十話 亜族の世界
亜島の屋敷に滞在していた一ヶ月弱の間、危険なことは何もなかった。……と、藍夏は思うようにしている。
初めて街に繰り出した日の翌日、藍夏は海那にシェレ、そのシェレと旧知らしいフルートと一緒に街を歩いていた。前日のように亜族肉を食べさせられることもなく、雑貨屋で流血沙汰の値切り交渉もない。平和な『女子会』から屋敷に帰ってしばらく休んだ後の、夕食時。
夕食はカノンとリリアン、他に数人から十数人の奴隷たちとともに過ごすことが恒例になっていたのだが、その日は士英が現れなかった。
従者のシェレが変わりなく席にいたため大事には至っていないと分かったが、それでも心配ではある。
それを問うと、カノンは笑い、事情を教えてくれた。
我ながら馬鹿なことをした、と藍夏は後悔している。まぁ抱いている念は後悔だけではないが。
士英のようにほとんど毎日ではないものの、藍夏も稽古をつけてもらったのだ。
流石にワンのような前衛相手では稽古にならないので他の従者に手伝ってもらったが、それは果てしない苦痛の始まりだった。
結果、藍夏は一ヶ月弱で何度か死にかけた。
とはいっても、藍夏の主観として『死にかけた』だけで、実際にはまかり間違っても死なないようにしてくれていたのだろう。……と思うことにしたのだ。
そして八月の終わりも近付いてきた頃、四人は屋敷を後にした。
予定通り何事もなく、これから環状列島に向かう。
代表の一人であるフランは環状列島に住居を持っているが、同時に亜族の世界にも家がある。過ごす時間は状況によってまちまちだということだが、藍夏たちを亜族の世界に滞在させるつもりはないらしい。
「何度も言ったが、亜族の世界を通る。絶対にシェレから手を離すな」
屋敷を出てしばらく歩いたところで、士英が言う。屋敷の中から亜族の世界に入らない理由は、街でお土産を買うからだ。
「フルート。疑いたくはないけど、シェレもそんなに馬鹿じゃないからね?」
シェレも言う。名を呼ばれた通り、四人にはフルートが同行していた。
亜族の世界は、その表層である道ですら案内なしで入れば呪い師はただでは済まない。士英も普段はシェレに案内してもらっている。
だが、今回は呪い師が三人。手を繋がなければいけないという決まりはないものの、長い間触れ続けるには、手を繋ぐのが一番安全だ。
そういうわけで、今回はフルートにも手伝ってもらうことになった。ちなみに、シェレが藍夏と海那を案内し、フルートが士英を案内する。
この振り分けにはシェレも反対したが、藍夏からすると、まだシェレの方が安心できた。……ただ、海那は危険性を理解しているのかいないのか、シェレと手を繋げて楽しそうだ。探検気分らしい。
「僕も主人と士英さんの言うことは聞きますよ。勿論、シェレの言うことも。主人、士英さん、シェレの順でちゃんと聞きます」
「その順番じゃ意味ないと思うんだけど? せめて士英を一番に――」
「では今回だけは。許可も貰っていますので」
傍から見るとシェレが我が儘を言っているようにも思えてくる。
「まぁ、各々不安だろうが、船なり飛行機で入って両列島の派閥に目を付けられるよりは安全だ。安心しておけ」
どちらも安心できない、というのが藍夏の本音だが、不安感だけで動こうとするほど愚かでもない。
ひとまず支部の三人に買っていくお土産を考えよう、と頭を切り替える。
エリス用に買ったのは、結局、炎尾と番狼の肉その他だった。
暗闇。
何故か道は分かる。手を伸ばしても何もないが、壁に近いものがあるとも分かる。
流石の海那も落ち着かないようで、あちらこちらに視線を向けていた。
亜族の世界。藍夏も入るのは初めてだ。
「それじゃ、行こうか」
シェレが言い、フルートと士英も歩き出す。藍夏と海那はシェレに手を引かれるように足を踏み出した。
怖くないと言えば、嘘になる。
まだ小さな頃に、月明かりも入らない真っ暗な部屋で一人になったような気分だ。安全だとは思う。ある程度信用できる理由もある。だけど心の奥底からは安心できず、その些細な不安がどんどん膨れ上がって我慢できない。
息が詰まるような不安に、我知らず藍夏は手を強く握った。シェレから強く握り返され、自分の手に力がこもっていたことに気付く。
「あ、ごめん……」
思わず謝ってしまった。おかしなタイミングではなかったはずだし、声を出したことで少し気も紛れたような気がするが、少し恥ずかしい。
