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「い、いい話って……」
克実は追い詰められた鼠のように、オドオドと緊迫した表情で優美を見つめた。しかし早紀の手前、すぐに平然を装い顔を引き締めた。
「君ねえ、何か勘違いしてるんじゃないですか?」
柔和な笑みを浮かべてくる優美は、思わず眼を見張るほど美しかった。もともと微笑が似合う顔をしているだけに、陽光の下で見る優美は、ますます天女のような佇まいを生み出している。だが克実はこういう女を何より苦手としていた。優しそうな女性というのは、いつも穏やかな笑みを浮かべておきながらも、内心では二心を抱えているケースが多いのだ。
「九ヶ月と十四日前、最後に私の自宅でお会いしましたよね?」
日にちまで細密に覚えてるなんて不気味な女だな、と心中ではき捨てつつ、克実は「そうなんですか?」と言葉を返した。
「僕、よく人と間違われるんですよね」
「いいえ、あなたは金田さんに違いありません。だから今こうして私のお話を聞いてくださってるんです」
「だから、僕はその金田さんじゃないんですよ」
優美の追求に、克実としては応じるわけにはいかなかった。ここでうっかり認めてしまったら負けだ。優美はじっと克実を見つめながら言った。
「金田さんじゃない、と。なら、なぜ私の顔を見た途端逃げ出そうとなさったのですか?」
「対人恐怖症なもので。知らない人に声をかけられると頭がパニックになってしまうんですよ」
「まあ、そうだったんですか。それは大変な無作法をしてしまいした。申し訳ありません」
明らかな克実の嘘に対し、優美は深い同情の念を抱いて頭を下げた。
これが芝居なら大した演劇役者だ。
「私、別にあなたを困らせるために来たんじゃないんです。ただお話を聞いていただきたかっただけなんです」
優美は上目遣いにしがみつくような視線を克実に送る。
その視線を真正面から受け止めながら克実は言った。
「胡散臭い話を聞いてられるほど暇ではありませんよ」
「私は……何もそんな」
優美は困惑、いや狼狽した面持ちを克実に向けた。正真正銘、真実を語っているようにしか見えない。だからこそ、この女は危険なんだと、克実は注意を払った。
「近頃のセールスレディは手段を選ばないと聞きますからね。相当いやらしい手口を使うそうですよ。男だったら、美人に魅了されるのは当然のことなんだから。最初はコンタクトをとるために馴れ馴れしく近づいてから高価な品を売りつけて失踪するから、相手は振られたと思いこんで騙されたことにも気づかないそうですよ。君もその類じゃないんですか?」
「金田さんの仰りたいことはよくわかりましたが、私にはそんな気は毛頭ありません」
「どうだか。じゃあ、僕はこれで」
優美の反論を克実は取り合いもしないで、ベンチから立ち上がり、踵を返して歩き出した。優美は慌てて克実の後を追う。
「どうしても、私のお話を聞いてくださらないと言うのですね。分かりました、私もそんなに上手くいくとは思ってませんでした。こんなことしたくなかったんですけど、それなりの手段を使わざるを得ませんよ」
「別に僕たちは後ろめたいことはしていませんので、どうぞ警察を呼ぶなり好きにしてください」
追ってくる優美を無視しつつ、克実は冷たく応じる。優美は更に食い下がった。
「そんな虚勢を張っても、こちらには証拠が残っているんですよ。ご存知なかったかもしれませんが、金田さんが来てくださった時、あの部屋には監視カメラがついていたんです。これを然るべき場所に掲示すれば、詐欺罪が施行されあなたの身は破滅です。それでもいいんですか? 終わりなんですよ!?」
「いい加減にしてくれません!?」
きっと克実は振り向きざまに、優美を見据えて言った。優美はおずおずとした表情で克実を見つめている。どうして追い詰めてる側の人間がそんな顔をするのかと、克実は苛立っていた。
「お気に触ったのなら、いくらでも謝罪いたします。でも私だって中途半端な覚悟でここに来たわけではないんです。第一、あなたが本当に無実だと仰るなら、警察に何を言われても事実無根だと突っぱねればいいじゃないですか」
「無実の罪で牢獄に収監されるケースだってあります」
