二十七話 海に出る
「まぁ、そうだな」
思考の海に流されていた俺は、こう呟いて現実へと頭を切り替えた。
眼前には、俺を心配そうに見つめているリーゼだ。
「お前の知りたいイデアっていうのは女神で、こことは違う別の世界から来た天上の存在だ。そいつが魔物を操り、俺を捕まえようとしている。俺は奴に捕まりたくはないから、逃げている。そういう関係だよ」
もう必要ないだろうと、机に並べた紙をそれぞれ重ねて二つに折り、鞄にペンと共に入れる。
「俺は魔物とああして会話をしていたが、別に裏で通じているだなんてことはない」
「それは知ってます。全部聞いてましたし」
「……何?」
リーゼは俺の動かす手元を見ながら、自分の耳元に手を当てる。
「レーデさんがテレパス繋いでくれたじゃないですか。でもあの後も心配だったので、声だけ聞こえるように意識は向けてあったんです。私、レーデさんを疑って言い出したんじゃないです」
「まさか、奴との会話を全部聞いてたって? あの距離だぞ?」
「はい」
リーゼは何でもないことのように、あっけらかんと言う。
意識を集中させせれば聞こえるなど、ギレントルの地獄耳とかそういう次元の話じゃないぞ。
「やっぱり色々気になります。でも私はレーデさんを信じていますから、これ以上は踏み込みません。ただ一つだけ聞かせて貰ってもいいですか」
「内容にも寄るが……言ってみろ」
どこか不安を湛える瞳をこちらへ向け、リーゼはぽつりと言う。
「ほんとに、何もしていないんですよね。何かがあったわけじゃ、ないんですよね?」
「……そいつは、どういう意味でだ?」
先ほどの質問と一緒であるのならば、俺の答えは変わらない。
だが今の言い方は、それとは少し違う気がした。
リーゼは一切目線を逸らさず、一心に俺を見つめている。そこに内包される不安げな面持ちは、変わらない。
「レーデさんとその女神さん……昔の仲間だったりとか……大切な人とかでは、なかったんですか?」
……ああ、なるほど。
「奴とは仲間であったことなど一度もない。これまでも、これからもその関係が変わることはないだろう。少なくともお前が気にするようなことではないさ、リーゼ」
「それなら、いいんですけど」
「とまあ、話は以上だ。俺はこれからも今まで通り旅を続ける。お前は俺と共に居て、俺を奴らから守ってくれ。そのためにお前を買ったんだからな」
「……はい!」
リーゼはその後椅子から立ち上がり、魔物や女神の件について話したことのお礼を言ってから、ベッドへと潜っていく。
俺は一人椅子に座り直し、再び銃を置いて整備に取り掛かった。
「結局、夜も遅くなったな」
既に外は暗く、町の灯りも落ち着いている。今日も星空は満天に輝き、大地を鈍く照らしていた。
明日は早い。
俺もさっさと寝るとしよう。
ガイラーと合流し船に乗ったのは、本当に陽も出始めたばかりの早朝のことだ。
昨夜起きた事件については何点か話したが、撃退したことは周知の事実であるらしく「頼もしいぜお前さんは」と言ってガイラーが馴れ馴れしく肩を組んできたりギレントルに出迎えられたりをし、現在は甲板のマストに寄り掛かっている。
俺が乗る船はギレントルやガイラーも直接乗る主船である。
頑丈な素材で造られたのであろう本船は他に並んでいる帆船より一回りか二回りほど大きく、見るだけで威厳と恐怖を与えそうな赤と黒の色で塗装をされている。交差する二本の短剣とその下に三本の爪の紋章が帆に描かれており、それが形ある装飾品として船外の側面に張り付けられていたりもする。
銃といった技術がないことから砲台などの艤装は見られないが、一見で俺が確認できない物がいくつか付いている。それが武装かどうかは別として。
豪華絢爛というには華やかさが足りないが、立派なものではあろう。よほどのことがない限り、沈みそうにない。
「昨日のようなことがあっても困るからねぇ、戦力は二分することになった。元々全軍を送る予定はなかったんだけど、あたしらがいない間に任せる奴らは多い方がいい」
「そいつが妥当だな」
