六話 対魔戦闘
「――この辺りを縄張りとする魔物の首領を退治して欲しいのですよ。あの魔物は大樹の如く巨大な体躯と爪と牙が特徴の化物でして、こちらで処理するのは難しい。いえ、受けるも受けないも自由ですが、勇者が見逃していいものか。別にいいのですよ、どうにかして金を支払ってくれるのであれば――」
――そんな、奴隷商の言葉が脳裏に反響する。
現在、俺とリーゼは彼から少し離れた位置で話し合っていた。当然ながら彼の言う依頼についてである。その場即決で受けるにはあまりにもきな臭い案件だったため、こうして猶予を貰っていたわけだ。向こうもそこは素直に頷いた。
まぁ尤も、依頼を受けるか受けないか――そんな話し合いでは全くなかったわけだが。
「つまりこういう可能性が高い」
「えぇっと、それって私がご主人様に買われるまでが全部仕組まれていたってことですか?」
「ああ。最初から情報操作してたんだったら有り得るだろうよ、何せ俺の情報源はほぼ全てこの町にあるんだからな」
果たしてどこからどのようにして俺に目を付けたかは謎だが、勇者という情報を知ったのも奴隷市場という存在を知ったのも全ては人伝いが元。それもこの町にある知識でしか物事を知らず、俺は狂ったように情報を収集していた。どこか途中で情報操作があったならば、俺が奴隷市場へ赴き、一番戦力の高いこいつを見る機会が訪れる可能性は大いにあったろう。結果論だがな。
「お前が今まで買われなかった理由はどこにあったと思う?」
「なんででしょう。何人かは私を見に来ましたけど、買ってくださいーって言ってもすぐいなくなっちゃって」
「多分そいつは関係ない。奴隷商はお前に何をして、逆にお前は何をした?」
「ですから乱暴されたんですよ。いきなり服を脱がせてきて、それで殴ろうとしてきたので……思わず手が」
「そうだ、抵抗すると分かってる奴は誰も買わん。奴隷商はお前を見る奴らに釘を刺す形で説明していたんだろ」
「そんなことする意味あるんですか?」
「ある」
断言しよう。
奴も人間だ、珍しい奴隷を手に入れた時はさぞ気分も良かったのだろうと思われる。自ら志願してきた上に売り物として扱える容姿で特殊な戦力持ちだ、オマケに魔法まで使えるならそりゃ最初は喜ぶさ。
だが手を出そうとした時のこいつの反応で、考えを改めたのだろう――彼はもっともらしい言い訳を放っていたが。
最初からその手の用途の奴隷ではなかったはずだが、それを鈍らせるのはこいつの顔だ。評価するならば確実に良い顔の部類へ入る少女に、誰から見ても無垢で、おまけに垢抜けない印象も与えているのが一種の罠である。
蓋を開けてみれば全くそんなことはなく――こいつの実力など俺もその目で見るまではそこまで大仰なモノではないと思っていたのだ。あの奴隷商も正直、勇者とはいえ――と舐めていたんだろう。俺の右肩の鈍痛も証明している。
「奴らの顧客は金持ちだからな。最初はお得意様に商品情報を流しても、途中でお前を危険視してしまえば話は別だ。売れれば一度の利益は大きいが、大切な顧客が被害を被ると後の始末が悪い。責任が客にあっても信用を失うのは奴隷商で、商売ってのは長めに見るもんだからな。厄介な商品は普通処分してしまう」
しかし、処分するにはこいつは強すぎた。
何にも染まらぬ瞳に、透徹して徹底される勇者の意地。変な律儀さと頑固さを持つ彼女は“自らが売り飛ばされる”以外の要因で市場を抜けようとは絶対にしなかっただろう。殺すのは勿論、単に放逐するつもりもなかったろうが、この頑固さは彼らにとって非常に面倒に働いたはずだ。
話も聞かないのでは扱うことすら不可能に近い。
「だがお前みたいなのを易々と処分はできないだろう。お前は死ぬほど頑固だからな、どうせ人の話なんか何も聞いちゃいないに違いない」
「なっ、なんでそうなるんですか? 私どんな印象なんですか!」
俺の腕を見てから言いやがれ。
「で。そうなれば売っても問題ない奴に売り飛ばすことへとシフトする。責任は知らないやつに取って貰えということだ」
「それが、ご主人様……なんですか?」
「俺は最初から町を出て旅をするために動いていた。そいつを知っていたなら、お前を売りつけられる可能性として俺は十分だな」
