棒人間の話
四月十日金曜日。
輝かしいキャンパスデビューを飾るべく意気込んで大学の大きな正門をくぐったその日の空は、晴れて大学生となった新入生たちをその大きな腕に迎えるがごとく、どこまでも澄み渡っていました。
入学初日初講義。
一限、心理学概論━━━━の、開始十分前のこと。
三百人は収容できるかという大きな講義室には、早くも大学生活の苦楽を共にする同志を見つけるべく、近場の同性と控えめな自己紹介を交わす話声でひしめき合っていました。
一年生必修の心理学概論は学籍番号順に席が指定されています。
入学前の全体説明を傾聴していた私は、来週から始まる少人数授業のクラスが学籍番号に沿って分けられるという重要なワンフレーズを聞き逃しませんでした。
つまり、少なくとも今両隣にいる生徒は高確率で同じクラスに配属されるということなのです。
私のようにそのことに感づいた生徒たちは、それを見越してという意味もあるのでしょう。今のうちに顔見知り程度には認知されておこう、あわよくばお友達に、でも気が合わなそうならごめんなさい知り合いまでに。
そんな、自己紹介の名のもとにお互いの腹の内を探り合う、四年間のキャンパスライフをかけた真剣勝負、駆け引き、まさに心理戦が、この講義室においてはにこやかに穏やかに繰り広げられているのであります。
なるほど、初講義の科目が心理学概論というのは学校側の意図でありましょうか、みなさん予習はばっちりなご様子。
かくいう私はといいますと、初めましての合図とともに次々と開戦の狼煙が上がる中でひとり完全に出遅れ、現在「あなたに話しかけるよりも優先すべき事ができてしまいました」風を装うべくキャンパスノート見開き一ページ目に覆いかぶさるようにして落書きをするに至っています。
私のコミュニケーション能力に思うところがあると感じたみなさん、どうか早まらずに私の話を聞いてください。
というのもこれは、心理戦といえど仮にも戦場などという物騒な空間からか弱い私を隔離してしんぜようという神のお取り計らいに違いないのです。そうなのです。
でなければ座席指定の講義でこのような絶望的な空間が創られていいはずがありません。
私は空の彼方におられるだろう神様を想って心の中で手を組み合わせました。
お茶目にも程があります神様。
大変信じがたいことですが、私の隣には男性が座っているのであります。それもがっちりマッチョのとにかく大きな男の人が私の両サイドの視界を占めて、まるで楯のように戦場から私を隔絶します。
実際のところマッチョかどうかはわかりませんが、私の勘では高校時代は運動部で間違いないと思われます。おそらくラグビー部と相撲部でしょう。
さて、問題なのはお隣さんのことばかりではありません。
私の席は講義室の中央で、ちょうど目の前は通路になっています。つまりは前の席に女性が座っていたとしても、この通路を挟んでいるために声をかけることはかなわないのです。
さらに私は後ろを振り返ることができません。振り返った先にいるのが男の子だったらと思うと、どんな顔をして正面に帰ってくれば良いのかわからないからです。
もとより私にその勇気があったなら、お隣さんがマッチョかどうかは早々に判明していたことでしょう。
かくして私はこの個室のような空間でさらに小さくなりながら、真っ白いノートとにらめっこしているというわけなのです。
後方に座る学生から今の私はどんなふうに見えているのだろうかと想像すると、自分のことながら口の端が攣りそうになります。
そんな私のことを天もさすがに見かねたのか、一つだけ慈悲をかけてくださいました。
それが、今私が手にしているこのボールペンです。
実は、不幸というのは重なるもので、私は筆記用具を忘れてしまったようなのです。
高校でリュックを使っていた私は、大学生にもなってリュックを使うなんて子供っぽくて浮いてしまうのではと、わざわざ普段使わない手提げ鞄を出してきたばっかりに筆記用具を移し忘れたのでした。
いざ大学に来てみればすれ違う学生の半分以上がリュックを使っていることが判明しました。こんなことなら最初からリュックで来ればよかったわと、今となってはただ後悔するしかありません。
同時に、わかったことがもう一つあります。リュックは私が背負うから子供っぽいのであって、世間一般の大人っぽい大学生が背負えばリュックは大人っぽいのです。大学で学ぶことは多いです。
それは置いといて。
深読みしすぎる自分をなじりながらも、一抹の望みを持って机の下を探ってみると、何やら冷たくて硬いものが指の先に触れました。
まさかと思いつつ取り出してみると、なんとそれはボールペンでした。黒に金の線が入ったなかなか上等なもののようで、ずっしりとした重みがあります。
神様……、感謝します。
