三話 散策
「確か、町の外に出るまでこれは外しちゃいけなかったんじゃ」
かちゃりかちゃりと音を立てて外れる枷。ほんの少しだけ赤い線を作った首元を右手で揉みほぐしつつ、少女――ラーグレス・リーゼは、地面に落ちる首輪をぼうっと見下ろしていた。
そうは言いつつも首輪が外れた事は素直に嬉しいようで。一応は口にするものの、解錠の際にはさりげなく自ら首を差し出していたくらいだ。
つまるところ、確認のため主である俺に伺いを立てたに過ぎない。
「むしろ付けていた方が怪しいし目立つ。布切れを纏っただけの奴隷なら分かりやすくもあるが、お前のそれは奴隷という格好ではないからな。武器防具となり得る装備を各部から外されただけで、そこらの旅人と遜色ない。というわけで、返却されたこいつらも今の内に付けておけ」
「いいと言うのなら、ありがたく貰いますが……」
彼女――リーゼの着用していた物は他の奴隷とは違い、彼女が元々旅を続けていた時の服装そのままだった。入荷したのが最近だったからだろうか。
なので奴隷市場を出て大通りへ向かう途中にて、俺は奴隷商から渡された一式の装備をリーゼ本人に返してしまっている。
「しかし、随分と使い古しているようだな」
「あ、これですか?」
リーゼは首元の赤みを擦っていた手を止めると、その手で肩の部分を摘み「えへへ」とはにかむ。
「あー……そうですね。結構、長く着てますから」
腕と肩を通して背中へと広がる外套は動き易く、相応に丈夫に作られているらしい。所々が擦れて穴が空いたりもしているが、むしろ良い感じに年季が入っているように見える。
その下、茶と緑の色味が混じる衣服――胸元や脇腹などに取り付けられた衣嚢やベルトの通しから、衣服は利便性を重視して選んだ代物であろうことも窺えた。それは手書きのメモや地図から小銭まで、その他小道具やら暗器などを仕込んでおくには最適な服装である。
そしてそのような格好を好んでするのは旅人――言い換えるならば危険を旅する冒険者と相場が決まっていた。なるべく荷は少ない方がいいが、けれどなるべく多くを携帯したい。だから出来得る限りの手荷物を減らすため、彼らは服やベルトなどに直接道具を収納することが多いのだ。
現に、リーゼは腰のベルトに挟むようにしてショートソードを取り付けていたりもする。ちなみに下半身は無駄なくぴちりとした皮革のズボンにブーツを履いており、どの地形や環境でも対応できそうな格好であった。これに小手や臑当なども付けるというのだから、何も言わなければ冒険者にしか見えないはずだ。
まぁそれはさておき、肩に掛ける鞄や腰に回すポーチなどは本当に最小限に抑えておくのは旅人の常識である。でなければ咄嗟の戦闘に対処できない。
大きな荷物を背負うのは邪魔にしかならないため、大抵はしないものだ。まぁこの世界の連中がその程度の軽装で済むのは、道具の代わりに魔法だなんて反則的技術が存在するからなのだが。
そもそも油や発火材や火打ち石を利用せずに中空へ炎を生み出し、野営テントの代わりに結界を張り、薬を用いずに傷を魔法で癒すなど、これを反則以外でどう表現していいか浮かばないほどだ。俺だってそんな事を片手一つで行えるのであれば、不必要となる大荷物など端から持ちはしない。
話は逸れたが、ともかく奴隷商の言葉に従う理由もないだろう。
というか少女を鎖で引っ張り町中を歩くなど、俺には到底できそうにもなかった。
「あ、あのー。その、一つ聞いてもいいですか?」
「ん? ああ。言ってみろリーゼ」
「リーゼ、ですか……えと」
「呼び方でも気に食わなかったか」
「い、いえ! そんなことはないですよ、えへへ……と、そうです! どうして私を買ったんですか。まだその理由を聞いていないなーと、思いまして」
リーゼは何故か頬を染めながら言う。
今のがそんなに気に入ったならこれからもそう呼んでやるが。
