表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
24/32

24

 イタリア製のモダンテーブルの上は、リッチなディナーで囲まれている。ウェイターは優々たる振る舞いで各テーブルを接客して回っていた。そうした心配りや、頬が落ちそうなほどの料理の味が無ければ、すぐにでも自宅に引き返してしまいそうだった。現に森園壮一朗(もりぞのそういちろう)は、コース料理を三分の一ほど残している。いつもカード払いの上貯蓄はあるので、支出を気にしたことはない。壮一朗はこんがりと焼けた舌平目のムニエルを、一口含んですぐ、フォークとナイフを皿に戻した。これだけでもざっと一万円といったところか。何とも端金である。


 食事を味わう気分にはどうしてもなれず、窓際から煌く星空と夜景を見渡す。都心をほぼ一眺めに出来るため、壮一朗はこうして群集を見下ろすのが好きだった。今下にいる下層階級と自分のいる場所の隔たりに、そのまま格差の縮図を感じることが出来るからだ。


 市会議員になって、およそ十年目になろうとするが、満足のいく収入は得られていない。同期の若手議員に比べれば、わずかに下回るくらいか。これだから議員は辛い。粉骨砕身、日本に我が身を捧げてきたのに本給を下げろとまで言う輩がいる。打ち合わせや会議や選挙に向けて、連日不眠不休で駆けずり回ってきたというのに。たまにネットサーフィンをしていると、「頑固親父」などと失礼極まりない俗称で呼ぶ者までいる。壮一朗は自分のことを頑固と思ったことは一度もない。むしろ、市政に反映させるため、市民の声を柔軟に聞いているつもりだ。頑固親父などと言っていた人物に三時間ほど説教をしてやりたいくらいだった。


 そんなことを考えていると、真向かいに座っている人物がふと顔をこちらに向けた。一人娘の優美だ。今日は久しぶりに親子水入らずの食事だというのに、妙に機嫌が悪い。壮一朗は優美の視線を受けとめながら慎重に言葉を選んだ。

「どうした? 何か俺の顔についているか?」

 そう言うと、優美は自身の右頬を指差し、「お魚がついてますわ」と呆れたように答えた。壮一朗は周囲に気を配りながら「そ、そうか」と頬をまさぐった。

「それよりどうしたんだね。今日はえらく不機嫌じゃないか」


「不機嫌? わたくしのどこが不機嫌だと仰るのでしょうか? 不機嫌なはずありませんわ。すこぶる上機嫌でこの上なく晴れやかな気持ちですわ。ええ、不機嫌などと、とんでもない」

「つ、つまり不機嫌なんだろ? なんだ、このお見合い相手じゃ不満なのか?」


 そう言いつつ、壮一朗は持ってきた見合い写真を見直した。しかしどう見ても納得のいくレベルだろう。これほど高収入で高学歴な上に身なりが整っている男など、そういないのではないか。これでもまだ不十分だというのか。だとしたら、少し高望みが過ぎるのではないか。


「そうではありません。収入や学歴などそもそも条件にすら入っていません。私が求めるものは“愛”ですわ」

「I?」

 

 IT、つまりIT企業の社長と結婚したいというのか。しかし産業界に知り合いはいないのだ。そもそも壮一朗が用意してきた相手でも、ベンチャー企業の稼ぎに見劣りはしないはずだが。

「そのご様子ですと、また思い違いをしてらっしゃいますね……」

 優美にそう言われたので、慌てて壮一は首を横に振った。


「いいや、そんなことはないぞ。ううんと、おお、そうだ。とりあえずまたお前に釣り合いそうな男を捜してくるから、会うだけ会ってみてくれ。俺もな、孫の顔を見るまでは安心して死ねんのだ。いいか、たまには親の言うことも素直に聞くもんだぞ」


「ええ、分かりましたわ、お父様」

「分かればいいんだよ、分かれば」

 そう言いながら、壮一はシャンパンをボトルで注文した。アルコール性肝障害など知ったことか。今日は飲まなければやってられそうになかった。


 

「大丈夫ですか、お父様。少し飲みすぎたのでは?」

 酔い覚ましにふらふらと路地裏を歩いているところで、優美が心配して声をかけてくれたのだが、壮一朗は若いころから酒に強く、少し飲みすぎた程度では酔いつぶれる懸念はなかった。日が落ちて、辺りは大分暗くなっていたが、自宅はもう目と鼻の先だ。この程度のことで帰れなくなってたまるか。小道に入り込んだところで、「大丈夫だって」と言い掛けたその時だった。


「きゃあっ!」

 つんざくような悲鳴はやけに明瞭と、壮一朗の耳にこだました。ギョッとして優美の方に眼を向けると同時に、肩に強い痛みが走った。突き飛ばされた方向を見ると、短身の男が走り去っていくのが見えた。


「お父様! 私のバッグが盗まれましたわ!」

 優美の叫び声が後ろから聞こえてきた。そうか、ひったくりか。そう思い慌てて立ち上がろうとするが、倒れた時腰を強打したのか、体に力が入らない。懸命に起き上がろうとした時だった。


「僕に任せてください!」

 やけに勇ましい声が聞こえたかと思うと、その人物は猛然とひったくり犯を追って細道を走っていった。曲り角になっていた為に、何が起こっているのかまでは分からなかったが、どかどかと取っ組み合いになっているような凄まじい音が聞こえた。ひとしきりして静寂がおとずれると、その人物は優美の鞄を持って現れた。


 思いもよらない展開に、壮一朗は口を開けたまま反応できずにいた。

「大丈夫でしたか。鞄は無事でした」

 その人物はどうやら鞄を取り返してくれたようだ。薄暗くてよく分かりにくいが、眼鏡をかけた、いかにも真面目なサラリーマンといった風貌の男だった。


「まあ、どなたか知りませんが、ありがとうございました。本当になんと言ってお礼をすればいいか」

 優美はその男に向かって深々と頭を下げていた。ああ、そうだった。この人は危険を覚悟で娘の鞄を取り返してきてくれたのだった。お礼の一つでもしなければ。


「そうですな。危ない所を助けていただいてありがとうございました。私は森園壮一郎と申します。こっちは一人娘の優美。そうだ、何かお礼をしなければなりませんので、お名前を教えていただけますかな」


 手もみをしかねない勢いで、壮一朗はそう尋ねた。その人物はゆっくりと壮一朗の前まで近づいてきた。外灯に体が照らされ、顔がしっかりと認識できる距離まで来た時だった。男はにっこりと笑った。


「金井修史と申します。あなたは確か市会議員をしてらっしゃる方ですよね。何度かニュースでお見かけしますよ。お礼なんてとんでもない、と言いたいところですがせっかくなので、お言葉に甘えさせていただきましょうか」

 克実進太郎(・・・・・)はそう名乗ると、ちらりと優美に目配せをした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