「そうなんですか? でも、私は本当のことだけしか言いませんから。これが最終通達です、私のお話をほんのちょっとでいいので聞いてください」
「お断りします」
克実はきっぱりと拒絶の意思を示したが、心臓はバクバクと脈打っていた。そんな克実に対して優美はそっと手を伸ばした。びくっと震える克実の頬をさすると、優美は妖艶に眼を細めて笑った。克実が不気味に思っていると、優美は怪しく微笑んだ。
「なぜ、そんなに脅えてらっしゃるんですか? 私たち、恋人同士じゃありませんか」
愛しむように頬を撫で回す優美の声色は、赤子をあやすような優しさに満ちていた。対照的に克実の口調はだんだん粗雑になってくる。
「恋人同士って……、だから、俺は君のことなんか知らない」
「いいえ、あなたは金田さんで間違いありません。私のことも覚えてるはずです」
「君、どこか変なんじゃないか? 医者に見てもらった方がいいぞ」
断定する優美の言い分を、克実は根強く否定し続けた。フェミニストを自称する克実だが、こういう場合は致し方ないだろう。
「では、嫌でも私を受け入れてもらうしかありません。ちょっと乱暴な手を使いますけど、悪く思わないでくださいね?」
優美は仕方なし、と言った風にそう申し渡した。克実は胸騒ぎを感じて後ずさろうとするが、それより一瞬早く、優美が一歩踏み出した。
「なっ……」
「……ちゅ……んむ……あ」
「な、なにしてるでありますか二人ともー!?」
驚きの声を早紀が上げた。克実は返事をすることも出来ず、優美に唇を奪われていた。早い話がキスをされていたのだ。
優美の舌は口内を舐め回し、執拗に唾液を送ってくる。克実は口を離そうとするが、優美が首に手を回していて、距離を取ることができない。優美は荒々しく、貪欲に克実の唇を貪り続けた。
「……んっ……ちゅぷ……はぁん。服……脱ぎますね」
唇を離すと、優美は初々しく上着のボタンを外しはじめた。
「お、おい! 何公衆の面前でんな恥ずかしいことしてんだよ」
周囲にはいつの間に現れたのか、人だかりが集まっていた。克実は赤面しながら優美から離れようとするが、優美は嬉しそうに詰め寄る。
「なんでいきなりキスなんかしてきて、しかも服まで脱ぎだすんだよ。お前、変態か? 俺にはそういう趣味はないぞ」
「あなた以外の人にこういうことはしませんので。ご安心ください」
「そんなこと一言も聞いてないが、これ以上何かしてくるなら警察呼ぶぞ」
「あらよろしいんですか? この状況で警察なんか呼んでしまっては、金田さんの方が公然わいせつ罪に処されてしまいますよ?」
「さらっと人を脅さないでもらえるかな? 俺が一体何をしたっていうんだよ。ったく、こんなことなら今日一日家でじっとしとくんだったぜ」
「それはいけません。休みの日は恋人同士、外でデートをするものと相場は決まっているのですから」
「だから、誰が恋人だ! 誰が! ……ん?」
口論を続けてる間にも、公園内に群集が集まってきた。皆一様に克実たちをニヤニヤと眺めている。中には克実が優美に対して無理やり迫っているかの如くひそひそ話をしている者もいる。こうなってしまっては、不実を働いている身としては大変厄介な状況になってきたと言える。克実は歯軋りをしながら優美を見据え、断腸の思いで精一杯優しく声をかけた。
「は、はは。じゃあ喫茶店にでもいこうか。まったく、いくら恋人同士だからって、こんな所で乳繰り合うのは駄目だぞ♪」
「あ、ごめんなさい☆ でもどうせ結婚する仲なんですからいいじゃないですか」
「そんな嘘をつくのはやめてもらえるかな? ますます誤解が生まれるっつーの。大体わざわざこんな所まで居場所を突き止めてくるか普通?」
「私は本当のことしか言わないと先ほど言ったじゃないですか。口頭によるものでも、約束は約束です」
「そんな曖昧な縁組があるかっ」
克実はそう言うが、優美は嬉しそうに克実の腕に自分の腕を絡めた。
「事実を申し上げたまでです♥ さ、行きましょうか」
「わーったよ! もうこうなったらヤケだ。話でも何でも勝手にしやがれ。ただし、割り勘だからな」
騒ぎたてながら、克実は頭が痛くなってくるのを感じた。優美に腕を引っ張られながら、公園を出て大通りに向かう。なぜだ、どうしてこうなるんだ。俺は何で、こうして禄でもない女に絡まれるんだよと、ぶつぶつ内心でぼやきつつ。