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「やけっぱちになるようになったのは、今から四年前だったよ」
克実はゆっくりと言葉を選びながら、優美に話しかけた。
優美は瞬き一つせずに耳を傾けている。
「大手の総合商社で一人の女性と出会ってからだ。事務員をしている人でな。腕利きで美人で、その上気立てもよかったから、部署内でも人気があったんだ。オレも好きというか、付き合えたらいいなって程度に思ってた。でも彼女は誰に対しても一定の距離を置いててさ。オレより遥か上の役職や、ハンサムな男がアタックしても玉砕してるから、オレみたいな下働きに靡くはずはないって考えてたんだ。所詮オレには高嶺の花だとな。
そう思ってたから、彼女の方から付き合ってくださいって告白された時は、腰が抜けるほどビックリしたよ。とにかく嬉しくて、こんなチャンスはまたとないから大事にしなきゃいけない。何としても好かれ続けなきゃいけない。とにかく、せっかくの付き合いを手放すまいと必死だったよ。デートに行く時はいつも上等なレストランを予約してたし、彼女が欲しいっていうから、高級ブランド品を幾つもあげた。骨抜きにされてたんだな。でもその時のオレは、彼女の喜ぶ顔を見るのが、何よりの幸せだったんだよ。たわいない感謝の言葉でも嬉しく思うし、都合よく利用されてただなんて、思ってもみなかったんだよ。むしろ彼女からの要求にどう答えようかなんて一生懸命考える始末だったよ。今考えれば、それがよくなかったんだな」
克実は一拍呼吸を置いた。
「交際して半年くらい経ってからだ。父親が交通事故を起こしたから、金を貸してくれってさ。慰謝料や損害賠償費もある。自分の給料ではとても払えないってな。こんなこと相談できるのはあなただけなんて言われちゃってさ。当然オレは、貸してあげようと思ったよ。でもオレだって金はなかったからな。そこで彼女に悪知恵を吹き込まれたのさ。『貴方の経理という役職を利用して、何とか会社の経費を横領できないか』ってな。やっていいことかどうか悩む暇もなかったんだけど、事が落ち着いたら結婚してほしいって頼まれてさ。その後は分かるだろ? 彼女は逃亡。会社はクビさ」
克実は大げさに肩をすくめてオーバーリアクションを取った。どうしてかつての恥辱を話しているのかは自分でも分からない。ただ優美なら、克実のどんな汚らわしい過去でも受け入れてくれるような気がした。事実、優美は克実の話を聞いて、今にも泣き出しそうな表情で見ていた。まるでそうすることが、克実の痛みが少しでも癒えるかのようだった。
しかし克実の心の痛みは、すぐに直るものではなかった。
「ごめんな。辛気臭い話につき合わせて」
克実は優美に侘びを入れた。しかし、心中では優美が自分を受け入れてくれると分かっていたのだ。いや、分かって尚舐めてほしかったのだ、自分の傷を。
優美は言った。
「進太郎さんは、何も悪くありませんよ。悪いのは、その女の人です」
「分かっては……いるんだが」
「分かっているのに……ですか? まだ、未練があるのですか?」
「いや、それはない」
「それなら、忘れてしまえばいいんです」
優美は克実の頬を両手でさすりながら、優しく微笑んだ。
「進太郎さんはその人に精一杯応えようとしたんですね。でもその人は、無常にも裏切った。そんな人は進太郎さんのお心に留める価値もない人間だったんです」
「そう、なんだろうか」
「そうです」
「どうして、断言できるんだ?」
「進太郎さんのことを本当に想っているのなら、そんな酷いことは出来ないからです。そんな女は始めから進太郎さんと付き合える身の丈ではなかったのですよ」
「だから、忘れてしまえばいいと」
優美は、真剣な面持ちで応えた。
「私がいます」
「優美が……」
「私は進太郎さんの傷口を全て癒してさしあげられないかもしれません。でも、お力になれることはあります。そのためになら私は、全てを投げ打って進太郎さんに奉する決意があります」
「どうして、そんなに」
「一から十まで言わなければご理解いただけませんか? それとも、まだ私の気持ちは伝わっておりませんか? なら、いかに私が進太郎さんを愛しているかを説明しましょうか?」
克実は首を振った。
その様子を見て、得心したように優美は言う。
「進太郎さん、私のことを彼女にしていただけますか?」
「……すぐには、答えられない」
克実は戸惑いながら応えた。
「すまん、今はとりあえず考えさせてくれ」
克実は深々と頭を下げ、優美はその姿をじっと見下しながら言った。
「分かりました。でも、これだけは忘れないでくださいね」
「え?」
克実は顔を上げた。優美はふと頬を緩めながら笑った。
「進太郎さんは一人じゃないってこと。私もいるし。それに」
「それに?」
「こんなに可愛い猫ちゃんもいます。もう、いつの間にペットなんか飼い始めたんですか?」
優美の視線の先を克実も追ってみると、猫が小さく体を丸めながら気持ちよさそうに熟睡していた。
「ああ、悪い。ちょっと色々あってな」
克実がそう答えると、優美は笑顔で言った。
「名前、付けないといけませんね」
「ああ、そうだな」
そう応じると、克実は猫の艶々した毛並みを、起こさないように細心に撫でてあげた。手のひらに伝わる体温が、やけに温かく感じられた。




