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明日は嫁入り、今日は初夜  作者: 飯島鈴
第一部 それは夏が見せた陽炎か、命が見せた灯火か
19/97

十七話 開戦

 極東列島東部にある無名の派閥支部ビルから、少し東に行ったところ。

 電車で二時間もかからない距離に、鉄の派閥本部はある。中小派閥の本部とは対照的に、堂々とした姿だ。一等地ではないものの、十数階のビルを丸々一棟使っている。

 表向きは大規模商社ということになっているし、実際、鉄の派閥はそちらでも活動資金を稼いでいた。

 本部ビルの警備は厳重だ。呪いという常人には真似できない力があるため、銀行などにも引けを取らない。

 士英は、そのビルから少し離れた駅前にいた。

 駅から本部ビルまでは士英の足で十分ほど。目立たないように歩いても十五分で着けるだろう。

 ただ、狙いは本部ビルではない。本部ビルに帰ろうとする女幹部、鶴ヶ峰だ。

 鉄の派閥の構成員がよく使う通りでは、影の子たちとシェレが監視に当っている。士英も一つの通りを視界に収めていた。それに、鶴ヶ峰の移動状況は玄六から報告される。

 当然、士英には裏社会御用達の防弾車に守られている幹部を迅速に始末する必要があった。それも士英、つまり『無名の派閥所属、剣戟の亡者』の仕業だと分かるように。

 といっても、後者については心配いらないだろう。呪い師にとっては呪いが何よりの身分証だ。士英とて、大陸級派閥の幹部とその護衛、ついでの防弾車を呪いや刀なしに襲える化物ではない。

 前者も、ちゃんと策は練ってある。防弾車など興味がない士英に、エリスが弱点を叩き込んだのだ。少なくとも鉄の派閥がよく使うタイプなら問題ない。

 仲間の緊張が高まるにつれ、士英の胸は高鳴った。これはシェレも同じだろう。従者は主人に近付き、主人は従者に近付く。それに、二人は元から馬が合っていた。

 もう何度も何度も、数えきれないほどの喧嘩を重ねたように。互いの性格は熟知していて、意識せずとも何を考えているのか分かる。契約の効果もあるのだろうが、それだけではないと士英は知っていた。

『予測通りだ。移動を始めていい』

 携帯電話からイヤホンを通して、玄六の声が耳に響く。雫虫に呪い師の声を伝えさせようとすると、周囲の世界から色を奪ってしまう。今はまだ使えなかった。

「支部長は先輩をお願いします。もう隠れ家も使えるはずですよね?」

 言って、士英は携帯の電源を切る。携帯は戦闘服にいくつもあるポケットの中から、一番邪魔にならないところを選んで仕舞った。イヤホンは高価ではないので、気付かれないようにゴミ箱に捨てる。

 玄六の報告によれば、鶴ヶ峰の乗る車は予測通りの道を通っているということだ。最短路ではないが、そう時間はかからない。いつも通る道だった。

「シェレ、行けるな?」

 士英は口角を上げてしまわないように努めながら、遠く離れた従者に声を投げる。

『士英こそ、油断してない?』

 頭の中に響くような声に、士英は「楽しみだよ」とだけ答え、通りに出た。

 士英も車を襲うのは初めてだ。走っているところを襲えば、いかに色褪せた世界といえど、色鮮やか世界に干渉して追突事故に発展するかもしれない。

 それは避けたかったが、最優先すべきは鶴ヶ峰の命。

 しかし、どうやら運は士英らに味方した。

『車、進路変更したね。多分、立体駐車場かな?』

 シェレの声。

「それは有り難い」

 士英は堪えきれずに笑い、走り出した。


 そこは病院だった。

 車やバイクなら少々の手間がかかるが、徒歩の士英は手間なく入ることができた。

 鶴ヶ峰の行動は協力者から送られてきていた予定と違うものの、こればかりは仕方ない。管理局が追っているのは派閥の動きであり、個人の動きではないのだ。協力者が管理局のデータを漁ったところで、鶴ヶ峰個人の動きは探れない。

