四十二話 自失と喪失と後悔と
今日から新章です。
ええと……公開していきますが、実のところ全部書けてません……。
でもこれ以上お待たせしたくはないので更新していきます。
ほ、ほら……書き溜めに追いつかれなければいいだけの話――じゃない?
鬱蒼とした森の中で、がさりと物音がする。
酷く荒らされた形跡のある森。
穿たれた大量の矢が地や樹木の幹へと突き刺さり、焼き払われた腐葉土、木、死体の臭いが混じりあって異臭を発している。
土に染み込んだ血は黒く変色し、人間の手足や頭部が平然と幾つも転がっている。
――死の香りが充満していた。
生物など一つも存在していないような、死に包まれた世界だ。
「どこに、いるんですか」
その中。
一人の少女が服を泥だらけにしながら、土を両手で掻き漁っていた。
何かを探していたのか、いつから探していたのか。
少女は土を漁る。ある程度掘るとまた移動し、別の土を掘る。
そんなことを繰り返している少女が居た。
「……レーデ、さん」
儚げな言葉は何にも届くことなく呑まれ、自然に消えてゆく。
しばらくそうしていた後、泥や葉や汚れが張り付いた顔を上げ――ラーグレス・リーゼは、ぼうっと前を見つめた。
そこには砕けた馬車が破片となって積み重なっていて、大きな荷物が中身を飛び出して投げ出されている。
――アレは。
リーゼはそれを見つけた途端、荒れる土を掘る手を止め、他の死体や倒れた木々など、そのどれもに目もくれずに走った。鞄を掴み取って、それが確かに自らのよく知る物だと確かめ、散乱している中身を拾い集めていった。
乱雑に放り投げられている理由は、馬車の台が完全に崩壊してしまったからだと思われる。馬はどこにもいない。
お陰で外に放置された物はどれも劣化し、土まみれであった。被った土を払えるだけ払って、リーゼは丁寧に鞄の中へと押し込んでゆく。
ここに鞄が存在しているということは。
その意味は、一つしかない。
リーゼは散らばった物を片っ端から掻き集める。金貨袋もそのまま放置されていて、中には形容し難いものから煙草のケースや衣類、数本のナイフ、タオル、食料品まで入っていて――。
最後にレーデの直筆であろう本類が、何冊も重なって出てきた。
広げられ、汚れてしまった部分はほとんど読めなくなってしまっているが、その部分を除けばびっしりと書かれたその文字は読み取れる程度には形を残している。
リーゼはそれも拾い、一冊ずつ被った土を払う。本ごとに形状の違うそれらを、鞄に詰めてゆく。
それは、レーデが居なくなってから十日後の出来事。
ヲレス・クレイバーの失踪が都市にて報じられた日の一幕であった。
その日は淀んだ空が一面に漂う暗い日だった。
リーゼは、ルルと御者を次の村まで送り届け、レーデとヲレスがやってくるのを待機している状態であった。
しばらくすれば彼らは戻ってくる。
――しかし、リーゼの心は晴れなかった。灰に染まる雲のようにもやもやとした霧が頭の中を支配して、気分が優れない。
「遅いですね」
ルルはそう言って、ふと空を見上げた。
「もう雲が覆ってしまっています。雨が降るかどうかまでは分かりませんが、陽が完全に落ちてしまうとこちらに来るのも困難になるでしょう」
「……ええ。やはり私も残った方がよかったかもしれません。やはり馬も心配です」
「でも御者さんがいなかったらここまで来られてないですから。大丈夫ですよ、レーデさん達は二人が心配だったから先に安全なところにと言ってくれたんですし……帰りを待ちましょう!」
リーゼは気丈に言うが、やはり心の奥底では心配があった。しかし彼なら大丈夫だと信じて、リーゼはこうしてルルと御者を先に村に送り届けてきたのだ。
森に掛かった霧のことは心配の種の一つであるが、レーデやヲレスが早々危険に陥ることはない――と。
そう信じて村で帰りを待ち、とうとう夜を迎えた。
村長に迎えられ、一つの空き家を貸し与えられてそこにて待機していたリーゼも、とうとう焦りを感じ始める。
ルルも御者も、いい加減不安を持ち始めていた。
「ちょっと、私……捜しに行って来ます」
「リーゼさん、今からではあなたが道に迷ってしまいます、あっ――」
ルルの制止は聞こえていたが、リーゼは聞かずに外へと飛び出す。
腰に提げられた二つの剣を一撫でし、そのまま村を出た。ルルも御者も、村に居るのならもう安全だろう。自分が離れても危険はない。
だがこの時間になってまでレーデとヲレスが帰ってこないのは明らかに不自然であった。
リーゼは一度来た道を走って進み、霧の発生した森へと急ぐ。
普通ならとっくに村まで着いているはずだ。レーデは地図を持っていて、ヲレスも強力な魔法を使う――。
――魔法?