そんな藍夏の内心を少しでも察したのか、シェレはにっこりと笑ってみせた。光などないはずなのに、シェレが見える。その向こうの海那も見えた。
後ろを向けば士英たちも――
「……え?」
士英とフルートの姿は、そこになかった。
「あれ? ええと、こっちって、触れてる相手しか見えなかったっけ?」
思わず呟く。
だが、そんなことはない。一部の亜族を除き、闇の中でも他者の姿は目に見える。数メートルほど離れて気配を誤魔化せば闇に同化できたはずだが、一メートルと少ししか離れていない状況では無理だ。
両手をそれぞれ繋いでいるせいで振り向きづらそうだったシェレも、後ろを見て絶句している。
「あの、馬鹿……!」
一瞬だけ手に力が込められた。仮にも亜族ということか。その力は身長や体重で勝る藍夏より強かった。
「……心配だけど、気にしなくていいよ」
シェレの声は疲れきっている。言葉の通り、心配なのだろう。心配ないはずなどない。
ここは人間が入り込めば頭が狂って彷徨う空間だ。案内役がいるとはいえ、――いや、その案内役がいるはずなのにいなくなっているのだから、心配して当然だった。
「フルート、言ったでしょ? 士英の言うことを一番に聞くって。士英から言われてたんだよ。多分、屋敷を出る前に。カノンに許可も貰ったって。あんな用意周到な時点で気付けばよかった……」
ていうか、なんで気付かなかったのかな。
シェレは苛立たしげに足を強く踏み出したが、取り乱すようなことはなかった。
「士英も男だからね」
その上、そんな考えで納得したようだ。
藍夏には全く理解できなかったが、海那はうんうんと頷いている。
もっと心配し、不安がり、取り乱してもいいはずなのに、どうしてだろう。藍夏の心は思いを無視して冷めていった。
「まぁ、どうにかなるでしょ」
それ以上、考えたくもなかった。
×××
「悪いな」
「シェレには嫌われたくなかったです」
一方、士英とフルートは平然と闇の中を歩いていた。
亜族の世界とは、俗に『世界を切り刻んでかき混ぜ押し潰したものだ』と言われる。
この世界と外の世界は繋がっているが、ぴったりと裏側に張り付いているようなものではない。
地球を経緯線に沿ってブロックごとに切り分け並びを変えたようなもの、という説明も時折される。ただし、向こうの一キロがこちらの一キロではなく、向こうの右がこちらの右ではない。
一歩歩くだけで地球の反対まで行ったかと思えば、何週間も歩いて一メートルも進めないことさえある。
「ここには歩き方がある。亜族は生まれてから親に教わるなりして覚え、自分で歩けるようになる。お前がここで迷い、シェレに助けられたのは、そもそもこちらに親がいなかったからだ」
シェレとフルートは亜族の世界で見つかった。その時の案内役はシェレ。フルートの記憶はシェレと会った後から始まっており、それまでは彷徨う側だったことが分かる。
しかしフルートは、今この世界を歩けていた。
「感覚的なものなのか、何か歩き方のコツでもあるのか、それは知らんが、できれば教えてくれ」
士英は言う。フルートは怪訝な視線だけを返した。
「人間だから無理って話じゃあるまい。亜族に認められているフランさんはこっちを歩ける。カノンさんも多少は歩けると言っていた。亜族の世界を歩こうとする呪い師もいないわけじゃない」
一般論として、人間が亜族の世界を歩くことはできない。
だが、一般論とはある層にとって都合のいい解釈の集合体だ。現に大陸級の中でも上位に位置する派閥の中では、亜族の世界を歩こうと地図を作ったり、亜族から歩き方を聞き出そうとしたりしているところも多い。
「死にたいんですか?」
「お前を信用してる」
「僕は安い女じゃないですし、そういう口車にも乗りません」
すげない答えに「口調、前よりカノンさんに似たな」と笑う士英。
「そんな安くないです」
無念。
「カノンさんのことも信用してるんだがね。というか、カノンさんが信用できるから、お前も信用できる」
少々の沈黙が流れた。
「……安くないと何度言えば分かるんです?」
「今の間、十分安いだろ」
フルートは長い長いため息をついた。士英の勝利である。
「突然走ったりしたら半殺しにしますよ。僕ではなくワンさんあたりが。どんなに恐ろしくても二歩以上連続で歩かないでください。一歩歩いたら手を繋いで、手を離してもう一歩歩いたらまた繋ぐ」