 その鶴ヶ峰は、どうやら誰かの見舞いに来ている。シェレが花束を確認していた。士英が止めたからそれ以上の深追いはしていないが、車の駐車位置は分かっている。

 鶴ヶ峰が使った出入り口を監視できる位置にシェレを回し、他に二つある出入り口にもヌイとクイをそれぞれ配置した。

 そして、十分が過ぎた頃。

 見舞いだからもう少し時間がかかると思っていたが、士英の予想は外れた。シェレからの報告があり、鶴ヶ峰が入った時と同じ出入り口から出てきたという。

 士英は待機していたトイレから出る。呪い師の、それも吸血種の鼻には少し厳しい臭いだったが、立体駐車場に踏み出した時には臭いのことなど一切忘れていた。

 士英は足音を立てずに走り、駐車場二階の階段近くで止まる。そこで待てば、鶴ヶ峰の方からやってきてくれるはずだ。

 そして、一分弱。

 遠巻きに二人の男、一人の女を連れた高齢の女が姿を現した。

 護衛たちはスーツ姿で、それぞれ小型化して隠し持てる護衛用の武器を持っている。

 高齢の女は老人然とした格好に、白髪混じりの薄茶色髪。老齢は老齢だが、そこに弱々しさはない。むしろ力強く歩んできた人生さえ見えそうな、溌剌とした足取り。

 士英は歩み寄り、声を上げた。

「どうも、鶴ヶ峰さん」

 奇襲とはいうものの、大陸級派閥で幹部席に座るほどの呪い師は死角からの初撃にさえ容易く対応してくる。不用意に隠れて気取られるより、さっさと気付かせてしまった方が士英としてはやりやすいのだ。

「……亡者か」

 凛とした声に、世界が色褪せた。周囲の護衛は一瞬で臨戦態勢に入っている。

「枝園士英という。陳腐だが、冥土の土産だ」

 言い捨て、士英は刃を放った。


 鶴ヶ峰の右前方に立っていた男を炎が包む。

 残る護衛が鶴ヶ峰を挟むように位置取り、ほとんど同時に遠くから車のエンジン音。色褪せた世界では近代的なエンジンなど機能しないが、色鮮やかな世界にいる間にスピードを上げてしまえばエンジンが停止しようと鉄塊で突進できる。

「片足も全身も変わらんだろう。そろそろ墓に入ってほしいもんだ」

 士英がフェイントで放っていた刃を水平に走らせる。女が斧で受けた。

「貴様が――」

「あの女の身内か」

 女は横からの刃を弾くが、一拍遅れて殺到した正面からの刃の群れを受けることはできず、左へ跳ぶ。その後ろにいたはずの鶴ヶ峰はもういない。護衛の女とは逆、右へと歩いていた。

 士英は水平の大車輪のように刃を回転させる。

「雑魚はいらん」

 正面と横からの刃に、女は窮した。平面では避けきれない。その上、ここは立体駐車場だ。縦に避けることもできない。無数の車の重さに耐える床を、更に色褪せた世界で壊すなど不可能だ。

 しかし、女が刃に貫かれ、あるいは切り刻まれることはなかった。

 女の周囲で、刃が不自然に捻じ曲げられたからだ。見れば、男の護衛を襲おうとしていたシェレの炎も歪んでいる。

「これ以上やらはせんぞ、亡者」

 鶴ヶ峰が冷たく笑うと、駐車場の角から猛スピードの車が現れる。エンジンは色褪せた世界に入った途端に止まったが、車体の方が止まらなければ大きな障害物となって士英を邪魔できるだろう。