リーゼは違和感が頭を駆け抜けたことに疼きを覚えた。ヲレスは魔法使いだ。洗練された魔法を使い、サーリャとはまた違う特殊な魔法を会得している人物。
だからこその、違和感。
何故あの霧の中で、ヲレスは平然としていた――?
神触結界すらも弾くほどに強力な阻害の霧の中では、ヲレスはただの人間とそう変わりのない戦闘能力しかない。
それなのにヲレスは霧の中で激しい戦闘をしたと自ら言っていて、霧の中に残って眼鏡を探す余裕まであった。
それに、所々焼けた後からは火魔法による残滓も存在していた。
レーデが魔法を使えないことから、それを行使したのはヲレスただ一人しか存在しないことになる。ルルや御者にそれだけの力はない。
では何故、あの霧の中でヲレスは魔法を扱うことが出来たのか――。
ばきん、と。
リーゼの頭の中で硝子の砕け散るような破砕音が鳴った。それは、ヲレスが霧に仕掛けた“呪縛魔法”――。
その瞬間、リーゼは全てを理解する。ずっと感じていた違和感の正体が何だったのか、ようやくはっきりとする。
そしてリーゼは、後悔した。
あの時、何があってもレーデと別れてはいけなかったのだと。
しかし、リーゼはヲレスの言葉と“魔法”に騙された。
気付くのが遅すぎる。ヲレスが何を狙っていたかなど、その耳で聞いていたはずなのに。
リーゼはヲレス本人を信頼しているわけではなかったが、逆に疑っているわけでもなかった。
そこを突かれた。
そしてその違和感が確信と変わった霧の晴れた森の中にて。一度も村に帰還することなく、リーゼは十日の間レーデを捜し続けた。
そこで見つかったのは、彼の持ち物だけだった。
更に数日リーゼは森をくまなく捜し、とうとう捜索を断念した。
捜せる場所などとうに調べ尽くした。
レーデはここにはいない。
それが、それだけが、唯一の答えだった。
荷物を背中に抱えたリーゼは、虚ろな瞳で前方を見やる。薄暗い森の先、リーゼが見据えるのは死体、死体、死体。
どれもこれも腐敗し、異臭を放つ死体。
レーデはそのどれでもない。
ならどこかに居るはずだ。
彼の終わりが死体であっていいものか。
ここではないどこかに居るはずだ。
――ヲレス・クレイバー――。
リーゼは荷を背に、重い足取りで森を抜ける。霧の晴れた森は抜けるのは容易く、足場の悪さはリーゼに関係しない。
目指すは港だ。
ヲレス・クレイバーの狙いはレーデだけではない。
そこには魔物の死体や、リーゼ本人も含まれている。
しかしリーゼを狙ってくることはないだろう。何故なら力の差は歴然としているから。
既にリーゼの頭の中にルルや御者の存在は消え失せていた。頭の中に残されているのは失踪したレーデと、共に姿を現さないヲレスのみ。
無意識的に虹の光子を振り撒き、リーゼは港へ駆ける。
考えなどなかった。
ただヲレスが魔物の死体を欲しがっているなら、港から中央大陸へ渡るとの直感だけ。
ならば行くしかない。行けば分かるのだから。
数日掛けて港に到着したリーゼは、人気が薄いことにすぐ気が付いた。
レーデと渡った時には騒がしかった港も、今や不穏な静けさが漂っていて薄気味悪い。道を歩く人々もいないでもないが、明らかにその数を減らしていた。
住民はリーゼの姿を見るなり顔を歪ませたり露骨に避けるなどして離れていくが、遠くからの視線を感じることから陰で見られていることだけは理解する。
それもそのはず、十日間以上も飲まず食わずで森を捜索していたリーゼの全身は未だに汚れだらけだからだ。普段は艶のある赤桃色の髪もぱさぱさと乾燥し、肌にも土や血などが張り付き、近くに寄らなくても獣臭が漂う有様。
そのような不審人物が巨大な荷を背負って腰の左右に剣を差し、道を歩いている様を見て誰が近寄るものか。
人気のない道からさらに人の姿が失せ、リーゼは虚ろな瞳で前方を見据えたまま堂々と歩いていた。さながら幽鬼のように力無く進むその姿は、まるで昔のリーゼという勇者の存在そのものであった。
