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隣の石田くん(仮)  作者: 北海
第一話:運命の出逢いは圧力鍋とともに
2/4

01

 運命は、桜の花びらが舞う並木道ではなく、どこにでもあるようなホームセンターに落ちていた。

 少なくとも、彼らの場合は。


               *


 三月某日。ガスコンロ下にある収納スペースを覗き込んでいたうたは、積み重なった鍋たちの奥の奥からようやく引っ張り出したそれ(・・)を見て、あらら、と頬をかいた。

「ちょっと見ないと思ったら……お姉ちゃん、また壊してたのね」

 鍋底は焦げ付いて真っ黒。それでもどうにか焦げを落とそうとしたのか、傷ついてがたがたになった上、小指の先ほどの穴がぽっちり空いているとなれば、最早それ――藤峰家にあるたったひとつの圧力鍋が用を成さなくなったことなど、一目瞭然である。

 うたはガスコンロ脇、調理台に並べた材料たちを見た。じゃがいも、たまねぎ、にんじん、あまりもののきのこが一掴みに、大事にとって置き過ぎたせいで賞味期限が今日に迫った頂き物の顆粒状カレールー。ここまで揃って、下ごしらえまで済んでいるというのに、まさかの鍋が戦線離脱。

 ううんと腕を組んで悩んだのは数秒だけのことだった。時計を見てまだ部活中の甥が帰ってくる時間までには余裕があることを確認すると、いそいそとエプロンを外して春物のコートを羽織る。

 幸い、休日であろうと藤峰家はあまり気を抜いた服装でいることを良しとしない家であったので、着古してよれたシャツさえコートで隠せば買い物に行くのに何の問題もない。生活費の入った財布とエコバック、それに家の鍵だけは忘れず持って、うたはほんの少しだけ早足で近所のホームセンターに向かった。

 暦の上ではもう春である。けれど今年の冬は随分と腰が重いようで、麗らかな日差しとは裏腹に吹き抜ける風はまだ冷たい。時折風が吹くたびに首をすくめつつ、ふくらみ始めた新芽を見上げてはほうと息を吐いた。

 冬が嫌いというわけではないけれど、春という季節は不思議と気分が浮き立つものである。まして、うたは来月になれば高校生になる。自分の部屋のクローゼットから真新しい制服を取り出しては頬を緩ませるくらい、うたは新学期を心待ちにしていた。

 すれ違う、来月から自分が着るのと同じ制服を着た少女たち。部活帰りなのだろう。チェーン展開しているドーナツ店にでも寄って行こうか、と相談する声音は、疲労を滲ませながらも充実感に満ちている。

 くふ、とうたはこっそり笑みをこぼした。女子高生。なんときらきらしく魅力的な響きだろうか。辛く長かった受験の季節が終わっただけでも嬉しいのに、今度からはそんなブランドが付いてくる。三年間の期間限定ではあるけれど、限定ものにはプレミアが付くので問題などないのである。

 そんな何が理由とも言えない、ふわふわした幸福感に包まれて、うたはホームセンターのドアをくぐった。そして、常にない人の多さにぱちぱちと瞬く。

「『年に一度の在庫一掃大セール』……だと……?」

 お気に入りの漫画の真似をして、店内の至る所に張られたチラシを読む。なるほどそれで、いつもはもうちょっと広いはずの通路が妙に狭苦しく感じるわけだ、と。

 とは言うものの、別段うたはこのホームセンターの常連というわけでもない。月に一度どころか半年に一度来れば良い方で、大概が父母どちらかの買い物の付き添いであるからして、自分でか目的を持って訪れたのはこれが初めてだった。つい先日まで義務教育期間中だった少女にとって、ホームセンターなど所詮そんな程度のものである。

 天井から下げられた案内板を見上げつつ、うたは人混みに揉まれながら調理器具売り場までなんとかたどり着く。だが、そこからがまた一苦労だった。

 どうやら目玉商品のひとつが調理器具売り場にもあるらしく、他の売り場と比べても段違いの人の多さ。しかも集まっているのは人類最強と名高い恥も遠慮も彼方に放り投げた妙齢のおばさま方ばかりである。ぐいぐいと押し合いへし合いする人混みにうたは半歩後ずさった。

