五十三話 魔物話(中)
「やっと着いたね」
「本当だよ、全く君が適当に歩こうだなんて言うから」
「道なりに歩いていただけなのに、こんなに遠いとは思わなくてね」
「まぁ、だって町の二つくらいは素通りしていたし」
「……なんで教えてくれなかったんだい」
「折角だし、ウチも道に迷いたかったんだよ。迷った末で、知らないところに到着できたら――それは幸せじゃない?」
「それはよく分からないけど」
青年と彼女は、小さな村の前で一息吐く。
――化け物と贄の騒動があったあの村、ではない。
青年が化け物を倒し、二人は晴れて自由の身になった。そして、連れ立つパートナーとなった時、あの村からは消えることにしたのだ。
それがいいし、そうするべきだろう。
祠でのことが知られれば村は大騒ぎになる。けれどそれを伝える必要はない。村で生きる青年と彼女は贄となり、死んだのだ。
今の二人は村の住人ではないから。
倒れたところを助けられた借りは化け物退治で返した。
それ以上は、何もしない。
「じゃあ、入ろうか」
「うん」
今の二人は、ただの旅人である。
旅人をやっている者は珍しくはなく、二人が村に寄ったところで別段珍しがられることはない。
世界はそれほどに広く、こうして渡り歩いた先で仕事をこなして次の村や町へと出発する者は割合いるそうだ。
二人もそれと同じ口。しばらくは色々世界を回って生活を続け、定住の出来そうな所があればそこに居着こうと思っていた。
何せ宿屋が村にあるくらいなのだ。
人間の栄えている場所は、まだまだ少ないのだろう。
二人は、そうやって旅を続けていた。
一つの居場所に滞在する期間は短く、仕事が無ければ一泊もせずに次の場所へと旅立ってしまうことさえある。
そして――二人は、行く先々で問題に見舞われた。
果たしてそれはただの偶然なのか、運命なのか、そうあるべくして青年の方から寄ってしまっているのか――それは、分からない。
けれどその数は人が生きていくに於いて、あまりにも多い数であることは――確かだった。
ある時は干ばつに苦しむ村で。
「ここ一年、全く雨が降らないんだよ」
乾燥し、ひび割れた大地を蹴って老人が嘆く。
日照りが目に痛い。
「昔は降っていたんですか?」
乾燥した空気がからからと、喉を焼く。
「そんなに多くはないが、降っていた。けど、少しずつ減っていって、最後にはぱったり止んじまってあっちゅうまに不毛の土地さ。作物は全部枯れ、次第に村から人すらも減っちまった。お主らもこんな村、早く立ち去るといい」
「おじいさんはここから出ないんですか?」
「残ってるのは儂らのような頑固者ばかりだ。今更移住なんぞする気にならんわ、ここで死ぬならそれでいい。そんな奴らしか残ってない」
老人の言うとおり、空き家が大半を占めていた。一目で風化していると分かる家も見受けられる。
村の現状にうんざりした住人が他の町へと逃げてしまったり、若者も散っていったのなら――近い内に、この村そのものが地図上から消滅することになるだろう。
青年は地面を見る。
乾燥し切ってしまい、ひび割れも酷い。砂漠化が進んでいて、植物も圧倒的に少なくなってしまっていた。
土地そのものが駄目になっている。
これではサボテンくらいしか育たないだろう。
二人は休憩する間だけと、老人から空き家を借りた。
放置された室内。床を適当に掃除してひとまず過ごせる環境を作り、荷を置いてくつろぐ。
壁と天井があるだけ、野宿よりはマシなものだ。崩れて落ちてこなければ、だが。
「にしても……君と一緒に居ると、なんだか飽きないね」
「それ皮肉か何かかい? 望んでこういうところに来るつもりはないんだけど」
「知ってる。この前の村は洪水に遭ってたっていうのに……今回は正反対だね」
「この村が洪水に遭えば皆喜ぶだろうに」
「洪水は嬉しくないんじゃないかな、全部流されちゃうよ」
「何事にも限度は必要か……さてと」
時々、青年は魔法を使う。
自分では、人間の力ではどうしようも無かった時、青年は魔法で物事を解決することがある。
