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明日は嫁入り、今日は初夜  作者: 飯島鈴
第一部 それは夏が見せた陽炎か、命が見せた灯火か
1/97

一話 褪色の者たち

 窓から見える遠くの空は鉛色。

 横合いからの夕日に照らされ、冷たさと暖かさを同居させている。

 鼻につく臭いに、あぁ雨が降るのだな、と藍夏(あいか)は季節の移ろいを思い出す。もう梅雨も近い。

「この後どうする?」

「カラオケとか?」

「金ねえよ、俺」

 窓とは反対に目を向けると、そこは数十の机が並ぶ一つの教室だ。いささかの蒸し暑さの中、制服を着崩した高校生たちが雑談に興じている。多くの者は天候など気にしていないようだった。

 わざわざ話しかけて、天気が悪くなるから早めに屋根のある場所に行くといいよ、なんて言うほどの仲でもない。

 あまり教材が入っていない薄めの鞄には折り畳み傘があるが、雨が降る前には駅に着きたいと藍夏は席を立った。

 窓際の最前列から、教室を横切る。廊下に出るまで、誰も藍夏に話しかけようとはしなかった。二年になって二ヶ月が過ぎようとしているが、去年同様、友人らしい友人もいない。

 しかし。

「おう、緋田(あけだ)。帰りか?」

 お節介にも声をかけてくる者はいた。去年から引き続き、今年も藍夏のクラスを担当している体育教師の増田(ますだ)だ。

「はい。雨が降りそうなので、早めに」

 教師も、雨なんて関係なくいつも早いだろうに、などとは言わない。去年から何度か似たような会話をしていた。

「そうか。……今年こそは陸上部に入ってもらいたいんだがな」

 そう笑ったが、答えを待つ素振りも見せず、教師は軽く手を挙げて「また明日な」と快活に言う。

「えぇ」

 藍夏もそれだけ返し、一階へと続く階段に足を向けた。


 雨は予想より早く降り出した。

 藍夏の通う高校から駅までは少し歩く。それでもそう時間はかからないのだが、風が雨雲を運んだのだろうか。まだ駅まで距離がある。

 傘と制服、どちらが濡れると困るかしばし考え、藍夏は鞄から折り畳み傘を取り出した。

 傘を差して一分と経たないうちに、雨粒が傘や屋根、地面を叩く音が強くなる。傘も制服も両方濡れる事態は避けられた。

 今日は何をしようか、と藍夏は傘の下から空を見上げる。

 特に何をするということもない。毎日学校と自宅とを行き来する日々だ。時には変わったこともあるが、今日はそれもない。

 そんな油断が不運を呼び寄せたのだろうか。

 暇だな、などと思っていると、視界の端で不意に何かが煌めいた。


 夕日を覆い隠した雨雲のように、世界が色褪せていく。

 賑やかな色をしていた通行人の服や傘、車道を走る車やバイクが濁っていく。

 しかし、誰一人その変化に気付く様子もなく、歩き、走る。

 その中で違うのは、先ほども見えたビルの上の光だけが、煌々と照っていたことだ。

「よりによって、この雨の日に」

 藍夏は唾棄する。文字通り唾を吐くような仕草をしたが、すれ違った主婦らしき女は見向きもしない。そも藍夏自体に気付いていないようだった。

 そして事実、気付いていないのだろう。

 徐々に近付いてくる光――これは散発的に輝き、また一直線ではなく複雑に絡まるように動いている――と同様に、藍夏もまた、周囲とは違っていた。色があるのだ。普段と変わらぬ色が。

「どこの人間だ」

 藍夏が目を凝らす。都会に慣れ親しんだ者の肉眼では捉えられないほど遠くの光に目を向け、そこにいる二人の人物を見て取った。

 一人は鉄色の鈍い光沢を持つ鎧か何かで身を包んだ偉丈夫。

 一人はくすんだ赤の外套を着込んだ長髪の女。

 光が、屋根や屋上を伝ってこちらへ向かってくる。その光は火花や電気、あるいはそれらが鉄に反射したものだった。

「……厄日だな」

 藍夏がため息をついた理由は、その偉丈夫だ。

 この筋では有名だった。いや、あの男が誰かというのは正確には分からないが、その鉄鎧なら大抵は分かる。

 鉄の派閥。

 ここ極東列島どころか、北西の旧大陸にも影響力を持つ一団お揃いの衣装だ。

 対する女の方は、その鉄の派閥の者とやり合うのだからどこかの派閥に所属しているのだろうが、全ての派閥が制服を持っているわけではないので特定できない。

「この状況、どうすればいいのかな」

 偶然にせよなんにせよ、二人は藍夏の方に近付いている。厄介事に巻き込まれたくなければ逃げるしかないが、堂々と逃げれば難癖をつけて追われるかもしれない。逃げなければ逃げなかったで、向こうも『同類』を見分けられるため、権力や武力の庇護下にない藍夏は襲われても不思議はなかった。

