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「あれから進太郎さん、すっかりお父様に気に入られて。この間なんて朝まで飲み明かしていたんですよ」
優美は趣のある手つきで、コーヒーを口に含みながら言った。
「やったでありますね、ボス。それもこれも、あたしがひったくりに扮して恋のキューピッドを努めたからであります。これで、完璧に上手くいくでありますよ」
早紀がそう言うと、克実はコクリと頷いた。
「ああ、もう本決まりまで時間の問題って感じだな。あのおやっさん、早く孫の顔が見たいらしくてな、あんたみたいな息子が出来たらいいなあって喜んでたよ。でもさ、優美が言うような極悪人じゃなかったような気もするな。むしろ、優美のことを気にかけてるような感じがしたぞ……なあ、ミケランジェロ?」
「ニャア?」
克実にそう話しかけられ、皿に注がれたミルクを飲んでいた猫は顔を上げた。
「ミケランジェロちゃんも、あれからすっかり元気になったわよねえ。食欲旺盛なのはいいことだわ」
大田原は空になったカップを片付け、テーブル周りを清掃しながら言った。ミケランジェロも、大田原に話しかけられるのは慣れているらしく、特に嫌がるしぐさは見せなかった。
大田原の切り盛りする喫茶店は、いつになく繁盛している、といっても昼下がりにコーヒーを飲みに来た克実、優美、早紀、そしてミケランジェロの四名だけである。ミケランジェロというのは、少し前に克実が川岸で拾ってきた野良猫のことだ。彼は茶色のアメリカンショートヘアで、赤褐色の見栄えする毛艶がとても美しい。詳しい年頃は判明しなかったが、毛並みから生後二年ぐらいだろうと優美が見立てた。そして克実と共に飼うことにしてからは、こうして大田原の喫茶店でミルクを舐めるのが、ミケランジェロの日課となっていた。
「お父様、この前式場のパンフレットまで用意して、結婚の準備を進めてくださっているんですよ」
優美は喜ばしげに父親のことを話し続けている。
今日の優美はブラウスにスカート、常に脈動しているふっくらした唇に至るまで、淡いピンクの装いをしている。純黒の髪は肩の辺りで、優美の動作に合わせて木目細かく動いている。キラキラした瞳の奥には、考え事に耽る克実が映っていた。そう、克実には悩みがあった。
「……進太郎さんも、そう思いませんか?」
「へ? な、何が?」
「どうかされましたか? 先ほどからぼんやりされているようですが……」
「いや、何でもない」
もうやめにしたかった、とは言えなかった。汚職をする政治家に天罰を下せればと思い始めた計画だが、感じるのは後ろめたさだけだった。壮一郎は克実の思い描いていた悪漢とは違う。人並みに娘の幸せを願う父親と何も変わらない。だからこそ、もうこれ以上続けたくはなかった。
「なあ、優美」
カチャリ、と克実はカップをソーサーに置きながら言った。
「なんでしょうか?」
「もう、やめにしないか?」
「……はい?」
「これ以上、この関係を継続していくのはお互いのためにならない。いや、それどころか、道を踏み外すことになる」
「そんな……。そんなこと、ありません。私は、私は……」
克実は優美の言葉を遮るように言った。
「違うんだ、優美。別にお前のことが嫌いになったからこんなことを言うわけじゃない。むしろ……」
克実は伏し目がちに言った。しかし、どんなに辛くても、言い切らなくてはならない。克実はしっかりと優美を見据えて言った。
「お前はまだ引き返せるんだ。でもこのままだと、罪を犯してしまうことになるんだぞ」
克実の言葉を、優美は唇をきっと結んだまま聞いていた。
怒っているのか、悲しんでいるのか。克実には判断できなかった。
優美は、ゆっくりと口を開いた。
「私は、進太郎さんと一緒なら、地獄にだって落ちる覚悟はあります」
「ふざけるな」
「ふざけてなんかいません。私は本心を語っています」
優美の声に叱責の響きが混じった。
「いえ、そんなことよりも。どうしてそのように思うのですか?」
「どうして、だって? 今のままなら政治家の娘として、順風満帆な人生を歩けるんだぞ? それがオレのせいで――」
そこまで、克実がしゃべった時だった。
優美の鞄から携帯の呼び出し音が鳴ったのは。
「あ、すみません。進太郎さん、ちょっとお待ちください」
優美は仕方なしといった様子で通話に出た。
「もしもし……どうも……え? 何ですか? え? え!?」
優美は血相を変え、深刻そうな声で電話主と会話を続けていた。
携帯電話を持つ手が、ブルブルと震えている。
「はい……わかりました」
通話を切り、優美は克実の方へと向き直った。
死人のように蒼白となった顔で。
「優美……? 何か、あったのか」
克実の声に、すぐには優美は答えなかった。正確には呆然として答えられなかったようだが、優美は必死になって言葉を紡ぎ合わせた。
「進太郎さん……お父様が、病に倒れて、病院に搬送されたと……」




