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――相川祥子。
忘れもしない、かつて克実を騙し、結婚詐欺の道に引きずり込んだ女だ。
「五年ぶりになるかしらね」
そう言って祥子は向かいの席に座るよう克実を促した。
彼女は濃紺のワンピースを着ていた。祥子は克実の思い出そのままに、見るものを惹きつける爽やかな笑みを浮かべている。記憶と違うのは頬が少しほっそりしているところか。
「どうして私がここにいるのか、って顔してるわね。相変わらず顔に出やすい」
克実がソファに腰掛けると、祥子はクスッと笑いながら言った。その微笑みはかつて克実が心奪われた思い人そのままだった。
克実はウエイトレスにコーヒーを注文すると、祥子を見据えて言った。
「あなたは……どうして? 意味がわからない。どうしてあなたがここにいるんですか。そもそも、優美とはどういう関係なんですか?」
「ああ、それはね」
克実の目線を真っ直ぐ受け止めながら、祥子は言った。
「私、この数年克実君のことを探していたの」
「オレを?」
祥子はうなずいた。
「でも見つけられなかった……そんな時、森園さんから話がきたの。あなた、凄いわね。森園壮一郎といえば、大物議員よ。どうやって知り合ったの?」
「それは……紹介してもらったんですよ」
オーダーしたコーヒーが、克実の元に運ばれてくる。克実はすぐ口元にカップを運んだ。ひとまずは落ち着いた。顔は悪いがコーヒーの淹れ方に関してだけは、大田原は一流だ。
「私はずっと、あなたに謝りたいと思っていた」
カップをソーサーの戻したタイミングを見計らって、祥子は声をかけた。
「あなたに出会う前、付き合っている人がいたの。『借金が返せないから、連帯保証人になってくれ』って言われてね。でも借金を肩代わりしてから、彼とは連絡が取れなくなったわ。それ以外にもお金を貸していたから、彼は最初から私を騙すために近づいたのね。負債はどんどんたまって、雪だるま式に借金は増えていったわ。どうして私は純粋に彼を愛しただけなのに、こんな仕打ちを受けなければいけないの? どうして私だけこんな目に合わなければならないの? 私は納得することができなかったわ。そのうち、男性そのものを嫌うようになった。自分の負債を返すために結婚を釣り餌にして、女性を騙すなんて、って思ってたのよ。
だから克実君。私はあなたのことを騙したの。誰でもよかった。お金がほしかったし、男の人に私と同じ苦しみを味わわせたかった」
祥子の言葉は、克実には朧げに聞こえた。
「だけど、私分かったの。ううん、分かっていたの。人の気持ちを悪用してはいけない。誰かを愛する心に付け入ってはいけない。自分が騙す身になって、私は生まれて初めて死にたいくらい苦しんだわ。だけど、あなたはもっと辛い目にあった。誰よりもその痛みを知っていたはずなのに、私はあなたを陥れてしまった。何も関係のないあなたを、巻き込んでしまった」
祥子は一息ついて、克実を見つめた。
「克実君、本当にごめんなさい」
そう言って祥子は、深く頭を下げた。克実は慌てて制止する。
「いや、許すも何も、オレはもう別に――」
祥子は顔を上げた。
「違うの。克実君。私の話を聞いて」
「え……」
「私はこのことで、あなたに許されようとは思っていない。もう、あなたの好意に縋るようなことはしたくない。あなたに憎まれていたいの。だから、私のことは決して許さないで」
「……オレは……」
「私のこと、許さないと言って」
祥子は、泣きそうな顔で克実を見た。
「だけど、オレは――」
「克実君、お願い」
お願い。その言葉を聞いた瞬間、克実の脳裏にある光景がよぎった。あれはいつのことだったか。そうだ、彼女から借金の申し込みをされた時だ。その言葉が、克実の心をずっと縛り付けていたのかもしれない。しかし、もうそんな痛みに悩まされることはない。なぜならば、克実はもう全てを受け入れているからだ。
「わかりました。オレはあなたのことを許しません」
「うん。私、努力するから。いつか、あなたに許してもらえるように」
祥子はそう言うと、ソファの横に置いてあった、アタッシュケースをテーブルの上に置いた。
「……五百万、あるわ」
祥子は克実を真っ直ぐ見つめながら言った。
そしてケースを克実の前まえで押しやると、
「あなたから借りたお金。金利として少々上乗せしておいたわ。受け取ってくれるわよね?」
「…………」
「もらってくれないの? もしかして、自分のしてきたことに罪悪感を感じているから?」
「どうして、そのことを……?」
「森園優美さんから、全て聞いたわ。あなたが今までしてきたこと全て」
「だったら、分かっているでしょう……。オレにはこんなもの貰えない」