彼女が見つめる一点には、船。
中央大陸へと渡る客船だけを見つめていた。
レッドシックルの赤い刀身。鞘の上からそれを触って、一つ頷いてから先へ進む。
堤防には数人の海賊が佇んでいた。
客船だというのに客はどこにも居ず、各々リーゼの所有する剣と同じ物を帯刀している。
内の一人がリーゼの存在に気付き、同時にその様相に顔をしかめ――最後に腰の剣を見て眉間の皺を深くした。
――齢十数そこらの少女。ぼろぼろの姿からは、背負った荷を加味しても生活的な面は一つも見られず、血や泥の張り付き汚れた衣服を見るだけで酷い有様だということは一目瞭然であった。
細い肢体はがさがさと痛み、空虚な瞳でこちらを見据える少女。
しかしその腰に差さっているのは海賊の証左だ。
何故、一体。
その海賊は以前、海上の魔物討伐に乗り合った者であった。頭の片隅に、とある少女の姿が浮かび上がる。
一人の男と少女。勇者に暗殺者という組み合わせで魔物討伐に参加した、強力な助っ人。
海賊はその船に搭乗していたわけではなかったため遠くから姿を確認しただけだったが、面影がその少女にとてもよく似ていた。二人組の片割れ。
――勇者の少女。
まさか。
「これから出発ですか?」
――唐突に少女から声を掛けられて、その海賊は言い知れぬ怖気にどきりと身を震わせる。
その光景は余りにも異質だった。
どう見ても正常ではないはずなのに、少女から発される言葉が不自然なほどに自然体であったためだ。
一体この子に何があった?
海賊はそれまで座っていたブロック片から腰を上げ、同じく横でそうしていた二人の仲間達と頷き合って、少女に言葉を返す。
いや、返すというにはほとんど会話は噛み合っていなかっただろう。
海賊は少女に、そんな質問だけを放った。
「君は……あの勇者、なのか?」
「はい。リーゼです」
即答し、リーゼは手慣れた所作で赤き剣を腰の鞘から引き抜いた。
その剣を見せる意味が分からない海賊ではない。
剣が本物だということを改めて確かめ、海賊はリーゼの姿をまじまじと見つめた後、自己紹介を行った。
「俺はランドルだ、よろしく。失礼を承知で聞くけど……その姿は一体?」
「え? あっ……気付きませんでした。私こんなに汚かったんですね」
自分の姿をそこで初めて見たのか、リーゼは汚れた手を眺め、服を眺め、少しだけ悲しそうに俯いた。
ランドルはリーゼのその言葉に目を見開き、彼女の目を見つめる。
それについての返事はしなかった。
「とりあえず、中へ入りな」
少女からの事情を訊くのは後にしよう。そう思ったランドルの手によって、リーゼは船に招き入れられた。その赤き刀身を所持するリーゼを拒否する者は誰一人としておらず、リーゼは船の居住区へと案内されていった。
「ありがとうございます、ランドルさん」
「い、いや……そいつは気にしなくていいけど」
リーゼは客室の一つを借りていた。
荷を置いてから一度洗い場に赴き、汚れに汚れた身体とそれまで着ていた衣類を同時に洗う。
客船に取り付けられている洗い場は上等な物である。洗い場の下に設置された貯水タンクから魔力で一定量に保たれた水を汲み出し、熱された管を通って天井から吐き出される仕組みで、四十度そこそこの湯が本人のバルブの操作によって自由に流れ出す。
汚れを効率的に洗い流す為の洗浄液も洗い場の端に用意されており、リーゼはそれを使って身体と衣類を洗い、その後客室にてランドルと対面していた。
ランドルが気にしているのは、もっぱらそのことである。
「ところで……その服生乾きなの、気にならない?」
「私は大丈夫ですよ」
「っと、そうじゃないんだけど……」
ランドルは首の裏を掻いて意識をリーゼの姿から逸らす。
リーゼは着替えを持ってはいないため、洗った服をそのまま着用しているのだ。絞ったり回したりなどで水気を取った衣類も皺だらけになっていて、ぴとりと肌に貼り付いて肌色が若干透けてしまっている。
