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 それから一時間ほどして、早紀は克実の住むマンションの入り口へと入った。管理人室の横を通り、エレベーターに乗るとすぐ、克実のいる八階へと向かう。

「いらっしゃい、早紀さん。お久しぶりですね」


 インターフォンを鳴らし、三和土に上がるとすぐに、両手を後ろ手に組んだ優美が出迎えてくれた。優美はベージュのチュニックのシャツに黒のレギンスをスタイルよく着こなしており、慈しみに満ちた温和な表情は、まるで新妻のようであった。その様子に、早紀はぺこぺこと頭を下げながら応じる。


「お久しぶりであります。ボスはお元気でありますかね?」

「うふふ、進太郎さんは相変わらずですよ」


 優美は表情を緩めながら言った。案内に従ってリビングに向かうと、克実はむっつりとソファに腰かけていた。しかしそれよりも早紀の目についたのは、綺麗にリフォームされた部屋そのものにあった。


 カーペットはホテルで敷かれていそうな、上質な手織り。カーテンもこの前来た時のような安物ではなく、微細に縫われた、モール糸のクラシックカーテンである。重厚なテーブルやその上に乗せられているモアレ柄のコップに至るまで、半年前にはなかった代物だ。


「ボス、どうしたでありますか、これは。まるで高級ホテルみたいになってるでありますよ」


 驚きの様子を隠さずに、眼をパチクリしながら早紀は克実に向かって問いかけた。克実はさも煩わしそうにゆっくりと口を開く。


「知らん。あのアホがどこからともなく持ってきたんだよ。いらんと言ってもまったく聞かなくてな」

「そうなんです。私が勝手にやってることなんですよ」


 克実の言葉を引き継ぐように、優美が淹れたてのコーヒーとロールケーキをトレーに乗せて持ってきた。芳しいコーヒーとケーキの甘い香りが、リビングに満ちていく。その香りのハーモニーを堪能しながら、早紀は克実に向かって尋ねた。


「それにしても、どういうことでありますか、ボス。今日あたしを呼び出した理由は?」

 ここに来るまでは、克実と優美の仲はよほど険悪なのではないかと訝っていたのだが、見たところ上手くやっているように見える。一体何が問題だというのか。早紀の疑問に、克実は苦虫を噛み潰したような顔で答えた。


「こいつと二人きりっていう状況に、我慢出来なくなったに決まってるだろう。外出は出来ない、本は読めない、テレビを見たら消される、ネットはさせてくれない。これ以上こいつと同居なんてしてたら死んでしまうぜ」


「えっ、外出も出来ないでありますか……?」

 早紀は驚きながら聞き返した。優美はつまり、娯楽のほとんどを封じているのだ。これではレクリエーションも何もあったものではない。早紀はチラリと優美に目を向けると、思わず視線が合ってしまった。無視するのも気まずいので、早紀は恐々と口を開いた。


「あのー優美さん」

「なんでしょうか?」

 ニッコリと優美はそう返してきた。声色は柔和そのものである。まるで自分のしていることが、良からぬこととは思っていないような口ぶりだ。


「い、いやあ。ちょこっと、ボスが可哀相かなって」

「いいえ、私はそうは思いません。進太郎さんはこのままが一番幸せなのです」

 優美は純粋なまでにそう言い切った。克実の不満もまったく理解していない様子なので、早紀は思わず口を開いた。


「あ、で、でも、どうしてテレビとか見たらいけないんでありますか?」

「テレビには、女の人とか映るじゃないですか。メディアとはいえ、私以外の女性に目移りするのは許せないだけです。ネットも本も同様です。克実さんは私だけを見ていればいいんです」

「そ、そうなんでありますか……」


 要するに優美は、克実が自分以外の何かに着目することが面白くないのだという。これほどの美人と二十四時間いられるのだから、男冥利に尽きるとは思う。しかし、もし自分に置き換えて、幾らお金持ちでイケメンの男でも、常に行動を見張られていてはたまったものではない。