俺は旅人で余所者、ついでに背後に裏のない一人者。味方も居ないままに次の町へ移動する為の準備をしているような奴だ。そんなの隠してはいないため、知ろうとすればすぐ分かる。
俺が魔物を退ける可能性があれば即座に食い付くであろうこと、多少危険でも当たってみようとすることはこれまでの行動からも予測は可能だ。
そもそも、誰であろうと人間側の危険よりも魔物の危険の方が高いと考えるはずだからな。奴らが事前に言いさえしなければ、俺がリーゼを最初から危険視することはまずない。
「だがそれにも一つ問題がある。肝心の俺にはお前を買うための金すらない」
「それなら、渡しちゃえばいいんじゃ……」
こいつなら絶対にそう言い出すだろうと思った。利益などという単語がこいつの頭の中には入っていない。
「お前は自分を売って金にしたんじゃないのか? 幾らになったか知らんが元は取らないと大損だろう。奴隷商がさっき言っていたじゃないか、俺がお前を買えるよう金を稼がせていたんだよ」
俺が毒と皮肉を吐いていたのはそれに気が付いたからだ。俺を狙ってきた連中が中途半端でまばらだったのは、端から俺を殺す気などないため。俺が連中の身ぐるみを剥がしてしまうような奴だったため、それを逆に利用してきたのだ。
――襲ってくる連中には全て紋章が無かった。自ら外していたというより、彼の言う通り不始末か何かで本当に剥奪された者だと見るのが正しいだろう。恐らくは俺を殺せば組織に戻してやるなどと焚き付け、本来彼らがするであろう後処理を完全な外部である俺にやらせたわけだ。
そして、俺が手にした金はこういった形で回収された。
「そんなこと言っていない気が」
「直接的にはな。ただ、普通なら俺が盗品売り捌いた記録なんぞ付けんだろ」
あれは俺がどれだけの金を貯蔵しているのかという記録だ。
彼が予想以上と言ったのは、俺が叩き売りなどせずに出来る限りの価値を計りつつ捌いたことにあろう。意味が分からない物はそれとなく、価値が分からないといった事実を悟られないよう売却したが、そうでないものは丁寧に売ったつもりだ。足も付かないつもりでやったが――最初から目を付けられていたのなら無駄な足掻きだったと言わざるを得ない。
「奴らは俺に大量の鉄屑を配って金塊へ変えさせ、元が取れる大きさになってから回収したんだよ。それだけで終わるつもりもなかったようだがな」
奴ら――いや、奴隷商のメインの目的は勇者だ。たまたまそこにいた俺など目的で言えばサブ。俺を利用し、とことん勇者から絞るつもりだったに違いない。
リーゼはリーゼの理念で動いている以上奴らの思い通りの命令には従わないが、それも理念に沿えば話は別だ。即ち、助けるべき存在――今回では俺がそれに当たる――が、救わねばならない状況に陥れば、人助けという形の上でリーゼは奴らに協力することになる。
「俺に買わせた後は、何でもいいから罪を擦り付けて縛るつもりだったらしいがな。ガラスの賠償金が終わったらまた別の借金が待ってるぞ。お前が変な部分で頑固に律儀なのは初見の俺でも理解したほどなんだ、奴らが使わない手などない」
奴隷になったのに町に危機が迫ろうとすればどうにかしようとしたり、普通ならトラウマ物の暴行をしてきた奴隷商の元から離れなかったり、それは最早人間の所行ではない。プログラムされた命令だけを遂行する機械のような――それを平然と行うこいつは、明らかな異質であった。
「そこまでしますか……? もしあの人が私を買うつもりだったら、私も従いましたけど」
「奴隷商が売り物を自分で買うわけないだろうが。同じ理由で仲間に買わせても意味はないし、そもそも俺の冗談にいちいち噛み付いてくるお前が、悪意丸出しの奴隷商共が放った命令に素直に従うのか?」
「で、でも。最初から魔物を倒してくれって頼んでくれたならそれくらいやりました。困ってるなら誰だって助けますし」
「自分で大金払ってまでやることがただの魔物退治だけ、ねぇ。悪人じゃ考えられんな。俺が奴隷商なら弱味を握り続けて使えるだけ使い、使えなくなるまで使い潰す方を選ぶ。そもそもお前が言ってることは『金を払えば魔物は倒してやる』ってことだぞ?」
「お金なんて貰いませんし……ご主人様は悪人ですかそうですか……」
「そんな話ではないし、俺は悪人でもなければ善人でもない――とにかく、だ」
俺はリーゼの両肩を叩いた。