最初は汚れてお世辞にも可愛いと言えなかったリーゼも、綺麗に洗い流したお陰で少女らしいあどけなさを取り戻していて。
髪の毛や肌の艶も出て、長く男臭い連中の下で生きてきたランドルにとっては非常に目のやり場に困った状況であった。
一回りも体格が違うとはいえ、そこまで年齢も離れていないであろう少女。
そんな娘が扇情的な姿をし、つぶらな瞳を向けているのだ。
――思わず情欲に駆られそうになった頭を左右に振り、海賊の掟を思い出したランドルはふぅと深く息を吐くことで気持ちを切り替える。
「ええと、中央大陸に渡りたいんだったよな」
「はい、そうです」
いっそのこと吹っ切るように、話題を完全に切り替えることにした。
ランドルは既にリーゼから概ねの事情を話して貰っていた。
彼女が北大陸へ渡った後に何が起きて、連れ合っていたもう一人の仲間と別れたのかを。
その上でどうして中央大陸に渡りたいかも教えて貰っていたため、言わば再確認のようなものである。
「それは、ちょっと無理そうなんだ。俺達も困ってて」
ランドルはリーゼの話を聞き、どう言ってやればいいかも分からずに困り果てていた。
ヲレスという医者とのいざこざ――仲間のレーデの行方不明――リーゼがレーデを捜すため、中央大陸へと渡ろうとしていることなど。
それらはランドルの立場でどうこう言えるような内容ではない。ただ、ヲレス・クレイバーが失踪した事件は都市から情報として流れてきていた程度で、他に役立つ情報は何もなかった。
それよりも、ランドルが気になったのは彼女の仲間のことであった。
行方不明のレーデのことも、今目の前に居るリーゼと同じくらいのことを知っている。奇特な武器や体術を扱い、船長と副船長も懇意にしているほどの人物。
ランドルも遠目で見ていただけであったが、その風格は船長や副船長と並んでも見劣りしないほどであった。
――そんな人物が、行方不明だ。
医者のヲレスに攫われたとはリーゼの言だが、ランドルは表情を渋くすることしかできなかった。
そもそもあの医者に良い噂は立っていない。どんな病気もたちどころに治す名医としての情報は出回っていたが、助けた患者と同じほどの人数を実験で殺している――らしいではないか。
どう考えてもその話を聞く限り、行方不明になったレーデが生きている確率は……。
「えと、どうしたんですか?」
「ああそれなんけど……いつも俺達は客船を動かす前に、連絡船を使って大陸間のやりとりをしているんだ。安全だとか諸々な。それがもうずっと連絡が途絶えていて、動けないんだ。ホラ、客を運ぶ船だろ? 安全は気を付けなきゃいけなんだ、向こうの連絡無しで勝手に動くことはできない」
ランドルは自らの思考を誤魔化すよう早口にそう返す。
リーゼはそうなんですかと小さく頷き黙してしまう。
だが、しばらく下を向いていたリーゼは突如思い出した様子で「あっ」と呟き、顔を上げた。
「その原因、私知ってるかもしれないです」
「……なんだって?」
言葉の意味が半分理解出来ずに聞き返すと、ですからと続けて身を乗り出してくる。
「中央大陸に魔物が押し寄せるって聞いてます。私とレーデさんは元々そっちに行くために港に向かってたんです」
「は……マジかよ、それ?」
「言ってたのは教会の人なので、本当かは分かりませんけど」
リーゼの言葉にランドルは酷く狼狽した。
海賊の一員ではあっても、それはただの下っ端であるランドルが対応していい次元を優に越えた内容である。確かにリーゼを船に迎え入れたのはランドルだったが、これ以上一人で相手をするには無理があろうというものだった。
話を聞くことは出来ても判断する権限はランドルに持たされていないのだから。仮にあったとして、それを処理する能力があるかは別の話だが。
しかし今の話が本当であるのなら、中央大陸からこちらに連絡船を送っている暇などないはずだ。