この前の村で過ごした時は豪雨による川の氾濫に直撃、結果大洪水に遭った。
どうしようもなくて、魔法で土壁を生み出して水の流れを村から遠ざけた。
更にその前の村では獣の群れがタイミング悪く襲って来て、仕方なく魔法で対処する羽目に遭わされた。
特に何もない村や町で過ごすことの方が珍しい具合で、普通に考えたらもうあり得ないといってしまっていいだろう。
彼女の言動がその証拠だ。
いずれも村の人達には感謝をされ、食べ物を分けて貰ったり直接金を貰ったりなどして――まあ、金には全く困らなくなっているのだが。
青年行くところに災厄あり、になってしまっている。
もう平和な場所なんてどこにもないんじゃないかと思えるほどの災害発生率だ。
世界全体から見てそんな異常事態が起きることなどが圧倒的に少ないのは分かっているのだけど。
あってたまるかという話だ。
別に青年は村の為に魔法を使っているわけではない。あくまでも自らの、彼女の身を守る為に仕方なく魔法を使っているに過ぎない。
大洪水だって放置すれば流されて死んでしまう状況だったし、獣の群も生半可な数ではなくて、多少の人数で討伐可能な数では決してなかった。
青年が魔法を使う時は、自分の為にと決めていた。彼女を守るのだって自分の為だ。知らない誰かの為に使ってやるつもりもなくて、しかし結局のところ変な噂を呼ぶようになっている。
――災難ありし所に救世主あり――。
旅の先々でそんな噂が流れた時、青年はふとその中身に耳を傾けて「自分の事だ」と気付いてしまった。
それはそうだろう。彼女以外に直接魔法を見せてはいなかったが、青年が現れた村のほとんどが壊滅的な被害に遭い、そのほとんどに魔法のような現象が突然起きて、解決してしまっているのだから――。
その全てに関わっている青年という存在が救世主としてもてはやされるのは当たり前と言っていい。尾ひれが付いてどんどん話は膨らみ、噂は広がり続けている。
町に出れば“救世主”が助けたという新しい話が必ず聞ける。
その話に出てくる救世主と本人の性格がまるで違うのが不幸中の幸いか。また救世主は女であるとの噂も立っているが――。
つまりはそういうことなのだろう。
それについて彼女は特に何も言ってはいない。
救世主呼ばわりされていることには気付いていて全くおかしくはないのだが、彼女は青年の魔法のことを知っているのだ。
魔法が破壊の力であることを。彼女も本心では魔法が何でも出来てしまう便利なものだとしか思っていないのかもしれない。けれど、話はした。彼女はその言葉を信じた。
だったら、積極的に使おうとしない青年の気持ちは分かってくれているはずだ。
救世主などと――そんな名誉な称号は、ならば邪魔でしかない。
その噂を風化させるためには、魔法を使わないことが一番なのだけど。
「ここは道の通過点に過ぎないからね。村の人達には早いところ移住した方がいいとだけ言いたかったけど、先に釘を刺されちゃ何も言えない。私たちは次の町に急ごうか」
「そうだね。じゃあもう行くの?」
「ああ行こう。何だか嫌な予感もするし、疲れを取ったら次の町へ急いだ方がいいと思ってね」
家というのはそれだけで安心感がある。
一刻も休憩していれば十分に足の疲れは取れてくる。
ふくらはぎの辺りを揉みほぐし、少しの休憩を経て青年と彼女は家を出る。
別れ際、別に彼のというわけではないが家を貸してくれた老人にはささやかなお礼として飲み水を少々分け与えようと――。
ふと、視界の端に映った何かに青年は目を傾けてしまう。
――遠くから、大規模な竜巻が向かってきていた。
無論、こちらに。
「あー……やっぱりか」
「凄い速さでこっちに来ているみたいだけど」
「もうちょっと出るのが遅かったら危なかったかもしれない」
彼女が驚かなくなっていること自体、悪い兆しだ。
どうしてこうも自分にばかり不幸が舞い込むのか。
本当に、やってられない。
それからもしばらく旅は続いた。
二人とも若かったのもあって、体力はあったのだ。