「お前に協力して貰わなきゃならん。今すぐ俺に力を貸せ」
「ど、ど、どうしたんですかいきなり」
なんでそこで照れるんだ。顔を逸らすな、こっちを見ろ。
「お前を金にした奴はどこにいる? お前が奴隷商に抗うことで発生する障害はどの程度だ? 奴らはお前を使い捨ての手駒にするつもりだ――奴隷の契約はそのまま枷となるが、何もそれだけが人を縛り上げる要素ではない。契約に囚われないお前とて、大切な何かを人質にされりゃ従うしかなくなるはずだ」
「――っ」
リーゼは黙った。黙ったまま、俺をじっと見ている。そうだ、弱みは確かにあるはずなのだ。こいつがこいつであるならば、こいつを売って金を手にした奴のアフターケアを考えないはずはないのだから。
それを、逆手に取る。
「お前がここで奴隷商に反逆すれば、お前を売った奴は確実に奴隷商共から命を狙われるだろうな」
「そんなことしません!」
「そうか? ここで言う反逆ってのは奴隷商の言いなりにならないことだ。裁量は奴隷商次第――こじつけ一つでお前は反逆者だ。果たして矛先はどこへ向く?」
「……そんな、だって」
言い淀むリーゼは途中で言葉を取り止めてしまう。どうにか反論しようとして見つからなかったか。
彼女も分かっているはずだ、彼らが表面上は理知的な皮を被っていても、中身は欲望に忠実な輩なのだと。お前のように約束など律儀に守る奴らじゃ決してない。お前より確実に弱いお仲間を人質に取るなど、指先一つでやるだろうさ。
「今回はお前の矜持に免じて魔物の討伐は行うが、それ以上付き合わされる道理はない。奴らの目的が判明したならやることは一つだ」
俺は自分の言っていることに一つだけ疑問点を持っている。
いや……勇者が奴隷商の話を聞かないことは分かった。俺から金を回収する意図は判明している。
しかし――話を纏める上で、これだけは聞いておかなければならない。この程度のこと、奴隷商共が実践していないわけがないのだ。
「おいリーゼ。お前、奴隷商と会話はしなかったそうだな」
「そうですし、何回も言いました」
「だが会話はしなくとも聞こえていたんじゃないのか? 奴らは言ったはずだ、お前に。魔物が現れたと」
会話など最初からする必要がない。リーゼの性格を把握しているならば、魔物の一言で彼女が動くのは明白なはずだった。
そんな簡単なことを奴らが実践しないはずもない。
だが。やっと聞いてくれたかとでも言わんばかりに、リーゼは俺を見上げる。その瞳は、それまで泰然としていた彼女にしては珍しく不安げに揺れていた。
「その魔物ですけど――どこに、討伐する魔物がいるっていうんですか。気配なんてしません。どこにもそんな魔物は、いません」
「……なに?」
前提を覆すような返事が彼女の口から放たれた。
俺は思考を放り投げること数秒、何とか頭を整理して情報を纏めていく。――つまり、なんだ。
「それじゃあ奴隷商のアレはなんだ。仮にも依頼という体を取っているんだぞ」
「……知りません。でも、いないものは退治しようがないですし」
一つだけ分かることは。
奴隷商は一度それを実践し、リーゼが無視したということだ。リーゼが動かないならば、彼らは別のアクションを起こさねばなるまい。最初からリーゼを動かすためにそんな嘘を撒こうとしたのか――俺を通じてまで行う意味は、一体何なのか。
「……そうだな。倒すべき魔物がいなかったから動かなかったのか」
「はい」
「……ふむ」
俺は再び沈黙する。いや、本当に奴らの目的は一体なんだというんだ。ありもしない依頼を持ち掛けて、いやそもそもこんな面倒な手段を用いてまで接触する意味――本当に魔物が存在したのならまだしも、リーゼにこれ以上接近する理由がまるでない。
ある程度まで金を回収出来たのなら大人しく引き下がるのがベストだ。俺が結果として裏切り者を始末してやったのだからそれでお釣りが来たとも考えるべきだ。
「そろそろ戻ろうか」
「えっ。まだ、どうするか何も」
俺はそう呟いた。
答えは出なかったが、魔物がいないのであれば丁度いい。リーゼも相当に奴隷商へ疑念を抱いているようだし、ここは口車に乗ってやるとしよう。果たして金貨十枚分の働きはどこにあるのか……ぶっちゃけ魔物が相手でないのなら俺にはそう関係ないはずだ。
乗った上で、奴らの真意を探る。
