1
♦この小説を、全てのモテなき男性たちに捧ぐ――。
克実進太朗はカップのコーヒーを一口含むと、すぐにソーサーに戻した。コクがあって中々味わい深かかった。といっても克美のような一般ピープルには上品なコーヒーの奥深さなどわからない。そもそもコーヒーは煎れ方で決まるものであって、高い豆を使えばいいというものではない。決して貧乏人の言い訳ではないぞ、と克実は自身に念を押した。
目の前のソファには、今いる高級マンションの借主が座っている。父親が名の知れた政治家で、本人も一流企業のOL。絵に描いたような箱入りのお嬢様だ。森園優美という名だが、百合の花がひっそり咲いたような笑みを常に携えた、とても可愛らしい女性だ。腰元まで垂れ下がった、艶やかなストレートヘア。母性を感じさせるふっくらした面持ち。ぱっちりとした温和な瞳は天女を彷彿とさせる、大和撫子の典型のような女性だ。モデルのようにほっそりとした体系には白いフリルのワンピースがよく似合う。こういう服装は下手をすれば質素と見られがちだが、豊穣な肉体と、優雅な微笑みを浮かべた表情が合わさればむしろ清々しささえ覚える。克実はテーブル越しにしばらく優美を見つめていたが、やがて重々しく口を開いた。
「さっきも言ったけれども。今抱えてる事業が失敗して多額の借金を抱えていてね。どうにも首が回らなくなって来てしまったわけさ。こんなことで君を困らせるつもりなんてなかったんだ。なかったけれども、僕には頼れる人は君しかいない」
はあ、とひとつため息を漏らしながら克実は言う。「そうですよね」と優美も深い同情を込めた眼で頷く。
これならいける。哀れみさえもらえればこっちのもんだ。内心笑いをこらえるのに克実は必死だった。
「どうかなさいましたか?」
黙していると、優美が心配そうに尋ねてきた。これも計算どおりだ。克実は早る気持ちを抑え、数秒間を置いて答えた。
「二人の未来について考えていたんだ。僕は君と将来一緒になりたいと思っているけど、結婚するにはお金が必要だからね。ただ今抱えてる負債があっちゃ、とても結婚どころじゃない。情けないことにね」
「そんなことないですよ。どうか気を落とさないでください。私がついてますから」
「うん……そうは言ってもね」
優美は克実以上に悲しそうな顔をしていた。対する克実は悲痛な表情をしていながらも、内心では訝しんでいた。気を落とすな? 私がついてる? 人の弱みにつけこもうという算段じゃないのか? これだから女は信用ならないんだよ。
それから優美はしばらく、元気出してくださいや、私はそんなことで気持ちが変わったりしませんなど、励ましの声を続けた。克実は落ち込んでいる演技を続けつつも、少しずつノッていった。こういう話は雰囲気が大事だ。相手の気分をこちらに傾ければ、交渉もそれだけ上手くいきやすくなる。いかに妙齢のお嬢様とはいえ、一皮むいてしまえばただの間抜けな女だ。克実は勝利を確信していた。
「優美さん。これは凄く言いづらい話なんだけどね。二人の将来を考えれば、これしかないと思うんだ。聞いてもらえるかな?」
間を縫って克実は口を挟んだ。多少興奮気味に談じていた優美は水を差され、はっと表情を変えた。
「あ、ごめんなさい。私ったら自分のことばかりで。金田さんは真剣に悩んでるというのに。本当にごめんなさい」
優美はテーブルに頭をぶつけそうなほど激しい勢いで頭を下げだした。
「い、いいんだよそんな謝らなくて」
勝実は慌てて制止する。これでは立場が逆だ。
「す、すみません。それで、お話というは何でしょうか、金田さん?」
金田というのは克実の偽名だ。克実はおもむろに優美に向き直って言った。
「お金を……貸してほしい」
「お金ですか?」
どこにでもある有り触れた話なだけあって、優美は大して驚いた様子を見せなかった。
「いくらお必要なんですか?」
克実は少しもそんなことを思ってないにも関わらず、申し訳なさそうに手を額に置き肩を落とした。その様子を見て優美も形のいい眉を潜めた。
「本当に言いづらいことなんだけどね」と額から指を離して言った。
「百五十万ほど必要なんだ」
少し間を空けて話すと、
「まあ」
優美は憐れみの表情と共に胸に手を当てた。
その仕草を確認してから克実は慎重に言葉を続ける。
「売り上げが大して伸びてないにも関わらず、IT関係の会社を立ち上げてしまったのが問題なんだ。ただ、現状業績は好転してきている。黒字に向かってはいるんだが、近々社員に払う給料を計算に入れると、資産が底を尽きかけてきている。このままでは廃業するしか手はない」