士英が「犬の躾だな」と笑うと、フルートは「犬以下じゃないですか」と鼻で笑う。
「それじゃ、始めますよ」
世界は真っ暗だ。
闇のまま、変わらない。
しかし、それが一瞬前までと全く違う闇だということは理解できた。
頭の中に濁流が押し寄せてくるような感覚。恐怖、不安、嫌悪、不信、あらゆる不愉快な感情が汚泥となって、勢いよく流れ込んでくる。
そんな吐き気すら催してくる感情を押し留めて足を踏み出すと、世界の闇は一層濃くなった。
道など見えない。手を伸ばしても壁は感じられず、踏み外せば奈落の底に落ちていってしまいそうに感じる。
逃げたい。明るいところまで、走って逃げる。走り続ければ、いつか。
胸の内に生まれた淡い希望を振り払うために頭を振ると、同時に、手に温もりを感じた。
「どうです? もう一度やる気になります?」
フルートの声だった。
士英の目には、もう道が示されている。真っ暗な闇のままだが、道も壁も感じられる。
「二歩、行かせてくれ」
声に出してようやく気付いた。士英の心臓は早鐘となり、首から背中にかけてべっとりと汗をかいている。声も震えていた。
「強がりなのは男の特権だ、と言う人がいますけど、許可できません。二歩も歩いたらじっとしていられないでしょう?」
フルートは試すように言い、それから小さく笑った。
「それ以前に、僕が士英さんの進んだ方向を目で追って、すぐ後に続けるのは一歩までです。二歩以上行きたいならワンさんに頼んでください。喜んで放り投げてくれるか、あるいは二、三日頭を旅立たせてくれますよ」
その言葉に士英がじろりと怒気の視線を向けると、フルートは不満げに目を逸らした。どうやら彼女渾身のジョークだったらしい。
「カノンさんの足元にも及ばんな、色んな意味で」
士英も嘘の怒気を表情から消して、握り返していた手から力を抜く。
「一歩だけだ、また頼む。それが終わったら旧大陸に寄り道を」
フルートは呆れながら頷いた。
しっかりとカウントして、手を離す。士英は一歩だけ彷徨い、フルートに助けられる。
それを何度も繰り返した。
×××
何時間歩いたのか。
何日歩いたのか。
それとも、何分も歩いていないのか。
藍夏は自問していた。
闇の中。
太陽や月、星から時間を推測することなどできない。せめて何か動きでもあれば記憶を辿れるが、ほとんど無言で三人が歩き続けるだけ。亜族の世界だというのに、亜族の気配すら感じられない。
緊張のせいで空腹も喉の乾きも意識できていなかった。時間は全く分からない。
シェレを挟んだ向こう側にいる海那をちらりと見やった。不安げな表情を藍夏の方に向けていたから、笑いかけておく。
「そろそろだから、もう少し頑張ろうね」
二人の表情を順番に見たシェレが明るい声で言う。空元気ではない明るさに、藍夏も少しは気が楽になった。
シェレ曰く、今歩いているのは最短距離ではないらしい。
元々この世界は歪んでいるから、最短距離と言っても直線には程遠かった。真っ直ぐ歩けば真っ直ぐ進むとは限らない。
だとしても、少し時間がかかりすぎではないか、と藍夏は思う。無論、緊張と恐怖のせいで一秒が数分に感じているようなら別だが。
「士英だけならもっと早く着くんだよ? 片手空いてるし、阿吽の呼吸ってやつで!」
どうやら亜族と遭遇しないのはシェレが避けてくれているかららしい。
「……弱くてごめん」
素直にお礼を言ったらそこで話が終わってしまいそうに思えて、藍夏は自嘲気味に謝ってみる。
予想通り、シェレは取り乱した。そういう意味じゃないから、とか、こういうのんびりしたのも楽しいよ、とか。
「いや、取り乱すようなこと言っちゃダメじゃん」
藍夏が独りごつと、「そうだよ、まったく!」とシェレが頬を膨らませる。海那も笑ってくれた。
「士英とじゃこうはならないからね。いつもぶすっとして、あいつは……」
とかなんとか言いながら嬉しそうな表情をしているシェレに苦笑していると、そのシェレが立ち止まった。
「ここらへんだね」
そう言われて藍夏と海那が周囲に目を向けるが、先ほどまでと変わったところはない。せいぜい場の雰囲気が明るくなったくらいだ。
「ええとね、こっちは大体どこもこんな感じなんだよ。もっと深いところに行くと、案外明るかったりもするんだけど、表層はこんな感じ。特に世界と世界を繋ぐ扉があるわけでもなくて、どこでも繋がってる。だから出る時には――」
