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 厄介事の塊である優美を追い出したのはいいが、克実の心中に爽快感などなかった。なぜ自分がこんな鬱々とした気持ちにならなければいけないのか。克実は脳裏から不快な思いを拭い去ることに専念しようとした。


 窓の外を見ると地べたにはうっすらと雪が降り注ぎ、季節は秋から冬に移り変わろうとしていた。薄手のシャツを脱ぎ捨て、厚手のコートに衣替えする時期だ。新しく暖房家電を購入しなければならないし、温かいスープなどで温もりを取り入れなければ、凍死してしまうだろう。


 しかしながら今の克実は全くの一文無しで、唯一の資金源であった優美を追い払ってしまったこともあって、貯金は全くの0と言ってよかった。試しに財布の中身をブラブラと揺さぶってみたが、出てくるのは僅かな小銭だけだった。


 思わず失笑が漏れた。まさかここまで下層に落ちぶれるとは、オレもとうとうヤキが回ったか。克実は苦笑まじりに携帯電話のディスプレイを表示した。

 受信メールの送り主はほぼ一人だった。数ヶ月前追い出した、自分の恋人だと自称していた森園優美だけが、克実の唯一のメールフレンドであった。

 最初は鬱陶さから無視していたのだが、「返信がなければ死にます」と優美に恫喝され、半ば無理やりの交信を余儀なくさせられていた。しかし小洒落た台詞など考えるのも億劫なので、返事は大体一言二言だった。今も「追々寒さに向かいますが、風邪など引かないよう、温かくしてお過ごしください」と送られてきたので、「うるせー、バーカ」とだけ返信しておく。


 かなりの毒舌ではあると思うが、それでも優美はめげずに次のメール、次のメールと送り返してくる。

 そんな優美に対して、今はそれほど腹を立てているわけではないが、ついつい口調は悪辣となってしまい、自分から嫌われるような言葉を吐いてしまう。克実は大きなため息をついてから携帯を閉じ、「なんだかなあ」と独り言を漏らしてマンションを後にした。


 もちろん無一文の克実に行き先などなかった。しかし、とにかく足を棒にして探し回れば、路肩に落ちてる硬貨でも見つかるかと思ったのだ。自販機の下に数十円落としたぐらいで、膝を泥だらけにして探そうとする奴なんていないというのが、先進大国の良さだ。


 そう思い、近所の河岸までやってきたのだが、橋の下を見てみると、川べりに小さな女の子が立ちすくんでいた。まだ明るいうちなので、女の子が川辺で佇んでいること自体は不思議ではない。しかし、水面を一心に見つめている様を見ていると、ただならぬ空気を感じる。最悪の事態もないわけではないと、克実はその少女の下へと駆け寄ってみることにした。


 川っ淵まで近寄ると、少女は相も変わらず水面を黙って見つめていた。小学生ぐらいだろうか、女の子は白地のブラウスにデニムのスカートを履いており、顔立ちは年頃に反して大人びていて、酷く虚ろだった。克実はますます危うく思え、小走りに少女の隣へと立ち並ぶ。少女が首を横に向けると同時に克実は「どうかしたのか?」と話しかけた。


「何か面白いものでも浮かんでるのか」

 そう聞くと、少女は曇った面差しで対岸の辺りを指差した。

「猫ちゃん。溺れてるの」

「猫ちゃん?」

 言われて克実は向こう岸を見回してみる。すると、懸命に岩石にしがみついている一匹の子猫が目に入った。おそらく、魚でもとろうとして水流に流されてしまったのだろうか。


「あの猫、キミの?」

 克実がそう話しかけると、少女はふるふると首を横に振り、「違うよ」と答えた。その言葉を聞いて、克実は胸を撫で下ろした。野良猫なら、このまま流されても問題ないじゃないか。そう思い、その場から立ち去ろうとすると、

「あたしと同じなの」

 少女の一言に、克実は立ち止まった。そして首を傾げながら「どういうことだよ」と尋ねると、少女は克実に向き直った。

「あたしね、お父さんとお母さんに捨てられたの。今は孤児院って所で暮らしてるから、帰る家がないの。だから、あの猫ちゃんと同じでひとりぼっちなの」


 少女は悲しむ風でもなく、淡々を言葉を並べた。聞かなければよかった。そう後悔するも関わってしまった以上は仕方がない。一呼吸置いて克実は「百メートルくらいかな」と呟き、上着を脱ぎ捨てると少女に向かって言った。


「上着、預かっててくれ」

「え?」

 少女が聞き返すが早いか、克実は勢いをつけて川面へと飛び込んだ。

 幸い水かさはそんなに高くはなかったが、流石に水温は低く、浮かんでいる枯葉や木の枝も手伝って泳ぎづらかった。オレは一体何でこんなことをしてるんだ。克実は早くも後戻りしたいほど悔いていた。

 

 ミャア~と、猫の甲高い鳴き声が聞こえてきた。克実の水をかくスピードも速くなる。しばらくして子猫の全体像がくっきり見える距離まで迫ってきたとき、克実は心底安堵した。


 じっとしてろよ、今助けるからな。克実はなるべく警戒させないように言うと、子猫の体をそっと抱きかかえようとした。すると、子猫がミャアッとけたたましく声を張り上げたかと思うと、伸ばした克実の手を鋭利な爪でかきむしった。

 

「いてっ! ……あっ!」

 しまった、と思う暇もなかった。思わず猫を放り投げてしまってから克実は初めてやってしまったことに気づいた。子猫はまるでテープの早送りでもされているかのように、瞬く間の内に水上を流されてしまったのだった。

 





「キャッ、猫ちゃんくすぐったい」

 少女は水浸しになった子猫を抱き上げたままそう言った。

 あの後、下流まで流された子猫を助け出すのに、一時間ほど労した。激しい格闘の末猫を救出した時、既に日は傾きだしていた。金は稼げない、風邪は引きそうになる。まさに踏んだりけったりではないか。もしこの少女が資産家の娘であったなら、補償金でも親に請求できるのだが。


 克実は水を吸ってずぶ濡れになった服を羽織ると、ふてくされたように言った。

「気が済んだらその猫こっちによこしな。引き取ってくれる人が見つかるまで、オレが育てるよ」

「いいの?」

 少女は、伺うように克実を見上げた。克実は照れくさそうに鼻をすする。

「だ、だから、飼い主が見つかるまでだっての。それに、びしょ濡れの猫をこのままにしておくわけにはいかないからな」

「……ありがとう、お兄ちゃん」


 そう言うと、少女はやっと表情をほころばせた。普段使わない筋肉を使っているのだろう、少し硬い笑顔だが。しかし少女の閉じこもった心を僅かでも開けることが出来たのだ。こうして濡れネズミになった甲斐は十二分にあったというものだろう。克実は再三お礼を言う少女に手を振ると、晴れ晴れしい気持ちで子猫を抱き上げると、その場を後にした。


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