「そんな……」
優美は唇を震わせ、動揺を隠すこともせず瞳に涙を浮かべながら、克実の話に聞き入っていた。いいペースだ。克実はゴールを前にしたマラソンランナーのような充足感を感じていた。
「君ならわかるだろうが、社員がいなければ会社も成り立たない。仕事上では上手くいっても、自己資本はギリギリだからね」
「はい……はい……。わかります」
「もちろん安易な気持ちでお金を貸してくれと言うわけじゃない。個人の借金だけならともかく、労働者には何の罪もない。会社として破産は何としてでも免れなければ、沢山の被雇用者を路頭に迷わせてしまうことになる。僕はそんなことだけはしたくない」
「はい」
「だから君の力を貸してほしいんだ。本当はこんなこと相談するつもりはなかったんだけど、会社が上手くいかないままでは、君との関係も終わらせるしかない。だけど、僕はそれじゃ嫌なんだ」
「金田さん。そんなにまで私のことを?」
「愛しているよ。僕には君だけだ」
「わ、私も! 私もです!」
ガタンとソファから立ち上がり、苛烈な勢いで優美は言った。こんなに激しい反応があるとは思ってなかったので、克実は多少面食らった。
「ま、まあそんなわけで、君も色々あるのはわかっているんだが、僕としては将来二人が一緒になるために、力を貸してほしいんだ」
「わかりました。あ、返すのはいつでもいいです。うちは親が政治家ですから。嫌味な言い方かもしれないですけど、お金なら掃いて捨てるほど持っているんです。国民から負担された税金だから胸を張れることじゃないんですけどね。それならいっそ、克実さんのような誠実な方に役立ててほしいと思います。ちょっと、待っててください」
優美は立ち上がり席を外すと、紐で結わいた万札の束を持って戻ってきた。別にそこまでしてもらうこともないのだが、バラバラのお札と違って趣がある。
「百五十万円、用意しました」
彼女は頬をぽっと赤らめながら、ゆっくりと克実の前に札束を置いた。
「こ、これで私たち、一緒になれるんですよね……?」
優美は舌なめずりせんばかりの物欲しそうな表情で克実を見た。克実はその視線を真っ向から受け止めて言った。
「そうさ。これで僕と君は何の心配もなく一緒になることができる。お金は必ず返すから、そしたら結婚して欲しい」
当然そんな意思など欠片もない。単なるリップサービスである。それをいかに人の心をくすぐるように語りかけるかだ。このマンションを一歩でも出たら、二度と連絡を取るつもりはない。だがこの場はあくまでも婚約者に成り切ることが肝心だ。
「ほ、本当ですね。私のこと、お嫁さんにしてくださいますね……? 約束ですよ。嘘ついたら針千本ですよ」
優美は潤んだ瞳でじっと克実を見つめて言う。針千本て子供かよ、と思いつつも、克実は至って真剣な表情で答えた。
「もちろんだよ。僕が君に嘘ついたことがあるかい?」
「いえ、ありません。でも私、本当に夢みたいで……!」
「ああわかってる。ただ今は、会社を立て直すことに全力を注ぎたいから、借りた百五十万はありがたく使わせてもらうよ。これで従業員一同にも苦杯をなめさせずに済む。僕は君と出会えて本当によかった。じゃあ早速お金を振り込んでくるから、また明日来るよ」
「泊まっていってくださらないんですか? 私ならいいんですよ。処女を失うなら結婚してからって決めてたんですけど、あなたとなら……」
はっきり言うと寝泊りして、一発ヤッていけと言っているのだ。克実はこういうガツガツした話を苦手としていた。
克実は内心を悟られぬよう声を潜めて答えた。
「ごめん。今日はちょっと」
「そうですか……」
優美はがっくりと肩を落とした。しかしすぐに気持ちを切り替えたのか朗らかに顔を上げると、
「何かあったらすぐに言ってくださいね。私に出来ることなら何でもしますから。お金も足りなくなったらいつでも頼ってください。出来る限りご用意いします」
「あ、ああ……ありがとう」
優美は頬を嬉しそうに赤らめていた。もう輿入れを済ませたかのような喜びようだ。ちくりと克実の良心が、針に刺されたように痛んだ。
マンションを出るときだった。「帰ったら連絡くださいね」と一言念を押すと共に、彼女は克実を玄関口まで送り出した。辞別の言葉を告げ、百メートルほど歩いたところでふと振り返ると、克実はぎょっとした。
この寒空の下、優美は微動もせず、淀んだ瞳でまだそこに立っていた。克実と眼が合うと、世にも嬉しいことがあったかのように、満面の笑みを浮かべたのだった。克実は薄気味が悪くなって、早々にその場から立ち去った。