四十九話 ゼロと狭間
――。
――――。
薄れかけた意識。
剥離された精神。
まどろみの中で、夢見心地の中で、ただただゆらゆらと。
漂う。
どこにも留まることはなく、しかしさまようこともなく、延々と続く無の中心でゆらゆらと。
目を、覚ます。
――――。
「起きたか、オマエ」
――此処は。
――何処だ。
俺は腰のナイフを抜こうとして、右腕が動かない事に気付く。
そう、確か右はやられていたか。ならば左――も、動かない。何故?
原因にはすぐに気が付いた。俺の体は頑丈な縄で、両手も両足も拘束されて宙に吊されているらしい。
前後の記憶が消失していた。
ヲレスが消え去った後、俺は日記に痕を遺し、その後――“消滅”したのだったか。なら仕方ない、考えても無駄だ。
……で、何処だ。誰かに捕まっていることだけは分かる。ただ視界が不明瞭になっているせいで目の前の人物が誰かの判別が付かない。
声は初めて聞いたから、俺の知る人物でないのは間違いがないが。どこの人種かだけは確認しておきたい。
声色からして明らかな敵……ではなさそうだ。話が通じるならばそれでいいのだが、しかし俺が拘束されている理由は何だ。
全身に当て布をされるなどして応急手当は施されているみたいだが。
俺は少しの間目の前の人物に掛ける言葉を思考し、まずこう言った。
「……何処だ?」
「言って伝わるバショじゃない」
モザイク掛かった視界には緑が映る。草木の匂い、だからここは樹海の中か。目の前の人物は肌が黒いことだけが判別可能だったが、あの蛮族じゃない。
徐々に視界は確かになってゆくが、まだぼんやりとしている。
――そうか、俺の存在自体が、不確かになっているらしい。
直に元に戻りはするだろう。
「傷の手当てをしたのは?」
「姐サン」
――なるほど。
「どうして俺は拘束されている?」
「オマエ、海賊だろ」
――ああ。
通りで腰に付けたレッドシックルの剣だけが、なくなっているはずだ。
ようやく視界が戻ってきた。
俺は数回瞬きを繰り返し、その人物を目に入れる。
髪の毛は生えておらず、肌は黒い。しかし日焼けによる黒さでなく元々の肌の色だということが窺える。それなりに筋肉質で、野生的な生活をしているのが一発で分かった。血生臭さも微かに残されていることから、狩猟民族――? いや違うだろう。
かなり着古しているが、衣服も人間の手で加工した文明を感じさせる。ただの民族なら海賊など意識しない。それにこいつからは、生きている“気配がしなかった”。まるで人形のように。造り物めいた雰囲気を、男は纏っている。
姐さん、と言ったか。統率するボスがどこかに居て、俺を拾う命令を寄越したと予測されるが。
「海賊か、と言われると返答に困るな」
「嘘を吐け。赤い剣は海賊の証、オマエは海賊だろ」
「自己完結されちゃたまらんな……まぁ、海賊が知り合いに居るということだけは認めておこう」
あまり不要なことは口にすべきではない。この剣はただ所持しているというだけで力を持っているが、その逆もある。
ギレントルも言っていたが――敵対組織には逆効果だ。あまりに下手なことを吐けばその場で斬り捨てられても何ら不思議ではないからな。
まぁ、捕虜として捕らえられた線は薄い。
「俺を解放してくれる気はあるのか?」
「今はダメだ。姐さん来たら頼め」
「……そうさせて頂こう。傷の手当て、感謝する」
「血を止めたダケだ」
そう言うと、男は俺から離れて奥の小屋へと消えていく。
誰もいないことを確認し、俺は辺りを見回した。丸く開けた空間に小屋が一つだけ建っている。今男が入っていった小屋だけ。他に建造物らしきものは見当たらない。
辺りは木々に囲まれていて、俺は太い幹に縄で吊されている状態だった。
見事に身動きはできず、懐にナイフと銃が残されているのだけは分かっても取ることはままならない。指一本は動かせるが――こうも完璧に縛られてはな。
それに右腕も本当に血を止めているだけで、激痛を発していることに変わりなく、全体を強引に布で縛っているだけ。軟膏は塗られているようだが。
処置しないよりマシ程度か……。この分じゃ、腕は動かなくなるだろうな。
腱は見事に断たれていた。
まぁ俺自身の戦力にそこまで期待しちゃいないが、随分とやられたもんだ。
命があるだけいいと見るか、さて。
「――おい、おい、おいおいおいってば」
「……ん?」