シェレの手にぎゅっと力が込められる。
直後、眩しさで目が痛くなった。どうにか目を開けると、夕日が見える。
「太陽……?」
何故だか信じられない。おかしいくらいに嬉しくなって、シェレの手を強く握ってしまう。
「ここは、……ええと、どこだっけ?」
強く手を握られ、にひひ、と嬉しそうに声を漏らしていたシェレが言いかけ、問いかける。
「え? 環状列島じゃないの?」
「街はヨーロッパっぽいよね! 多分。行ったこともないけど」
藍夏と海那がそれぞれ言うと、シェレも焦ったように「いや、環状列島だけどね? ヨーロッパだけどね?」と何度も頷いてみせる。
「環状列島のどこかなぁ、って。ほら、島いっぱいあるし。列島人からするとどこも似た雰囲気だし。シェレ列島人じゃないけど」
言いつつ、シェレは周囲を見回す。
藍夏もつられてあちらを見て、こちらを見てと目を動かし続けるが、知っている風景はなかった。
「おぉっ!」
さっさと誰かに聞くか、と諦めたところで、海那が驚きの声を上げる。そちらを見ると、海那は二人とは反対、後ろを見ていた。
藍夏もその視線の先を目で追い――
「なんで……?」
唖然とした。
そこに、士英とフルートが佇んでいたからだ。
×××
まだ藍夏たちが亜族の世界を歩いていた頃、士英とフルートは一足先に人間たちの世界に出ていた。
といっても、ここは環状列島ではない。
連邦が支配級派閥として統治していた頃は『連邦大陸』と呼ばれていた大陸だが、今ではその連邦が支配力を落としてきたため、新大陸に対する形で『旧大陸』と呼ばれている。
二人がいるのはその北西部だ。まだ日はあるが、ここは列島ではない。士英の記憶が正しければ、列島なら暗くなっているような時刻でも日が出ていたはずだ。
「ここが指定の研究所で間違いないですか?」
フルートの声に、士英も空に向けていた視線を下ろす。
「あぁ、合ってるはずだ。俺も旧大陸の西は初めてでな。よく分からんが」
広大な敷地と周囲を隔てる厳重な門の前には、聞いたことのない企業の名が書かれた看板のようなものがある。工業品か何かを作っている会社の工場という扱いになっているらしい。
門の横手には詰め所のような小屋というか、部屋がある。
士英たちは死角にいるが、監視カメラは捉えているだろう。
「別に、潜入に来たわけでもない」
独りごち、歩き出す。
「外で待っててもいいぞ」
「行きますよ。士英さん一人では不安ですから」
「随分と嫌われたな。そんなにシェレのことが好きだっ――」
言い終える前に、すねを蹴られた。なかなかに素早い動きだ。士英なら避けられたが、状況的には避けた方が危ない。まだ環状列島まで送ってもらう必要があるため、変に機嫌を損ねたらいけないのだ。
「連邦さん、血と亜と無名の派閥の者ですが」
不機嫌そうなフルートは一旦忘れて、門にあるインターホンのようなマイクに話しかける。連邦側にどの名前で伝わっているのか分からないのは少し面倒だ。日本語ならまだしも、ロシア語となると訳し方にも悩む。
『……』
スピーカーは沈黙していたが、鉄門の向こうには何人かの人間の気配がある。
『証明できる物は持っているか?』
やや時間があって、スピーカーから声が発せられる。
「ないですね。一応呪いがありますが、使った瞬間にとっ捕まえられるわけでしょう? シノさん、出してくれません?」
仮に紹介状などを持っていても、呪い師ならば偽造など容易いため大した意味はない。そんなものよりよほど身柄を示すのに重宝する呪いは、警備係に捕まえてくれと言うようなものだ。
ここで粘られたらどうしようかと考えていた士英だったが、すぐに安堵した。スピーカーの電源が切られる寸前に慌てたような様子が伝わってきたからだ。
「入れ」
と、スピーカーの時と同じ声が門の隙間から直接聞こえてきた。
声の方向を見ると、大きな鉄門の端で、犬猫用の通り道にも似た小さな扉が開けられている。二人は小走りで近付き、そこをくぐった。
「血の派閥と言ったな?」
「同時に亜の派閥とも」
男は中年だった。だが、当然のように老いなど感じさせない。佇まいや表情の厳しさから士英より長い時を生きていると分かるが、肉体だけを見れば二十代でも通る。
「堂々と名乗るのは控えてもらおう」
男はチラチラと周囲に目を走らせながら言う。