「奴隷を買うのに理由があると思うか?」
「いやむしろないんですか!?」
「まぁ、あるがな」
「どっちなんですか……ってああはぐらかさないでください! 悪いことだったらしないって最初に言いましたからね?」
「どちらにせよ奴隷に主を選ぶ権利はないはずだが? 代金分の役割は果たして貰うぞ――と言っても、人殺しとかじゃない。そこは安心しておけ」
「うう……信じますけど」
そろそろ大通りに着いてしまうな。
歩きながら話すには……と適当な店への道程を考えるも、そう言えば金の持ち合わせが無かったことを思い出す。元々奪い取った金だが、こいつの出費で吹き飛んでしまったことに変わりはない。
ないならば金を作るしかないわけだ。
何、これから追い剥ぎをしようというわけじゃないし、俺が誰かを襲うことはそもそもない。
もっと建設的な方法だ。
「話してやろうとも思ったが……立ち話もなんだな。少し寄る場所がある、そこで教えよう」
◇
第三区画。
商工会が取り仕切る区画の酒場にて。
コインの紋章が刻まれる看板をくぐり、俺とリーゼの二人は角のテーブル席へと対面するように座っていた。
この世界の通貨である鉄貨や銅貨を片手に、俺はもう片方で持った二人分の飲み物をテーブルへと置く。
「まぁゆっくりするといい。この酒場には俺もよく来るんだ、所謂常連ってやつだな」
「あの。しれっとお金を手にしてましたけど、さっき全部使ってませんでしたっけ……?」
「今さっき荷の一部を金に換えてきたもんでな。物々交換というやつだよ、余った分は直接金にしてもらっただけだ」
麻袋に纏めて硬貨を投げ入れ、堅く紐で縛って懐へ仕舞い込む。今まで金貨がたっぷり入っていた袋としては寂しいものだが、空っぽよりは幾分マシであろう。
――簡単に説明すれば、金貨は一番価値の高い硬貨である。
逆に一番価値の低い物が鉄貨。その上に銅、銀、金とあり、鉄貨が四百枚集まってようやく金貨一枚分の価値となる。大雑把にそれがどの程度の価値なのかを表現するのであれば、金貨一枚で一ヶ月か二ヶ月は町で暮らせるほどだろう。
つまりは向こう数十年分は暮らせる金額の塊を、俺は一瞬で消費したというわけなのだが。
そう考えると結構な額を稼いでいたんだな。
剥いだ道具を売り払うのも中々に難儀する作業なので、その辺りは俺の地道な努力があるのだが。
先ほど酒場の店主に売ったのも、ずっと鞄に入れてあった魔石という代物である。魔力が石に込められており――確かこれは音を拡散する効果を付与された骨董品の一種だ。録音式で、一度録音した音声を再生する機能を持っている。録音最大時間は約一分程度、但し録音した物は消去できないので一回限りの使い捨てになる。
付与されている能力が能力なのと扱いが限定的過ぎるために実用性としてはあまりないのだが、魔石自体は稀少性があるため、その手のコレクターは欲しがるのだそうだ。
これも戦利品……結果として行商人から得たものではある。
時として俺の行為は俺以外の人間にも利益をもたらすことがあるそうで、偶然に居合わせた商人が手渡してくれたものだ。
当然逆も然り。無論そちらの方が遙かに多いとは思うのだが、そういうことも過去にあって、ついでに捌くのにも難儀はしていたわけだ。金にしていない物ならまだ幾つか鞄の中に入れていたりもする。
いやはやしかし、結構稼げるものだ。
普通に働いてちゃこうはいかない――だがそんな裏事情をこの少女に伝えでもしたらもの凄い形相で怒り出すのが目に見えているので、種明かしをするつもりなどなかった。
「んで、そうだったな。お前にやって貰いたいことがある。そのために俺はわざわざお前を選んだ」
どこか複雑そうに、しかし真面目に俺の話へ耳を傾けるリーゼへ続ける。
