10
優美はぬるくなった紅茶を一口だけ啜ると、ソーサーに戻した。
彼はトイレに行って来ると言ったきり、もう三十分は戻ってこない。まだ用でも足しているのか。中で知り合いに連絡でもしているのか。それとも、トイレに行くと見せかけて逃げ出してしまったのか。どれを取っても、あまり喜ばしくない憶測ねと、優美は視線を下に落とす。あの人はきっと、自分を置いて姿を消してしまったのだ。
することもなくただ椅子に座りこんでいると、マスターの大田原が気遣うように声をかけてきた。
「ま、まったく。あの子ったら。いつまでかかってるのかしらねえ」
「別にいいんですよ。おかしな話をもちかけて困らせたのは私なんですから。もう戻ってこなかったとしても、不服を申し立てる権利はありません」
「すぐに戻ってくるわよ。待ってて。今あったかい紅茶いれてあげるから」
オーダーしたわけでもないのに、大田原は空になったカップを持って奥へと消えていった。大田原にはああ言ったが、優美には見込みがあるわけではなかった。しかし配慮を無下にするわけにもいかないので、淹れたての紅茶を待つことにする。事実、大田原の入れた紅茶は、優美の舌にもよく合っていた。
あの人が自分から去っていたことについては、文句を言う気はなかった。一億という大金は確かに魅力だが、警察にお縄を頂戴されては意味が無い。計画を実行するどころか、こんな話をしていることが父に伝わってしまっただけでも、彼は危うい状況に陥る。そう思えば交渉決裂に終わってむしろ当然だ。
自分がもう少し駆け引きの上手な人間であったなら、もう少し譲歩しつつ相手を懐柔できただろうに、詐欺行為などまったくの未経験なのだから仕方がない。彼を見つけ、ここまで連れてこれただけでも、優美からしてみれば上出来と思えるくらいだった。こんなことなら幾らかでもネゴシエイションの勉強をしておくのだったと、今更ながら悔恨の波が押し寄せてしまう。
優美の家系は、政治家の生まれの血筋だった。政治家は怠けてばかりで、楽して金儲けをしていると思われがちだが、千差万別色んな人がいる。民主主義の日本では、人が羨むほど豪勢な生活はできず、むしろ金欠で貧乏暮らしをしている議員も多い。自ら望んだこととはいえ、選挙には膨大なお金がかかるのだ。
優美は、ガタがきて今にも崩れそうなボロアパートで生まれ育った。テレビもなく、卵ひとつ買うにも百キロ離れたスーパーの安売りにあわせて買いにいかなければならないほど貧困した生活だったが、やさしく綺麗な母と、意地っ張りで頑固な父と一緒にいられるだけで幸せだった。母は朝晩関係なくパートを掛け持ちして働き、それでも足りない食事は全て優美に分け与えてくれた。そんな暮らしが何年も続けば不平のひとつも出ようが、母は貧しさにも何の不満もこぼさず、献身的に父に尽くし、優美には愛情をもって接してくれた。だからお金などなくても、仲のよい両親がそばにいてくれるだけでよかったのだ。そんなささやかな願いが、無慈悲にも打ち砕かれてしまった。
優美が高校に上がる頃、父は念願の議員選挙に当選することができた。母はまるで自分のことのようにうれしがり、優美も素直に喜んだ。しかし母は、長年の苦労と栄養失調から、病に倒れてしまった。父が議事堂で演説をする頃には、母はもう自分の足で立つことすら出来なくなり、入院を余儀なくされてしまった。
点滴とベッドの上での寝起きに、母の筋肉はなくなりやせ細り、美しかった容姿は日に日に失われていった。
そんな折、優美は父に、母の見舞いに行くように説得した。しかし父の答えは冷酷だった。議員としてやらなければならないことがあるのだから、お見舞いにはいけない。今はそんな時間はとれない。そう言われたとき優美は、心の中で父への思いが急速に離れていくのを感じた。今もって、優美にとって許容出来ない出来事だ。
しかし消極的で、おとなしい性格の優美にとって、父の言葉は絶対だった。ならば自分だけでも、と毎日母の入院する病院へ足しげく通った。しかし母は、見舞いにこない薄情者の父に対して、なぜか愚痴や恨み言の類を漏らしたことは一度もなかった。それどころかあの人は立派な人だと褒め称える始末で、この世を去る数日前まで父を賞賛していたのだ。
父はとうとう、母の葬儀の場にも姿を現さなかった。母があれだけ苦労をして、自らの政治活動を手助けしてくれたのにも関わらず。なのに父は、そんな母が亡くなった途端、若い女を後妻として家に迎えいれると、そんなことまで言い出したのだった。