忍耐、と差し替えてもいい。
二人が旅をするのは当初と何ら変わらず、安住の地を探すこと。
それはたまたま降り掛かる災厄のせいで何故か見つからないのもあってか数年も旅を続ける結果となってしまったのだが――最終的に、二人はその地を見つけ、住み着いていた。
そこも、田舎の小さな村だった。
はぐれ者の異民族達が集まって暮らしている集落で、二人は歓迎された。
最初は数日泊まっていつものように日銭を稼ぎ、また旅に出ようと思っていたのだが――それが案外居心地がいい。
一日、また一日と過ごしている内――そこに定住するようになっていた。
気が付けば二人は家を持っていた。
立派とは言えないが、二人で暮らすには十分な大きさの家。
村に働きに来ていた大工と仲良くなり、材料は青年が提供することで格安で家を建ててくれることになったのだ。
村の端ではあるけど、村長の許可も軽いもので。
そうして小さな村が少しだけ大きくなり、家が一つ増えた。
村では農業も営んでいるが、商業が盛んだ。
様々な場所から集まった異民族という知識が有効に活用されていて、方々のコネを利用して商売を続けている。
行商がここから出発し、金を稼いで最終的に戻ってくるのだ。その繰り返しである。
コネと言っても細かな友人の伝程度であるのだが、金が回る確かな実績があればこそ喜んで商品を売ってくれるだろう。
小売業、という奴だ。
小さな村からのため知名度はめっぽう低いが、色んな場所を渡り歩いて売り切るその実力は影ながらに評価されている。新しい開拓こそ薄いけれど、強固な結び付きを持つ生産元の常連で成り立っている商売だった。
そんな世界で、二人はしばらくやっていた。
二人がそれまで旅してきていた知識も十分に発揮され、慣れないながらに何とか商売が立ちゆくようになった。
最初は誰かの手伝いといった形で仕事をしていた青年も、一人立ちするようになってからは一人で行商を続けるようになった。
今までは稼ぎこそあれ不確定だった金稼ぎも安定するようになったが、代わりに青年と彼女は少し離れるようになっていった。
彼女は家を守り、青年は出稼ぎに出るようになったからである。
仲違いを起こしたわけではない。喧嘩はあっても、そのままずるずると引きずることはなかったからだ。
仕事から帰ってきては仲良く食卓を囲い、青年が行商する際の旅話をし、彼女は村での話をし、一夜を共にしてまた仕事に出る。
そんな日々。
以前旅をしていて頻繁に使わざるを得なかった魔法も、定住してからは極端に減っていった。
青年自身喜ばしいことであったし、自分に居場所が出来たことに誇りを持っていた。
勿論、その理由には守るべき彼女が傍にいないことも大きかったのだろう。一人でなら多少の無茶をして魔法を使わない努力も出来たし、しかし代わりに村に残してしまう彼女のことに心配をしていたが、そこは安心のできる土地であった。
人の層も含め、二人が選んだ居場所だったのだ。
残した彼女に何か大事が起こることはなかった。
そうして青年は歳を重ねて青年ではなくなり、一人の夫となっていた。結婚したのだ。
他の人から見れば既に結婚していたも同然であったのだが、夫が正式なプロポーズを告げたのは、生活が完全に安定した頃であった。
また月日が経ち。
――妻が、妊娠した。
発覚したのが妻のお腹が膨み始めた頃で、夫が知ったのは少し後のこと。
妻は分かって貰えるまで黙っているつもりだったらしい。
家にそこまで居ないせいで発見に少し遅れてしまった夫だったが、寝室で気付いた夫に妻が打ち明け、二人で喜びを分かち合った。
より一層夫は仕事に励み、妻のお腹はどんどん膨らんでいった。
お腹の子供もすくすくと成長していった。
時にはお腹をさすって、お腹の中から生きている証を感じて声を掛けたりした。
――出産の時は、夫が万全に用意した体制で進められた。
出産に近付くにつれて動けなくなっていった妻の代わりに、夫が色々声を掛けて出産する準備を自宅に整えたのだ。
村の人達も協力してくれて、経産婦の力を借りて出産に励んだ。