「これは失礼。話に聞いているでしょう? うちの代表たちがどれだけ適当か」
「こちらの研究者も大概は同じだ。……まぁ、そっちの方が馴染みやすいんだろうが?」
親しげなのか皮肉や嫌味なのかは士英にも分からなかった。言葉どころか人種の違いというのは大きい。
「シノさんは西棟の四階にいるはずだ。途中、誰にも話しかけず行け」
言い捨てると、男は詰め所に戻っていった。
「……なんて言ってたんです?」
しばらく黙っていたフルートが問う。
「『歓迎する。皆事情は知っているから、受付も無視して目的の場所へ行っていい』って言われた」
「……通訳にならないですね」
士英渾身のジョークは踏みにじられた。
それから、二人はシノという研究員に会った。
シノは薄くなった頭にポマードを塗りたくり、痩せぎすの背を曲げて杖をついている初老の男だった。外見だけで見ると、旧大陸の生まれだろう。
口元と目元には昆虫を思わせる笑みもあった。何故笑った昆虫を知らないのにそんな印象を受けたのか、士英は三日ほど悩むことになる。
「いや、君は亡者といったか。生きている刃生成では先頭集団だろう? 興味がある」
そんな言葉とともに二人を研究室の一つに招き入れたシノは、それから散らかった一室の片隅でコーヒーを出してくれた。二人はしっかりと淹れ終わるのを待ってから断った。礼儀である。
「用件は以上です」
と、士英が全てを伝えても、シノは何かと話を振って引き止めた。
この狭い研究室には誰かが頻繁に出入りしている形跡が見えない。ほとんどシノだけが使っており、そのシノさえ『出入り』することは稀なのだろう。
だからといって、人恋しいというわけでもあるまい。
シノの一風変わった視線は、優しげでいて狡猾さを覗かせている。一挙手一投足から癖を読まれ、研究されているはずだ。
「それでは、まだ用もあるので」
最低限の礼儀だけで言い捨て、士英はフルートを連れ西棟を後にした。
詰め所で中年男に顔を見せ、亜族の世界に潜る。研究室から直接潜っても問題なかったはずだが、避けられることは全て避けるべきだと士英は考えていた。
亜族研究に携わる連中にろくな者はいない。亜族どころか呪い師の腹を生きたまま開き、散々遊んでから、ふと死んでいることに気付くような連中もいる。
そういう姿勢を白眼視することはないものの、士英としては、その常軌を逸した好奇心が怖い。一瞬の呼吸と目配りで戦い方まで見抜かれそうな感覚を抱くし、事実そのくらいやってくる。
そして、二人は亜族の世界を走った。
亜族の世界では通常の時間の流れはない。時には逆流することもあると言われ、走ったところで時間短縮になるかは分からなかったが、駄目で元々だ。
それでも、藍夏たちより先に夕日を見上げる。
『遅かったではないか』
そう多くはないが、人通りもある。どこからか聞こえた声の出処を、士英は探そうとしない。
「所用がありまして。残りもそろそろ着くはずです。案内は任せても?」
『そのために来ている。メイ殿を待たせるわけにもいかぬが……、まだか?』
「そろそろです」
声の主は見えない。呪い師には亜族が見えるはずだから、そもそも姿を隠すことに長けた種なのだろう。
「ほら、来ましたよ」
突然、三人の女が現れた。色鮮やかな世界の住人にはどう見えるのかが士英には少し気になるところ。まぁ気にしている余裕もあるまい。
彼女らは太陽を見て驚き、それから自分たちがどこにいるのか考えているらしい。
「馬鹿だろ、あいつら」
呟き、士英は辺りを見回す。
士英たちを含めた五人を監視しているような気配はない。だが、安心などできないだろう。
「フルート、もう帰っていい。助かった」
環状列島。呪い師の本場とされ、世界で最初に呪い師が確認された地だ。呪いはここから東に発展していったとも言われる。連邦によって旧大陸――古くは連邦大陸――の力が急激に増した近代でも、第一線にあり続けていた。
圧倒的な支配力によって一気に成長した旧大陸と比較するなら、環状列島は文化で発展してきたと言える。
街中で突然抗争が起きることは、まずない。
だが、無法者たちは瞬く間に一掃される。部外者であり、ある種のお尋ね者でもある士英たちは、気を抜くことなど許されないのだ。
フルートは姿を消し、士英は三人に合流する。
見えない案内役に導かれ、四人はフランのもとへと足を向けた。