「あぁ、くそ」

 藍夏は苛立ち任せに吐き捨てる。

 足早に人混みへと潜り込む。日常の世界の者たちは藍夏に気付きもしないが、無意識に避けてくれた。世界はそういう風にできている。


 いつも使う、高校から最も近い駅に入り、通り抜ける。

 反対側に抜けても、世界はまだ色褪せていた。だが、駅のお陰で誰かも知らない二人の闘争は見えない。難を逃れたようだ。

 大粒で横殴りの雨の中、藍夏は街路樹の脇に置かれたベンチに腰を下ろす。上から見た時に目立ってしまう傘は閉じたから、全身ずぶ濡れだ。

「どうしようかなぁ」

 ため息混じりの声が出る。

 この世界には、普通の人間と、普通ではない人間と、人間ではない者が住んでいた。普通の人間は普通に暮らし、普通ではない人間は普通の人間に紛れながら時折殺し合いをし、人間ではない者は毎日殺し食い合っている。

 藍夏は普通ではない人間だ。

 普段は普通の人間と同じように暮らしているが、普通ではない人間が各々の『力』を用いて戦うと、近くにいるだけで普通の暮らしから隔離される。

 その力は『呪い(まじない)』、それを行使する普通ではない人間は『呪い師(まじないし)』と呼ばれていた。

 こちら側、色褪せた世界の中で色褪せていないのは、無法の者どもだ。

 元々は人間ではない化物の世界である。人間の法で縛れない者たちの世界に、人間が踏み込んだのだ。こちら側では法が意味をなさず、力によって身を守るしかない。

 ゆえに似た考えを持つ者が派閥を作り、自らたちの戒律の中で過ごすのだが、時にどこの派閥にも属さない、『無所属』の者がいる。

 それが藍夏だ。

 仲間はおらず、後ろ盾もない。呪いの力はそれなりにあるが、同等以上の者などいくらでもいる。

 それでも、派閥に属する気はなかった。

 派閥に守られるということは、派閥を守るということだ。自らの目的など、二の次にするしかなくなってしまう。

 自身に呆れるような、失望してしまうような感情を抱き始めた頃、視界が明るさを帯びた。

 元から鉛色だった曇天は、それなりに光を孕んでいる。

 頭上に目を向ければ、街路樹の葉は雨の中でも青々としていた。

 道を歩く人々の傘は色鮮やかで……あぁ、好奇の目で藍夏を見てくる。

 傍迷惑な呪い師たちの戦いが終わったらしい。

「こんな格好じゃ、電車には乗れないよなぁ」

 この後の予定が決まった。ずぶ濡れのまま、一時間か二時間は歩き続けることになる。


 藍夏が夕食を食べ終えてテレビをつけた頃には、もうバラエティ番組が終わり、いくつかの局がドラマを放送していた。

 呪い師の足なら二時間やそこら歩き続けたところでさほどの疲れもないが、精神的には疲れる。なんせ、寒い中で周りの視線を気にしながら歩き続けたのだ。

 あのずぶ濡れになった制服が明日までに乾くことはないだろう。仮に乾いても、よれてしまっている上に雨臭い。ただ、呪い師である以上は度々厄介事に巻き込まれるので、制服の替えは用意してある。明日はそれを着ていけばいい。

 朝は少し早く起きてクリーニング屋に寄ってから学校に行こう、と決め、惰性でテレビを眺める。

 当然だが、夕方の一件をニュースが報じることはなかった。ドラマも続き物で、途中から見て面白いものではない。

 結局、藍夏は何をするでもなくカーペットに寝転んだ。

 彼女の家は、一人で住むには大きすぎる一軒家だった。呪い師だった両親が若い頃に建てた家で、二人暮らし――藍夏が産まれてからは三人――だというのに二階建て。今ではほとんど使わない二階も、最低でも月一程度で掃除する必要があるので困っている。