――いざ立ち会うといった場面でのことに関しては、終始慌てていた夫は情けない姿を見せていたのだけれど。
――丸一日の奮闘の後、無事に赤子は生まれた。女の子だった。
妻の汗をタオルで拭ったりただ手を握ってやるしかなかった夫も、息きも絶え絶えに、しかし安堵の表情を浮かべる妻を見て同じように安堵し、目の前で清潔な布に包まれる赤子をまず妻が抱き寄せる。
その後夫が抱き、二人して泣いて抱き締め合った。
三年が経った。
娘はすくすくと成長し、母親となった妻は父親となった夫と一緒に子育てに励んでいた。
相変わらず二人は喧嘩はするし沢山言い合いもするが、非常に仲のいい夫婦として村では評判であった。
夫は行商の仕事を続けていて帰ってくるのは月に一度だったり短いと数日に一度だったりとバラバラであったが、帰ってきた夕刻から夜に掛けては必ず娘と遊んでやり、娘が寝た後は妻とお馴染みの会話をするのだ。
休みの日は家族で小旅行に出掛けることもあった。
幸せな日々だった。
夫はそれで幸せだと感じていたし、妻も――幸せだと、感じてくれていた。見せる笑顔も本物で、一緒に過ごして楽しくて。
彼女と出会って、本当に良かったのだと夫は思う。
――そこで終われば、良かったのだが。
終わるわけがなかった。
一度犯した過ちのツケは、いつか必ず返ってくる。
それが、どんな形であろうとも。
「なぁなぁ行商さん」
「うん? 私か。なんだい」
「“救世主”、探してるんだけど――行商さん顔広いだろうし色んなとこ回ってるじゃん。何か知らない?」
仕事先。
それなりに大きな町。
後ろから肩を叩かれて足を止めると突然軽薄な声でそんなことを言われ、久しぶりに青年――から一児の父になっていた彼は、眉をひそめた。眉間に深々と皺を刻んで、その台詞を放った軽薄な面をした男を睨み付けてしまった。
「あまり好ましい口の聞き方ではないと思うよ。私と君は初対面だ」
だからそう言って、怒りの理由を誤魔化した。
言われた内容に驚いてしまったことを、咄嗟に隠すようにして。
「あーそれはごめん。でも俺こういう性格なもんで、許してくれっての。行商様」
「私はもう行く。人を馬鹿にしたいのなら、もっと相手を選んだ方がいい」
「だぁちょっと待ってってくれよ。なぁ? 何でもいいからさ、ほんのちょっと断片的なことでも教えてくれればいいんだよ、一時期有名だったって話は聞いてるぜ? オジサンその頃俺みたいな全盛期っしょ? ロマンとかないの?」
「ロマンがどうとかは知らないけれど、私がもう少し短気だったら君を殴っていることだけは確かだよ」
そんな争いの火種、魔法すら使わずに起こすつもりは毛頭ないが。
相手にしないのが一番。
本当ならば怒りすら浮かんでいない。
ただ怒っている振りを演じているだけだった。
しかし――救世主、とは。
彼は考える素振りをするために顎に手を添える。
考える内容は救世主のことであったが、その在処や噂について探しているわけではない。
そもそも救世主と呼ばれた存在は彼そのものだ。
けれど――その噂自体、彼が父親となる少し前ほどから少しずつ話題性を失い、彼が魔法を使わなくなることで薄れて風化していったはずだ。
それが今更になって急にぶり返すなど――この少年と言っていいのか分からない軽薄な面だけがその話を探っているのだとは――あまり、考えられなかった。
少し“嫌な予感がする”。
最近になると最早そんな話があったのか分からないほど、一度も話題に上がらないような話題であったのだ、が。
目の前の少年は整髪料で上げた髪を、右手で更に掻き上げた。
この土地では一般的な緑色の髪だ。
住んでいる半数ほどがそんな髪の色をして、エメラルドのように輝く瞳が特徴的な人種。少年の目が、彼を見つめる。
「ねぇねぇオジサンってば、わわ片手を振り上げないの! そんなことしたらこれからの旅商売に支障でちゃうよ? いいの?」
「別に殴ろうとしたつもりはないよ」
脅かそうとしたのもあるが――単に、その視線から目を逸らしたかったのが理由としては一番だ。