そうして再び心の内で合掌し、空の彼方の神様に思いを馳せたのち、私はこの天から授かりし筆記用具でキャンパスノートに棒人間を描いたのです。
私は授業開始までの十分間を埋めるためにそれは丁寧に棒人間を描き上げました。なにせ失敗したら消しゴムで消すというわけにもいきませんから、線が歪めばなぞって修正し、線の太さを合わせるためにまた全体の輪郭をなぞるという、それはそれは繊細な作業をひたすら繰り返します。
始業の鐘が講義室に響きます。。
ノートには実に線のくっきりとした棒人間がありました。円い頭と楕円の胴体をもっていて、見事にイラスト風に仕上がっています。
絵心というものを持ち合わせない私にしては上出来です。
満足した私はページをめくり、授業ノートをとるために気合を入れ直します。なにせボールペンなので誤字を修正することができません。初講義のノートで誤字を塗り潰すなんてもってのほか、美しいノートで大学デビューを飾りたいと思うのは至極当然のことと言えましょう。
私は息を止めてノートの左上に今日の日付を書き込みます。
しかしどうでしょう、ペン先をインクがついてくることはもうありませんでした。
私は背に腹は変えられぬと、ページが汚れることも覚悟してノートにぐるぐると円を書きましたが、無情にも結果は変わらず。インクはやはり、一滴も出てきません。
これは……
私はゼンマイ仕掛けの人形ような不自由な動きでノートに顔を埋めました。もはやこのまま狸寝入りを決め込む他に道はないと思われました。
「あの……」
飛び起きると右側の相撲部君が私を見下ろしていました。マッチョというほどマッチョではありません。どちらかといえばふくよかなといいますか、お父さんのような貫禄を感じます。
「よかったら、どうぞ」
視線を落とすと相撲部君の左手にはクルトガが握られていて、私が慌てて両手で受け取ってお礼を言うと、彼は「うす」と言って再び講義に戻りました。
やはり、本当に必要なとき助けてくれるのは神様ではなく、人の心が育む隣人への愛なのですね。
そう悟ると同時にペン先を私に向けない気遣いにもひそかに心打たれながら、今度こそノートに日付を書き込んだその時です。
視野の端の方で、何か黒い物体がひらひらと動いたような気がしました。虫ではありません。なんと、それは線なのです。
動く太い線はどんどんページを侵食していき、ついにその全貌が明らかになったとき。まるで時間が止まったかように、息をするのも忘れて、私はただただノートのまえに間抜け顔をさらしておりました。
おお……
まだ日付しか書いていない二ページ目に、先ほど私が描いた棒人間が現れ、ひらひらと手を振っているのです。
もしや……神様であられますか。
私は心の中でこの動く棒人間に尋ねました。
授業の記録を取るどころか落書きでインクを使い果たした私に学生とはなんたるかを説きにいらしたのでは……
そして慌てて手提げ鞄からファイルやらポーチやら、とにかくそれらしいものを引っ張り出して、ノートの周りに花壇の柵のような気持ちばかりの壁を築き上げました。
花壇の柵ごときが左右のぬりかべ達にどこまで通用するかはわかりませんが、何とかその視線からノートを守るべく、さらに袖とおろした髪の毛を駆使してキャンパスノートを覆い隠します。
キャンパスノートの神様は相変わらず、にこにこひらひらとこちらに手を振っていました。
神様というのは我々とは異なる次元に存在するものだと漠然と意識しておりましたが、まさか二次元にお住まいとは。現在四月ではありますが、間違いなく今年一番の驚きです。狭苦しくはないのでしょうか。
私の勝手な想像ではありますが、神様というのはもっとこう、神々しいといいますか、早い話が私の中では仙人のような形をとっていたのです。
神様がこのような簡素な線で表されて良いものかとも思いますが、もし神様でないのなら、この棒人間は一体何なのでしょう。
そこで私は閃きます。
もしや天使様でしょうか。
神様の遣いとして文字通り二次元に降り立った天の使者なのでしょうか。
そう思うと、このような可愛らしい外見であるのもまぁ納得できます。
よくよく見れば天使に見えないこともありません。羽をつければ完成です。
そんなことを九十分にわたって考え続けた結果、この棒人間はキャンパスノートの神様でも二次元の天使でもなく、不思議なパワーでページの中を動き回る棒人間のぼっちゃんであるということで私の中に落ち着きました。
我ながら小粋な名前を付けたものだと感心してしまいます。
その間ぼっちゃんはというと、跳んだり座ったりカニ歩きしたりと、思い思いにノートの中を楽しんでいるようでした。
わかったことといえば、彼は非常にマイペースな性格らしく、動作の一つ一つがとてもゆっくりしていること。にもかかわらず動きを止めるということがほとんどなく、たまに逆立ちまでしてみせるというアクティブな一面も垣間見ることができます。