それでも、ギレントルやガイラーがいないといった場合は多少の不安が残るのだろうけど。
しかし、ギレントルも考えなしではないだろう。不在に町を襲う可能性のある奴らは勿論、多少の魔物がやって来ても対処できるだけの兵力は町に留めておくはず。
俺はギレントル以外の海賊達の力は直接知らないが、飛び抜けた奴がどこかにいるだろうしな。身内に裏切り者でも存在しない限り、特に問題はないはずだ。
そしてこいつらが仲間にするような連中に、裏切り者が居るとは俺は思わない。
「ちょっとあんたらに負担掛かっちまうけど、任せていいんだろ?」
「そうだな。俺はともかく、リーゼには期待していい」
海上と地上では全く状況が異なるため、それがどこまで戦闘に影響があるのかは俺も分からんがな。俺も海上での戦闘経験など、あまりない。リーゼは空中に浮ける分、かなり勝手が違いそうだが。
相手は魔物の大群だ。それが海上で進行を阻害しているということは――。
恐らく。いや、十中八九あの魔物も関わってくるのだろう。それがアウラベッドであるかは分からないが、女神の息が掛かった奴が必ず魔物を率いているはずだ。
それなりの覚悟を決めなければな。
いつもの格好。銃とナイフを懐に忍ばせている俺は、上着の上から一撫でして水平線を見やる。
「一応言っとくが、準備はいいね? 海に出たら引き返さないよ」
「ああ、俺もリーゼも十分だ。後は船長に任せよう」
リーゼは挨拶だとか言い出して船の中に入り、他の船員に挨拶して回っているらしいが。よくもまあやるもんだ。
そりゃあれだけの力を持っていれば海賊など恐れる概念もないだろうが、大した胆力だ。仮にも男の集団に女一人なわけだからな。
その点ではギレントルも一緒――いや、こいつもこいつで厳めしいな。
まぁ「あんな可愛い子に声掛けられたらバカも士気も上がるだろうからね、行っといで」とギレントル本人の認可付きだ。
まるで自分に色気も女らしさもないと言っているようなもんだが。それも自分で気付いていそうだ。
「おーい船長! いつでも出発出来るぜ、他の船の奴らにはもう連携とらせてある」
「了解だぁ、レイド!」
今更だがレイドとはストレイドの略称か。
二人が大声を張り上げて確認を取っていると、それに釣られてか他の船員も甲板に上がってきて、それぞれの持ち場へと走っていく。
ギレントルは潮風に海賊の長の印であるコートを揺らめかせ、にぃと獰猛に犬歯を剥く。
そうしてから遙か海の先へ指を差し、号令を張り上げた。
「さぁお前ら、魔物退治と洒落込もうじゃないか! あたしらの縄張りに踏み入ったこと、心から後悔させてやりな! 出撃用意ぃ!」
「おおおおーーーー!」
他の船員達の声も上がり、陸と船を繋げる鎖が外されていく。
俺は水平線の彼方を眺めつつ、一つ息を吐いた。
◇
「随分手酷くやられちゃったみたいだねー、大丈夫?」
「……心配には及ばない」
ほの暗い講堂の中央。並べられた机と椅子の中に、二人の男女。
一人の男は黒い翼を折り畳んで頭を垂れ、もう一人の女は椅子に座ってただただその男を眺めている。
――イデアと呼ばれる存在と、アウラベッドだ。
「でも、角とか折れてるし腕も結構痛いんじゃないの?」
「こんなもの、直に治る」
アウラベッドは酷い手傷を負っていた。この城へと帰る前、港の町で起こった戦闘で受けた傷だ。それは頭部に二本ある角の内右の一本を欠けさせていたり、左腕の筋肉組織や腹部の内蔵を奇怪な鉛に抉られていたり、などである。
中でも戦闘に用いる爪の損傷は痛かったが、放置していればいずれ治るとして応急処置だけを行っていた。
人間には存在しない角や爪、牙、翼、どれも立派な魔物の身体である。治癒力は人間の数倍もあり、生命力も高い。その証拠に腕や腹部からの出血は止まっている。肉体の修復など、数日も使えば元通りに治るであろう。
「ふーん。ま、いいけど。アウラ、それで今日は何かあったの?」
イデアは首を傾げてそう尋ねる。
アウラベッドが城の内部にてイデアに会いに行く理由は、決まって任された任務の報告であった。
「捕獲に失敗した」