「小細工など」

 前面の床から斜めに突き出される刃をものともせずに防弾車は突っ込んでくるが、途中で止まった。タイヤが空回りしている。車体も僅かに浮いていた。

 一拍あって、フロントガラスに血が散る。車体の下から、刃が貫いていた。

「防弾車のことは分からんが、底面にも装甲が付いたの買えよ、次からは」

 笑い、鶴ヶ峰に走り寄る士英。

 横合いからの斧には一瞥もせずに刃を向け、数瞬で相手に迫る。

「用件はなんだ」

 交渉次第では、ということだろう。

「我らは大陸級の席を望む。貴様は狼煙だ」

 刃生成と空間操作による近接戦が始まった。

 十本の刃からなる束が六つ飛ぶ。うち四つが歪められ霧散し、残る二つでも半数が霧散した。しかし残った十本の刃が鶴ヶ峰を襲い、避けきれなかった――というよりは、敢えて浅いところで受けたのだろう――三本が皮膚を削ぎ、血を舞わせる。

 士英はすぐに身を低くして斜め前へ跳んだ。踵のすぐ後ろでコンクリートが潰れる異音が響いた。

 刀を持っていれば射程に収められている距離で、士英が刃を乱射する。ほとんど短剣並みの刃の群れを鶴ヶ峰は後退しながらの空間圧縮で防ぐが、背後から爆炎。

「士英、一人殺ったよ」

 シェレの足元では黒い塊が煙を上げている。残るは護衛の女と鶴ヶ峰のみ。

「時間がない」

 夜にすればよかったか、と士英は内心で自嘲した。吸血種の主戦場たる夜間ならば圧倒できている。

「だが、まぁ問題あるまい」

 鶴ヶ峰は経理だ。空間操作という戦闘型として優れた呪いを持ちながら、前線には出ない。

 何故か。

「貴様は怠った。強くなるためにも、弱くならないためにも――」

 士英の刃が鶴ヶ峰に迫る。

 シェレの炎が護衛に迫る。

 色褪せた世界での炎は、色鮮やか世界ほどの破壊力を持たない。干渉力が薄れるからだ。

 鶴ヶ峰の思考が、士英には手に取るように分かった。

 一手遅らせてから、横手に刃を放つ。

 士英の刃は鶴ヶ峰の前で歪められ霧散し、そして女の護衛を貫いていた。

「二つのうち、一つしか守れない。――いや、二つとも守れたはずなのに、貴様には一つしか守れなかった」

 鶴ヶ峰は炎ならば単独で対処できると考え、自身の防御に専念したのだろう。それでも士英の攻撃は一手遅れたのだから、予測していれば対処できたはずだ。

「何者だ」

「あんたらが無名と呼んでいる派閥の、剣戟の亡者だ」

 士英の刃が右と左、前と後ろ、足元と頭上から鶴ヶ峰に放たれた。同時に爆炎が押し寄せる。

 鶴ヶ峰は歳を感じさせぬ怒号とともに全方位の空間を圧縮させて強引に刃を押しとどめ、炎を握り潰した。

 だが、その胸からは刃が突き出した。

「それだけ外に呪力を向けては、中までは守れまい」

 二対一。

 負ける道理など、あるはずもなかった。


   ×××


 我らは四大派閥の席を望む。

 鉄の派閥には退いてもらうため、まずは開戦の狼煙として幹部の一人には退場していただいた。

 闘争は歓迎する。我らに力ありと知らしめる、その種になってもらいたい。

 しかし、他は不要だ。席は二つも要らぬし、手に余る。

 武の派閥、管理局、中立域においては、こちらから手を出すことはない。

 無論、先日のようなことがあれば、お応えする。

 その上で、繰り返す。

 我らは四大派閥の席に座るべく、鉄の派閥に退いてもらうことにした。


   ×××


 その宣言は、士英が鶴ヶ峰の命を奪うのとほぼ時を同じくして、各派閥に送られた。

 最も重要視されたのは支部長である玄六が宣言する映像のデータだが、他の方法でも通達はされている。

 ただ実際のところ、そうした宣言を直に見た、あるいは聞いた者は当初少なかった。ほとんどは口伝によるものだ。もっとも、それも数時間のことで、管理局は日付が変わらないうちに映像をデータベースに載せたのだが。