その自由気ままな様子が、ぼっちゃんは神様の類ではないのだろうという考えに至った理由でもあります。
ぼっちゃんには私に救いを、または制裁をいう意思は欠片もないようでした。
講義も終わったところで、私はキャンパスノートをまるで折り紙の端を合わせるときのように慎重に閉じ、またそぉっと開けてみました。ぼっちゃんは変わらず罫線の上をゆらゆら歩いています。
特に問題はないようです。
私は立ち上がると、何となく解放された気分になって深く息を吸いながら控えめに体を伸ばしました。
講義室ってこんなに広かったっけ。
そしてノートを手提げにしまったところで私は大変なことに気がつきました。相撲部君がいません。
結局日付を書いた以外に使うこともなかった緑のクルトガを私の手元に残したまま、相撲部君は忽然と姿を消したのでした。
驚くべきはその切り替えの早さにあり。
講義終了の鐘が鳴って二分も経たないというのに、彼はその体格からは想像もできない圧倒的俊敏さと切り替えの早さをもってして、私に気配を感じさせる間もなく帰路についたというのです。
私は残像を引き連れながら人ごみの通路を華麗にすり抜ける相撲部君を想像します。
日本人というものを極めると彼のような形をとるのだと私は悟りました。
おそらく血の滲むような鍛錬の賜物であろうと思われますその忍びのごとき身のこなしで土俵に新しい風を吹かせる弱冠十八歳の新人力士。しかも紳士的です。
角界を賑わす日本人横綱の誕生に立ち会える日は近いです。期待しましょう。
そのような訳で、きっと来週会うことになるだろう合同授業の時まで、このペンは私が慎んで保管することとなりました。
金線の入った重たいボールペンを机の中にそっと戻すと、私は手提げ鞄を肩に掛けます。どうかこのボールペンが無事持ち主の元へ返りますように。
緊急とはいえ、私はこのボールペンのインクを使い果たしてしまったのです。もし持ち主様と顔を合わせる機会があったなら、ぜひ謝罪とお礼の言葉を伝えたいものです。
さて、今日の授業はこの一限心理学概論のみです。
時刻は午前十時三十六分。
人も疎らとなった講義室を後にして、私も帰路につきます。
そして土日を経て今日、四月十三日月曜日。
三限、クラスごとの合同授業。
座席指定はされていないようなので、私は一番後ろ窓側の席に座りました。
横綱はまだ登校していないようです。ラグビー部君の姿もありません。
私は例のキャンパスノートと筆記用具を出し、この前の不思議なボールペンについて考えながら待機していました。念のためノートはまだ開きません。
ついさっき、先週心理学概論の講義をした講義室へ行ってみたところ、あのボールペンはもうそこにはありませんでした。結局不思議なのはボールペンだったのか、それともインクか、でなければキャンパスノートか。はたまたそのどれでもない、私などには到底理解もできない神がかり的な力がはたらいたのか。いや、私自身が超能力に目覚めたという可能性も……。
とにかく、あのボールペンの持ち主にもし会えたなら、それとなくそのボールペンについて聞いてみたいと思っていたのですが、今となってはそれもかないません。残念です。
そんなことを思っていると、私の前の席に座った明るい髪色の女性が、荷物を降ろしながらこちらの方に振り返りました。
「ねぇ! 心理学でなんかすごい挟まれてた子だよね!」
わたし後ろの席だったんだよーと言って彼女は笑います。
「なんかすごい面白かったよー!」
おぉ……
なんかすごい子が来ました。
「名前なんていうの?」
「……小松沙知子です」
「サチコ? じゃあさっちょんね!」
なんとユニークな。
「わたし森川あきですよろしくー」
差し出されたてをとると、森川さんは両手で私の腕をぶんぶんと振り下ろします。
「ねぇ! 私にもあだ名つけて!」
無茶な。
「じゃあ……森川だから、もっちゃん、とか」
「もっちゃん! ウケるーいいねぇ」
何がウケたのかはさっぱりですがなんとか乗り切ったようでした。
そういえばあのおっきい二人はいないんだねーと、辺りを見回しながらもっちゃんが言います。
たしかに、あと数分もすれば始業の鐘が鳴ってしまうというのに、いまだ教室に二人の姿はありません。
「あっ! あたし心理の授業のときすっごい眠くてさーあんまノート書けなかったんだよね、持ってたら見せてくれない? これは違うやつ?」
言いながら彼女は私のノートに手を伸ばします。私はカルタの達人も驚く早業でノートを机に押さえつけました。
「おぉ……」
彼女は私がこのように素早い動きをしたのがよほど予想外だったのか、まるで珍獣でも見ているかのようなめで私の手元を見ています。
「いや、これはちがくて……あの、ほら私ノートに落書きとかしちゃうひとだから」
しまった。
わたしとしたことがうっかり余計な事を。
私のばか! 正直者!
