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克実の心境を知ってか知らずか、優美は右手を頬に添え、思案する仕草を見せた。そして、
「……まあ、早紀さんは克実さんのパートナーですから仕方ないですね。ですが、くれぐれも一線は越えないようにしてくださいね」
要は会話をする所までは認めてやるが、恋人の関係に発展することはNGらしい。それは、克実にとってはたまらなく不満だった。別に早紀と会話できなくて困ることなど一ミリもないが、一方的に条件を申しつけられるのは癪に触る。
「じゃあ、お前もオレ以外の男とは一切会話をしないってことかよ? オレばっかり条件を押し付けられるのは不平等だもんな」
「当然です。私にはもう、克実さん以外の男性は塵芥に等しいですから」
「ち、ちりあくたでありますか……」
早紀はおろおろとしながら、克実と優美のやりとりに見入っていた。その視線をちらりと横目に受け止めながら、優美は克実に向き直った。
「それでは、二つ目の条件ですが……」
またかよ、と思いながらも克実は佇まいを直す。内心ではもう勘弁してくれよと哀願していたのだが、「これも一億のためだ」と呪文のように脳裏で呟くことで何とか耐える。この女のことだからどうせ禄でもないことだろうがと推論していたのだが、次の瞬間には腰が抜けるほど驚かされることとなった。
「私、今日からここに住むことにします」
「はあ!?」
思わず声が早紀とユニゾンしてしまった。いったいどういうことなのだ。どんな思案をすれば、優美が克実のマンションに居座るなどという言葉が出てくるというのか。
「ダメですか?」
克実と早紀のリアクションを見て、優美が捨てられた子犬のような眼で見つめてきた。克実はその視線をキッと睨みながら「ダメに決まってるだろ」と一閃に切り捨てた。
「べらんめい、人を茶化すのも大概にしやがれ。お前のような得体の知れない女を置いとくような部屋は、この家には一寸たりとてねえぞ」
頭に血が登ったのか、克実の台詞は時代がかっていた。しかし優美は動じず、更なる追撃を畳み掛けてきた。
「はい、そう言うと思っていました。ですがこれも一億のためですよ」
そっぽを向きながら柳眉を逆立てる克実に、優美は構わず続けて言った。
「いいですか、克実さん。私とあなたは婚約者という役目で通すのですよ。そこで一番重要なのは何だとお思いです? 私は、演技力だと思います」
「あー、そうかい。それじゃあ今から近所の劇団にでも通って、演技力を磨いてこい」
「私が言っているのはそういうことではなくて、あくまで夫婦役を演じるためにはリアリティが必要だということです」
「あのな、詐欺師なんてものは、いちいち頭の中で考えて、役回りを演じるとか、そんなしち面倒くさいことはしないものなんだよ。お前、有名企業で働いてる割りには、頭悪いんじゃねえのか?」
「ですから、体に刻めばいいのです」
「あ?」
克実には優美の言わんとするところが見えてこなかった。それと一緒に住むことと何の関係があるというのか。
「だからなんでお前と一つ屋根の下で生活しなきゃなんねーんだよ」
「まあ、共同で暮らすと言っても、あくまで擬似的なものです。そして、お互いの趣味思考、はたまた癖に至るまでを知り尽くすことが狙いです」
「な……」
喚き立てたくなったのを、懸命にこらえた。文字通り、何を言っても通用しそうにない。克実はため息をつきながら説き伏せるように口を開いた。
「確かにな。オレもそう思うよ。結婚詐欺っていうのは、いかに実際にあったことのように錯覚させるかがポイントなんだから。お互いに存在しないキャラクターを演じるんだから、そりゃお互いのことを知っているに越したことはない。現にオレ達は今こうやって、周到に計画を立案しているくらいだからな。しかしだ、そんなことは話し合えば済むことじゃないか。悪戯に神経をすり減らすような真似をする必要はないんだよ」
「それでは足りません、私が」
「お前の意思なんて知ったことじゃねーよ」
「もちろん、家賃の他に光熱費や電気等、食事代も含めて全て提供させて頂きます」
「何だよその言い草は。オ、オレがか、金なんかで釣られると思ってるのか、金で! 大体お前なんかに扶養されるくらいなら死んだ方がマシだ」
そう息巻いて、克実はバンとテーブルを勢いよく拳で叩いた。すると、隣に置いてあるチェストの上から、ヒラヒラと数枚の紙切れが落ちてきた。それは公共料金支払い遅延による、通知書の山だった。
「あっあっあっ!」
流れ行く紙片を見ながら、克実は気の毒になるほど動転し、用紙を回収しようと手をバタバタさせた、しかし、時既に遅く、その内の何枚かは優美の手にしっかりと握りこまれてしまっていた。
優美はその紙を見ながら、慇懃なほどにこやかな笑みを浮かべた。
「あら、およろしいんでしょうか? こんなに公共料金を滞納して。私と同居して頂けるのであれば、このようなもの、すぐにでもお支払いするのですが♪」
「ぐっ……!」
優美は哀れむような口調で言った。そんな挑発をされて、克実は顔を真っ赤にさせる。しかし現状、家計は火の車なのは事実だ。何とも情けない話だよなあと、克実は自身を憂いた。