「な? オレの苦労も少しは分かっただろ? 早紀」

 縋るような目で、克実にそう話しかけられた。早紀は深い同情を込めて「そうでありますね……」とだけ呟いた。


「大体な、お前がいけないんだからな。パソコンもしたらいけないって、お前オレの母親か何かか?」

 早紀の同感を得られて勢いづいたか、克実は優美に怒りの矛先を向けた。しかしながら優美は、実に優雅な微笑みを返した。

「まあ、将来は進太郎さんと結婚するのですからいずれはママになるんですけど、今はまだ早いですよね」

「あったりまえだ!」


 克実はドンとテーブルを荒々しく叩いた。

 この様子を見れば、克実と優美が籍を入れることなど、イメージすることすら躊躇われた。そもそも、今日の克実の憤り方は半端なものではない。早紀は二人の言い争いを黙って見守っていることしか出来なかった。


「テレビも本も見れないだけじゃなくて、今のオレはただお前の自己欲求を満たすだけの存在じゃないか。お前からしても、オレの意思なんか関係なくて、単に自分の願望を押し通したいだけだろうが。つまり、この先もオレには自由なんてないわけだ。そういうことだろ? 女性と会話しちゃいけないってことは、家に引き篭るしかなくなる、何かするにしても、いちいちお前と行動を共にしなければならない。分かるか? お前のせいでオレの人生メチャクチャになるんだよ!」


 克実の怒張は止まらない。優美は眼に涙をためて、心底申し訳なさそうな顔で克実の罵倒を聞いていた。

「す、すみません。進太郎さん。少し調子に乗りすぎました。ごめんなさい」

 ひと通り罵られた後、優美は深々と頭を下げながら言った。克実は優美にちらりと一瞥くれると、おもむろに口を開いた。

「謝ればすむのか。随分簡単な話だな」

「そんな。本当にやりすぎたと思っているんです。進太郎さんのことも考えずに、自分本位に考えすぎました。以後気をつけますから、許してくださいませんか?」

「許す? そんな必要ないだろ。また金でもちらつかせて脅迫すればいいじゃないか」


「ちょっと、ボス、それは言いすぎじゃないですか?」

「うるせえっ!!!!」

 克実の怒声が部屋中に響き、早紀はビクッと肩を震わせた。克実がこんなに怒りを露わにしているのは、初めて見る。


「まあ、そういうわけだ。もうお前と一緒には暮らせない。色々と世話してもらって何だけどな。オレは人から施されるのが大嫌いなんだよ。もう顔も見たくないから、さっさと出ていけよ」


 居心地の悪い空気が、室内を埋め尽くしていた。優美は涙でぐしゃぐしゃになった顔を両手で覆いながら、早紀が制止する暇もなく部屋を飛び出していった。


 優美が立ち去る姿を見て、早紀は何とも物悲しい気持ちになった。優美はただ単に一途なだけで、不器用ながら懸命に好きな男に仕えようとしただけではないか。今どき珍しいほど男を立て、三歩後ろを歩くような奥ゆかしい女性であったのだ。だからこそ、早紀にはこの二人の行き違いが悲しく思えた。


「ボス、引きとめなくてよかったでありますか?」

「邪魔者がいなくなって清々してるっていうのに、何で引き止める必要があるんだよ」

「嘘でありますよね? 本気で言ってるんじゃないでありますよね?」

「ありますありますうるせえな。とにかく、ようやくこれでオレは自由を手にいれたんだ。お前もとっとと出ていけ」


 必死に食い下がる早紀に無情にも、克実は見向きもせずそう言った。室内には重苦しい空気だけが充満している。その空気にいたたまれず部屋を出ていこうとしてチラリと克実に眼をやると、克実の背中がふと小さく見えた。


 克実は何も言わないが、その後姿は克実の心情を痛いほど表しているようだった。がんばってくださいね。きっと仲直りできるでありますからね。早紀は心の中でそう呟くと、静かに玄関の戸を閉めた。

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