ごまかしたいのか打ち明けたいのか、わたしはいったい何がしたかったのでしょう。
私を素直な良い子に育てた両親を恨むしかありません。
「ふぅーん、まっ、いいけどさ。ってかキャンパスノートってめずらしいよね。ルーズリーフとか使わないの?」
ちょうどそこで始業の鐘が鳴り、同時にこのクラスの担当教員と思われる女性が教室に入ってきました。
もっちゃんは正面に向き直ると、たった今教室に入ってきたその人を目で追いながら、その大きな瞳で四回は瞬きをしました。
相撲部君とラグビー部君はいつ教室に入ったのか、私は全く気づきませんでしたが、また、いつの間に意気投合したのか二人仲良く入り口付近最前列の席に腰を下ろし雑談に花を咲かせています。
「おはようございまぁーす!」
新鮮なワカメのような派手とも地味とも言い難い色のスウェットを上下に着た女性が教壇に立ちます。
「さあさあ諸君! 休日は楽しかったですか!」
叩き売りでも始めるつもりでしょうか。
「ってことでそっちから自己紹介してー。あっ、あと土日何してたか! はい立って!」
「安部です、地元は埼玉です、土日はずっと本を読んでました」
なんだと! と、安部君のよろしくお願いしますを遮ってワカメは叫びます。
「あんなにいいお天気だったのに家に引きこもるなんて! どうかしてるゼ! 子どもは外で遊びなさい! はい次っ!!」
ワカメは安部君が座る間も無く次を促します。この一番角の席からクラスを見ていると、俯いてみたり咳払いしてみたりと、すんでのところで笑いを堪える生徒が増えていく様子が見てとれます。が、それはおそらく、ひとえに先生の言動がどうこうという話ばかりではないのです。
「……三田です、特技はテニスです、土日は地元のクラブチームでテニスしてました」
「私はサッカーが好きです! 次っ!!」
「佐々木っす! 土日はいいお天気でしたので外で……」
「君は本を読みなさい。次っ!!」
そんな風に一通り自己紹介を終えた頃、ついにクラス中が笑いを堪えていました。
私は確信しました。
私達の心は一つだと。
「君達! どうかしてるよ! 正解はみんなでサッカーをする、です! ルールがわからない? このサッカー部顧問の小山が指導してしんぜる〜」
さぁ入部届けにサインをと、先生は前列に人数分の入部届けを配布して回ります。
私のところまで用紙が行き渡ると「書いた人は講義が終わったあと先生のところに持ってくるよーに!」と言った後、黒板に大きく「自由時間」の四文字をしるしこちらに向き直りました。
「今日は授業は致しませーん! 席は移動してもよーし! なので皆さんたくさん喋ってー仲良くーなってーくださいーはい始め!!」
その瞬間教室が今まで堪えていた生徒たちの笑い声で一気に溢れ返り、ポップコーンのはじける様子が私のなかに思い出されます。
私も例外ではなく、堪えきれず顔が攣りそうになっていると、もっちゃんが涙を拭いながらこちらを振り返りました。
「なにあのひと……ウケる……もう…………お腹イタ……割れる、腹筋割れる」
「お腹イタイ」と「腹筋割れる」を連呼し続けるの彼女に、同じく腹筋割れそうになりながら私は言いました。
「どうかしてるぜ、でしょ?」
「ん?」
「え? ジャージと黒板の色が『同化してるぜ』……っていう……」
「ん?」
「え?」
あ。
暑くて仕方ないほどだったさっきまでの熱はさぁーっと何処か底の方に退いていったようでした。
これは……。
「あっ同化! 同化してるってこと? 」
やめてくれっ! やめてあげて下さい!!
「あー緑だからね、たしかにね、どうかしてるぜ……なるほど……」
ごめんなさい飛び降ります。
心は一つなどではありませんでした。
「あーそうだそうだ、LINE教えて!」
話題が変わったこの機会を逃すまいと私は急いで使い慣れない手提げ鞄の中身を掘り返します。やっと目当てのものを探り当て、いざ! と彼女を見遣ると、なんと、彼女が私のキャンパスノートを開いているではありませんか!
「うわうわわわうぇうぇいうぇい!! うぇい!!!」
私はもっちゃんの肩をべしべし叩きながらノートに手を伸ばします。
しまった! 油断した! この世の終わりだ!
