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明日は嫁入り、今日は初夜  作者: 飯島鈴
第一部 それは夏が見せた陽炎か、命が見せた灯火か
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九話 振るわれる者の一日

「やぁ、こんな時間にすまない。……それとも、今は君の時間だったか?」

「それはお互い様でしょう」

 カノンの笑いに、士英も笑いを返す。

「夜は亜族の、昼は人間の時間です。呪い師として半歩、特異個体として半歩、合計で一歩分も亜族側に踏み込んだ人間からすれば、どちらも自由にできる時間ですよ」

 そんな言葉に、カノンは哄笑を漏らした。壁や扉が呪いによって遮音効果を持っているので、深夜の二時を回ろうかという時間でも、あまり気にする必要はない。

「士英君、僕はね、君がわざわざ逃げてくるとは思えない」

 笑みはまだ浮かんでいる。取り方によっては疑いの言葉とも思えるが、士英も「そうでしょうね」と笑った。

「先輩は少しお人好しなんですよ。藍夏と海那は臆病ですし、正直に言ったところで納得するとは思えない。だからって隠すつもりも、騙し通すつもりもないですけど」

 そう言い、士英は椅子に座った。

 カノンからの呼び出しがあったのは夕食の後、時刻でいえば八時か九時頃だ。士英とシェレの部屋をフルートが訪れ、この時間にカノンの元へ行くように伝えた。

 士英は言われた通りに顔を出し、今に至る。

「フランに何を言われた? 一度ここまで来て勝手に怒って帰っていったが、あのまま黙り込むということもあるまい」

 この派閥の代表二人が犬猿の仲だということは、士英もよく知っている。まだカノンは好意的な態度を取らないこともないのだが、性格上、嫌ってくる相手には嫌って返すのがこの男だ。より嫌っている側から歩み寄らなければ関係が良くなることはないという、少し困った状況でもある。

「まぁ、有り体に言えば、海那を連行しろと命令されましたね」

 あまり二人の間に入るようなことはしたくないな、と士英なりに考えたが、この場でお茶を濁すことは不可能だった。

 それに先の言葉通り、士英に隠したり騙したりする意図はない。真意を隠し結果として騙すことがあっても、それは一時的なものだ。

「亜族の一派が彼女を狙っていた。既にフランが黙らせたとはいえ、その亜族のもとに連れていくのはどうかと思うがね」

 やはりささやかな笑みを浮かべてはいる。だが、これはカノンの無表情とも言えるだろう。常に微笑か冷笑を浮かべ、時折呵々と笑う。不機嫌そうな顔は見せても実際に不機嫌になるところはほとんど見せない。士英からしても、厄介な相手だ。

「あの人が連れ去ろうとするなら、もうとっくに俺のところになんかいないですよ。それはカノンさんでも同じことです。わざわざ俺を通して何かさせるなら、そこに意図があるわけで。それを断ったところで、事態が好転するとは思えませんね」

 むしろ悪化しますよ、どうせ。

 士英は面と向かってそんなことを言うが、カノンも気を悪くした様子はない。

「それで、今回の件、裏に何があるか聞いていいですか?」

 呼び出したからには目的があるのだろう、とは士英も考えている。かといって素直に用件だけ聞いて従う、というのも、らしくはない。

「それは自分で考えることだ。君は素直に我々を頼るがね、それでは成長しない」

「成長ですか。どこまで成長しても、お二人に近付けるとは思えません」

 ならば、とカノンが言いかける。だが、そのまま口を閉じた。

「珍しいですね。言い淀むなんて」

 士英は笑う。楽しそうに、嬉しそうに。

「『ならば、踏み外してはどうか』でしょう? 言わずとも分かってますよ」

 お手上げだとばかりに両手を挙げてみせたカノンは、やや遅れたが士英に続いて椅子に腰を下ろす。

「この椅子はね、フルートが運び込んでくれたんだよ。あの子はどうやら、呪い師として生まれれば干渉系の呪いを持つはずだったらしい。干渉系の物体操作。知っているかい?」

 唐突に変わったかのように思える話題に「何種類かありますね」と士英が相槌を打つ。

「物質操作ではないので、移動ですか。視界にあるものを移動させる、一度触れたものを移動させる、見ずとも触れずとも明確にイメージしたものを移動させる。ポルターガイスト的な呪いですね」