 しかし、売り払って適当な賃貸に入る気にもなれなかった。

 呪い師として過度に狙われるのを嫌った両親は写真の一つも遺さなかったので、今では親子の思い出らしいものは、この家しかない。

「派閥か……」

 両親が所属していた派閥は勿論、他の多くの派閥も藍夏を歓迎するだろう。

 それでも、やはりどこかに属する気はない。

 この世界にいる人間ではない者、その化物たちは『亜族(あぞく)』と呼ばれている。

 亜族は呪いによく似た力を行使し――そもそも呪いの方が亜族の力を模したというのが通説だが――、人間をも襲う。

 しかし大半は静かに亜族同士で殺し合う程度で、人間には目もくれないことが多い。

 そんな亜族に、藍夏の両親は殺された。

 弔い合戦にも似た不毛な殺し合いの末に死んだのだ。

 最終的に、その殺し合いは両者の上層に位置する者が協議して決着したが、納得しきれなかった者は少なくない。

 だが、亜族と呪い師が正面から殺し合うことは稀だ。それはどちらも得をしないし、そもそも身内同士での争いの方が重要だった。

 だから多くの派閥は、護身などを除いて亜族との戦闘を認めない。

 亜族を殺したければ、それを容認する派閥に属するか、無所属として生きるか。藍夏は、より自由な後者を選んでいた。

 その代償は小さくないが、今のところ大きな問題にも発展していない。

 こうして堂々と一軒家でテレビを見ながら寝転がり、昼間は学校に通っていられるのが何よりの証拠だろう。

 それも長くは続かないと、薄々察してはいたのだが。


 静かな朝だった。

 いつも賑やかな教室には、藍夏以外に誰もいない。今朝は早く家を出てクリーニング屋に寄ったのだが、少し早すぎたようだ。

 それでも、後悔はなかった。

 普段は学校というものに特段感情を抱かない藍夏にも、誰もいない教室というのは何か新鮮で、不思議と嫌な感情はわかない。

 そんな仄かな感情のままに窓の外を見やる。今日は昨日降った雨のせいか肌寒く、窓は開けていない。しかし、晴れ渡った空は見ることができた。

「こういうのも、悪くはないか」

 藍夏がぽつりと呟く。同時に、ふと光が生まれた。

 窓の外。上に向いていた視線を下ろすと、そこにはひらひらと舞う蝶がいた。

 その蝶は右へ左へ、目的もなく彷徨うように飛んできて、窓から教室に入ってくる。

「お前に風とか気温は関係ないはずだけどな」

 藍夏は柄にもなく笑い、窓を見た。先ほど見た時と同じように、それは閉まっている。普通の蝶が入れるわけなどない。

「あっ、ちょうちょだ!」

 さてどうしたものか、と考えていた藍夏の耳に、底抜けに元気な声が届いた。

「綺麗なちょうちょだね、その子。あんまり見ない色してるけど……って、あれ? このクラスの人、……ですよね?」

 そして続けられた言葉に、藍夏は驚きと焦りを抱きながら振り向く。相手は自身と同じ制服を着た少女で、キラキラとした目は藍夏の方を見ながらも蝶を追っていた。

「……そうだけど、あなた、これが何か分かってるの?」

 その姿に違和感を覚え、問うた。窓ガラスが存在しないかのように入り込んできたこの蝶は、言うまでもなく亜族の一種だ。それを見て、なおかつ平然と話題に上げるような呪い師がいることなど、藍夏には信じられなかった。

「へ……? ただのちょうちょじゃないの? それとも珍しい種類だった?」

 そんな言葉で、藍夏にもようやく理解できた。この高校生らしからぬ幼さを持った少女は、蝶の正体に気付いていないのだ。

「まぁ、有名って言えば有名だよ。こいつは『幻蝶(げんちょう)』って名前で、その名前の通り実体を持たない。身体(からだ)がないのに姿は見えて、生きてもいる。何も食べず死ぬこともなく、何にも影響しない存在が生きていると呼べれば、だけど」

 学校で教師以外にこんな長台詞を吐いたのは久しぶりだ、と藍夏は自嘲する。

「ええと、そんなちょうちょがいるの?」

 呆れるように笑う藍夏に、少女はきょとんと首を傾げた。

「生物学的には蝶じゃない、……っていうか、亜族に生物学も何もないけどね」

 言うなれば、亜族という分類の中の幻蝶。同じ蝶型の亜族であっても、成り立ちから親戚関係にある可能性は低い。

「……」

 少女の沈黙に、藍夏も少し不安になる。ただ元の静けさに戻っただけだというのに、どうにも静かすぎるような気がしてしまった。

「あのさ、これって普通の人には見えないもの?」

 ようやく破られた沈黙だったが、すぐにまた次の沈黙が教室を包んだ。

 藍夏にも予想外だった。いや、むしろ藍夏だからこそ予想外だったと言うべきか。

 呪い師とは先天的なものだ。しかし、遺伝性のものではない。親が呪い師ならば子が呪い師になるとは限らず、親が呪いに無縁の者でも子が呪い師として産まれることもある。

 そうして一般人の両親に育てられ、また近くに同族がいなかった呪い師の子供は、ある程度の年齢までに自らが異常だと知る。中には『異常者』だと知って気が狂いかける者、それ以前に周囲の人々には見えない異形を見続けて病院通いになる者もいた。