「うん、その傷を見れば分かるよ。大丈夫、別に咎めないし気にしてないからねー。お疲れさま、アウラ」
特に驚きの反応さえなく、イデアはそう返事をしてアウラベッドの折れた角を一撫でした。温かい感触。イデアの慈愛を感じながら、しかしアウラベッドの思考はそこにはない。
それがもっと昔であれば、その慈愛に何の疑念も抱くことはなかったのだろうけれど。
「……イデア」
「うんー? なに」
「女神だ――と、“魅入られし者”より聞いた」
角を撫でるイデアの手が、止まった。その手は半ばより折れてしまった角から頬へと移動し、黒く染まるその頬に添えられる。
優しげにその頬を引っ張って、イデアはほんの少しだけ頬を膨らませた。白銀の長髪がゆらゆらと薄暗闇を揺れる。
「あ、そんなこと言ってたんだ、彼。それで?」
「いや――」
全く動じない、白銀の瞳。まるで話す内容が分かっていたかのように、そもそも最初から何も隠していなかったかの如く常の声色だ。
そこで言葉に詰まってしまい、アウラベッドは無理に続けようとはせず静かに口を閉ざした。その表情が陰り、イデアの目から少し逸れる。
その些細な変化に気付かない彼女ではない。
「どしたの?」
「……異界の神、というのは本当か」
「んー……まぁ、当たらずとも遠からず? でも大体合ってる。ねぇ、私が神様っていうの、アウラは不思議?」
イデアはアウラベッドの目を見つめたままだ。それはいつまでも目を合わせようとしなかったところで、変わることはなく。
「……何故、神が我らのような魔の者に手を貸すのだと。純粋に、そう思った」
「確かに私は神だって言ったことなかったけどね。アウラは気に食わない?」
「そうではない。不可解なのだ」
アウラベッドは自らの頬に触れているその手の上から、爪が欠けた方の手で覆う。そうしてから、ようやく視線を交わした。白銀の瞳が、未だ一心にアウラベッドを射抜いている。
その瞳は何もかもを呑み込まんばかりに深く、思考を読み取ることはできない。
「我らは神に仇なす存在。ただそこに存在しているだけでも、神は我らを虐げる。排斥する。人間共に力を与えたのも神で、我らをここまで滅ぼしてきたのも神の力あってのものだ。イデア――貴女が自らを神だと肯定したその時から」
「知らないよ、こっちの事情なんて」
「……?」
「知らないって、言ったんだよ? 聞き間違えとかじゃないからね」
その白く細い指先は、再びアウラベッドの頬を摘む。しかし先ほどよりも強く、痛みを伴う程度には乱暴に。
「ここでどうなってるか、そんなの私の知ったことじゃない。さっきアウラも言ったように私は異界の神様だから、ここに居るかもしれない神とは全くの別物だよ。それに」
更にもう片方の手まで伸びてきて、アウラベッドの頬を摘む。
「手を貸すだとか、そういうんじゃないよね。だって私とアウラは大切な仲間でしょ? 協力関係とか、そんな寂しいことは言わないで欲しいな。そんなつもりもないからそう思って欲しくない」
「……仲間」
「そうだよ、仲間。大切な友達でもあるし。大切な人……魔物? 呼び方はどっちでもいいかな、私にとってはどっちも同じことだし」
イデアのその適当な言い方に意見をしようとし、またも遮られる。
「私が今一番大切にしたいのは、アウラ達みんなとの時間。彼を追っているのは確かだけど、そんなことはいつでもどこでだってできるから。私に不安があるなら、いいよ?」
「……何が」
そっと、頬から細い手の平が離れる。温かく、しかしほんの少しだけ冷たい指先の感触はなくなった。アウラベッドが顔を上げると、イデアは自らを象徴するように宙を舞う。
ばさり、と背中から現したのは――白銀に輝く、美しい翼。一枚、輝く羽根がイデアの元から離れ、ふわりと空を舞いながらアウラベッドの手元に収まる。
「彼は手強いよ。私がずっと追い掛けてもことごとく切り抜けちゃうくらいに、狡賢い。だからー、アウラまで彼を追わなくてもいいってことだよ。それで、今後の予定はどうするつもりなの?」
話は終わったと言わんばかりに言葉を切り話題を変えて、宙へと浮かんだままイデアは小首を傾げる。