――確かに放たれていた殺意には、未だ説明が付いていないのだから。
「依頼は受ける。魔物がいるかいないかは現地へ行って判断しろ。いないならいないでいいし、いるなら倒すのはお前の勇者としての役割だろう? それだけだ」
「――そう、ですね。はい!」
不安と疑念に混ぜながらも、リーゼは俺の言葉に鼓舞されるようにして頷いた。いないならいないでいい、いるならば倒せばいい、たったそれだけでリーゼが動く理由になる。
お前はそれでいい。他は俺がやるだけだ。
◇
「では頼まれて下さるのですね? ありがとうございます、お二方」
一度奴隷商の元へと戻り、きな臭さ全開の依頼を受けると伝えた俺とリーゼはそれぞれ戦闘の準備を整えていた。とはいえリーゼは各部の防具を少し手入れしただけで、主に俺が鞄から幾つかの武器を衣類の内に仕込み、弾薬を懐へと移しただけなのだが。
それでも黒い外套姿では戦闘面への不安を抱いた、らしく――リーゼは「大丈夫ですか?」と何度も訊いてきた。
「……うるさいぞ。お前は自分の心配をしろ」
俺はこの格好の方が都合がいいのだ。
確かに戦いに適しているとは言わないし、小回りを利かせるならリーゼのような動き易い戦闘衣を揃えるべきだろう。ただ、隠しておきたいモノが多い俺にとってそれはあまり喜ばしくない。
というか俺は剣士ではない。戦闘者ではあるつもりだが、一芸を極める武芸者とはまた違うのだ。そこまで身軽になる必要がなく、それよりは選択肢を隠しておく必要がある。尤もその戦い方が魔物相手に必要かどうか問われれば――それをわざわざ説明するまでもないか。
「案内をしろ。出現位置はどこだ」
「これから向かうのですよ。私共に付いて頂ければと」
奴隷商が指を弾いて合図をすると、勢揃いの面々が一斉に動き始める。奴隷市場が保有する私兵団――か。全員似たような装備をしており、腰には幅広の剣を帯刀している。魔導具らしき物も幾つか携帯しているのだろう、確かにそれらしい一軍だ。
彼らが森へ向けて歩みを進める中、ハゲ頭の男とこの中では一番に商人然とした男が後を付いてゆく。彼らは武器を持っていないようだが、さて。
「では行きましょうか。日没までには到着しておきたいものでして」
上を見れば空は橙色に染まり始めていた。太陽が落ち、暗闇がやってくるのもすぐだろう。
俺は一軍の最後尾を歩きながら、紅に染まり始める草木を見渡す。この先の森へ入れば、ただでさえ夜に差し掛かろうというのに背の高い木々が僅かな明かりさえも隠してしまい、更に視界は悪くなるだろう。野生の獣と戦うには適していない。
行軍する最中。俺は挑発的な、しかし同時に指摘するに足る言葉を吐きつつ奴隷商の反応を確かめていた。
「夜になったらどうするつもりだ? 視界が悪い中魔物と戦うってのは愚策だと思うが」
「確かに視界は悪くなりましょうが、夜間の方が丁度よいのですよ。何せ魔物は休眠状態に入りますから、動きが鈍い。それに一時的に魔力で光源を作っておけば、視界の悪さはそう問題にはなりません」
「お前達で倒せない割に随分な言いようじゃないか」
「それだけ勇者殿のお力を信じているのですよ。私共は全力で支援致しますので、どうかお願いします」
「……………………はい、任せて下さい」
長い沈黙の後、初めてリーゼは奴隷商へ受け答えを行った。ほとんど形式的な返しではあるが、それでも満足したのか奴隷商は笑みを浮かべる。
リーゼが返したことで、俺は彼に告げようとした言葉を取り止めた。“あれだけやって信じているとは”――いや白々しい。
信頼も信用もクソもないだろうに。
森の中へと進んでも現状に大した変化は訪れない。視界は暗く悪くはなったが、それでも集団の数名が魔力灯を起動したり手の平から魔力光を生み出している為に道を見失うことはなかった。
相変わらずリーゼは周囲を訝しげに睨みながら進んでいるし、奴隷商も俺もあれから一度も会話を行っていない。
そのようにして辿り着いた場所は、異様に開けた空間であった。そこは森というには異質に荒れており、円形に巨大な穴が空き、土色の固まりが砕かれて転がっている。爆弾物か何かで破壊したかのような――そう、ここだけは不自然に人工的な地形と言えた。何者かが力を加えなければこのような形状には変化しない。
俺はクレーターが始まる位置から数歩下がった場所にてそれを見下ろし、リーゼに目配せする。