いえ、私のノートの中に動く棒人間が住みついていると知れたところで世界が滅びたりはしないでしょうが、とにかくこの時私は深い絶望の底に沈んでゆく心持ちであったのです。
動く棒人間を見た彼女はなんと言うでしょうか。
「うわ! なんかすごい!」と言うに違いありません。そしてぼっちゃんの事はあっという間にクラス中に知れ渡るでしょう。
「いたいいたいいたい! 分かった! 分かったって今返すって!」
と、思ったのも束の間、私の予想とはうらはらに、ノートはあっけなく私の元へ返ってきました。
未だ心臓の鼓動も鳴り止まないままノートと彼女とを交互に見比べていると「も〜そうならそうって言ってくれればいいのにぃ〜」と、私を肘で小突く身振りをしながら彼女は言います。
「あんまり必死だったからさー見せらんないようなヤバイ落書きなのかと思ったら普通に棒人間じゃん〜ほんとはあれでしょ? ノート全然取ってないのばれたくなかったんでしょ〜」
そういえば自分が心理学のノートを取り損ねていたのを思い出しました。
うちらは仲間だね、と言いながら彼女はこぶしの親指を立てて目を輝かせます。
これはあれでしょうか、同じアイドルのファンだとわかった女子の間に、初対面という名の壁をブチ抜き瞬時に形成される心の架け橋。名付けて『○○好きに悪い子はいない』橋。
きっとそれと同じ原理なのです。
私も負けじと親指を立てます。
そしてお互い思い出したようにケータイを取り出し、私がもっちゃんのQRコードを読み取っていた時です、教室を回っていた小山先生は私たちの机を覗くと、あぁ! そうだそうだ、と言って振り返り、二回手を鳴らして教室の注目を集めます。
「はい! 言い忘れたけどこのクラスのグループLINEつくるからみんなLINE交換しておくように! 以上!」
それをきっかけに数人の生徒が席を移動し始めました。
これは私も動くべきだろうかと、ふと視線を戻すと、もっちゃんが歩き出す小山先生を呼び止めるところでした。
「先生ー!」
「お? 入部かな?」
「違います」
「あら残念」
先生は残念と言いながらもあまり気にしてはいない様子です。
「この子がさっき先生の話聞いてる時、先生が『どうかしてるぜ』っていうのを黒板とジャージの色が同じで『同化してるぜ』って意味だと思って面白かったんだって!」
いぃぃやあぁぁあぁぁあぁぁぁぁぁ!!!!!
それは忘れてって言ったじゃん!!! いや言ってないけどっ!!!!
まさか先生に直接言うなんて……恐ろしい子!!
狙ってもないギャグを面白いと言われたところで、先生も困っているに違いな……
「ほんとに?! そう、そうなんだよ! いやぁ嬉しいなぁ〜。ここで講師始めて三年になるけど気づいてくれたのはあなたがはじめてよ!」
そう言うと先生は、外国人か挨拶でするような大きな動作で私にハグをしました。
なんと!
この先生は三年も前からこの『新鮮なワカメジャージ』を着て教壇に立ち、生徒からの愛のあるツッコミを待ち続けていたというのでしょうか。
そう、羞恥心に負けない屈強な精神力と忍耐力を合わせ持ち、その身をもって私たちに大人の世界の厳しさを示さんとするこの教師の中の教師を、いくら心の中でとはいえワカメと呼び捨てるなど、恥を知れ私!
恥を知った私は今この時をもってワカメという言葉を封印致します。
もし食卓にワカメの味噌汁が並ぶような日に、妹に「今日の味噌汁の具なに?」と聞かれたならば、私はきっと「海藻」と答えることになるでしょう。
「あなたとは気が合いそうだね。えーと名前は……小松さんか」
「あー違う違う! えーなんだっけ……あ、さっちん!」
さっちょんだよ! いやさっちょんじゃないけど!
「先生にもあだ名つけてあげるよー」
なんと! 私の中にはすでにぴったりのあだ名が存在しているのですが、それは先ほど封印したばかりですので私の口からはとても。
もっちゃんはこのワカ……いえ小山先生にいったいどんなあだ名をつけるのでしょう。
「ずっと思ってたんだけどーやっぱりー、ワカメだよね」
なんと! いや、でもワカ……その名前は封……
「あ、ぼくも思ってた」
安部くん! いやでも……
「あ、おれもっす!」
ですよねワカメっすよね!
