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原田早紀は木製のドアを開けると、芳しいコーヒーの匂い立つ喫茶店へと入った。その喫茶店はまずまずのコーヒーを飲ませてくれる割には、廃れていつも閑古鳥が鳴いている。市街の中心部から離れていることが原因か、もしくはマスターの身なりに問題があるのか。おそらくそのどっちでもありますねと、早紀は見込む。一見の客に、マスターのあのなりはキツい。
ウエイトレスの案内でテーブルに着くと、オーダーを伝え、注文のコーヒーが来るまで、しばらく待ち続ける。手持ち無沙汰で暇を持て余している所に、ドスの利いたガラガラ声に後ろから話しかけられる。その人物はいかつい外見には似合わず、なよなよした声で「はあい」と声をかけた。
「早紀ちゃん、久しぶりじゃない。今日はおひとり?」
「見てのとおり、ひとりぼっちでありますよー」
大の大人が昼間から一人でぶらぶらしているというのも寂しいものだが、彼氏がいなければ仕事もないので仕方がない。しかし、それも後少しで目が飛び出るほどの大金が手に入ると思えば、多少の溜飲も下がるというものだ。
「ひとりでここに来るなんて珍しいじゃない。しんちゃんはどうしたの?」
大田原は首を傾げながら尋ねた。よくぞ聞いてくれたとばかりに、早紀は「そうなんでありますよ~」と泣きつくように言った。
「ボスは今女の人と同棲してるでありますよ。あたしがいると邪魔になるから、遠慮してるでありますよ」
「同棲? あのしんちゃんがあ?」
「そうでありますよ。ボスにだけは先を越されないと思ってたでありますのに」
ぷんぷんと憤る気持ちを隠さずに、ウエートレスの運んできたコーヒーを受け取りながら早紀は答えた。
「まったく、ボスの裏切り者ー!」
勢いよくコーヒーをすすると、乱暴にソーサーに戻す。大田原が気遣わしげに早紀の顔を見つめていたが、今の早紀に気づくゆとりはなかった。
「あの計画ですが、しばらく休止にいたしましょう」
森園優美からそう告げられたのは、およそ半年前のことだった。
理由は優美の親の金銭スキャンダルで、政治家という立場上かなり危うい位置におり、最悪の場合失脚する恐れもあるので、軽々と計画に取り掛かれない上、結婚の報告としては時期が悪すぎる、と優美の言い分はもっともだった。克実と早紀は基本的には二人一組で行動してはいるが、今はそれぞれに日銭を稼ごうということで、こうして克実とは別行動をとっているのだった。
カップがほぼ空になりかけた頃、携帯の着信音が鳴った。ディスプレイを見ると噂の克実であり、早紀は「げっ」と露骨に嫌そうな声を上げた。
「どうしたの? 携帯鳴ってるけど、出ないの?」
「ボスからなんでありますよお。裏切り者のボスから電話がかかってきたでありますよ」
「あらあら。早紀ちゃんにだって、そのうちいい男が出来るわよ。理想の男性に出会う為には、焦りは禁物よ?」
「そうでありますねえ。世の男共は見る目がないだけであります」
「その意気よ、その意気」
その言葉に駆り立てられたように、早紀は通話ボタンを勢いよく押した。長らく待たせていたので、さぞ立腹しているだろうなと思いきや、存外克実は上機嫌で「もしもし?」と口火を切った。
「早紀、悪いんだけど今すぐオレのマンションに来てくれないか」
「えっ、今からでありますか? 今からはちょっと……」
別に今手をつけているお勤めがあったわけではないが、早紀はこわごわと断りを入れた。幾らパートナーの克実といえど、同棲してるカップルの部屋にはそうそう踏み込めない。
「今忙しいのか? だけどな、こっちにも色々あるのさ。背後霊みたいにひっついてくるストーカー女がいるだろう」
そう言う克実の声にはいささか疲労感が漂っていた。早紀は数秒間を置いてから「優美さんのことでありますね?」と尋ねた。そして、
「優美さんと何かあったでありますか?」
「あったも何もないよ。もう気が変になりそうだ。お願いだからすぐ来てくれ」
お願いだから。いまだかつて克実からそんな風に哀願されたことなどあっただろうか。早紀の胸に焦燥が浮かんだ。
「ボス、優美さんに何かされたでありますか?」
「いるだけでも迷惑なんだよ」
克実がそう答えるとすぐ、「何でそういうことを仰るんですか!」と女性の声が耳に入ってくる。どうやら、すぐそばに優美がいるらしい。
「優美さんとはあまり上手くいってないみたいでありますね。もうてっきりCぐらいの段階にはいってると思ったでありますよ」
「冗談じゃねえよ。こんな女とナニするくらいなら、ニューハーフといちゃついてた方がまだマシだ」
もう、そんなこと言う人にはこうしちゃいます!と優美の声が聞こえた後、「わはははは」と、克実の笑い声が響いた。
何が起こっているのかと早紀は顔をしかめる。
「あのー、ボス?」
「あ、ああ、すまんな。ちょっと優美のアホに脇腹くすぐられてさ。でも、本当に来てくれよ。今後の話し合いもしたいしさ」
「えー? でもお、あたしやっぱり遠慮……」
早紀がそう言いかけた時、克実は「残念だなあ」とため息をついた。
「もし来てくれたら、優美が有名店で買ってきた、ほっぺたが落ちそうなほど美味いロールケーキを食べさせてあげられるんだけどなあ……」
「行くであります、行くであります。ちょうど暇だったでありますよー」
「そうかそうか。来てくれるか。流石早紀ちゃん」
「ふっふん、じゃあ、今から向かうでありますね!」
今まで、とんまや間抜けという酷い呼び方をされてきただけに、早紀は得意げにそう言うと通話を切った。何か上手く乗せられたような気もするが、早紀は生まれつき細かいことは気にしない性分だった。しかし、克実は優美とよっぽど相性が悪いらしい。早紀としても優美は苦手としているが、余程親の教育がしっかりしていたのか、優美は上品で礼儀もしっかりしている。克実にちょっかいさえ出さなければ、煩わされる心配もない。そう思い、早紀は会計を済まし喫茶店を出てから、「ケーキ、ケーキ♪」と晴れやかにスキップをしながら克実のマンションへと向かった。