 こういう時は人の流れに乗ると良いのだが、生憎自由自在に行きかうおばさま方ばかりなため、ついさっき出来た流れが今はもう別方向に向かっている始末。それでもここぞとばかりに見定めてえいやと飛び込んだうただったが、早速もみくちゃにされてすぐにペッとはじき出された。当然、目当ての圧力鍋をゲットするどころか、どの棚にお目当ての物が置いてあったのかすらわからず仕舞いである。

 なんと恐ろしき戦場なのか……! うたは気合を入れ直した。これは、生半な気持ちではあっさり敗北してしまうぞ、と。

 今度は無理に最大派閥に特攻しようとせず、遠目になんとなくの目測を付けることにする。うたの記憶が確かなら、お目当ての圧力鍋は他の鍋やフライパン類の近くに配置されているはずである。人混み越しに見えたフライパンを目指して、いざ、と再び人混みに乗り込んだ。

 通常、人が二人並んでゆったり商品を見ることができる通路は、今は横三列に並ぶ流れができており、お世辞にもスペースが余っているとは言えない。なんとか目的の場所に向かう流れに入り込んで、とりあえずの成功にうたはほっと息を吐いた。

 うたが目指す場所に向かう流れは二つ。彼女はその真ん中にいて、反対側に向かう流れからぎゅうぎゅうと押しつぶされかけながらも徐々に目当ての棚に近づいていく。

 平均身長やっとの身長では、少し背伸びをしなければ人混みの先は窺えない。ただでさえ身動きし難い状況でひょこひょこよ顔を上へ出しながら進んで行くと、ようやく目的の圧力鍋が視界に入った。

 店内の壁掛け時計に目を凝らす。このまま流れに任せて進んで、通路が途切れたところで抜けてレジに向かえば十分甥の帰宅時間には間に合う時刻だった。焦ることはない。

 それで気が緩んでしまったのか、反対側の流れでひと際パワフルに人を押しのけて向かってくるおば様の存在に、うたは「通してちょうだい」と押しのけられるまで全く気が付かなかった。

 どん、と少なくない衝撃が左側から来る。体勢を保つことができなくて、右側の誰かに勢いそのままぶつかってしまった。

 不運だったのは、うたがぶつかってしまった誰かもまた気を抜いていたことだった。特別太っているわけではないが細身とも言えない女子中学生――後ひと月も経たずに女子高生になるが――の体重と、押されたせいでついた勢いと。受け止めきれずに、商品棚に突っ込んでしまう。

 そこからは、うたにはまるでスローモーションのように見えた。

 棚の一番上に置かれていた補充用の圧力鍋たちが、棚にぶつかった衝撃に大きく揺れる。そして通路側に傾いた拍子にバランスを崩したのか、そのまま棚から落ちてくるではないか。

 落下位置は、目算が誤っていなければうたがぶつかってしまった誰かの頭部。まずい、と焦ったうたは、咄嗟に倒れまいと頑張っていた足の力を抜き、そのまま全体重をかけてその誰かを押し倒すべく床を蹴る。商品棚に向かって右側、人がさっと避けた方へ。

 これが軽い銅やアルミ製の鍋だったのならまだしも、落ちてきているのはまさかの圧力鍋である。材質によって多少重量に違いはあるものの、圧力鍋というものは総じて重いと決まっている。そんなものが頭に直撃すれば、大怪我では済まされない。最悪、死んでしまうのかもしれないのだ。

 ――そのまま、後一歩踏み込め!