「とにかく仕事の邪魔だから。ほら、君にはこれをあげよう。亀裂が入っていてこの果物は売れないから」
「厄介払いってやつ? そんなものは要らないよ。さてはオジサン何か――俺に隠しているね?」
「――何故、そう思うんだい?」
一瞬言葉を溜めたのが悪かったのか。
聞き返してしまったのも悪かったのか。
もしかすると何をしても同じことを言おうと思っていたのかもしれない。
少年は、舌で唇をちろりと舐めてしたり顔をする。
「そんな臭いがするんだ、俺の勘ってやつよ。オジサンから何かそんな感じの臭いがプンプンしてる。言っちまえば知ってそうな顔をしていた。俺の勘はよく当たるんだ」
「……その勘は大外れだと思うけどね。私はそんなものは知らないし、興味もなかったよ」
――何故なら自分が本人だ。知っているも何もない。
少年の勘はその点で大当たりでもあるが、言っていることを加味すると全くの大外れである。
「ふぅん、分かった。なら取引しよう! オジサン行商人でしょ、お金払うから情報くれ――どう?」
「私は行商ではあるが、情報屋ではないよ。それにオジサンでも――」
いや、そこは訂正すべきところではない。
少年から見て自分は既にオジサンであるのかもしれないし、もうなっているのかもしれなかった。
「……私に聞くより本筋の情報屋に聞いた方がいいんじゃないのかな」
「あぁ無理だそれは無理、だってたけぇもん。アイツら、情報は安く売れねぇって追い返しやがる。俺がガキだからってだけの理由でな」
「それで道歩く行商をターゲットにしているのなら止めた方がいいね。はっきり言って迷惑だよ」
言い切って、止めていた荷台のストッパーを外した。
少年など無視して進もうとすると、慌てた様子で前に回り込んでくる。
彼は溜め息を吐いて、少年に一つだけ尋ねることにした。
少年の長話に反応してやるんじゃなかったと半ば後悔をしつつ。
「君はどうして――その、“救世主”とやらについて調べているんだ?」
「あ? そんなもん決まってんだろ、まさかオジサン知らないの? 独占しようとしてたんじゃなくて? 本当に全く興味なかったり? まあいいや、実は救世主見っけたらなあ――」
――大金が貰えるんだ、と。
彼の顔にこれまでにないほどの、歪みが生まれる。
「よっしいい情報オジサンに教えたからな? じゃあこうしよう、俺と一緒にそいつ見つけて手柄山分けってのは――どうよ。それなら教えてくれる?」
少年はそう言って、軽薄に笑ったのだった。
勿論そんな提案は断った。
それでもしつこかったのだが、拒否し続けると少年は残念そうに去っていった。
仕事帰り、そのことを妻に報告すると「気にしなくていいんじゃない」と普通に返ってきた。
そうなのかもしれない。
たかが少年の戯れ言だ。
そもそも夫は魔法などもう使ってはいないし、所詮は過去の話である。
実在するかも分からないような救世主を探すなど、砂漠に落とした宝石を探すようなものだろう。
見つかりっこないのだ。
あの時の青年は、もう既に青年ではなくなっているのだから。
「ぱぱ、ぱぱ、顔色悪いよ? 大丈夫?」
「うん? 大丈夫だよ」
心配そうに駆け寄ってくれた娘を抱き上げ、頭を撫でてやると嬉しそうに胸に顔を埋めてくる。
三歳になった娘は言葉も達者になってきてよくやんちゃを起こすが、可愛い一人娘だ。
本当はこうしたかっただけなのかもしれないが、こうして心配してくれているのを見ると、涙が出そうになってくる。
いい娘だ。
「ご飯でも食べようか」
「うん! 一緒にご飯楽しみ!」
「久しぶりだからね。たまには子守歌でも唄ってあげよう」
「フフ、でもパパは歌が下手だからねー」
「そ、そんなにかい?」
――金。
少年の言った言葉が、脳裏によぎった。
救世主を見つけた対価に金が貰える。それも大金と言うからには――少年の言う大金がどれほどの量を指すにしても、ここではあまり関係がない。
救世主を、誰かが金を払ってまでして探しているということだ。
一体誰が?