その時から優美には、父に対し何か思いしらせてやろうという気持ちを持ったのだった。名門の一流大学に入学し、発育した自分に声をかけてくる男が大勢いたが、優美からすればまるで関心がなかった。この世を去った母を思えば、自分だけ異性と幸せな関係を築くなどもっての他である。しかし悲しいかな、母の麗しい容姿は自分に受け継がれてしまった。さりとて、男性と交流を持ったことなど、今まで全くない。恋愛、ましてや結婚など、自分には一生縁のないことだと割り切っていた。
しかし関係を持ってしまった。金田と名乗るあの男に。あの人は軽率で、どこか間が抜けてはいるが、それでも自分を受け入れてくれるような包容力があった。自分に言い寄ってくる男の中では、彼の見た目は世間一般、平々凡々もいいところではあるが。決して悪い人間ではなかった。そして、どこか自分と同じ匂いを感じていた。朗らかに話をしているように見えても、ふと孤独な顔を見せるのである。優美は最も慕っていた父親に裏切られたのである。自分と彼に共通点を見出し、いつしかどんなことをしても彼を手放すまいと思うようになった。
優美は百五十万騙し取られたあの夜以来、ありとあらゆる手を使って彼を探した。街に繰り出し、彼の行きそうな場所を捜し歩いた。勿論足が棒になるまで歩いても、見つけ出すことはできなかったが。あてのない捜索を続ける内、探偵に彼の調査を依頼してみてはという結論に至った。その熱意が実を結んだのか、何とかこうして彼を見つけることができた。しつこい女とか言われたような気もしたが、そんな小言は燃え盛る恋の炎の前には無力同然だった。
本当はお金も、ブランド品のバッグも、いらなかったのである。お金など愛情に比べれば、塵あくたほどの価値もない。しかし本当の目的を言い出せば彼も不審に思うだろう。そこでいかにもな悪女のごとく振る舞うことにしたのだった。今思えばそれが逆効果だったのかもしれない。しかし問題はないはずだ。今までだってそうだったし、今後も一人で生きていくと心に誓ったはずではないか。男にうつつを抜かしていたのが、そもそもの話間違いだったのである。
そう思う優美の頬に、一筋の涙がこぼれてきた。指ですくうも、涙はまぶたの裏から次々とあふれてくる。最後に泣いたのなんて、何年ぶりだろうか。どんな辛いことがあっても、これ以上涙を流すことなどないと思っていたのに。
「お待たせー、ごめんなさいね。ちょっと手間取っちゃって…… って何。どうしたの!?」
紅茶を載せた盆を持ってきながら、大田原が驚きの声をあげる。優美は両手で顔を覆いながら言った。
「ごめんなさい……なんでもないんです。なんでも……」
明らかな嘘ではあるが、何事もないのだと優美は言い張った。痴情のもつれの末に別離したとは思われたくないので、優美は何度も何度も「違うんです……」と否定した。見捨てられたという事実を、むしろ許容すれば楽になれるのに。そう思っても何かが心に引っ掛かって仕方がなかった。むせび泣きながら、嗚咽を漏らしそうになるのを何とか我慢する。
「…………」
しばらくだんまりと見つめていた大田原は、意を決したようにポケットに手を入れ、優美の傍に近寄り、もの柔らかに話しかけた。
「アナタ、いったいどうしたっていうのさ。ほら、これ貸したげるから泣かないで。お化粧崩れちゃうわよ」
そう言って、大田原は優美にハンカチを手渡した。優美は素直に受け取った。
「ありがとうございます。私ったら駄目ですね。こんなことだから……」
受け取ったハンカチを広げてみると、中には四つ折の紙片が入っていた。優美は横に目をやるが、大田原は優美に背を向け目をやろうともしない。
優美は紙片を開いてみた。
「これって……」
入っていた紙切れには、達筆で誰かの名前、住所、電話番号が書かれていた。克実進太郎。全く覚えの無い人物のだ。
しかし優美にはある直感がひらめいた。先ほど大田原が金田のことを「進ちゃん」と呼んでいたのだ。ならば金田の本名は、必然的に「しん」が入る名前であるはずだった。
と、いうことは、これはあの人の……
そう理解した瞬間、さっきまで諦めていた感情がまた湧き上がった。
「アラ、中に何か入ってたみたいね。それ、アタシのじゃないから、悪いんだけどあなたどこかに捨てておいてくれる?」
「あの、大田原さん。これあの人の……」
「知らないわ、アタシのじゃないって言ってるでしょ。でも、そう思うなら行ってみれば? もしかしたらその通りかもよ」
「はい……ありがとうございます。大田原さん……」
「間違えないで。アタシのことを呼ぶときは『エンジェル』よ」
低身低頭、深くお辞儀をする優美に、大田原が心底どうでもいい訂正をする。しかし優美は真摯に「はい」と答える。
「すみませんエンジェルさん。お礼に後日改めて、シナモンティーでもいただきに参ります」
「いらっしゃい、いらっしゃい。進ちゃんと一緒にね」
「はい!」
微笑みながら言う大田原に優美もまた笑顔で返した。