「そうだ」

 カノンは満足げに頷く。

「あの子は一度でも触っていれば、大抵のものを動かせる。生き物や建造物は無理だがね」

 それから、細く息を吐いた。

「ただ、あの子が今持っている力は呪いではない。結果だけ見れば呪いと同義だが……、分かるだろう?」

 さてどうしたものか、と士英は思案する。少しだけ悩んだ。

「人間は腕と足を二本ずつ持ち、その手足で道具を扱うことができる。猿も同様に二本ずつの手足で道具を扱う。では両者は同一の存在かといえば、そんなことはない。他に色々な違いがあって、ただ一つか二つが同じだからといって、同じ生き物であるとは到底言えない」

 そして「そういうことですよね」とため息をついた。

「あぁ。フルートは呪い師と同じ力を持っているが、呪い師として生まれることはできず、亜族として生を受けた。亜族の中でも人間の胎児をさらう連中の仕業だ」

 ふと不自然な沈黙が流れた。

 これはカノンが意図したものだろう。士英はやはりため息をつく。

「彼女は成長したのではない。無論、進化したわけでもない。彼女は人間としての道を踏み外した。選択権があったかどうかは別として、人間という種の成長や進化の道から外れてしまった。だからこそ、今はカノンさんの従者をやっているわけで」

 天才と凡人の差というわけでもないが、カノンやフランと士英の間には大きすぎる隔たりがある。士英がどれだけ悩み苦しみ努力し成長しても、二人は一瞬の思考と片手の一振りで凌駕するだろう。

 だから、近付けもしない。士英の一時間、一日、一年が彼らの一秒なのだから、思考し努力しても近付けない。

 ならば、本来あるべき過程を飛び越え、辿り着けないはずの場所に『踏み外して』しまえばいい、というのがカノンの言葉だ。事実、彼なら迷いはしないだろう。

「機会と必要性があったら、そうしましょう」

 士英は言い捨てる。

「意図して亜族になる術は見つかっていないですし、形だけ亜族になっても力が付くわけじゃないですから。数えきれない偶然が重ならないと、考えるだけ無駄です」

 それでは本題に、と言おうとして、士英は自身の唇を噛みたくなった。

「亜族研究で最も進んでいる派閥があるだろう?」

 ここまでが前置きだった。誘導された、というほどのことでもない。カノンはしっかり順序立てて、一から話していた。その途中で士英に発言を促しながら。

「連邦、ですか」

 無階級、地方級、列島級――この区分は列島以外では国家級となる――、大陸級、そして支配級。大きく五つに分けられる階級の中で最上位にある支配級の称号は、ほとんどその派閥のために作られたと言っていい。

 歴史上唯一の支配級派閥であり、離反や戦争が相次いでなお、大陸級として世界有数の派閥に数えられる『連邦』。

 本拠地は旧大陸――色鮮やか世界でいうところのユーラシア大陸――にあるが、環状列島や新大陸は勿論、極東列島や南大陸といった地方にも支部を置いている。

 その性質は戦争、支配、それから研究。

 時代背景もあって戦争と支配の色は薄れてきているが、代わりに研究がより色濃くなっている。列島で管理局が中心になって作っている端末も、連邦の手で開発された技術や理論が元だ。

「亜族研究は大抵の派閥でやっていますし、そこには勿論、どうやって亜族が生まれるのかも含まれます。連邦だけが人為的亜族――半亜ではなく、です――の研究をしているわけではなかったと思いますが、その分野でも連邦が図抜けているということですか?」

 カノンは無言で頷きを返した。

「……どうして連邦の動きが分かっているのか。てっきり表立って動き始めたのかと思っていました。水面海那がそれほどの呪いを持っている、と」

 呆れた。想像すらしていなかった。するはずもなかった。

 そんな想像をするのは、馬鹿みたいだったからだ。

「でも、違ったわけですか。動きは敢えて見せていた。連邦も興味がないわけではないでしょうが、隠密行動を貫かないほどの状況ではない。それなのに、動きを見せた」

 どうして。何故、わざわざ波風を立てるのか。

「そうすることで、本来の動きが隠せるから、ですね。正確には『動いていないことを隠せるから』ですか?」

 乾いた笑いがこぼれた。

「列島では無名の派閥と呼ばれる超小規模の集団が現れ、大規模派閥にも歯向かっている。大規模派閥は海那の呪いを狙って我先にと動いているはずで、彼らからすれば、最大級の派閥である連邦が動かないのは気になるはずだ」