 宣言より少しばかり早く今回の騒動について知ることができた鉄の派閥は、無論迅速に対応した。

 件の立体駐車場に小隊を三つ合わせた中隊規模の構成員たちを送り、同時にその数倍の戦力を無名の派閥の支部ビルに送り込んだのだ。

 しかし、二百人を超える呪い師たちが『敵』を認めることはなかった。

 駐車場に残っていたのは、腹に穴を空けられた構成員ただ一人と、襲撃者の身分証たる戦いの跡だけ。支部ビルはもぬけの殻となっており、廃墟のような内装を見せるだけだった。

 この反撃と並行して、鉄の派閥は武の派閥にも連絡を取る。

 夏休みの一件から引き続き協議していたが、それを一気に推し進めようとしたのだ。

 だが、こちらも手遅れだった。

 協議の話に返事をするより前に、武の派閥が宣言映像を見ていたからだ。いかに血気盛んな武の派閥とて、無用な血は流すまい。

 勿論すげなく断るということはなく、むしろ前向きに検討するようだったが、これにより初動の戦力が限られることになる。

 それでも鉄の派閥は大陸級だ。幾度となく戦争を経験してきている。ゆえに、幹部の一人を失う事態にも大きな混乱はない。

 ただ、だからといって、すぐさま二度目の反撃に打って出ることはしなかった。理由は二つある。

 一つは敵の居場所が分からないため。

 一つは以前の襲撃時に現れた鬼の脅威。

 続けざまに攻撃があれば別だが、無名の派閥は鶴ヶ峰を殺しただけで身を潜めた。見えない敵を殴っても、流れるのは自分たちの血だけだ。

 結局、鉄の派閥はしばし沈黙した。

 それも『数瞬』だったが、周囲に与えた印象は大きい。

 夏休みの襲撃から漂いかけていた、無名の派閥はそう簡単に叩き潰される蝿ではないという評価が、この上なく正確なものであると認められたのだ。


 そうした鉄の派閥の内情を全て知っているわけではないにせよ、藍夏たちはなんとも気楽に夕食を囲んでいた。

 そこにあるのは、数時間前に大陸級派閥の幹部を殺したとは思えない、普段と変わらぬ笑い。海那やシェレが何か間の抜けたことを言って、藍夏や士英がツッコミを入れる。あるいは士英と女性陣が子供じみた口喧嘩をする。

 藍夏にはそれが意外だった。

 暗くなるとは思っていなかったが、もっと張り詰めた空気になり、一瞬も安心できない時間が続くと思っていたのだ。勿論、笑っているからといって安心しきるわけにはいかないが。

「これからの予定って、決まってるの?」

 ふと会話が途切れたタイミングで、藍夏が声を上げた。普通なら支部の上にいる玄六やエリスに向けて敬語で問うべきなのだが、ここは普通ではない。問うべき相手は士英か伶衣、つまり戦闘員だ。

「今日明日は動きを見ることになるだろうな。鉄の動きは迅速だった。フルートが来てくれなきゃ今頃は慣れ親しんだ家具とはおさらばしていたわけだし、連中の本気は怖い」

 士英が笑った。フルートが来てくれた、というのは藍夏もエリスから聞いている。フルートは干渉系の物体操作と酷似した力で、一度触れた物を動かことができる――これは物理的な繋がりを無視することも可能だ――という。でなければ、業者が真っ青になるほど短時間での『引っ越し』はできない。

 支部ビルにあった石造りの椅子やテーブル、呪い加工済みの冷蔵庫も持ち込まれているが、これは全てフルートがその力で運んでくれたものだ。ついでにカノンからの伝言として「戦いには助力しませんが、引っ越しならいつでも」と嫌そうに言ってくれた。その場にシェレがいたら、もう少し態度も違っただろうが。

 そして、この第二の拠点となる『隠れ家』は、支部ビルからもそう離れていない地下にある。地上と直接繋がっている出入り口はなく、今は使われていない地下道に通じる扉があるのみ。そこから今も使われている地下鉄の駅に進めば、外に出られる。

