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一時間ほどして、克実は急ぎ足でマンションへと帰宅した。身体全体が冷えているし、頭もボーッとしている。しかし医者にかかる経済的余裕はないため、せめて一刻も早く熱いシャワーでも浴びたかった。そもそも今日は金儲けの為に河堤まで来たのに、全身水びたしになったばかりか、野良猫まで飼う羽目になった。これでまた金回りの負担は増えることになるのだから、世の中とは何と思い通りにならないことか。
「いいか、飼い主が見つかったらすぐ手放すからな」
「ミャア?」
猫相手に虚しく啖呵を切った後、克実は急いで子猫を抱え上げたまま服を脱ぎ、バスルームに向かった。
「ミャア! ミャア!」
「こら、ジタバタするんじゃねえよ。せっかく綺麗にしてやろうってのによ」
言いながら、シャワーのお湯を出し、程々の温度になった所で、猫の全身に行き渡るように濡らしていく。初めは威嚇したり、わめき散らしていた猫だが、しばらくすると心地よさそうに鳴き出した。
「ミャア♪」
「おう、気持ちいいか、猫ちゃん。汚れが落ちたら、中々のべっぴんに見えるぜ」
生意気にもゆったりとくつろいでいる猫を見ながら、克実は相好を崩した。十分に濡らした体毛の水分を、タオルで念入りに拭き取る。自身も軽くシャワーを浴びると、冷え切っていた身体が温まると共に、ようやく人心地がついてきた。動物のくせに人間様を見下して小憎たらしいと思っていたが、いざ飼ってみるとペットもそう悪くはなかった。
克実の住んでいるマンションはペットOKの物件だった。財布の中身は乏しいが、少女があそこまでひたすらに助けたいと思った生き物なのだから、一度約束したからには真面目に飼う責任がある気がした。克実はタオルで湯上りの髪を拭きながら、キャットフードやミルクなど必要な品物を買い揃えようと決意した。その後でインターネットを経由して、里親を探す。一足飛びで見つかるとは思っていないが、それでよかった。時間がかかってもいいからできるだけ、優しい飼い主に引き取ってもらいたかったからだ。
子猫を寝かせて、とりあえず自分も一休みしようとベッドに腰掛けると、急に頭が痛み出した。まるでピントをぼかしたように視界がかすみ、寒気で身震いが止まらない。ゴホゴホと咳も出てきて、まごうことなく風邪を引いたとハッキリわかった。やはり長時間の寒中水泳が想像以上に利いてきたのだろう。手がぶるぶる震えてるのを見ながら、まずいなと克実は思った。
こんなことなら川辺になんか行かなければよかった。しかし遭遇してしまった以上は仕方がない。まさに助けを求めるような大きく潤んだ双眸を見た時から、こうなることは分かっていたのだ。昔から克実は頼まれると断れずに引き受けてしまう。最早これは巡り合わせといっていい。
眼を閉じ、布団に横たわりながら、これまでの人生を追憶する。一生懸命、公明正大に生きてきた自分を思い出した。そして今の自分の現況と比べるや、激しい自責の念に襲われた。すぐにでもその苦痛から逃げ出したかったのに、心が惨痛という縄に縛られているかのようだ。
広がっていく意識の中で、記憶が鮮やかにフラッシュバックする。絵画を見るのに似ている。自分という存在自体が不安定になる感覚。克実にとってその記憶がそうだった。
――克実さん、幾らか都合つけてくれないかしら。
産毛が立つのと同時に、ある女性の声がし、鮮明に響き渡る。その声は、今でもはっきりと思い出すことが出来る。
――お願い。これが終わったらあたし、あなたと一緒になりたいの。
嘘だ、と必死にその言葉を打ち消す。呼吸が荒くなり、肺が酸素で急激に膨れ上がり、息をするのも苦しくなってきた。辺りがふと真っ暗になった気がする。
意識は朦朧とし、すぐにでも消え去ろうとしている。
いや、消えてしまえば楽になるのなら、このまま消え失せてしまえばいいか。
それは、完全な死だった。
そうすれば楽になれると思えば安心だった。
ならこのまま身を任せてしまえばいい。
死ねばいいのか、と思った。死ねば、安らかになれるのか。
悪くはなかった。だが何かが引っかかった。悔恨と苦痛の裂け目に挟まれながらも、克実はゆっくりと意識を閉ざした。
窓から差込む日差しと、鳥の鳴き声で目が覚めた。克実が眼を覚ますと、見慣れた天井がハッキリ見えたが、不思議なことに昨日までの悲痛な苦しさがなくなっていた。ふと右手に温かな感触を感じ、視線を天井から右に移すと、そこには優美が座り込む形で寝入っていた。
「優美……?」
起こすつもりなどなかったが、優美はピクンと克実の声に反応した。そして目をパッチリと開くと克実を見据えた。
「あ、克実さん! おはようございます」
「おはよ……って、何でお前がここにいるんだ?」
「すみません。それがですね」
優美はバツが悪そうに、昨日克実からメールの返事がないことから、様子を見に来たのだと答えた。何事もなければそのまま引き返す予定だったが、鍵が開いていることに不安を感じ、中を見にきたら、克実が具合の悪そうな顔でうなされていた、とのことだった。そして、ずっと付き添って看病していたとのことだ。
「どうして……お前が」
優美の右手を握り締めたまま克実が、震える声でそう言った。優美はいつものように、少しはにかみながら「すみません」と答えた。
「来てはいけないと言われていたんですけどね。つい放っておけなくて」
「ああ、それはいいんだ。お前が来てくれて助かったよ」
それは、お為ごかしではなく本心からの言葉だった。そんな克実の様子を見て優美は微笑んだ。
「では、私お粥か何か作ってきますね」
「あっ」
そう言って立ち上がろうとした優美の手を、克実は反射的に強く握り締めた。
「キャッ!」
予期していなかった反応に、優美はバランスを保てず克実の胸板に倒れこむ形になる。優美は顔を赤らめながら、息がかかるほど近くの克実に「あ、あの……」と呟いた。克実は慌てて答える。
「す、すまん! 迷惑かもしれんが、もう少し……」
「はい?」優美がそう聞き返すと、克実は視線を横に向けながら、決まりが悪そうに言った。
「もう少し、このままでいてくれないか……」
克実の発した言葉に、優美は驚いたような表情を見せたが、それも一瞬のことで、すぐにこりと微笑んだ。そのまましばし無言でいたが、そっと克実の頬を左手で触りながら言った。
「もちろんですよ」