 自分たちが争ってまで求めるものを、上の連中は求めていない。

 あれにはそんな価値がないのか、なんて思うと同時に、何か隠しているのではないか、とも思う。欲しがっていないのではなく、欲していることを隠し、裏で動き回っている。

 大陸級をはじめとした大規模派閥がそう考えた時、最も不自然な動きをしているのは何者か。

 疑心暗鬼を生ず、ではないが、荒唐無稽な疑いさえ真剣に浮かべてしまう。

「お二人と連邦が手を組んでいるわけですね? そこに探りを入れられたくなかったから、連邦に見える形で動いてもらった」

 士英の問いに、カノンは「惜しいね」と笑みを返す。

「手を組んでいるのは僕たち二人だけじゃない。君たちを含む、『血の派閥』それ自体が連邦と協力関係にあるわけだよ」

 カノンが主張する『血の派閥』は、フランが主張する『亜の派閥』、また極東列島で呼ばれている『無名の派閥』と同義だ。

「構成員に知らせないのはどうかと思いますけどね」

 大いに呆れた。まだその名前を諦めていないのか、と。

「それで、呼び出した理由はなんです? それを教えるためだけに呼んだわけじゃないですよね?」

 士英は我知らず笑っていた。心の底から楽しい。自覚し、少し恥じる程度には楽しくて、笑いを堪えられなかった。

「あぁ、君には伝言を頼みたい。環状列島まで行くついでに旧大陸の連邦研究所に寄って、研究員の一人に伝言を届けてほしいんだ。シノという男で、まぁ一目で明らかに頭のおかしな研究者だと分かるだろう」

 あなたも大概ですけどね、とは士英でも流石に言わない。

「それと、これは口外しないようにお願いするよ? 従者には言ってもいいけど、他は誰にも言ってはいけない。勿論、従者経由で伝わるようなら、従者にも」

 伝言ならば雫虫なりなんなり、とにかく従者を向かわせればいい。

 そうしない理由は何か。支部の中では最も地位が高い支部長、玄六ではなく、士英に任せた理由は。

 そして、何故今なのか。今でなければいけない話だと考えるのが妥当だが、果たしてそうだろうか。

 士英は思考を切り捨てる。

「ご期待には応えます」

 起立し、頭を下げて言った。


 清楚な佇まいだった。

 緑と白を基調とした色彩豊かな庭園の長椅子に座る彼女は、それだけで絵になる。

 しかし、ただ美しいというわけではなかった。

 その目には柔軟だが強靭な意思が溢れ、引き結んだ唇にも心の強さが見える。

 遠目に見た時の弱々しさや儚さといった弱者の美しさは、近付くにつれ崩れていった。所作の一つ一つまで見えるほど近付き、目を見据えると、そこにあるものが凛とした強者の美しさだと分かる。

「どうかしましたか?」

 士英が何も知らずに見ても、彼女の歩んできた半生にどれだけの苦悩があったのか理解できたはずだ。

「いえ、カノンさんから普段はここにいると聞きまして」

 もしかすると、カノンと相対している時より気が引き締まる。士英はリリアンと顔を合わせながら、そう思った。

「世辞ではなく、変わらない若さですね」

 用件は、などと問われる前に話を切り出す。

「昨夜、カノンと話したそうですね。……彼女らは?」

「女子会だとか騒ぎながら出ていきましたよ。ちゃっかりシェレとフルートも連れて。……最低限だけ気を付ければ、あとは問題ないでしょう」

 リリアンに視線で促され、士英も長椅子に座る。蔦が絡み付いた柱の脇、小さな噴水の手前だ。真っ直ぐ噴水に目を向ければ、視界の端にリリアンが見える。

「半亜というほどではないですけれど、あの変態と生きるとなると、人の寿命では足りませんからね」

 滑らかに流れるような声の中に明らかな侮蔑の言葉が混ざっていたが、士英は無視した。

「それも連邦の研究の成果ですか?」

 カノンは特異個体だ。士英と同じく、鬼の吸血種。寿命がないわけではないが、老いはないと言い切れる。ある程度のところ――これは個人差がある――で成長が止まり、以降は死ぬまでほとんど姿が変わることはないのだ。