すると教室のあちこちから「実は私も」という声が聞こえてまいりました。
前言撤回します。
私たちの心は一つでした。
かくして先生のあだ名が決定し、私たちは名刺を交換するようにLINEのIDを交換しながら他愛ないお喋りをしているうちに、慌ただしい九十分は過ぎ去っていったのであります。
先週私がお預かりしていたクルトガも無事相撲部君にお返しすることができました。
相撲部君は口数の少ない人のようで、先週と同じく「うす」と一言いって私からクルトガを受け取ります。その隣には相撲部君と意気投合したと思われるラグビー部君の姿もありました。
そういえば、授業初めの自己紹介により、相撲部君は本名を酒井君、ラグビー部君は郷田君といって、それぞれバドミントン部と卓球部であったことが判明しました。
やはり二人とも運動部でした。予想通りです。
さて一限終了の鐘が鳴り、教室を移動しようというその時、一枚のA4用紙をまるで「会計はこのカードで」とでもいうような動作で先生に提出する人がおりました。先生に唯一サッカーではなく活字を読むことを勧められた佐々木君です。
「おぉ佐々木! お前サッカー好きだったのか!」
「う、うっス、あ、いや、はい好きです!」
おっとこれは恋の予感。
ジャージのインパクトが強かったせいか触れる人はいませんでしたが、実は小山先生は結構な美人なのであります。
彼は顔を真っ赤にしながら「っス、あっいやはい、そうですね」というのをひたすら繰り返します。
佐々木君の恋の始まりを見届けてあげたいところですが、二限の講義に遅れてしまいます。
いつか彼の語彙から「っす」が消えることを祈りながら、さて教室を後にします。
二限、英語。
英語です、みなさん。聞き間違いではありません。
学校という場所で勉強をする以上どこまでも付き纏うのが英語というものです。
受験を終えた高校生たちの『卒業前のお悩みトップ3』にランクインしていること請け合いのこの科目。
大学生になったのになんでまだ英語の授業があるんだ。大学は学びたいものを学べる場所じゃなかったのか。思い出せ、ここはどこなのか! アメリカ? イギリス? 違う、日本だ!!
多くの学生がこの言い訳を使いたいがためだけに一生を日本語圏内で過ごすことを誓い始める始末。
かくいう私もその一人。彼らの気持ちもよくわかります。
せめてこう……もっと大学の講義らしい長くてカッコイイ感じの科目名にはできなかったのでしょうか。心理学概論とか。
『英語Ⅰ』はナイ。それはナイ。
大学での授業二日目にしてテンションだだ下がりです。
そんな私は例のごとく教室後方の角の席を確保し、ラジカセから流れるネイティブ英語を聞き流しながら、キャンパスノートと格闘……正確にはぼっちゃんと戯れていたのですが、これがなかなかに愉快でありました。
私はぼっちゃんの行く手に様々な障害物を描いてみました。例えば、レンガを山型に積み上げたような形の線を描いていると、描いたそばからぼっちゃんがその線を階段に見立てて、まるでペン先に追い付こうとするかのように駆け上がってきたのです。
あわてて線を斜めに下ろすと、ぼっちゃんはその斜線をおしりで伝って滑り降り、最後には両手をピッと上げて着地までキメてみせました。
器用なものです。
他には、石に見立てたぼっちゃんの体半分ほどの円を描いたりもしましたが、こちらはあっさり飛び越えられてしまいました。
さて、そろそろ遊んでばかりもいられません。いい加減ノートをノートとして使わなければ学生の名が廃るというものです。それこそキャンパスノートの神様がいらっしゃるのならば、そろそろ私に制裁が下ってしかるべきです。私は教科書の英文をノートに書き取ります。
━━Is this a pen?
これはペンですか?
━━No,this is an eraser.
いいえ、これは消しゴムです。
シャーペンを叩きつけたい衝動を抑えながらなんとか全ての英文を写し終えたその時です。
私が英文の最後に書いた句点を、ぼっちゃんがいきなり蹴り上げたかと思うと、サッカーでもするようにその句点で遊び始めました。
よく考えると、英文なので文末は句点ではなくピリオドを打たねばなりません。
最後の最後で集中力が切れたのか、間違って置かれたその句点をぼっちゃんが蹴り飛ばしたのは、はたして偶然なのでしょうか。
蹴って遊ぶのに丁度よいと思っただけなのか、はたまた、今までの英文から学習して、「コレ、間違ってるヨ」と、私に伝えようとしたのでは?