 ガツン、と左肩に圧力鍋がぶつかった。途端、スローモーションだった世界が速度と音を取り戻す。

 コンクリートの床に鍋が落ちて転がる派手な音。うたの下からはうっ、ともぐっ、ともつかないうめき声がして、あれほど騒がしかった店内がこの辺りだけ一瞬静まり返る。

 カラカラと鍋蓋が回転して床を叩いている音だけが響き、次の瞬間、わ、とざわめきが押し寄せてきた。

 店員呼んで、ぶつかったの、怪我は、などなど。口々に言うものの、実際に倒れこむうたと誰かに近寄る人間はいない。

 目の奥に星が飛んだかと錯覚する最初の激痛が過ぎ去った後、焼けるような鈍痛に耐えるべく目をぎゅっと閉じていたうたは、自分の下から不機嫌そうに「おい」と声をかけられて、ようやく自分がまだ誰かを下敷きにしたままであることを思い出した。

「う、わわわ! ごめんなさい、大丈夫でしたか!?」

 大慌てで飛びのく。そして初めてその誰かを真正面から見て――ぽかんと口を開いた。

 うたに続いて身を起こしたのは、十人いたら十人が振り返るだろう、ひどく整った顔立ちの少年だったのだ。

 寄せられた眉とつり目気味の瞳のせいで、間違っても親しみやすいだとか癒される、可愛いといった系統の美形ではないのだが、すっと通った鼻筋とバランス良く配置された顔のパーツはまさに芸能人顔負け。化粧なし(すっぴん)で歌舞伎の女形を演じられるに違いない、とうたは勝手に確信する。

 年齢は、うたと同じくらいだろうか。体が細身なせいで余計男くささがない。整いすぎた顔立ちが女性めいた印象を与えるのはそのためだろう。まっ平らな上半身と先ほどまで密着していなければ、うたも彼をボーイッシュな女の子と間違えていたかもしれない。

「間抜け面」

 への字に曲がった唇から出た言葉に、はっと我に返る。もしかしなくとも、それはうたに向けて言ったのだろうか。

 我に返りついでに、忘れていたかった左肩の痛みも戻ってくる。ひう、と変な声が出た。

 これはきっと痣になっているだろう。痛めたところが悪かったのか、指を少し動かしただけで引きつるような痛みが腕全体に走る。構えていれば我慢できないほどではないが、帰ったらすぐにでも湿布を貼らなければとうたは決心した。

 倒れた拍子に落としたのだろうか。少年は近くに落ちていた眼鏡を拾い立ち上がる。

「どれだ」

「へ?」

「あんたを突き飛ばした非常識だ」

 小年の声は喉に引っかかっているかのように掠れ、少年自身も喋り難そうにしている。

 そういえば甥っ子も少し前にそんな声になっていたような……と記憶を探っていたうたは、反応がないことに焦れた少年がじとりと視線を寄越したことにびくりと肩を跳ねさせた。

 そうなると、当然。

「っひ、う」

「……馬鹿」

 返す言葉もない。

 ため息ひとつで、少年はうたの言葉を引き出すことを諦めたようだ。

 間隔を空けて見守る周囲をぐるりと見回し、ある一点でぴたりと視線を止める。

 人垣自体、少年が先ほどうたに問いかけた言葉を拾っていたようで、不自然に割れかけていたのだが、彼のその行動で波が引くように人がよけていく。

 問題の人物は、うたと少年に背を向け、「本日の目玉商品」、「ワゴンセール」と紙が貼られたワゴンを一心に探っていた。

 す、と少年が目を細める。うたの耳には、彼がちっ、と舌打つ音が届いた。

 そこで、ようやく周囲の異様な雰囲気に気づいたらしい。ワゴンを探っていた手を止め、きょときょとと周りを見回したその人物は、自分の背後の空間にぎょっと目を見開いた。そして、自然と集中する、咎めるような視線。その主婦は狼狽えて半歩後ずさる。