恐らく船長や副船長の二人がそちらに掛かりきりになってしまうほど、レッドポートは混乱に陥っている。
つい最近、海の魔物との一件があったばかりだと言うのに――。
「……ちょっと待ってくれ、今リーダーを呼んでくる」
立ち上がったランドルはそう残し、リーゼを残して部屋を出ていく。
「はい、待ってます」
リーゼは誰も居なくなった瞬間、それきりぱたりと動かなくなった。
まるで糸の切れた人形のように。
虚ろな瞳はどこを見るでもなく、虚空を泳いでいた。
「リーゼさんですか! いらっしゃったんですね、事情は聞きました」
港に停泊する客船のリーダーであるグレイグが部屋にやってくると、開口一番そう言って快くリーゼの乗船を迎え入れた。
ランドルとは違って一度船にて直接リーゼと話をしているらしいグレイグはその姿を見るなり深く頭を下げる。
リーゼも笑顔で「お久し振りです」と返し、軽く頭を下げた。
「リーゼさんの言葉の真偽は確かめようもないですが、ここ数十日向こうからの連絡が途絶えているのも事実です。それに伴い、我々も待機を余儀なくされていましたが……リーゼさん、もし宜しければ我々と共に来ていただけませんか?」
「えっと、中央大陸に行くんですか?」
「このままじっと待っていても何かが得られるとは思いません――またリーゼさんの力をお貸し頂く形になりますが、海での護衛をお願いしたく」
「いいですよ。私でよければ力になります」
グレイグとリーゼの話はどんどん進み、すぐに出発の予定が組まれることになった。
港に停めてある海賊船三隻を用いて中央大陸への海路を使う。以前魔物を切り開いて通行可能となったルートで、客船が普段使うルートでもある。
ランドルは船室の隅で話を聞いていただけだったが、海へ出ると聞いて気を引き締め、じっくりと意識を高揚させていた。
ランドルもずっと胸にしこりを残していたのだ。このままじっとしていていいのかと。
しかしそんな時、光が差すようにして勇者であるリーゼが訪れてくれた。このタイミングで動かなければ他にどこにあるんだとランドルも思っていたし、グレイグもこの状況をどうにかしたいと考えていたからこそすぐに決められたのだろう。
あの魔物達を倒す実力を持った勇者も同行するなら、途中で予定外の魔物に襲われて全隻沈むような事態には陥らないはずだ。
――何より、こんなんじゃ船長に顔向けができない。
「他の奴らに伝えて来ます。ランドル、しばらく面倒見ててやれ」
「了解っす」
「それじゃリーゼさん、細かいご用はこのランドルを使ってやって下さい、では」
もう一度頭を下げ、グレイグは船室から出て行く。
これから連絡を取り、出発まではそう時間は掛からないはずだ。それまでに自分も出航の準備をと立ち上がったランドルに、リーゼが声を掛けた。
「あ、もう少し洗い場貸して貰ってもいいですか?」
「洗い場? そりゃ客も入って来ないし別に構わんだろうけど……それか?」
ランドルが指差した場所には、汚れた鞄が一つ置いてあった。
「はい、出来る限り汚れを落としたいなって」
「そんくらいなら全然大丈夫だ、いつでも使ってくれ。リーゼさんが使用中ってことは他の皆にも知らせておくよ」
「あ、裸になるわけじゃないので、何かあれば入ってきてもいいですからね」
「……おう」
本人としては特に気にもせずに言っているのだろうが、どことなく気まずくなってランドルは言葉を濁らせた。
「分かりました。ありがとうございます、ランドルさん」
「他にも何かあったら俺に言ってくれ。船のことはそりゃ船員だし、たかが下っ端でも詳しいからな。その剣持ってるリーゼさんは家族みたいなもんだ。遠慮しないでくれよ」
「……はい。そうしますね!」
笑顔で頷いたリーゼに「それじゃ」と伝え、ランドルは酔い止めを探しに部屋を出る。
去り際、リーゼが一瞬だけ見せた表情にランドルが気付くことはなく――。
船は、出航の時を迎えた。