 カノンがこの亜島で王家を滅ぼしたのは五十年以上前だが、彼は未だに二十代のような姿をしている。それが証拠だ。

「連邦だけではありません。むしろ変態の方が――」

「普通に名前で呼んでください。笑ってしまいますから」

「……夫の方が、尽力したでしょう。彼はああいう性格です」

 リリアンはくすりと笑った。彼女も士英の人となりは心得ている。士英の方はまだ掴みかねているが、共通する考えがないわけではないと知っていた。

 つまり、カノンをどういう人間だと思っているか、である。

「大変ですね、あの人を好くというのも」

 我知らず、笑みがこぼれた。士英はリリアンの微笑でそれに気付き、軽く頭を下げる。

「彼のもとに寄る者は、皆考えていることです。自らにだけ思いを向けてほしいけれど、その願いが叶ってしまえば、あとは破滅を待つだけだと分かっています。私などは、夫が私だけに思いを寄せたら幻滅するでしょうね。まだ他の者に取られた方が我慢できます」

 当たり前のように紡がれた言葉に、士英は「あの人もあの人で大変だ」と笑っておく。

「フルートは」

 数瞬の沈黙に耐え切れなかったのか、ふと口を開いていた。

「フルートは、どんな様子です?」

 まさか、と自嘲する士英。

「あの娘、シェレが気になりますか?」

「まさか、ですよ」

 言い切ったが、恐らく、そうなのだろう。

 あまりに唐突で、士英にはとても信じられなかった。だが間違いなく士英から口にしたのだ。

「今では秘書のようなことをしていますよ。彼の従者は良くも悪くも変わり者が多いですから、まだ珍しく見えますね。心配するようなことは、何もありません。……期待するようなことも、何も」