 藍夏の場合は父も母も呪い師だったが、皆が皆そう幸運なわけではない。

「そう、これは普通の人には見えないもの」

 普段から他の呪い師はおろか、クラスメイトでさえも意図的に避けている藍夏だが、今ばかりは見て見ぬふりなどできない。

「呪いって、聞いたことある? 名前は知らなくても、普通の人にはできない何かができたりするんだけど……、ほら、こんなふうに」

 そう言って、藍夏は人差し指を立てる。その先に小さな青い炎を揺らめかせると、色褪せた世界の中で、少女は不思議そうに、しかし楽しそうに笑った。

「おぉ、すごいっ!」

 反応からして、少女が自らの呪いについても全く知らないか、気付いていないと分かった。

「じゃあ、どこから説明しようか……」

 ひとまず火を消し、色が戻った教室を見回す。

 幼い頃から幾度となく教わってきたことを、眼前の少女に教えるだけだ。それだけなら簡単そうだが、なんだか難しく思えた。

 そしてなんとか状況を整理して、言葉を紡ごうとした時。

 教室の前方、黒板の上にあるスピーカーからチャイムが流れてきた。部活の終了時刻を告げる鐘だ。この教室にも生徒が戻ってくるだろう。

「放課後、時間ある?」

「うん、作るよ。初めて会ったんだし」

 同類に、とそうした類いの意味だったはずだ。藍夏は嫌になるほど会ってきたが、こうも無邪気だと、どうしても嫌とは思えない。

「じゃあ、学年と名前、聞いていい?」

 この態度は上級生ではないし、同級生にこんな生徒はいなかった。今年入ってきた一年生だろうと思いながら問うと、少女は朗らかに微笑んだ。

「二年一組、水面海那(みなもかいな)。今日からよろしくねっ!」

 最初に聞いたのと同じ、底抜けに元気な声に「よろしく」と笑って返す。

 未だ無垢の呪い師である少女、海那が自身の同じクラスに転校してきた偶然に気を留めながら。


 朝の邂逅から一時間弱が過ぎた頃、海那が再び教室に訪れた。

 海那は教室の前、教壇の上で担任の教師と並んでいる。

「今日から転校してきた水面海那です。好きなものはご飯と運動とあと色々。よろしくお願いしますっ!」

 今年で十七になるという年齢からは想像できない幼さと、転校してきたばかりとは思えない緊張感のなさに、教室の生徒たちは驚き混じりの歓迎を返す。

 それから朝のホームルームの時間を目一杯使って、両者の挨拶合戦、質問合戦が始まった。

 そんな嵐のような喧騒の中、藍夏は沈黙を貫く。

 藍夏の席は窓際の一番前、海那は列こそ同じものの一番後ろだ。海那も教壇で自己紹介をしていた時は何度か視線を送ってきたが、自身の席で質問攻めに遭っていてはどうしようもない。

 藍夏にしても、それは好都合だった。

 藍夏とクラスメイトの間には温度差がある。イジメの類いではなく、どちらかといえば藍夏の方からクラスメイトを避けてきたのだ。転校初日から一緒にいては、海那の学生生活に支障が出かねない。

 そんなこともあり、二人がしっかりと会話をしたのは放課後のこと。それも校門を出た後、先に出てきてしまった藍夏を海那が追ってきた時だった。

「一つ聞きたいんだけど、私って避けられてる?」

「それは私に聞いちゃいけないことじゃないかな」

 海那の問いに、藍夏は笑った。冗談半分だったらしく、海那も満足げに笑う。

「見たし、聞いたでしょ? 私はあんな状態だから、学校では話しかけてこない方がいいよ」

 知り合って半日だが、その言葉で納得しない相手だというのは薄々気付いていた。

「じゃあ、私が間に入るよ」

「自信あるんだね。……でも、違うよ」

 藍夏は耳が良い方だ。呪い師として生まれれば、嫌でも身体能力(しんたいのうりょく)は高くなる。

 だから、教室の後ろで行われていた会話も大半は理解できていた。

 大量の質問に嫌な雰囲気を微塵も見せずに答えていた海那が一瞬答えに詰まった質問も聞いていたし、覚えている。

「後で説明するけど、呪い師っていうのは遠慮がないんだよ。万が一他の呪い師と敵対したら、倫理観に期待なんかしちゃいけない。人質だって覚悟しなくちゃいけないんだよ。それに、呪い師と普通の人は、どうあっても分かり合えないしね」