「と言っても難しいことではない。要は、俺のボディガードをして欲しいというわけだ。他の檻も回っていたが、どうにもお前の方が適任そうだったもんでな」
「ボディーガード……」
「各地を旅したいのだが、魔物に襲われちゃたまらんからな」
「なるほどー……それで私を……えっ。それだけ、ですか?」
「それだけとはなんだ、魔物の相手だぞ?」
相手が相手である。野生の獣ならばともかく、魔法を扱う化け物となると俺じゃ手に負えないことの方が絶対に多い。
だが勇者という力が手に入るのであればこれ以上のことはなかった。
実際に勇者とやらの実力を見たことはないのだが、この少女の態度に一切の怯えがないことで数々の死線を潜ってきたであろうことは容易に窺えた。
魔物だなんて話題を出せば奴隷商の反応が一般的なのだ。リーゼにその実力がなけりゃ、こうまで自然体でいられはしないだろう。
もしも彼女の能力が嘘だった場合、死地へ単身送り込まれることになるのだからな。
どこか釈然としない様子は感じられたが、リーゼは普通に受け答えを返してくる。
「それならお受けします……いや、本当はもっと変なこと頼まれるのかなぁって思ってたので、ちょっと……いや、かなりびっくりですけど……でも、本当にそれだけなんですか?」
「ちっとも信用しちゃいねぇ」
「いや……私お金の価値とかあんまり分かってないですけど、あれが相当だっていうのだけは分かりますから」
俺は頼んでおいた飲料を喉へ流し込む。
「まぁな。だがお前も良かったじゃないか、檻の中で何日も過ごすのは本意ではなかっただろ」
「あはは、そうですね。身動きが取れないのは不自由でしたし、手錠は痛いですし、それに退屈でしたし」
退屈、と来たか。
一々突っ込みを入れることはしないが、その言い方はおかしいと思うんだがな。
「旅の話に戻るとしよう。いや、さっきから旅とは言っているがな、実のところ明確に行きたい場所があって、到達点へ向かって旅をしているわけでもない」
そう。俺が旅をする目的は、あくまでもこの世界を知るためだ。
何でもいい、行き着く先など死地であろうと戦場であろうと構わない。少しでもこの世界を知るために、様々な地へと訪れる必要があった。
そのための道案内で――魔物討伐の旅をしている勇者だなんて存在は、旅の供としては最適だ。自ら危険へ赴く行為ではあるものの、知るという面に限って言えばまたもこれ以上はなかったのだから。
俺がこの世界についての知識が少ない以上、どうあっても動きは制限されるしな。
「えっ……と?」
今度こそリーゼは頷きかねる様子で首を傾げてしまう。
何と説明するのがいいものか。果たして異世界から訪れたと素直に説明したところで、誰も理解ができるわけがなく。
ひとまず俺は、こういうことにしておくべきだろうと答える。
「観光だよ、俺は色んな所を見て回っているんだ。だが残念なことに地理に詳しくなくてな、行き先は旅慣れているお前に決めて貰いたいというわけなんだが」
「……え、えぇ? というか――そんな危ないことどうしてやってるんですか、意味不明ですよ」
その返答はあまりに正しく伝わっていないようで、彼女の驚きがそれを露わにしていた。
いや、確かにこのご時世だ。観光気分で旅をしている奴など酔狂以外の何者でもないのだろうが、他にどう言っていいかも分からないのだから仕方ないだろう。
俺だって本当に観光気分なら死地を横断してまで旅をしない。だが、俺は世界を知る必要があった。書物であれ人の話であれ、それが何であれ――俺には、知る義務がある。
まず知らなければ、何も始まらないのだから。
「俺にも理由はあるさ。お前、まさか断ろうって気はないだろうな? これでも――色々困ってるんだが」
「断るつもりはないですし、むしろ心配なので付いてくるなって言われても付いていきます。今私、そう決めました」
「そいつは心強い。じゃあよろしく頼むぞ、リーゼ」