 ここはカノンが十年以上前に、今回のような戦争に備えて購入したものだった。作られたのは地下道が使われていた頃だから、更に遡る。鉄の派閥が潜伏場所を探そうとしても、ここ数年の情報に忙殺されているうちは辿り着けない。

 また、あのカノンのことだ。キッチンや風呂にトイレ、個人用の部屋など、ある程度の生活設備はしっかりと用意されている。

 内装にも圧迫感はない。窓がない以外は、一見しただけでは地下だと分からないほどだ。

 ちなみに、地下ながら換気と掃除がしやすく、また防音設計や衝撃吸収などあらゆる『対策』が施された部屋もあったが、これは一同で無視した。

 とはいえ、ここに長く住むのは精神的に良いはずがない。士英や伶衣などは数ヶ月でも耐えられるだろうが、藍夏なら一ヶ月、海那は半月も経たずに参ってくるだろう。

「しばらくは地下鉄の監視も厳しくなる。外に出るのは基本的に亜族の道経由で、俺と伶衣が中心になるだろう」

 鉄の派閥は四大派閥の中では構成員の数で劣るものの、大陸級として恥じない数は揃っている。列島中心地から北東あたりまでの構成員を集めれば、そこらの大企業並みの人員を確保できると見ていい。

 その全てが戦闘員というわけではないが、藍夏たち支部と比べると象と猫くらいの差があるのだから、物量作戦は容易い。

「それに、反撃が激しい時ほど食らいつかなくちゃいけないからね」

 伶衣が言葉を引き取った。

「作戦であろうとなかろうと、反撃されて黙ってたら弱腰だと受け取られる。そうなれば、ああいう連中は強気になる。追いかけられたら逃げるくせに、逃げられたら追いたくなるわけだよ」

 鉄の派閥だけでも荷が重いのだ。武の派閥など引き込みたくはない。その武が協力体制を取る前に、鉄を消耗させる。協力の決断を遅らせるために、士英と伶衣は暴れ回る必要があった。さながら威嚇だ。

「それって、私は参加しちゃダメなの? ヌイクイちゃんは難しいけど、シェレなら少しは慣れてるし」

 大手派閥は、既に無名の派閥の潜伏場所を探し始めている。それは体制が整う明日からの一週間か二週間がピークだ。その間は可能な限り出入り口を使わず、隠し通す。

 だから、亜族の道を通るしかない。士英が先ほど言ったことだ。

「別にいいが、できれば海那には残っていてもらいたい。それでも二人一緒がいいっていうなら、まぁ考えてはみるが、そっちで相談してくれ」

 士英は答えたが、あまり歯切れが良くない。

「口下手だからね」

 すぐにシェレが理由を教えてくれた。色褪せた世界に慣れていた藍夏はともかく、まだ慣れているはずもない海那に、今の状況は酷だ。そこに追い打ちをかけるように、海那の重要性が高い。

 士英なりに言葉を選んだらしいが、慣れないせいでぎこちなくなってしまったのだ。

「最悪――」

 奇妙な空気になった場に、珍しく玄六が口を挟んだ。

「最悪、あの方々に助けを乞うこともできる。聞き入れてくださるかは分からないが、その選択肢があることは忘れるな」

 支部長としての気遣いだったのだろう。

 一同がそう理解した頃には、もう玄六は黙々と箸を往復させていた。エリスと伶衣がほんの僅かに肩をすくめ、士英は一瞥したのみで食事に戻る。海那とシェレは微笑みを浮かべていた。

 残る藍夏は、静かにご飯を頬張る。考えなければいけないことは山積みだ。


 隠れ家の風呂場は藍夏の家にあるものよりずっと大きい。

 それも男女別々に用意され、脱衣所前の暖簾にはご丁寧に『男湯』『女湯』と書かれていた。

 浴室には藍夏と海那とシェレが一緒に入っても十分のんびりできるだけの湯船があり、銭湯や温泉のように並んだシャワーは六つある。浴室そのものも広く、横に並んでシャワーを使っても気にならないほど、贅沢に空間が使われていた。