「聞いてんのかテメこら無視しやがって、蹴り飛ばすぞ」
俺は下を見る。
そこにはいつの間にか、少女――いやもっと幼い。そんな子供が立っていた。
腰まで伸びる、くすんだ金色の髪。小さな顔、力強い翡翠の目、褐色の肌。白いワンピースタイプの服を着ているが、サイズは合っておらずスカートの端が地面に擦れて少し汚れている。
「いつからそこにいた」
「今だよボケこの野郎、まさか気付いてなかったのかこら」
「どうやって現れた。歩いてきたんじゃないだろう」
普通に近付かれて俺が気付かないはずがない。俺はこの少女が見た目通りの存在ではないことを、すぐ理解する。
いやよくあることだ。例えば年齢と見た目が一致しない存在など、どこかに一人は居ても不思議じゃない。
特に“魔法”なんぞがある此処ではな。
「当たり前じゃなんで妾が普通に歩かなきゃならないんだっての」
「転移か? 見るまで気配を感じなかったが」
「――転移? そんなわけなかろう便利過ぎる。使えるなら使いたいのは本音だけど、そんなもの存在しない」
「……で、お前が“姐さん”とやらか?」
「――ほう、どうしてそう思った?」
にやりと笑って、少女は言う。
「気配が違う」
そんなものを完璧に隠蔽できるなど――ただの少女なものか。
「まぁ、まぁ、いいんじゃないか及第点与えてやる。妾が“姐さん”だ、大正解」
別に隠す気もなかっただろう佇まいで、少女は尊大に腕を組む。
「――で、さっきから何見下してんじゃ蹴られたいのか」
「見下しているんじゃないだろう。縄に縛られているだけだ」
「あっはっはっは見下ろしてるだけってか面白くもないなお前、もっと面白いこと言えないのか、真面目過ぎるぞ」
「俺を縄から解放してくれるなら高い高いしてやるぞ」
「なんだ今度は妾が見下ろす番ってかあっはっ……はぁ? ふざけんなテメ殴り倒すぞ」
……。
冗談は通じるらしい。
「本題、入っていいか?」
「妾の台詞を取るな間抜け」
「そうか、じゃあ本題に入ってくれ」
「あーわかったわかった仕方ないな言ってやるさ」
はぁ、とわざとらしく溜め息を吐いて。
「お前――何者だ?」
少女は言う。
嘘を吐いた瞬間、射殺すような鋭い瞳を俺に突き刺して。
少女は腕組みを解く。
ただ解いただけじゃない。俺を殺す準備が、ただ両手を開くことで完成していた。
「いきなりそんな台詞が口から飛び出すとは思わなかったが……何者、と言われてもな」
「なんなんだお前素直に答えろめんどくさい。仕方なかろう、何者かと聞くしかないんだから、妾はそれが正しいと思ったからそう聞いた」
ああ、正しいな。
俺に向ける問いとしては、十二分でもある。
「因みに一つ聞いていいか?」
「疑問系で言うなら丁重に断るが」
「俺を何者のつもりで――縛り上げている?」
「ほう、そう来るか……なんだお前面倒なだけかと思ったがそうじゃないな、ウザいな」
どちらかと言えばうざいのはお前だが。
「黒い肌の男が言っていたように、海賊のつもりで俺を捕まえたなら違うと言わせて貰う」
「海賊ゥ? 別にそんなんで縛り上げるわけなかろう、確認の為に言ったんじゃないのか妾は知らん」
「……じゃあ、何だ?」
「やだね言うか先に言え。妾が先に喋ったらお前、適当に誤魔化すじゃろ」
そりゃ、そうなるか。
――何と答えるべきか。まずコイツが何者なのかを知らない内は、あまり余計なことを言いたくはないのだが。
しかし縛られている今、俺の生死の全ては少女に委ねられていると言っていい。
「もう一つ聞くぞ」
「あぁ? なら最初から二つって言え――というか」
その両手に、小さな殺意を込められた禍々しい魔力が湧きだした。可視可能なほど濃密な、薄緑色の魔力。
ヲレスより強力で――リーゼと同等、そんな、あり得ないほど規格外のそれだ。
――コイツは。
「そろそろ冗談の時間は終わりじゃ、言え。さもなくば死ね。寛容には限界もあるぞ」
「……そうだな。だがこれだけは聞かねば話は始まらん、聞くぞ」
「早くしろ」
「お前“俺を人間だと思っていない”な」
もう少し長く話を許されるならば別のことを聞いただろう。
が、最悪この問いに反応が返ってくれば、いい。
「いや馬鹿か人間だとも思ってなかったら縛り上げるか普通、その場で殺して肉鍋コースじゃ。まあお前は不味そうだしそこらに捨てるが」
あくまでも冗談めかして掴ませないか。
じゃあ、いいだろう。