「……貴女、さっき、ちょっと強引に割って入ってたでしょ? その時に、ほら。あの子にぶつかって……」

 こそ、と主婦の友人らしき女性に耳打ちされ、その主婦は初めて少年の後ろで座り込んでいるうたに気が付いたようだった。ついでに、彼女の周囲に散乱する圧力鍋の数々にも。

「私のせいだって言いたいの!?」

「あんたが無理矢理割り込んだ自覚があるなら、そうなんじゃないのか」

「っな、なによ。大体、私はちゃんと『通してちょうだい』って声をかけたじゃない!」

「それで、あんたはコイツの了承を受けてから通ったのか?」

 そう問う少年の横顔は、ゾッとするほど温度がない。

 整い過ぎた顔が無表情になると、それだけで威圧感が増す。加えて、すぐ近くにいるうたには少年の無言の怒気がビシバシと突き刺さっていた。

 これはマズい、先ほどぶつかったばかりの棚に縋りながらなんとか立ち上がろうとすると、「大体!」と向かいの主婦がビシリとうたを指差してきた。

「私がぶつかったんじゃなくて、その子が鈍臭いから勝手に転んだんじゃないの!?」

「え?」

 私? と、いきなり話の矛先を向けられたうたが瞬く。だが、それも少年の表情を見るまでだった。

「そうよ、その子が勝手に転んだのよ、私のせいじゃないわ。言いがかりよ! そう、名誉毀損だわ! 子どものクセに、大人に敬語も使えないなんて、育ちが知れるわね!」 

「育ちが知れるのは、どちらだ」

 ゆっくり、そう、本当にゆっくり、少年はそう言った。

 最早その瞳は温度がないどころではない。あくまでも冷静に、けれど最早怒りと軽蔑の感情を隠すことなく、少年はヒステリックに叫ぶ主婦を睨みつける。

「根拠もないことをベラベラと。例え本当にコイツが鈍臭かったんだとしても、アンタがこんな人混みで無理矢理他人を押しのけて進まなければ済む話だろう。声をかけただと? あんなに人がいたのに、声をかけたところでよけようにもよけられるスペースがなかったことくらい、どんな馬鹿でも見ればわかると思うがな。それとも、自分の体型がそこまで細いとでも思っているのか?」

「んな!!」

「はーい、そこまでー!」

 体型の話題は、女性に対して禁句ワードナンバーワンである。それなのに、この少年はいったい何を言い出すのか! うたはほとんど飛びつくようにして少年に背後から抱き付いて強制的にその鋭い舌鋒を塞いだ。この際、相手がとんでもない美形だとか初対面だとか、そういうことは丸っと彼方に置いておく。

 先ほどとは違い、今度はうたも手加減したからか、それとも少年がまったくの無防備ではなかったためか。少しよろめいただけで踏みとどまった少年は、何故止めるとでも言いたげにうたを睨む。

 だが、うたも必死だ。必死に「もうそこまでで」と少年を宥めにかかる。

「あの高さからあれだけの重さのものが落ちてきたんだぞ。頭にぶつかったら死んでいてもおかしくない。それがわかってるのか?」

「でも、幸いこうして五体満足に生きてるわけだし。それに、本当にその人がぶつかってきたんだとも限らないわけで」

「そうよ! 間違ってたら名誉毀損で訴えてやるんだから!」

「『たら』と言っている時点で、語るに落ちている気がするがな」

 確かに。うたもちょっと納得しかけてしまった。

 そこで、ようやく騒ぎを知った店員が駆け付けてくる。完全に野次馬と化していた誰かが呼んで来たらしく、「店員さん、こっち!」という声がどこかから聞こえた。

「お客様、どうされました?」

 店のロゴが入ったエプロンをした、アルバイトらしき青年が人垣をかき分けて近づいて来る。

 聞き覚えのある声に、うたはパッと顔を上げた。そうすると、ちょうどこちらに向かって来ていた店員とバッチリ目が合う。

(お隣の、大学生さん?)