しかし静かに首を横に振るリーゼ。魔力反応は感じられないということだろう。他の連中は各々クレーターの周りを囲んで、何やら手を翳すよう前に出している。
「まさかこの窪みにいるってんじゃないだろうな」
「その、まさかですよ――」
ずん、と。
大地が強烈な振動を引き起こした。俺が奴隷商から目線を移せば、一軍の集団が両手に輝きを灯していた。赤く黒く、鈍く輝る魔力光。クレーターの中心地からドス黒い煙が渦巻き、それは確かに巨大な何かを形造り――。
「――ご、ご主人様っ! 逃げ――」
リーゼの叫びが耳を貫いた。
だがぷつりと、暴風が如く放たれた振動の音に叫び声が切断される。一瞬にして無音になった世界。亜空間にでも飛ばされたんじゃないかと錯覚するほどに大地は色を変えて、
《AAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!!!》
森が、悲鳴のざわめきを帯びる。
――赤いマグマのように。強大な赤を身に纏いて、件の魔物は現出した。
「……こいつが」
俺は魔物を見たことが一度もないわけではない。それでも、動物程度の存在だった。決して俺の身の丈数十倍はあろうかという本物の化け物の話ではない。白銀色が宙を舞い、夜空を引き裂く爪と牙。天すら覆う漆黒の翼は外界の光を差し押さえ、ぎょろりと真紅の眼がこちらを睨み据える。
「ふむ。では、もうよいでしょう」
果たしてその男は言った。
俺の背後を陣取り、湛える殺気を解放した男――奴隷商は、赤と黒のコントラスト入り乱れる悪色の魔力を解放して。
なるほど。
――最初から裏切り、いや闇討ちは行われると思っていたさ。だがちと、規模が大き過ぎる。
「そうか、お前。こいつが狙いで……」
見るまでもない。俺とリーゼを除く全ての人間は、クレーターから溢れ出る災害級の魔物など、興味すらないとでも言いたげに意識の外に置いていた。何故ならば魔物はリーゼにのみ狙いを定め、既に戦闘を始めてしまっているのだから。
では残る意識はどこに集中している? 決まっているだろう。
「みすみす逃すはずがないでしょうに。彼女にはここで、死んで頂きます。もっとも――」
「俺を殺すためにそいつら全員が必要だったか。大層な真似を」
「――ええ、ええ、あなたにも死んで貰いますよ。勿論」
周囲に奴隷商と似た、赤色の魔力が迸るのを視界端に入れる。俺は苦笑さえしなかった。無表情のまま一度だけ舌打ちをし、懐から得物を引き抜く。
こいつら端から、俺もリーゼも殺すつもりだったのだ。動きが不自然だったのは――いや、不自然だと勝手に俺が勘違いをしていたのは、俺の思い描いていた予想と大きくかけ離れていたため。
――魔物を召喚しやがった。
リーゼが魔力を察知できないわけだ。こいつらがその魔物を出すなどあいつじゃまず考えない。ましてや俺は、そんな芸当が出来る等とは露ほども想定しなかった。落ち度ではあるが、どうしようもない。人類の敵である魔物を自ら呼び出し、勇者を殺そうなどと。
誰がそんな答えに辿り着く?
「大規模な仕掛けだ、お前ら最初からリーゼを……いや、勇者を始末する気でいたな」
だが限りなく最悪の場面に出くわしてしまった。リーゼの声はもう届いてはこない。魔物の咆哮と振るわれる攻撃が尽く森林を破壊する様を視界の奥に捉えると、すばしっこく回避し反撃を繰り出すリーゼが一瞬だけ目に止まる。彼女の瞳は、俺とそれを取り巻く状況に――目を見開いていた。
もう遅い。お前はそっちの魔物に集中していろ。
「――何しでかすつもりだ。世界征服でもするか?」
「全ては御心のままに。運悪き旅人よ、せめて一瞬で、痛みなど与えずに葬り去って差し上げましょう」
数十人、殺意の飽和する四面楚歌。
単体から数人までなら相手取れると自負する俺も、流石にこの数は宜しくない。対処とか以前に、あの事務所の状況よりも最低最悪の案件だ。
魔力を有さない俺では今この戦況を正しく認識できないが。少なくともリーゼが驚愕する程度には、絶望に満ちているのだろうな。
「死ぬのはお前だ」
今回――俺を守るリーゼは、いない。
かちん、鉄の砲身が撃鉄を起こす。
弾ける火薬と硝煙が空気を散らした時、既に俺の視界全ては紅蓮の魔力で埋め尽くされていた。