夢幻のような語りでしか現れないような眉唾の話に、何故そこまでする?
思い当たる節はなかった。
まるでなかった。
それは寝る寸前まで頭の片隅で考えていても、変わることはなかった。
次の日、夫はまた仕事に出掛けた。割合近くの町にはお得意様が多く、商品の受け取りに行くのだ。
それを荷台に積んで、今度は売りに出る。
あの少年の姿と再び相見えることはなかった。
別に少年がいた町へと出ていたわけでもなかったが、何となく鉢合わせしてしまうような気がしていたのだけれど。
――しかし、少年と会うことはなくても、噂は常に向こうからやってくるようになっていた。
他人の会話に“救世主”というワードが浮上している。
客との世間話中、その日は二回“救世主”について尋ねられた。本当に些細な質問で、少年のようにしつこくはなくあっさりとしたものだったが。
村と町を合計三つほど経由し、その日小さな村の宿を借りていた彼は、本当に噂が復活してしまったのだと思った。
だがこの時はまだ楽観視をしてしまっていたのだろう。
――噂は噂でしかないと。
――即ち、自分に辿り着くことはないだろうと。
この時はまだ、そう思っていた。
次の日は、一際大きな町に向かって商品を捌くことにした。
日持ちのしない野菜類を売り捌くためである。食物でも干物類はそこまで急ぐ必要はないのだが、荷台の上でごろごろと転がさねばならない以上痛む物も出てくる。トマトなんかはよく潰れてしまうし、傷が入ればそこから腐って売り物には出来なくなる。
そのため、なるべく早く売りたい時には町へ繰り出す。
同業者も多いためただ町へ出れば売れるわけでもないが、絶対数が多い町では食糧品はそこそこに売れる。逆に町では鉄器などを仕入れる機会が多く、それが村などでは良く買われる。
そういう道具類はともかく食糧は売れ残って腐ってしまった分だけ直接的な損失に繋がるため、こうした商品を運ぶ時は優先的に売りに行くのだ。
その先、数十日の後。そこで辿り着いた町で――ようやく彼は知る。
誰が“救世主”を探していたのか――どのような意図で、調べているのかを。
「――な、なんだ、って……?」
あまりにも衝撃的な事態過ぎて、一瞬息を飲み込んだほどで。
彼は仕事を途中で切り上げて村へと戻る。
――国が大々的に救世主を――自分を調べているなどとは、まさか夢にも思わなかったのだ。
とても危険なことだ、と。
その時彼は危機感を覚える。
しかしそれは遅かったのだ、と言えよう。
何故なら村に帰った時、既に国の使者と思しき高貴な衣類を着用した人物が――家の前で、待機していたのだから。
規模は五キロほど、円形の分厚い城壁で守られた王都が中央大陸の中心にある。
特徴は城壁の外から巨大な王城が聳えているのが見えることで、内壁の端まで余すところなく城下町が続き栄えているような、およそ人口の五十万人以上も住む国の首都である。
――そこに、彼は招聘されていた。
しかし半ば強引に連れられるという形で、運ばれてきたのだが。
荷物など持たせてもらえず、精々持ち物と言える物は己の着用する衣類程度である。
まず城門を通るにあたって全身をくまなく調べ上げられ、隠している武器などの持ち物がないかを確認された後に彼は王都へと入ることを許された。
招聘されたにも関わらず、そこで初めて許されたのである。
入ることを望んですらいないのに、王都へ入る許可を得たのだ。
笑えもしない。
彼は生まれてから一度も王都に入ったことなどなかった。
王国から正式に認められていない商人以外――もっと言えばその国から出る商人以外の全ては、立ち入ることすら出来ないからだ。
荷車を引いて訪れようものなら当然突き返され、下手をすれば縛り首の刑に遭うこともある。
王都へ入るには貨幣ではない特別な金製の硬貨が必要であり、それを持つ商人は王都の中にしか存在しない。