 いつも見る彼は、もっとワックスで髪を固めてお洒落な恰好をしているけれど。ジーンズにシャツ姿、ただ梳かしただけの野暮ったい髪型の青年は、確かにうたの顔を見て驚いていた。

 睨み合う中年女性と、中学生か高校生男子。そしてその男子に背中から抱きつく、つい先日中学校を卒業したばかりの隣家の少女。お隣の大学生こと、三野康が状況を把握できずに混乱したからといって、責められる人間はいないだろう。

 自然、彼の視線は知り合いの少女に向けられる。だがその口が説明を求める言葉を紡ぐ前に、食ってかかったのは中年女性の方だった。

「ちょっと店員さん! おたくのお店は、いったいどうなってるの!?」

「は、と言いますと?」

「こんな!」

 言って、女性は今度は少年を指差す。

「常識知らずの子どもまで来るなんて! ちょっと非常識なんじゃありません?」

「……お客様? 申し訳ありませんが、仰っている意味が」

「目上の、しかも女性に向かってあることないこと暴言ばかり! 名誉毀損甚だしいわ!」

 一瞬、三野が酢を飲んだような表情になったのがうたには見えた。ついで浮かんだのは全ての感情を押し込めたアルカイックスマイル。そのまま冷静に腰につけた何かの機器のボタンを押す。

「つまり、お客様同士でトラブルになった、と」

 最早三野は中年女性を見ておらず、同意を求めるように顔を向けたのはうたたちの方だった。

 少年が無言で頷く。周囲の人間の視線からも、なんとなく状況を理解したらしい。

 すぐにまた駆けつけてきたのは、どうやらこの店の店長のようだった。

 三野はそのまま店長に女性を任せると、今度はうたと少年の方に近づいてくる。

「商品が落ちてきたんですね。お怪我はございませんか?」

「俺はないが、こっちは――」

「はい! 大丈夫です!」

 少年が何か言いかけたようだったが、それを制してうたが答える。右手で丸を作ってみせれば、三野はお隣のお兄さんの顔になって眉を下げた。

「それじゃあ、申し訳ないんだけど、ちょっとバックヤードまで一緒に来てくれるかな。隣のお客様も」

「え」

「事情を聞きたいんだ。そうじゃなきゃ、あっちも収まらなさそうだし、一方的な話を聞くより、双方の言い分を聞きたい」

 ちら、と背後に視線をやった三野につられて様子を見れば、話に横槍を入れる相手がいないためか、ますますヒートアップして何事かまくし立てている女性と、その女性をなんとか宥めすかしてどこかに移動させようとする店長がいた。どうやらあちらも、この場での事態収拾を諦めてバックヤードに場所を移すらしい。

 でも、とうたは時計に目をやった。果たして、その事情説明とやらはどのくらいかかるのだろうか、と。

 彼女の躊躇を見抜いたように、三野は少々情けない声音で付け足した。

「ここだけの話、彼女、結構悪質なクレーマーでさ。それだけじゃなく、列に割り込んだとか、押しのけられたとか、店側に結構苦情もきてて。この際だから、きっちり事態をはっきりさせて、店側から正式に警告しておきたくて」

「そもそも問題のある人物だったということか」

 ふん、と話を聞いた少年が不機嫌に鼻を鳴らす。三野はそれに苦笑いしか返せない。

 客商売の辛いところは、そうそう安易に客を選べないことだが、できれば来店自体をご遠慮いただきたい客というのは少なくない。まして、それが客同士のトラブルにまで発展するとなれば尚更だ。

 うたとて、近所のお兄さんに頼まれては、協力するに吝かではないのだが。再び時計を見て、甥の帰宅時間を思い、ジレンマに頭を抱える。

 だが。

「行くぞ」

 抱き付いたままだったのがいけなかったのか。右手を掴まれ、半ば引きずるように少年に連れて行かれる。ほっとしたように先導するのはもちろん三野だ。

 うあ、とたたらを踏みながら、何か言おうとしたうたの言葉を止めたのは、視線だけ振り返った少年の一瞥と、その後に続けられた淡々とした声だった。

「バックヤードなら救急箱もあるだろう。涙目になるくらい痛いなら、さっさと湿布でも何でも貼ったらどうなんだ」

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