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「も、もう一度結婚詐欺にかけろだって?」
ぐっと身を乗り出しながら、優美に克実は怪訝な表情を見せた。非合法行為というのは、根本的に一回きりだからこそ実用的かつ有用なのであって、同じ相手に何度もかけるものではない。
「……はい。失礼ですが、あなたは演技力が巧みとはお世辞にも言いがたいです。私ですら騙せないのに、政治家である私の父を騙すなんて、まず不可能です。それなら協力者が身内、それも血縁者で結婚する本人が共同すれば成功する確率もあがります。だって娘に結婚詐欺にかけられるなんて、親としては夢にも思わないですからね」
「つまり、結託して結婚詐欺をもうけようってことか。でもさあ、よくそんな非道徳的なことが言えるな。仮にもあんたの親父さんだろ?」
突然の申し出に動揺しながらも、克実は口を挟んだ。
優美は品のある手つきで紅茶を口に運ぶ。
「別に、家でもほとんど顔を合わせませんからね。家庭も省みず、国益を考えないどころか偏った政策ばかりで、自分の収益のみを搾取するような人ですよ」
「そんだけ言われりゃ親としちゃ涙目だな」
「私のお父様のお気持ちは別として、いかがでしょうか? あなたならお父様も気に入ると思いますし、上手くいけば大金を得られますよ」
「ふざけんな。そんな危ない橋渡れっかよ」
「もし応じていただけないのであれば、住所を割り出して毎日会いに行っちゃいますよ。常にぴったり寄り添って離れませんけど、それでもいいですか?」
優美は「ウフフ……」と薄気味悪い笑い方をしながら、克実を脅迫した。克実は理不尽な二択を迫られ、「いやいや」と手を振った。
「なんでその二択なんだよ。そんな話、突っぱねて終わりだろ」
「ですから、あなたに拒否権はありません。同じことを何度も言わせないでいただけますか?」
「おまーな、俺のこと何だと思ってんだよ」
「もちろん、愛しております♪」
「ああ、さいでっか……」
優美は軽く言ったが、瞳は真剣そのものだった。もはや取り付く島もなくなり、克実は「よし、わかった!」と手を叩いた。
「じゃあ、現実的な話をしよう。森園優美。あんたは自分に対してもう一度結婚詐欺をかけてくれって言ったな。でもさ、いくら親が政治家ったって一億も払うもんか?」
このままでは水掛け論になりそうだったので、思い切って話の続きを問いだすことにした。優美は世間話に応じるような口調で「はい」と返事を返した。
「政治家としての資本金を考慮すると、体裁もありますから五千万は最低でも出さざるを得ないでしょうね。それでも過ぎた額だとは思いますが」
「はーん、あんたのお父様とやらは、娘の結婚を喜ぶ気持ちよりも、体裁だけしか気にしないってわけか。この娘にしてこの親ありってやつだな」
若干皮肉をこめて言ったつもりだが、優美は思いつめたような顔で「はい……」とつぶやく。
「お父様は、私のことなど何とも思っておりません」
「でも、五千万ならポンと出してくれるんだろ?」
「周りの顔を立てるという意味ならばそうですね。というよりも、五千万程度の収益なら、すぐに取り戻せます」
「そ、そうなのか……」
五千万の利益があっさり稼げるというのも凄いが、娘の結婚祝いを、「すぐに取り戻せる」という考え方は親としてどうなのだろうか。
「五千万か……まあ、諸々のお膳立てを差し引いても、かなりの額だな」
「ですよね。私の年収の五倍はありますし。分け前の方法などについては、おいおい考えていくとしましょう」
「つーかさ。アンタ大手企業のOLだろ? ハイリスク踏んでまで5千万なんて儲けなくても、いくらでもいい生活が出来るんじゃないか?」
「あら、そうでもありませんよ。今持ってる高級ブランドのバッグだけで何百万もしますしね。私、ヴィトンの新作バッグを買おうと思ってるんですけれども、到底手が出せないんですよね。お友達はみんな買ったばかりだというのに。まあ、強いて言えばそれが目的ですかね」
克実にしてみれば、ブランド物をいくつか身につけているというだけで充分に贅沢なのだが。それにしてもこの優美という女は何という悪女なのか。ブランド品が欲しいた為に親をも騙そうとは。克実は優美に対して落胆していくのを感じたが、優美はそんな克実の心境を知ってか知らずか、そ知らぬ顔で話を続けた。
「ですから、あなたと協力して、お父様のあぶく銭を一部、手にしようということなのです」
「ブランド品を買いたいから五千万は出さないとしても、何百万かは都合つけてくれんじゃないの? わざわざ冒険しなくたって……」
「これから秋冬にかけて、新作モデルがいくつか公開される予定です。そのために、幾らか貯金しておこうかと思いまして♪」
克実の疑問に、優美は満面の笑みを返した。
もはや、悪女どころではない。完全に外道だ。
こんな女と、例えお芝居でも家庭を築くという想像に、克実はゾッとした。
克実は立ち上がると、少し用を足してくると優美に伝えた。
「あまりに長いようであれば迎えにいきますからね」
三十近い成人男性を相手に、迎えに行くも何も無いのだが。克実は「ああわかったよ」と優美に答えて席を立った。そして、カウンターで熱心に男性向け成人誌(!)を読んでいる大田原に向かって軽く目配せをする。大田原がこちらに目を向けたのを確認してからトイレの中に入ると、示し合わせたとおり、窓の鍵を外し外に飛び降りる。
相手との交渉が決裂したときには、こうして「トイレの窓から脱出大作戦」を試みるのだった。前に使った時は、およそ一年くらい前のことだった。調子に乗ったかなりいけすかない金持ちのセレブで、いくらかむしってやろうと思ったものだが、逆に自分が詐欺師であることを暴かれ、慌てて逃げ出したのだった。無論、思い出すのもはばかれる情けない記憶である。
本当は、優美と一緒になってもいいと考えていたのかもしれない、と克実は思った。しかしあのようなことを言い出すようでは、結婚どころか付き合うことすら願い下げだった。誰が何と言おうと自分は間違った結論を出してはいないと、克実は自身に向かって言い聞かせる。これでいいんだ。あいつはおそらく金持ちの資産家と結婚して幸せになる。おそらく自分は、低級結婚詐欺師として、つまらない人生を歩むことになるだろう、それほど不釣合いな二人なのだ。だが、優美はそう思ってはおらず、克実のことを本当に愛してしまったのではないか。
そう思うと、克実の心臓はきりきりと痛んだ。