どこか心配げな眼差しを向けられる理由は分からんが――まぁ、いいか。
片手に持った容器を傾けて中身を飲み干し、いつまでも口をつけない彼女へ「そいつはお前の分だぞ」と告げておく。
俺が言って初めて、リーゼはようやくちびちびと飲み始めた。
どうやら彼女は自分自身の意志で線引きをしているらしい。
俺が主で、彼女は奴隷であるとまで考えているかは分からないが、行動の大部分を俺に任せているようだ。そういった義理を馬鹿正直に守る奴だと判断したから購入に踏み切ったわけだが、こうまで徹底されるとやりにくいな――。
「リーゼ。お前は俺が買った奴隷ではあるが、そこまで畏まらなくていい。飲み物は二つ分買ってるんだ、俺はそいつを一人で飲み干すほど性格悪くはない」
「あ、いえ。そうじゃなくて……私お酒飲めないので、ちょっと」
「……ああ? あぁそりゃただのジュースだ、飲め」
――どうやらそういうわけでもなかったようだ。
誰が子供に酒を提供するかと言いたくなったが場所が場所である、普通は酒だと勘違いするか……こればかりは先に言っておけばよかったな。
「そうでしたか。じゃあ、いただきます」
リーゼはくすりと笑って容器に口を付けた。それなりに美味かったのだろう。最初は味を確かめるように飲んでいたのが、次第にごくごくと喉を鳴らす音が聞こえてくる。
ほどなくして中身が空になり、小さな両手で容器をテーブルに置いたリーゼは突然俺へ目を合わせてきた。
「えと。ご、ご主人様って、呼べばいいんですかね? でも、よかったら名前を教えて欲しいです。私だけ呼ばれるの、なんだかむず痒くて」
「……は?」
ずっと言いたかったことなのだろう。俺が名乗りさえしないからこいつは訊く機会を窺っていたのか……だが俺もそいつは失念していたな。
名乗っていないというより、俺は未だこの世界での名を持っていない――端から作ってすらいないのだ。この短い期間、今まで誰かに名乗ることもなければ名前を使う機会もなかったからな。
とはいえ、俺は返事を躊躇する。
前の世界で使っていた固有名をそのまま使用するのは些か憚られる。基本的に俺は一つの世界で名乗ったものを別の世界で共有することはしなかったのだ。
そうする理由は確かにあったし、そうしなければ色々と困ることもある。だから、今回はどうするか。ここには戸籍等の面倒な手続きも必要ないため、ただ口にするだけでいいのだが……如何せん俺にはネーミングセンスがない。別に、ならばその辺にある物から適当に取ってもいいんだが。
それよりも目の前に現地人がいるのだ。だったらこいつに作って貰うのがいいかもしれん。
「なら、お前が自由に呼べ」
「……はい?」
「悪いが俺に名前はない、呼び方はお前が決めろ」
リーゼはきょとんとした顔を作り、それからすぐに表情を曇らせた。まるで禁忌にでも触れてしまったかのような険しい顔で、彼女は視線を僅かに俺から下へ逸らす。
「……言いづらかったこと、なんですね。すみません」
勝手に解釈したようだ。
そうじゃないんだが、まあよかろう。
「そいつは構わないが、呼び名がないってのは何かと面倒じゃないか? だから、お前が決めていいさ。別に何でも――いや蔑称じゃなけりゃ何でもいい」
「そんな……いきなり言われても、決められないです。ですから今は、ご主人様と呼ぶことにします」
リーゼはううんと難しそうに唸る。
そりゃそうか。
人の名前をいきなり決めさせるのは、ちとハードルが高かったな。
「お前がそれでいいなら構わない」
俺は返事と同時に席を立つ。
「あ、もう出ますか?」
「いや。少し店主と話をしてくる。お前はそこに座っていろ」
ここに訪れた理由は、何もこいつとゆっくり話をするためだけではなかった。
ただそれだけの理由ならば、酒場でなくとも良いだろう。最初にアクションを起こしたのが奴隷市場――その組織であるのならば、後の二つにも起こさない理由がない、というわけだ。