外来の商人に技術を盗まれることを恐れてのことでもあるのだろう――裏を返せばその硬貨さえ強奪すれば都市に入ることは可能ではあるものの、私兵を連れ歩く商人からそれを強奪するのは不可能に等しい行為だ――そういった厳しい制限があるからこそ、彼は今まで足を運ぶことはなかったのだ。
彼が今回王都へと入ることが出来たのは、呼ばれたからだ。
誰と言えばこの国の王様が直々に、拒否する権限など彼にあるはずもなく半ば無理矢理に強制的に同意をさせることで今回王都へ足を運ぶに至っている。
経緯は、こうだった。
「――私は王より派遣された使者である。ご同行願おう、国王陛下は救世主を所望しておられる」
家の扉の前を陣取っていたその使者は、彼が来るなり上からそう告げてきた。事前にその情報を知っていた彼であったが流石に狼狽えざるを得ず、返答に困っていると使者が何やら不機嫌がちにそう言った。
見てくれからして上等な貴族か、通常生きている分には彼が一生会うことがないような人物なのだろう。
辺境の土地へと足を運ぶだけでもご足労だろうに、その上呼び付ける人物を待たされて、それがボロの布を纏っただけの商人だとは――苛立ちは、そこから来ているのだと思われる。
思えば村は、騒がしかった。
異民族の集まる村とは様々な事情が絡んでいるということ。それだけ裏の事情が絡んでいるということだ。
なので厄介事が発生した際に時々村が騒がしくなるものだが、今回は騒がしいというか――不気味であった。入るべきに気付くべきだったのかもしれない。
どのみち、遅かったのだが。
「救世主とは、最近噂されている人のことですか。それは、私ではありません」
彼は咄嗟に嘘を吐いた。
――正確には嘘ではないが、少なくとも彼は本当のことを言わなかった。過去の噂で祭り上げられていた救世主と彼は全く違うものだ。故に彼は救世主とは言えない。別に救世主として動いたわけではなかったのだから。
「貴様が救世主ではないと? そんなはずはない、隠そうとしても無駄だぞ。貴様が件の救世主であることは割れているのだ」
「そんなことを仰られても、私にはどうすることも出来ません」
それが自分だとバレてしまうわけにはいかなかった。
国を挙げてそんな存在を探すなど、理由は一つしかない。
――魔法――。
そんな噂を、鵜呑みにして。
「ふむ。では少々手荒な真似をしても、こちらが許される立場であることをまず知って貰おう」
使者は何やら片手に持った紙面を眺めつつ、右手で彼の自宅の扉を叩いた。
同時に――妻と娘の短い悲鳴が聞こえ、彼は固まった。
扉が開き、鋼の鎧に身を包んだ兵士達がぞろぞろと出てくる。
自宅からだ。
その中に、妻と娘の二人も紛れていた。
二人とも手枷と口枷を嵌められ、兵士達に押されるようにして彼の前へと晒し出される。
その前に使者は歩み出て、腰の剣を引き抜いた。
「こういうことだ。私がその気になれば、いつでも首を刎ねてやることが出来るのだぞ。貴様は救世主だ、そうでなくてはならない――」
一度紙面に目を落とし、それから再び彼を見据えて続ける。
「それでも否定をするなら、この女と子供の命はないと思え。何、我々と一緒に王都へ同行してくれさえすればそれでいいのだ」
「――く。妻と娘に、何をした」
「していないさ、今はな。これは選択ではない、命令だ。でなければ女と子供の首は刎ねる――もしも貴様が本当に救世主ではないと言うのなら、ここで死ぬのが運命だということだ」
――息を、呑む。
関係ないのだ。彼が救世主でなければ、本当に死ぬ。
この使者はそういう眼をしていた。
もしも本当に違ったら全員を殺して、また別の場所へ赴けばいいのだと。もしも本当の救世主ならば、どうにかするだろうと。
きっとこれが初めてじゃない。
――その紙面に書かれた内容は救世主の特徴か?