こいつが“普通”でないことに俺が気付いたように、こいつも俺に気付いているのだから。
「……俺は海賊でもなければ遭難者でもなく、魔法使いでもない。魔力がないのは分かるな。勿論“魔物”でもない。というか、俺はそもそも――生物という括りではない。ここまで言えば、いいか?」
「悪くない答えだな、思ったより全然悪くない。若干隠していることが多いようだけど妾はその答で腹八分目としておこうか」
少女は両手に集めた魔力を俺に差し向ける。それまであった殺気が失せていることから、俺は特に反応しない。
ひゅん、と風切り音の後、俺を縛り上げていた縄が全て切り落とされた。
「……っと――」
当然、俺は落下し――着地しようとして、身体に上手く力が入らず地面に転げ落ちた。
「あっはっはっはっは! 面白いな今お前初めて面白かったぞ」
「……面白可笑しかったの間違いじゃないのか」
「さて今度は妾が見下す番だなどうだ見下される気分は? ええ?」
俺は無視して立ち上がり、身体の調子を確かめつつ左手を動かした。長らく寝たきりだったかのように肉体は重く、着地も出来なかったのはそれが原因か。
魔力に関係したものでなければ、差ほどの問題はなさそうだ。
「さて、俺が見下す番だな」
「そうか死ね」
命の危機に瀕していないことだけ分かれば後はいい。
俺はやはり動かない右腕を軽く左手で撫で、それから少女と視線を合わせた。
すると俺が何を発するまでもなく、少女は口を開く。
「お前の正体が何だったか結局分からんが、よかろう。“存在”が揺らぐ反応があったからと来てみれば――死に損ないめ。ようあんな傷で生きていられるものだな」
存在、ねぇ。
「頑丈とはまた違うが、死ににくいもんでな」
「生物じゃないのに生きているのか、はてさて興味深い」
ああ、“俺”の確認を取られたか。
好きにしろ。
「俺もお前が分からないんだが……なんだ、助けてくれたのか?」
「いいや助けたつもりはない。お前を縛ったのは、危険があったからじゃ。分からないということはそれだけ危険に値する。それにしても不思議なもんばかり持ってるがこれとこれとこれは一体どこで手に入れた?」
ばら、と。俺が確かに懐に入れておいたはずのナイフと銃と煙草――それが、少女の手に握られていた。
俺は目を見開く。
一体、いつの間にだ。現れた時もそうだったが……。
「このナイフはどこで製造された? このよくわからんのは? 煙草は――はて、妾はこんなもの見たことはないが。美味いのか? とりあえず一本吸わせろ」
「止めておけ、お前の年齢で吸うものじゃない」
「――今年齢と言ったか? 言ったな? 言ったよな?」
「言ったな」
「聞いて驚け見て驚け! 妾はお前より年上じゃ! 敬え!」
「そうか」
「――驚け!」
知っていたよ。少なくともお前が年齢通りの姿をしていないことは、ほとんど最初からな。
今のは確認を取っただけだ。
「で、何歳なんだ」
「レディに年齢を聞くとは殴られたいようだなテメこの野郎池に放るぞ」
勝手に煙草を口にくわえ、少女は指先につけた火を近付けてぷかぷかと吸い始めてしまう。
紫煙を吐き出し、満足げな表情をして少女はまた煙を吸い込んだ。
「うん、美味い。いいぞ、妾が今まで吸ってきた煙草の数百倍は美味い……ふむ。お前、生産地を教えろ」
「さぁな」
「――生産地を教えろ、と言った」
「いや、知らないが」
「知らないのは本当らしい。しかしお前、この煙草をどこで手に入れた?」
ああ。やはりか。
――ただ質問をしているわけではなさそうだとは思っていたが。
「答えないか? 答えられないわけでもないんだろう? まあいいならば妾が答えてやる。こんな葉は、この“世界”のどこにも存在しない」
「――お前」
今、何と。
「はぁん分かったぞ、やっと分かったやっとボロ出したな。やっぱりお前、そっか別の所から来たな」
「……そいつを知る為にこんな回りくどいことしたのか?」
「おう認めるか潔いな気に入った。ああ、そうだ――そして、なんだ――種が割れてしまえばどうということはない、妾が知るわけないのも当然かそりゃそうだ」
俺が眉間をひそめる中で、少女――いや。
そいつは、続けてこう言った。
「随分と馴染んでおるようだが、今更こんなところに来やがってな。歓迎はせんが、ようこそ異界の者――我がこの小さな狭間の世へようこそ、勝手にゆっくりしていくがいい」




