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病院に着くまでの間、克実と優美は言葉を交わさなかった。思考を言葉に変える手立てを失っていた、と言った方が正しいのかもしれない。タクシーが玄関先まで近づいた時、緊張の度合いが高まっていくのを克実は感じた。二十階立ての大病院は、まるで高級ホテル並みの広さと設備を兼ね備えている。その豪勢さも、空気が緊迫していく理由の一つなのかもしれない。
ロビーで優美に話しかけると、
「お父様は進太郎さんにお話があるそうです」
そう口を開いた。壮一郎の病室はセキュリティー配慮も完璧な、特等の個室に入院しているとのことだった。
「私はロビーでお待ちしていますから」
エレベーター前で優美と別れた。ケージに入ると、深呼吸をしてから、震える指でボタンを押し、壮一郎のいる病室を目指した。
壮一郎は青い病衣を着てベッドの上で横になっていた。頬は痩せこけ、顔色も悪い。克実が顔を見せると、起き上がって礼を伝えようとしたが、点滴が固定されているためか、動きはぎこちなかった。仕方なく克実がベッドの電動スイッチを押し、頭が半分持ち上がったことで、ようやくまともに会話が出来るようになった。
「いやあ。すまんね金井くん」
少し辛そうにはしているが、存外声は精力的だった。顔色が芳しくない中、森園壮一郎らしい豪快さは全く失われていないようだ。
「いえ、とんでもない。それよりお体のご様子は如何ですか?」
そう言うと、壮一郎は力なく笑った。
「大したことはないよ。少々風邪をこじらせてね。すぐ退院してもよかったんだが、医者がうるさくてね。念には念を入れてしばらくは入院というわけさ」
「はあ。そうなんですか」
克実は壮一郎のげっそりと痩せこけた顔を見て、単なる風邪ではないのではないかと訝しんだ。そういえば、壮一郎の家に足を運んだ際、酷く咳こんでいたことを思い出した。
「今日はね。ぼくが死ぬまでに話しておきたいことがあったからなんだ。率直に聞くよ。君は優美のことをどう思ってるんだ?」
「優美さん……ですか?」
克実の問いかけに、壮一郎はこくりと頷いた。
「金井くん、俺は君なら優美を嫁にやってもいいと思っている。しかし、君はどうなんだ? 一生をかけて優美と添い遂げる決意はあるのか? どうなんだ?」
苦しそうに顔を歪ませながらの、壮一郎の問いかけに、克実の心臓は締め付けられるように痛んだ。
「俺はね、あの子に幸せになってほしいんだ」
克実が答えられずにいると、壮一郎は言った、
「俺はこの社会を変えるために市会議員を目指してきた。若いころから早くして亡くなった妻や、優美には苦労をかけてきた。妻は病弱な体に鞭打って、パートを続けながら選挙の下地を作ってくれたんだ」
どうして今そんなことを話すんだ、と克実は思った。もしかしたら、壮一郎の病状は余程深刻な事態にまで来ているのではないか。そんな憶測が脳裏をよぎる間も、壮一郎は話を続けていた。
「妻は自分の体よりも、俺の選挙活動を優先してくれた。俺がこうして議員になれたのも、妻がいてくれたおかげなんだ。妻は娘や俺、何より家族を大事にして、病魔に冒された体で後援会に参加してくれた。俺と結婚していなければ、あいつはあんな早死にすることはなかった。全ては俺のせいだ。だからこそ、一人娘の優美には幸せな家庭を築いてほしいんだよ。家族を愛し、守っていける人間にしか、優美は任せられないんだ」
そこまで話すと、壮一郎はふっと息をついた。おそらく、尋ねているのではなく、試しているのだろう、と克実は直感的に理解した。そして、克実がどう答えるかも壮一郎には予測できているのだろう。
「どうかな、金井君。あの子を花嫁としてもらってやってくれないか。そうしてくれるなら、君が言っていた援助も、幾らでも出そう」
「それは……今この場で決断しろと?」
「もちろんだ。言っておくが、君の言葉は重要だ。心して話したまえ。そして、もし駄目ならキッパリと身を引いてほしい。どうする? 優美を嫁にもらってくれるか、もらってくれないのか」
要するに、優美と結婚するか、別れるか、この場で選べと言うのだ。
オレは……優美と……。
克実は優美の笑顔を思い出した。公園で克実を見つけた時、まるで子供のような純真な微笑を浮かべていた。そして部屋から追い払った時の悲痛な涙も。それら全てが、克実の心を抉った。
「もらいません」
克実は敢然と断った。
「ほう」
壮一郎は想定内、といった表情を見せた。
「それはつまり、あの子では不十分ということかな?」
「いいえ、違います」
「……では、どういう」
脳裏に優美の姿を思い浮かべながら、克実は口を開いた。
「オレは、結婚詐欺師だからですよ」




