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「それじゃあ、夜も遅いですし、そろそろお夕食にしましょうか」

 早紀が立ち去った後、テーブルの上で肘をついている克実に向かって、優美はそう話しかけた。克実はまるで冷水を浴びせられたように驚きふためき、優美を見た。優美は相好を物腰柔らかに崩している。まるで一輪の花、それも野原にひっそりと咲く楚々たる花だ。外見はまさに可憐な美女だが、その形姿の下には陰湿で鬱々たる女豹の貌を隠しているように、克実としては思えてならない。実際に獲物の立場としては、いつ狙われるか分からない恐怖と戦わなければならないのだ。しかも四六時中。


「め、飯? お、オレ腹減ってないからい、いいよ」

 思い切り言葉を詰まらせながら、克実はそう答えた。

 優美は聞き分けのない子供を叱る母親のように克実を咎める。

「ダメです。食べてもらいます」

「いらないって言ってるだろ」

 克実はそう答えるが、朝から何も食べていないので、空腹感に耐えられず、お腹がぐーっと鳴ってしまった。生理現象なので仕方がないのだが、克実はぽっと顔を赤らめた。

「うふふ、今お作りしますね」

 

 優美は、何年も連れ添ったおしどり夫婦の調子で、台所へと向かった。何千万という詐欺を働こうしているとは微塵も思わせないほど明朗な所作だ。克実はぼそぼそとやる気のない声で冷蔵庫には何もないぞと答えるが、彼女の持ってきた大きめのボストンバッグを見る限り、調理に必要な材料はあらかじめ用意してきているんだろうなと克実は割り切っていた。しばらくするとキッチンからまな板の上をトントンと刻む音が聞こえ、やがて味噌汁のいい匂いが漂ってきた。この女の支度する飯のことだから、しびれ薬でも入ってるんじゃないだろうなと、克実は密かにケチをつけた。


 優美は手作りのハンバーグと肉じゃが、白米と味噌汁を手際よく膳立てると、盆に乗せテーブルの上に並べ立てた。家庭料理としては珍しくもなんともないが、一品ごとに木目細かな工夫が施されている。以外に料理上手じゃないか。克実は見下ろしながら素直に歓心した。

「おい、ビールはないのか、ビールは」

 亭主関白の如く、克実は高慢に優美を見据えて言った。そのせいで嫌われたところで、このストーカー女から開放される要因を作れるのだ。同居生活が決まった所で遠慮する気はさらさらなかった。

「おビールですね。今お持ちしますわ」

 それでも優美は嬉々とした様子で、キッチンへと姿を消し、生ビールとグラスを持ってくると、克実の前で酌をした。クッションの上であぐらをかきながら克実は、目を細め訝しむようにして優美を見た。

「まさかとは思うが、一服盛ったりはしてねえだろうな」

「うふふ、そんなことしませんよ」

 

 にこやかに優美はそう答えた。まあいくらこの女とはいえ、いきなりそんなことはしてこないだろうなと、特別疑うことなく、ビールを喉の奥に流し込む。優美は両手を体の前で組みながら、「いかがですか、お味は?」と聞いてきた。本当は五臓六腑に染み渡るほど旨かったのだが、「まあまあだな」と落ち着き払って返答しておく。


 遅めの夕飯を食べ終え、人心地がついてくつろいでいるところで、優美はキッチンへと姿を消していた。ガチャガチャとお皿を洗う音が聞こえてくる。その音を聞いていると、まるで本当に夫婦のような錯覚に襲われる。緊張の糸が切れかけているのを感じ、克実はぶるぶると首を横に振った。


「それでは、お風呂に……」

 声をかけられた方に眼を向けると、どこから用意したのか、首からエプロンを下げた優美がはにかみながら立っていた。こういう顔つきをする時、この女は碌なことを言い出さない。

「お背中を流させてもらいますね」

 そう言われ、克実は動悸がバクバクと響くのを感じていた。克実の風呂の浴室は、家族でも入れるように広めに作られている。このマンションの構造に物言いをしたくなる気持ちだったが、後悔先に立たずと克実は肩を落とした。


「さあ、早く。もうお湯は張ってありますから」

「き、奇遇だな。今日はシャワーを浴びたい気分なんだ。オレは後で入るから、お前はバスタブにゆっくり漬かってこいよ」

「克実さんと一緒に入りたいんです」

 というようなやり取りをもう数十分は繰り返した。基本的には従順だが、妙な所で優美は強情っぱりで、宥めすかすのには骨が折れた。もし仮に結婚するとしたら、きっと将来は尻に敷かれることになるのだろう。やはり情けない。いや、これもオレの女運のなさが成せる技か。


「それじゃあ、夜も遅いですし、私たちもそろそろお休みしましょうか。えーっと、お布団ってどこにあるんですか?」

 風呂に入り終えた後、早速といわんばかりに優美は布団を敷き始めようとする。おいおいちょっと待てと、克実はうろたえながら止めに入る。


「どうしたのですか? 夫婦なのですから一緒に寝るのは当然のことではないですか」

「うん、だからな」

 克実は最早泣き出したくなったのを懸命にこらえながら、優美をなだめすかすよう努力した。しかし何を言おうが優美はきょとんとしているだけなので、克実としても死に物狂いだ。

「オレ達、お互いのことをまだ知らないんだから、今晩はとりあえず別々に寝ることにしようぜ」

「えっ……?」

 まるでにわかには信じられないという表情をされ、克実も戸惑いを隠せなかった。優美は優美で、顔色を曇らせながら追いすがるように言う。

「どうしてですか? どうせ将来は結婚することになるのに。そんなに私のことがお嫌いなのですか?」

「い、いや、そんなことはないけど……」

 恋人同士の別れ話であるかのように、優美は克実に食い下がった。将来のことなど何も決めていなかったのだが、克実は必死に優美を慰めることに終始した。


 そんなことをしている内、日が完全に沈みかけた頃、ようやく就眠の時間が訪れた。優美が「一緒に寝ましょう」と誘いをかけるよりも早く、「おやすみ」と克実は優美に自分の部屋を提供して去っていった。

 重石をまとったような身体を、客間に敷いた布団に沈めた。克実は思い切り息を吸い、大きくため息を吐いた。初日からこんなことでは、これからどうなっていくんだろうなと思いつつ、照明の明かりを落とし克実は夢の世界へと寝入った。

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