ぼっちゃんには学習能力がある、という仮説を見出した私は、すぐさまぼっちゃんとの意思疎通を図るべく「Hello」だの「Go!!」だの 様々な英単語を小さく書き並べました。しかしぼっちゃんはそれらの英文には目もくれず、句点の上で玉乗りを始めました。やはり、丁度いい遊びを思い付いただけのようです。
句点に飽きたのか、ぼっちゃんは元の英文の文末に句点を返却しにきました。
私はなんだか諦めきれず、これで最後と思いながら句点のすぐ側に「Thank you」と書きましたが、ぼっちゃんはやはり、相変わらずのにこにこ顔で首を傾げるばかりでした。
結局、なぜもっちゃんはぼっちゃんを見たにも関わらず「普通の棒人間じゃんー」といったのか。
本人に聞くというわけにもいかず、あくまで私の推測ですが、ぼっちゃんはもっちゃんがノートを開いたその一瞬だけピタッと動きを止めたものと思われます。
都合がいいなと思われるかもしれませんが、もっちゃんに聞くことができない上検証のしようもないのでしかたがありません。
もっちゃんがぼっちゃんを見たときぼっちゃんはもっちゃんの前では動かなかったというわけです。
頭が痛くなってきましたね。
帰りましょう。
高校二年の頃一度ルーズリーフに挑戦したとき、後でファイルにとじようと思ってまとめてクリアファイルに保管していたら教科とページの見分けがつかなくなるという悲劇が起こって以来、ルーズリーフにすっかり苦手意識を持ってしまった私は今に至るまで安心安全のキャンパスノートにお世話になっているというわけなのですが、私が大学に入って早二ヶ月が過ぎたころです。
二ヶ月しかたっていないというのに早くもページは残り五枚に差し掛かりました。
というのも私は、次のページに書き込むたびぼっちゃんが前のページからしゅるんと現れるのが面白くて全科目のノートをこの一冊にとっておりました。
またある日気まぐれに、そうだぼっちゃんの友達を書いてあげよう! と思い立ち、見開き一ページ目に戻ってリボンのついた棒人間を描いてぼっちゃんが来るのを待っていた私はそこでふと気が付きました。
そう、ぼっちゃんは進んでくるばかりで、ページを逆戻りしたことは一度もないのです。
いや、だからなんだという話です。
つまり私が言いたいのは、ノートのページをすべて使ってしまった後、ぼっちゃんはいったいどうなるのかということなのです。
それを知るすべは残念ながら一つしかありません。
それから三日後我が家にて、とうとうその時が来てしまいました。
最後のページは文字でびっしりと埋め尽くされ、残すは左ページ右下の一角、ぼっちゃんがぎりぎり収まっている部分のみとなりました。
ぼっちゃんはその小さなスペースの中でいまだゆれたり座ったりしていますが、やはりそのページを出ようとはしません。
隣はすでに裏表紙の裏、つまり、もうページではないのです。
使い古した丸い消しゴムがノートの上から転がり落ちます。
ぼっちゃんもこんな風にころころーって出てきたらいいのに。
ため息交じりにそんなことを思いながら消しゴムに手を伸ばしたその時です。
セーターが引っ掛かったのか、ノートが床に落ちてしまったのです。
しまった!
念のために閉じないでおいたのに!
あわててノートの背表紙を開きます。
ぼっちゃんの姿はありません。
(いない)
一ページずつ反対からめくっていきます。
(いないいないいない!!)
そして最後、見開き一ページ目。
私の描いたリボンの棒人間の隣で手を振るような形をとったまま動かないぼっちゃんがそこにおりました。
その頭の上には書いた覚えのない、けれど見覚えのある小さな文字で『Thank you』としるされていました。
それからひと月がたった七月十日金曜日。誰もが夏休みを意識し始める今日この頃。
講義は終わり、お昼も食べ、さて帰ろうともっちゃんと学バス乗り場を目指していた時です。
「あっ、かめちゃんだ。かめちゃーん!」
見るとスーツを着た小山先生が歩いてくるところでした。
「こら、『ちゃん』はよしなさいって言ってるでしょう」
私たちの前まで来ると、小山先生はすかさずもっちゃんのおでこにデコピンをお見舞いしました。
「あたっ! そうだった、ごめんごめん」
反省してるのかしてないのか、おでこを手で擦りながらもっちゃんは言います。
「かめちゃん先生スーツ似合うよねー。あの変なジャージ着てた人とは思えない」
そうなのです。かめちゃん先生こと小山先生のあだ名の由来ともなったあのジャージを、私たちはクラス別授業初日のあの日以来目にしたことはありません。生徒の一人に、あれはもう着ないのかと聞かれると、「あんなのしょっちゅう着てこれるわけないでしょう」と、先生は仰っていました。なんでもあれは、新入生を驚かせようと毎年クラス別授業の初講義の日にだけ着てくるのだそうです。
先生は意外にまともな先生なのだとわかって安心半分残念半分。いや、6:4で安心が優勢です。
