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「それで、いかがでしょうか、克実さん。私の提案を受け入れてくれる気になりましたでしょうか?」
答えはもう決まっているようなものだったが、あえて優美は克実に言及した。早紀はあたふたしながら成行きを見守り、克実は上を見上げ天を仰ぎ、ため息をひとつ漏らした。
「お前の言いたいことはよく分かったよ。計画実行までなら、オレ様が面倒を見てやらんでもない」
先ほどの醜態を取り繕おうとしたのか、克実の口ぶりは高慢だった。しかし政治家の娘という背景から、これまでこんな大層な刑事犯罪を犯そうとしたことなどなかったはずだ。そんなお嬢様に言い様に振り回されてるオレ等も間抜けだよなとは内省するが、金は天下の回り物というように、この女には使いようがある。上手く取り扱えばそこそこの稼ぎは期待できそうだった。
「本当ですか! ありがとうございます」
しかし優美は満面の笑みを見せると共に、身を乗り出して克実の手をぎゅっと握り締めてきた。予想外の行動に、克実は照れたようにぽっと頬を染める。見目好く、端麗。麗しの美女とはこのことか。ドキドキする心臓の脈拍音を悟られないために、克実は必死だった。
「ま、まあ礼を言われるほどのことじゃねえけど、手を組むって約束だからな。べ、別にお前なんか関心はこれっぽちもねえから、勘違いするんじゃないぜ」
克実は挙動不審に眼を泳がせ、最終的にちらりと優美へと視線を着地させながら言った。落ち着きをなくし、動揺のあまり平静ではいられない。性格に問題があるとしても、優美の秀麗な外見は克実にとっても眼が離せなくなるほどの可憐さだった。
「いつかは関心を持ってくださるのでしょうか、克実さんは」
その言葉に、克実はびくっと驚いたように優美を見据えた。
そして顔を赤面させながら、はにかむように言った。
「……まあ、百万年後なら、ちっとはあるかもな」
言ってから、克実はしまったと猛省した。このストーカー女を少しでも肯定するのは禁物だろう。へばりついて一生離れないぞと自身の発言を後悔したが、今更撤回するわけにもいかないので口をつぐみ黙した。百万年後どころか、今ですら優美に対して強く魅了されているのである。それが恋慕の情になるまで、大した時間はかからないのではと思えてしまった。
「私のこと、多少は思慕していただけてるということですね? うふふ、うふふ、今晩からさっそく楽しみです。ダブルベットとかないのでしょうか、このマンションには」
ああ、やはり言わなきゃ良かった。そう思いつつ、克実は優美を叱責した。
「んなもんあるわけないだろ。ここはラブホテルじゃないんだぞ」
「では、やはり早紀さんとはそういうご関係ではないのですね?」
「早紀と? 冗談じゃねえ、こんなアホ、頼まれたって願い下げだ」
「本当でしょうね? そんなこと言いつつ、もう手篭めにされてるのではないですか?」
「ありえねーよ馬鹿。第一、オレにだって選ぶ権利ってものがある。今だって世界中の美女どもから求められて大変なんだからな」
「まあ、なんてことを仰るんですか克実さん! 私との婚姻はどうなるんですか!」
「あー、うるせえうるせえ! そんな約束してねえっての!」
「あのー、……ボス?」
激しく言い争ってる間に、早紀が恐る恐る割り込んできた。克実がハッと気づいて眼を向けると、唇をぶるぶる震わせながら声をかけた。
「あの、あたしはどうすればいいでありますかあ?」
「おお、そうか。そうだよな」
急に克実は陽気にはしゃぎだした。はしゃぐというよりも、悪戯を思いついた子供といった風だ。まさに克実は、悪ふざけをするようなやんちゃな口調で言った。
「よし、こうなったら道ずれだ。お前もこの家に住め」
「えー、な、なんであたしまでー!」
早紀の狼狽を聞き流すように「良いから良いから」と克実はなだめるように言ったのだが、そこに介入してきたのが、「それはダメですよ!」と憤慨する優美だった。
「ぜーったい、それだけは認めません!」
「認めないのかよ。さっき、こいつは俺の相棒だから良いって言ってたじゃないか」
「私も、一線を越えたら許さないと申し上げました」
「いや、だから早紀とは何でもないんだって」
「早紀さんもDNAを分析すれば、細胞的には女性なのですから、万分の一にも過ちを犯すかもしれません!」
「さ、細胞的にって……」
気品のある礼儀正しいお嬢様かと勘違いしていたが、優美の主張は普段言っている克実の憎まれ口よりも、数段深く早紀の心を抉った。というよりも、傷口に塩を塗りこんで、重傷者をいたぶるような物言いだ。流石の早紀もリアクションをとることもできず、ただ「ははっ……」と乾いた笑いを浮かべるので精一杯だった。
「まあ、ダメならいいよ」
克実はそれほど落胆した様子もなく、静かにそう言いきった。優美はほっと胸をつく。
「早紀さんは克実さんのかわいいお弟子さんみたいですし、たまに来訪される程度なら歓迎しますよ。でも、妙な気を起こされてはいけませんからね? そのようなことをされたら、私、許しませんから」
「許さないって何するんだ」
「それは言えません。まあ、克実さんの身体が持てばいいのですけど」
「言えないようなことされるのかよ……。はあ、受難だな」
克実は助けを乞うように天井を仰いだ。その様子を優美は、実に楽しげな表情で克実の様子を見つめている。なんとも対照的な二人である。
「それでは、最後の条件ですが……」
優美の言葉に克実は顔を戻し、面倒くさそうに優美を見据えた。もういい加減にしてくれよという煩わしさが、顔中に滲み出ていた。そんな克実の様子など露とも知らず、優美は克実に条件を言い渡した。
「あの、私の名前はご存知ですよね?」
「あ? おう、森園優美だろ?」
「では、これから私のことを呼ぶ時はし、下の名前で呼んでください!」
優美は、恥ずかしそうにまるで搾り出すような声を出した。
要するに、優美、と呼び捨てで呼べというわけだ。
「お、お願い……します」
「そんなんでいいのかよ……おい、優美」
「は、は、はい! なんでしょう!?」
名前を呼ばれ、優美はクッションから勢いよく立ち上がった。その激しさに、克実は「おいおい」と手で制した。
「お前が呼べっていうから呼んだんだろうが」
「あ、そ、そうでしたね。すみません」
優美は肩を小さくして、気の毒なほどしゅんとなりながら頭を下げた。だがしかし、他の条件に比べれば名前で呼ぶなどむしろ易しすぎるほど簡単なので、克実も特に嫌な気はしていなかった。
「まあ、今日はこんなところでいいだろ。細かい話は明日話すとして、今日はこれでお開きだ」
「やったであります!」
これでやっと優美から開放される安堵感からか、早紀は、はつらつとした口調で言った。そそくさと逃げ帰るように玄関から退散するのを見届けると、野生動物のように優美の瞳が煌く。早紀がいたからこそ、一応の気をつかって身に迫る行為こそしなかったが、その拘束が外れた今、優美はすぐにでも克実に言い寄ろうとするだろう。そう確信できるこの状況では、優美と二人きりというのは危機以外の何物でもなかった。克実は全身に怖気が立つのを感じていた。