 士英は何か言いかけ、口を閉じる。自分が何を言いたかったのか、分からなかった。

「すみません。ありがとうございました」

 それでも落ち着きを取り戻し、腰を上げた。

「俺が言うようなことではないですし、あまり意味もないのでしょうけど、カノンさんが馬鹿なことを言い出したら止めてください」

 冗談めかして言い、噴水に背を向ける。

「えぇ、そのつもりです」

 背後からの声に、あまり期待はできないな、と呆れながら庭園を後にした。


 慣れたとは言い難いものの、士英とて、この屋敷の中では余所者という感覚はない。

 無論、客人とも言えない立場ではある。それでも必要以上に気を遣ったり、疎外感を抱いたりということはなかった。

「おはようございます。珍しいですね、廊下を歩いているのは」

 幅が広い廊下の一角で士英が声を上げる。

「あら、おはよう。来たのは聞いてたけど、そっちも珍しいわね」

 答えたのは一人の女。姿は亜島に来た士英たちを迎えたイーリィに酷似している。だが、明らかに違うところがあった。

「イーリィさんは寝ているんですか? そんな格好で」

「そんな格好? 言うわねぇ」

 女はほとんど肌を隠していない。最低限隠すべきところは隠しているものの、そこを隠している布は一切隠していなかった。

 女のまとっている雰囲気もそれによく似合っていて、イーリィの印象とはあまりに合わない。

 そして、何より。

 女の頬骨のすぐ下で、ぎょろりと動くものがあった。目玉だ。三つ目と四つ目の瞳が、士英を見据えている。

「若い子たちには目の毒なんじゃないですか? まぁ、俺が言ったところで聞く耳なんか持たないんでしょうけど」

 士英は諦めるように首を振り、それから二つの目に視線を返す。

「リーイィさん、今、暇ですか?」

 寄生型の中でも意思や命を奪うことなく共生する亜族、眼蛇虫(がんだちゅう)。リーイィと呼ばれるそれは、イーリィに寄生しているのだ。


 極太の槍が十数の刃を蹴散らした。

 槍によって空けられた隙間に鉄槌がねじ込まれ、殺到する刃を打ち砕く。

 槍と鉄槌の持ち主が大きく踏み込んだ。左右はおろか、頭上からも背後からも刃が迫る。

 しかし、それは刃など気にもせずに突進を続けた。

 二振りの長刀が幾重にも展開された刃を斬り裂き、士英に迫る。

 士英は大きく後ろに跳び、更に低い体勢のまま右へ跳んだ。そこから即座に左へ転がると、すぐ後ろを槍が過ぎ去る。

 それは、にやりと笑みを見せていた。

「動き、良くなったな」

 声の主は一つの鉄槌と二つの長刀を持っている。先ほど槍を投げた腕は何も持っていないが、それ以外には一つずつ。

 つまり、腕が四本あった。

「ワンさん、ちょっと、殺す気じゃないですかね」

 士英が大量の汗を流しているにもかかわらず、ワンと呼ばれた四本腕のそれは涼しい顔で「当たり前だろ?」と答える。下顎からは牙が伸び、口を閉じても収まりはしないだろう。耳は軽く尖り、額の中央からは角が生えている。

 鬼だ。その姿から四腕鬼(よんわんき)と呼ばれる鬼の一種。

 身長は二メートル中ほどとそう大きいわけではないが、筋肉のせいでもっと大きく見える。

「一度や二度死んだだけで死ぬような奴なら、主のもとにはいらんだろう。なに、人間には三度目の正直なんて言葉もある。三度目で頑張れ」

 ワンはあっさりと言い捨て、鉄槌と長刀を構え直す。

「カノンさんにお似合いの思考回路ですよ、まったく」

「お? そうか? そんなこと言ってくれるのか?」

 士英も構えた。生成にかかる数瞬すら惜しみ、数十の刃を展開させる。吸血種の特異個体として肉体強化系の呪い師にも迫る身体能力を持つ士英だが、その程度の腕力や脚力では鬼の前に意味などなさない。

 生成系の基本に立ち返り、中、遠距離に徹するべきだろう。

 ……などと考えた直後、眼前にワンが突っ込んできた。

 まだまだだ、と痛感しながら、士英は死にかけるまで戦い続けた。


 士英が立ち上がれなくなり、それを見たワンが終わりにしてくれたのは外が暗くなる頃だ。

 この日士英は、夜中にカノンに呼び出され、午前中はリリアンと話をし、午後は稽古をつけてもらっていた。

 四腕鬼のワンはカノンの従者だ。カノンは少なくとも十数の従者を連れている。フルートのように戦闘向きではない者から、ワンのような戦闘員まで幅広い。屋敷の中を歩き回る従者の多くは非戦闘型の従者で、稽古の相手を頼むわけにはいかない。

 そこで士英は、廊下で会ったリーイィに仲介してもらい、ワンとの稽古に漕ぎ着けた。ちなみにリーイィも戦闘型だが、前衛戦闘は得意としない。

「今夜、またやるか?」

 ワンの声は口の中で反響しているような響きを持っている。機械でエコーをかけたような印象だ。

「明日の夜なら頼みたいですけど、今日はもう無理です。冗談抜きでうっかり凡ミスして死にます。三回でも四回でも死にます」

 亜族の階級の中で、鬼は比較的高い位置にいる。しかし、前衛戦闘一辺倒の四腕鬼はそれほど偉くはない。竜とともに最上位に君臨する吸血鬼に使われる側だろう。

 だが、だからと戦闘力が低いということにならない。ワンが相手なら、士英が夜間に吸血種としての力を全て出しきったとしても勝てないだろう。

「どうすりゃ、強くなれますかね」

「月並みだな」

「生まれも育ちも平凡なもので」

 藍夏と並べば相当な手練に見える。伶衣と並んでも勝てるだろう。

 だが、この屋敷の中では子守が関の山だ。それほど、ここには化物が集まっている。

「こっちに来い」

 汗と血で濡れた床に寝そべっている士英に、ワンは言い捨てる。

「人間の時間では足りない。いくら吸血種といえど、人間は人間だ。時間があっても、肉体がそれを許さない。こっちに来なければ、頭打ちになるどころか、その前に死ぬ」

 それ以上は言わず、ワンは去っていった。

 士英が残されたのは、なんというか、武道場のような部屋だ。床は硬く、冷たい。亜島は北にあるはずなのにほとんど寒くならないが、それでも列島よりは気温も低い。

 汗が冷えて寒くなってきたが、士英は、まだ動けなかった。

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