 少し遠回しな言い方だったが、海那は理解してくれただろうか。わずかな不安とともに横を歩く新しいクラスメイトの目を向けた藍夏は、不安をそのまま後悔に変えた。

 そこにあったのは、遠くを見て悲しむような目だ。

「……あなた、逃げてきたんでしょ」

 避けては通れないと覚悟を決め、言葉を紡ぐ。

「私たち呪い師には、いつでも亜族が見えてる。それも、他の生き物と同じように。両親が呪い師じゃないなら、子供の頃からずっと別の世界を見て生きることになる。別の世界を見てるんだって気付くまでに、大抵は取り返しがつかなくなるって聞いたよ」

 まだ言葉も話せない赤子が何もない空間を見て笑っていても、親はなんとも思わない。

 言葉を話すようになって間もない子供の発言も、大抵は深く考えずに戯れ言と一蹴されるだろう。

 しかし、小学校に上がる頃になっても同じ言動を繰り返し、中学、高校と続けばどうなるか。

「一人暮らし?」

「うん……」

 遠回しの答え合わせだった。

 海那という少女は、親から逃げてきたのだ。あるいは親が子供から逃げるために遠ざけたか。どちらにせよ、それは不幸だと藍夏は思う。傲慢な感情だと理解しつつも。

「どこか行きたいところはある? お茶代くらいは払うよ。時間はかかるしね」

 朝からの態度を見る限り、そして自己紹介の後で質問に返した答えを信じるなら、海那はこの街に来て日が浅い。藍夏はあまりそういうこともしないが、放課後に寄るような場所も教えておいた方がいいだろう。

 そう思って問うた藍夏に、海那は満開の笑顔を返してきた。


「はい、どうぞ」

 と、藍夏が差し出したのはお茶で、ここは彼女の自宅だ。

 あの笑顔を見せた直後、海那が指定したのは藍夏の家だった。自分から訊ねた手前、藍夏も断れずに今に至る。……ちなみに、海那の家――というかアパート――はここから近いらしいから、寄り道としても問題ない。

「図々しいとか言われない?」

 今朝会ったばかりの相手に言うことじゃないけど、と内心で自嘲しながら投げかける藍夏。

「言われたことないな」

「なら、人懐っこいとかは?」

「それなら何度も」

 緋田藍夏という人物を表の世界であれ、裏の世界であれ知っている者が見るなら、今の光景は少々珍しい。半日にして既に打ち解けたようなこの状況も、海那の『人懐っこさ』ゆえなのだろう。

「じゃあさ」

 ひとしきり笑ったところで、海那が少しだけ真面目な声を上げた。

「呪い師、だっけ? それを教えてくれない?」


 それから藍夏が並べた説明と、海那が返した疑問は二人が通う学校で一日に行われる授業分ほどはあっただろうか。

 ほとんど夢中で、というより必死で説明していた藍夏がふと気付いた時には、窓の外は暗くなっていた。

「……気付いてたなら言ってよ。帰りが遅くなるのは海那だよ?」

 藍夏の驚く顔を見て楽しそうに微笑む海那に、藍夏は少しだけ膨れっ面で言う。

「だって、こんなふうに誰かと話すの、なんだか久しぶりに思えたんだもん」

 悪戯の言い訳をする子供のような声音だったが、海那を非難できる立場の者はいない。

「分かった、今日は送る。さっきも言ったけど、夜は亜族と呪い師の時間だから一人で歩くのは危ない」

 傍から見れば女子高生なのだから一人でも二人でも大差ないように思えるが、藍夏は曲がりなりにもある程度の経験を持つ呪い師だ。女子供しか襲えないような呪い師に負けるつもりはなかった。

「え? 悪いよ」

「人の話、聞いてた?」

 遠慮は必ずしも美徳とは限らない。そう懇切丁寧に教えようとしたのだが、それは「藍夏もね」という海那の言葉に遮られた。

「送ってもらうのは悪いから、今日は泊めてよ」

 あっけらかんとした声音と表情。

 あまりに図々しい発言に、藍夏は二周か三周回って納得した。

「着替えはどうするの? って――」

 理屈で攻めようとした瞬間、自らの過ちを思い出す。海那のことで頭がいっぱいだったせいで、クリーニング屋に寄るのを忘れていた。

「……明日の朝送る。忙しくなるから覚悟しておくように」

 諦めて、そう呟く。

 しかし、あまり悪い気もしない。藍夏がこの家で誰かと夜を過ごすのは、とても久しぶりだったから。

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