 その広さは勿論、使うお湯の量も驚きだ。

 藍夏は咄嗟に水道代と光熱費と、地下ということで分からないなりに維持費まで計算したが、結論が出る寸前で中断した。カノンの出費を考えると、心労が増えてしまう。

 しかし、まぁ使わせてもらう側の藍夏からすれば、有り難い話だった。

 ゆっくり入浴する余裕もないと思っていたのに、実際には肩まで浸かっても足を伸ばせる風呂が用意されていたのだ。ハイテンションに盛り上がっている海那とシェレを湯船から顔だけ出して眺めていると、一層疲れも取れるというもの。

 藍夏はのぼせないように少し物足りないところで湯船から出て、シェレとシャワーをかけあって遊ぶ海那の横に座る。

 当然、頭からお湯をかけられた。

「あ、ごめんっ」

「いや、分かってたことだしね」

 二人は一瞬だけ静かになったが、またすぐに遊び始める。

 お姉さんとして代表の出費を抑える努力をせねば、と考えたところで、別にお姉さんなどではないことを思い出す藍夏。シェレも幼いように見えるが、歳は分からない。

「二人とも、遊んでる暇あるの?」

 まぁ遊ぶ元気があるのはいいことだけど、と内心でため息をつく。

「広いお風呂とシャワー、ここで遊ばなくちゃ名折れだよっ!?」

「こんな時こそ遊ぶんだよっ!!」

 シェレと海那にそれぞれ即答され、余計に頭を抱えたくなる藍夏。

 こんな時こそ、は分かるにしても、名折れってなに。そう思わないはずもなかったが、ため息を漏らすにとどめた。

「まぁ、嬉しいのは一緒だけどね」

 支部ビルにも居住空間はある。話を聞く限り、士英とエリスは個人で部屋を借りているものの、低くない頻度で支部ビルに泊まるという。伶衣はそもそも借間すら持っていなかった。

 そのため最低限の設備はあるらしいのだが、充実には程遠い。こんな快適な入浴は望めなかっただろう。

「それもこれも鉄の派閥に感謝だね。あの人たちが本気にならなかったら、ずっと支部暮らしだったよ」

「それ、感謝することかな……?」

 開戦のその日に予定が変更され、藍夏たちは支部ビルではなく隠れ家に移動した。これは鉄の派閥の反応が予想以上に早く、鋭かったからだ。

 玄六の模倣演算による予測では数日は守りを重視するということだったが、実際には最速と言っていいタイミングでの反撃。投入された構成員は大隊ほどの数であり、今までの鉄の派閥が初動の攻撃に動かしてきた規模ではない。

「でも、明日からどうなるのかなぁ」

 海那がぽつりと呟いた。

 今日は日曜日だ。夏休みはもう終わっているから、明日からは学校がある。しかし、登校などできない。連絡は昼間のうちにしておいたが、教師も釈然とはしていなかった。

「休学届も間に合わなかったしね。もう少し計画的にやってほしい感じはするけど」

 藍夏も上手い返しはできない。海那は幼いように見えて鋭いから、下手な嘘は気を遣わせるだけだ。笑っておくしかなかった。

「でも、終われば給料出るよ。八月分はまだだから、九月分と戦争の出来高次第で美味しいものいっぱい食べられるよ?」

 シェレが笑いを重ねる。心の底から喜んでいるようだった。

「……どこから生活費出てるのかと思ったら、給料制だったんだ」

 どうでもいい疑問の答えを知って、藍夏は大きく息を吸った。

「ほら、そんなことより、早くしないと先上がっちゃうからね? 頭洗ってもらいたいならシャワー置いて、そこに座る!」

 いそいそと藍夏の前に座る海那と、何故かその隣にちょこんと並ぶシェレ。

「士英は洗ってくれないからねっ」

 洗ってくれていたら大問題だろう、と内心で笑い、まずは海那からわしゃわしゃと始める藍夏だった。

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