そう克実が言うと、祥子はふっと笑みをこぼした。克実はじっと下を向いて俯いている。そんな克実の手を握ると、祥子はアタッシュケースの持ち手をぎゅっと握らせた。
「そう言うと思ってたわ」
祥子は悪戯っぽく笑って、
「あなたの気持ちもわかるんだけど、受け取ってもらわないと私の気が収まらないの。その上で、克実君は克実君なりに、今まで騙してきた人に罪の清算をすればいいわ。私があなたに許されたいと思っているようにね」
祥子はウインクをしながら言った。克実はアタッシュケースを両手でしっかりと抱えた。五百万があれば、壮一郎への負債も楽に返済することができるだろう。
「分かりました。では、半分だけもらいます」
克実がそう答えると、祥子は面食らったような顔をした。そんな様子を横目に、鼻を指でかきながら、克実は「だってさ」と照れくさそうに言った。
「そのままもらったらやっぱり悪いですよ。オレだってまだ罪を償い終えていない。だから、半分だけ頂きます。その代わり、全てが片付いたら、遠慮なくもらいにきますから」
「本当にいいの? これはあなたのお金よ?」
祥子は尚も食い下がった。付き合っていた時は、こんな慌てる姿を見たことは無い。克実は祥子の様子を見て笑みをこぼした。
「ま、金には不自由してませんからね。そんな急に渡そうとしなくてもいいですよ。それに、いきなり五百万もあげてしまったら何かと不便でしょ?」
「……ありがと。相変わらず優しいのね」
祥子は克実に二百五十万だけ渡すと、半分をアタッシュケースに収めた。しかしその半分も、いつか必ず渡すと約束をして。祥子は克実と連絡先の交換をした。
「そういば、あなた結婚するんですって? 優美さんから聞いたけど、よかったわね。私がこんなことを言うのも何だけど、おめでと」
祥子はそう言い残すと、会計を済ませて去っていった。まさか、あの人に祝いの言葉をかけられる日がこようとは。克実は挨拶を返しながら、胸の内に温かみが広がっていくのを感じていた。
鞄に入った大金にチラリと眼を向けた。オレも本当にお人好しだよなあと苦笑しながら、鞄の上辺を撫でる。そうしている内に、たくさんのことが思い出された。
そんな回顧をしていると、目の前にコーヒーが注がれたカップを置かれた。見上げると大田原が大きな背を向けて立っていた。克実はカップを見下ろすと、熱い湯気が鼻をくすぐった。
「サービスよ。アンタ、最近頑張ってるみたいだからね。ほんといい男になったわ。あたしがもう少し若かったら、食べちゃいたいくらい」
「ああん? 冗談じゃねえ。誰がお前なんかとまぐわうか」
「わかってるわよぅ。他人の男を寝取ったりしないわ。オネエを見損なわないで」
「くねくねしながら言うんじゃねえよ」
身をくねらせる大田原の背中を叩くと、克実はコーヒーをぐっと喉の奥に流し込んだ。舌の上で味を噛み締めると、ほろ苦かった。やばい、泣きそうだ。瞼の奥から涙が流れ落ちそうになるのを、懸命にこらえた。最近は歳のせいなのか、涙もろくなっていけねえ。そう思った時だった。
チリンチリンという、ドアベルの音が鳴った。
入ってきた客は一直線に克実の元へ向かってきた。
カップをソーサーに置きながら、克実は顔を上げ、その人物を視界に入れた。
森園優美。
優美は黒のレディーススーツを着ていた。彼女は克実の元までやってくると、にっこりと笑って言った。
「進太郎さん。心労は片付いたでしょうか?」
克実はすぐには答えなかった。いや、答えられなかった。
同時に幾つもの疑問が脳裏を去来しすぎて。
「……どうして、オレを祥子さんに会わせようと思ったんだ?」
「だって」
優美は微笑を崩さずに言った。
「夫のメンタルケアを図るのも、妻の役目ですから。進太郎さんの話を元に、探偵を雇って調べさせました」
「おまえ、凄いな。こんな、こんな……」
涙で視界が霞みながらも、克実は続けた。
「こんな、オレのために…………」
その先は、続けられなかった。優美の舌が唇に捻じ込まれていたからだ。
口内に唾液が染み入ってきたところで、優美は唇を離した。
「前に申し上げた通りですよ。私は地獄の果てまであなたについていきますと。私はそれを実践しているに過ぎません」
優美の顔は、滲んでいた。それでも、笑っていることだけは分かった。
たおやかで温かい。克実は、優美の眼をじっと見つめ返した。
彼女は、いつも克実のことを甘受してくれた。
克実は優美に何も与えてはいないというのに。
一体なぜ?
なぜ?
なぜ?
なぜ?
ああ、そうか……。
克実は震える腕で、優美の背中に手を回した。少しずつ、ゆっくりと。抱える指に力を加えた。赤くなった頬が近づいてくる。
「もう一度キス……してもいいか?」
問いかけるまでもなかったのかもしれない。優美は躊躇いなく頷いた。
「どうぞ」
克実は緩やかに瞳を閉じると、優美と再び口付けを交わした。