そんなもので、今までそれで、一体何人を殺してきた。
妻の首に鋼の刀身があてがわれた。
「分かった――私は、救世主だ。先程の言葉は嘘だと、ここで謝ります」
「ほう、そうか。そいつは大きく出たな。しかし私は用心深い男でね。貴様が嘘を吐いてるかもしれないだろう? 命が惜しくて救世主と騙っているだけの――偽物かもしれない。ここは一つ、村を何度も救ったお得意の魔法を見せてはくれないだろうか?」
「――魔法というのは。軽々しく、誰かに見せるような代物ではありません」
「成る程それで今まで隠し通してきたのだな、救世主。つまり、貴様の妻と娘の命は軽々しいということか――やれ」
兵士が首にあてがった剣を、
「――分かりました」
彼は顔を歪めながら、地面へ指を差した。
――瞬間、何もない大地が燃え盛った。使者と彼を分かつように上がった火炎は空中を焼き、輝きと熱を放出する。
「これが、私の魔法です」
「おお、おおお……! 噂は本当であったか、素晴らしいぞ救世主よ。だが、地面に仕掛けを施していただけかもしれない。火を生み出すだけではないのだろう? 他にも是非とも見せて欲しいのだが」
「……これでは駄目でしょうか」
「駄目だ。たった一度の奇跡で思い上がられても困る」
彼は更に顔を歪め、指先から水を生み出した。それは何もない空中から滝のように水の流れを落とし、火炎を打ち消してゆく。
「……これで、信じてくれましたか」
「おおおおお……ようやく本物に出会えたか! 信じよう救世主、では――私と一緒に王都へ来てくれるな」
「分かりました。その前に、妻と娘を解放して下さい」
彼の言葉を聞くなり、使者は右手で合図を送って妻と娘の拘束を解かせた。乱雑に投げ出された二人は転げそうになりながら放され、娘は大量の涙を溢して泣き妻が強く抱き締めた。
「さて時間が惜しい、行くぞ救世主よ」
「使者殿。その前に積み荷の整理だけさせて貰ってもよろしいでしょうか」
「そのような時間はない。一体私がどれほどこの場所で貴様を待っていたと思っている? これ以上待たせるつもりか」
使者が機嫌を悪くしたのとほぼ同時に、有無を言わさぬ言葉で切り返す。
「――ご安心を。これも披露する魔法の一環ですから」
彼が両手を荷車へ翳す。
――積まれた荷物が、掛けられた布を剥いで宙へと浮かび上がった。独りでに空中を旋回し彼の家へとなだれ込むように入っていくそれらを、使者と兵士の目が追う。
「お、おおう……これは、夢でも見ているようだ……」
その隙を縫って妻と娘の元に駆け寄り、小声で伝える。
「逃げるんだ。恐らく私は、向こうから帰ってくることはない」
「――それって」
「利用、しようとしているのだろう。どうして見つかったのかは分からないけど――」
――いつか。
「いつか戻る。それまで、こことは遠く離れた所まで逃げていてくれ。金なら今まで稼いできた分があるから、しばらく窮屈にはならないはずだ」
「どうするの、あなたは」
「どうにかするさ。言ったろう」
――君を幸せにする、と。
「何を話しているんだ。何の相談だ? 別に永劫の別れを強要しているつもりはないのだがね」
「私のいない間の生活に関しての要点を伝えていただけです」
やや強引に娘の頭を撫でてやる。
「ぱぱ……?」
「怖がらせてごめんね。私はまた仕事に行ってくるよ。すぐに戻ってくるから、元気にするんだよ」
「ぱぱ、行っちゃや――」
言い切る前に、彼は立ち上がる。
これ以上娘の声を聞くと決意が揺らぎそうで、やってはならないことをしてしまいそうになったから。
――それをしてはならない。耐えるのだ。
全てを壊しても、何かを助けることは出来ないのだから。
だから彼は背中を向け、後ろ手で親指を立てた。
それを、別れの挨拶とした。
けれども別れは言わない。
また再会すると誓って、彼は村を離れた。