商工会が保有する施設の一つである酒場には、当然ながらコインの紋章を掲げた者が多い。俺のような者も少数派ながらに入店してはいるが、ほとんどが身内の溜まり場と化している。
俺は酒場の店主とは以前より関係を持っていた。
作っておいたと言い換えるべきか。何度も訪れる内に、今では多少は融通の利く相手となってくれている。情報を集めるのにはこれ以上ない相手であろう。
「よう兄ちゃん。珍しいじゃねぇか、アンタが女連れてくるなんて」
俺が寄れば、こちらから話し掛けるでもなく口を開いた男。彼はガラス製の容器をカウンターに置くと、酒瓶から赤い液体を注いで俺へと手渡してくる
「あれが女って歳に見えるのか?」
「だからって子連れのパパさんってわけじゃあるまいに。ほら飲むだろ? 俺の奢りだ、今日のはちょっと美味いのを仕入れてきた」
「いや――今は。そうだな、貰おう」
俺は葡萄酒を一口含む。
舌で転がしつつ嚥下し、恒例となっているやり取りを行う。
「調子はどうだ?」
「いやはやお陰様で盛況よ。そっちはどうだ?」
「どうだかな」
「ん? つまりそれなりにいいってことかね」
「どうしてそうなる……」
社交辞令的なやり取りだ。
上っ面だけの会話ではあるものの、俺がこの店に来る度にこういったやり取りは交わしていた。
俺は酒場に飲みに来ているわけではない。あくまでも情報収集の一貫として――であれば、その店主との話は貴重かつ重要なものであると言えよう。
「普段ならきっぱりと発言するようなアンタじゃねぇか。そんなアンタが言葉を濁すってこたぁ、何やら良いことがあった――若しくは何らかの状況に進展があったと見える」
「いつもはそう返していたか……別段良いとまで言えるかは分からんがな」
目敏い人間だ、とは思う。でなければこのような酒場の店主など務まらないのかもしれないが、よくも一般客である俺との会話を丁寧に覚えているものだ。
そもそも俺が忘れているというのに。
「今日はどうした? そいつを俺に報告しに来た、ってわけでもないんだろう?」
店主は軽めな口調で告げる。
「いや……」
「いいぜ。俺だってこんなことやってんだ、情報網はえらく広い。だから、アンタがどういうコトやってんのかっていうのは知っている――知ってなきゃ、俺はアンタと話してねぇ。恐らくアンタが俺と関わらねぇ、そうだろ」
小さめに、呟くような声量で言ったそれに。
「なんだ。じゃあ、前置きは要らないみたいだな」
俺は苦い顔を浮かべつつ、そう返す。
彼が言った『こんなこと』とは、今俺と話をしているような行いであろう。だから情報も集まるし、俺がこれまで何をやって稼いでいたのかも知っていたのだ。
これから俺が何を言い出すのか分かっているかのように店主は告げる。
「近い内、出立か?」
「ああ、世話になった」
「こちらこそ。アンタは間違いなく上客だったぜ、何せ羽振りがいいからな」
「現金な奴だ。なら奢ってやろうか?」
「仕事中に酒は飲まねぇよ、俺は酔い方が汚ぇからな。っていうか今アンタそんな金ないだろ?」
「それもそうだ」
適当に頷きがてらグラスを傾ければ、店主が囁くようにこう口にした。
「――ここのところ、竜が不穏な動きを見せているみたいだ。牙はまだ剥かれていない」
「……また機会がありゃ、飲みに来る」
そこまで聞き、俺はグラスをカウンターへ戻す。
空になったそれを店主が掴むその頃には、既に俺は身を翻していた。
店の端。ちょこんと座る少女の前まで歩いていくと、彼女は俺を見上げるようにして視線を投げてくる。
「あの……なにをお話してたんですか? よく分からなかったんですが、竜とか」
「この距離で俺と店主の話が聞こえていたのか?」
「あ、いえ。盗み聞きをしていたわけでは。でもそんなに危ないのが来るなら、私が出ますよ?」
