読めるのだが。
ともかく、咲川の三日月の大斧が番狼の脇腹を捉えた。番狼は身をよじって避けたものの、脂ぎった黒い獣毛と多少の血が舞う。
大振りの攻撃で生まれた隙を狙うように飛び込んできた狼を、虚空から炎の弾丸が襲った。炎弾が狼の命を奪うことはなかったが、着地する寸前には散らされる。大斧に斬り上げられ、両断こそされなかったものの血と内臓が地面を汚していた。
その間にも、周囲で炎が乱舞し狼が散っていく。元より、この程度の亜族は藍夏の敵ではない。討伐はできないにしても単独で番狼を抑え込める咲川の実力は、前衛として頼りになる。
「藍夏、なんか増えてる!」
不意に海那が叫んだ。
声につられて後ろに目を向け、藍夏は絶句する。なんか、どころではない。減ったと思っていたのに、倍近くには増えていた。
「敵、増援! 底が分からないっ!」
叫んで、炎の出力を上げる。呪力は限りあるものだ。時間をかければまた元通りになるが、連発しているばかりでは減り続ける。それに生成系の中でも炎というのは、呪い師本人の燃費が良い代わりに周囲の呪力を燃料にする性質もあった。自然回復は望めない。
ならば温存するべきなのだが、そうも言っていられないのが実情だろう。
「倒せれば僥倖。他の呪い師が来てくれれば御の字。嫌になってくる」
そう唾棄する。無論、愚痴をこぼすだけで心が折れることはない。そも地獄の番狼とは高等種を中心に構成した十人から二十人程度の部隊で討伐するような相手だ。各派閥の幹部クラスともなれば別だが、たった二人の高等種で、それも下等種の中でも特に非力な海那を守りながらというのは困難を極める。
「それでも、やるッ!」
咲川の大斧が走った。間にいた二体の狼を蹴散らし、番狼の左の首を狙う。
「ルゥオオォ」
番狼は逃げず、迎撃に入った。打ち合えば首の一つくらい道連れにできるだろうが、三つある首に対し、咲川の命は当然一つ。大斧を振り下ろし、急停止した。
同時に、右の首めがけて炎が走る。さながら竜のような渦巻く炎が戦場となった工場跡を縦横無尽に翔けていた。
「流石、炎幻の娘だけはある」
「父さんと一緒にしないでくれる? 虚しくなるだけだから」
この程度、炎幻と呼ばれた夏からすれば朝飯前だっただろう。藍夏からすると、一秒ごとに呪力を食われる感覚が付きまとう。
もう、あまり余裕もない。
「何か策はあるっ!?」
太く長く鋭い爪を大斧で捌いている咲川に声を投げる。
「時間稼ぎというのは、無理なんだろう?」
その声に問う色はない。清々しささえ含み、笑っていた。
「一か八かになる。できれば温存したかったが――」
そう言って鎧越しに脇腹に手を当てたように、藍夏には見えた。しかし、すぐに勘違いだと気付く。咲川が触れた鎧の脇腹には、小さな穴があった。
「どの道、ここで果てては機会も失われる」
何かあったのだろう、と思考を切り捨て、「なら」と答える。
「なら、どうすればいい?」
「後のことは考えず、番狼の気を引いてくれ。私が肉薄できれば、それでいい」
言うやいなや、咲川は大斧を下げて走り出した。どこに向かっているのか分からないが、少なくとも番狼の方ではない。
いや、番狼の横手に回るつもりだろうか。
しかし、それでは鼬ごっこにしかならない。むしろ尾ですら武器になるほどの体躯を持つ番狼の方が遥かに有利だ。
「それで、気を引けと」
肉薄ということは、肉弾戦で仕留めるつもりだろう。小細工抜きの膂力と体躯のみで蹂躙してくる番狼を。
本当に、一か八かだ。
藍夏が内心でため息をつき、残る力を使い果たす覚悟で二つ目の炎の渦を出そうとした、その時。
「あ、あのさ……」
おずおずとした海那の声だった。
「今、そっちにおっきな狼いるんだよね……?」
当たり前でしょ、と言い返しそうになって、想像すらできなかった可能性に思い至る。背筋が凍り、冷や汗さえ引いた。
果たして。
「こっちに、もう一匹いるんだけど……」
背後には、それがいた。
薄い炎の壁の向こう側、前方で咲川と戦っている個体よりも、更に一回りは大きい。
二体目の番狼だった。
当然、そちらはそちらで狼の群れを従えている。中には二頭や三頭の狼もいた。
「……どうしよっか、これ」
乾いた声が漏れる。
「どうするもこうするも……」
咲川の声も似たようなものだ。
「ええと、うん、やっぱりピンチ?」
海那の声だけがあまりに明るく、場違いだった。