そんなことを考えていると、ふとあるものが私の目にとまりました。先生の指に、それも左手薬指に銀の指輪がはまっているのでしだ。もっちゃんもその事に気づいたようで、指輪について尋ねると、なんとそれは婚約指輪なのだそうです。それも聞くところによると、先生は夏休み中に式をあげ、今年いっぱいで教職を辞すとのこと。
形勢逆転、3:7で残念優勢に。
もうあのジャージを拝むこともできないどころか、先生は三月でこの大学を去ると言うのです。
悲しいことです。私やもっちゃんはもちろん、クラスのみんなもこの事を知ればこぞって寂しがるに違いありません。なにせ私たちの心は一つ、一心同体といって過言ではありません。小山クラスの生徒の気持ちなら手に取るようにわかるのです。
しかし悲しんでばかりはいられません。先生とお別れすることはとても残念ではありますが、結婚とはおめでたいものです。小山クラスの生徒として、その時が来れば先生の門出を祝福し笑顔で送り出さなければ。
結婚式呼んでくださいね、と言いながら手を振り先生と別れると、ちょうどどこからか『トルコ行進曲』のメロディが聞こえてきます。不思議に思っていると、もっちゃんがおもむろにスマホを取り出し耳にあてました。
「もしもーし、うん……あ、そうなの? はーいわかったーじゃあねー」
もっちゃんはスマホをしまいながら私に向き直ります。
「ごめんサークルの集まり行かなきゃ、今日は先帰ってて!」
走り去るもっちゃんの背中を見送り、私はまた歩き出しました。
もっちゃんは軟式テニスのサークル、通称STSに所属しています。ちなみに相撲部君こと酒井君が所属するのは高校と同じくバドミントン部で、ラグビー部こと郷田君も同じく卓球サークル『PINPON☆DASH』、通称ぴんぽんに入部したそうです。
ふとグラウンドの方を見やると、サッカー部が自主練習をしているようでした。
さらによく見ると、数人がパス回しの練習をしている中、ひとりグラウンドの隅で体育座りをして、つま先の先にある動かないボールを見つめている人がおります。
もしかしなくとも勘違い系純情男子佐々木君です。
私は一瞬にして彼の心境を悟りました。サッカー部である佐々木君には、他のどの生徒よりも早く小山先生本人から結婚と辞職の報告があったに違いないのです。
片思い期間半年を経て彼の恋路は断たれたのでした。その青春の始まりと終わりに立ち合った私としては今、我が子の成長を見守る親のごとき眼差しを彼に向けずにはいられません。
絶望してはいけない、君はまだ若い。青春は一度ではないヨ。たぶん。ガンバレガンバレ。
ところで、小山先生が結婚し大学を去ると知った今、佐々木君はサッカーを続けるのでしょうか。彼がボールを蹴るところを何度か目にしたことがありますが、正直ぼっちゃんの方がまだ器用にボールで遊んでいたように思います。
だがしかし! 今の彼はボールに遊ばれ恋に踊らされていたあの頃の彼ではないのです。
先生への未練をスパッと断ち切り潔くサッカー部を辞めるか、はたまた、色恋などという雑念はごみ箱の底へ叩き込み青春の第二幕をサッカーにつぎ込むのか。
いずれにしろ、失恋を経験し一回りも二回りも成長した佐々木君ならば、おのずと正しい道を選ぶことができるに違いありません。
佐々木君も新たな一歩を踏み出そうとしているのです。私も負けていられません。
私はグラウンドに背を向け、また歩き出します。
私はバス乗り場ではなく、サークルの部室が集まる南館に向かいました。
ぼっちゃんのことで頭がいっぱいだったその頃の私は、各サークルの発表や紹介もろくに聞かず、おかげで新入生のサークル入部ラッシュの波にも乗り遅れ今に至ります。
あのノートを使いきった日から今日に至るまで、ぼっちゃんのことを思い出しては、またノートを動き回りはしないかと一欠片の希望胸にキャンパスノートの表紙をそっと開いてみる日々を送っています。ですがやはり、あの日以来何度ページをめくっても、ぼっちゃんが動いたことはありません。
今でこそ動かないぼっちゃんですが、近ごろたまに、ノートを走り回るぼっちゃんの話を誰かに聞いてもらいたくなることがあります。
もちろん動く棒人間の話をしたところで信じてくれる人もいないでしょうから、まだ誰にもぼっちゃんの話はしたことがありません。
わかってはいるものの、この事を私の心の中だけに永遠に秘めておくと思うと、なんだか胸の辺りがむず痒いような気持ちになるのです。
そうして、新入生の勧誘などもすべて終わってしまった今、各ボックスの扉に貼られているサークル紹介の張り紙から情報を得るべく南館をさまよっていると、一枚の張り紙が目に止まりました。
『文芸部』
活動内容には、小説を書いたりイラストを書いたりというようなことが記されていました。
小説……小説……
気が早いと思いつつも、思い付いてしまいました。
もしも物語を書くとしたら。
タイトルは━━━━
『棒人間の話』
私のキャンパスライフが、始まります。
おしまい