「……我は、お役御免というわけか」
「もー……そんなこと言ってないよ、全く気難しい奴だなぁアウラは。私はみんなからも、アウラからも離れないよ。離れるとすれば、みんなが私から離れる時だけ」
最後の言葉の真意は、アウラベッドには掴めなかった。自らを見つめるその白銀の瞳が、何を宿しているのか――分からない。
綺麗な翼をはためかせて床に着地するイデアは、辺りに白く銀に輝く光子を振り撒く。人間の勇者とはまた別枠であるその力は神々しくも幻想的で、少なくとも魔物であるアウラベッドが目の前で佇んでいていい事象ではなかった。
故に。
アウラベッドは最後まで難しく歪めた表情を戻すことはなかった。
「ゴルダン渓谷。中央大陸と北大陸間の閉鎖。まだまだ準備は、必要なんじゃなかったっけかな? しばらくは私もそっちに集中するよ」
「それでよいのか。すぐそこに、標は存在しているのだぞ」
「いーの。焦るとろくなことにならないのはどんなことでも一緒だよ? アウラ」
「……承知」
アウラベッドは引き下がろうとし、そこでふと思い出す。
まだ自らがすべき報告が終わっていないことに。
アウラベッドがイデアから頼まれていたことの一つは、既に達成していた。その頼み事は些細で、尚且つ全くもって不可解な頼み事であったが、報告せずにいる理由はどこにもない。
「イデア。“魅入られし者”は――“レーデ”という名だった」
「ん、聞いてくれたんだ。ありがと」
「では」
伝えるなり、アウラベッドは宵闇に紛れて煙のように消えゆく。その場に残る者はイデアただ一人だけとなり、彼女は翼を折り――背中からそれを消滅させる。
光子が失われて、静寂と薄暗闇が再び支配する講堂の中央。
「今は、そう呼ばれているんだね」
その声は誰に届くのでもなく、広く寂しげな講堂に反響した。
◇
海風が頬を撫でる。
微かに香る潮の匂いが、鼻腔を刺激する。
「おいリーゼ、しっかりしろ」
「うぇえ……気持ち悪いですよ……助けて下さいレーデさん……」
海に出てから数時間が経過し、陽射しも本格的に強まってきた頃だ。
俺は甲板の縁で阿修羅のような形相をしたリーゼに抱き付かれていた。
「お、おい……いや、言う必要もねぇな。こりゃ大丈夫じゃねぇ」
「ガイラー、あとどのくらい掛かりそうなんだ?」
「いや……まだまだだがよ」
ガイラーは隣で心配そうにこちらを眺め、顔を青ざめさせているリーゼの背中を擦ってやっている。
「う……大丈夫です、大丈夫です。戦う時は宙に浮きます――うっ、から……!」
「おわわわっおい大丈夫かよ? しばらく横になってていいんだぜ?」
そう。言わずもがな、リーゼは船酔いしていたのだ。
それも結構な重症で、完全に俺の腰に抱き付いて離れず先ほどから「うっ……」と洩らしている。
頼むから俺の服に吐くんじゃないぞ、リーゼ。
「はぁ……ごめんなさっ……う……っふう……ぎもぢわるい……。大丈夫です、その内なれます、から」
「いや船酔いって致命的だぜ? もしかしてリーゼちゃん船乗んの初めてか?」
「や、初めてってわけじゃなかったんですけど……その……酔ったのははじめ――」
リーゼは顔を更に青ざめさせ、口元を右手で覆う。俺はリーゼの馬鹿力で服を鷲掴みにされながら、やれやれと首を横に振った。
見ちゃいられない。
「悪いなガイラー。まさかこんなトラブルが起こるとは思わなかった。とりあえず、船室に寝かせてくる」
「ああ。そうしてくれ。横になって休めば少しはマシになんだろ。酔い止め薬は確かあったはずだから、他の奴らに適当に運ばせるさ」
「助かる」
俺はリーゼを背中に担ぎ、あまり揺らさないようにして運ぶ。
「うう……すみません、レーデさん……うぷっ」
「俺の肩に吐いたら流石に殴るからな」
「お腹はやめて下さいね……」
「突っ込む部分はそこか?」
「じゃあ、うっ……もっと労って下さい……」
それきりリーゼは一言も喋らなくなる。俺はぐったりしたリーゼが吐いてしまわないように注意をしながら、この前借りていた船室へと運び込んだ。