「……そうか、じゃあその時は頼む」
俺は引き気味に笑い、いまいち話を理解していないリーゼへそう呟いた。
酒場を出、今度は共有街を歩いていた。
共有街――どの支配下にも置かれていない通りをここでは共有街と呼んでいる。厳密には土地そのもの自体は組合が管理をしているのだが、所有まではしていないといったところか。
当然この通りでは紋章の制約はどこにもない。大通りには様々な露店が立ち並び、人々で賑わっている。
「今度はどこへ行くんですか?」
隣をてとてと歩いていたリーゼは、俺にこんなことを聞いてきた。
「町を発つ前に幾つか寄っておきたい場所がある。お前も何かしたいことがあるなら遅くならない内に言えよ、出来ることなら済ませてやる」
「いえ、特にはありません。でも――竜って、暢気に歩いてる場合じゃないですよね」
「そうだな」
さて、酒場での会話をこの地獄耳はどこまで聞いていたのやら。しかしながらリーゼは竜という単語をそのまま受け取っているらしく、どこか緊張した面持ちで辺りを見回していた。
だが、ここで言う竜とは本物の――所謂ドラゴンと呼ばれる魔物ではなく。ここで竜と言えばそれは、ほぼ百パーセント奴隷市場の人間達を指している言葉だ。
それを店主が竜と称しただけであり、何も本当に竜なる存在が町を襲うわけではなかった。
しかしリーゼはそのことには気が付いておらず、一見普通に歩いている素振りを見せつつ存在もしない魔物を警戒していた。
俺から真相を告げるつもりはない。最初に彼女の意向を聞いていた俺からすると、話せばより面倒な方向へ事態が傾くと踏んでいたためだ。このまま話を進めた方がいいだろう。
後は……勇者が傍にいる現状、奴らがどう出るつもりなのか気になっていた。奴隷は買えるのであれば買うつもりであったが、こう事が運ぶとは思わなかったのだ。俺以外にも客がいるとはいえ、奴隷を購入する前に何らかの手段を使って仕掛けてくるものだと予測していたのだが。
それさえもないとなると、果たして本当に俺を狙うつもりがあったのか――最低限金を徴収できればよかった――のか?
高価かつ貴重な奴隷の取引だ。あれが正規の値段ではなかろうが、不当な取引程度で済ませる相手にはとても思えない。
「なぁリーゼ。お前本当に戦えるんだろうな」
「……えっ、なんですかいきなり。ここまできて女子供扱いしないでください、私は戦えます」
「そうか……まぁ、その線はないか」
「へ?」
一人ごちて、俺は先へと進む。後ろから機嫌悪そうに反論してくる彼女の声が耳に入ったが、全部無視しておいた。
さっきもそう結論を下したが、戦えるという売り文句が全て嘘だったとすればこいつがあの売場に居たことに説明が付かないからな。
じゃあ何だ。何を目的として俺を野放しにしている? 拠点が見つかったならその日の内に叩きに来ればいいはずだ。それがちまちま人気のいない場所で俺を狙ってくるだけというのも不可解だ。闇討ちにしたって何度もやるものじゃない。
「今までの行動が全て俺に気付かせようとしていた……ってんなら。どうだろうな」
「ちょっと、聞いてますか? 今すぐ外で実力見せてもいいんですってば、あの、あのー?」
「ん、ああ。分かった分かった。そうだな、後で見せて貰うよ」
「なんでそんな雑なんですかー……」
もしや彼らは望んでいたのかもしれないな。
真正面から争うための口実や理由を。そのために俺を利用せんとしているなら、俺を野放しにする意味は確かにある。わざと奇襲に気付かせ、俺という無関係な人間に争いの火種を撒いて欲しい、ということならば理屈は合うのだが……腑に落ちない。こじつけが強いからか。
「行ってみりゃ分かるか」
――次に向かうのは組合が所有する区画。
先ほど酒場の店主が話題に上げた、牙の組織。
彼らが設けている土地管理の役所である。