黄泉誘う傾城の花
雑誌を読まれた方も読んでない方も、思ったことを感想をいただけると嬉しいです。長編改稿へ向けて参考にさせてもらいます。
「――わたしが愛した人は皆、死んでしまうのじゃ」
*
「……緋雨?」
着物姿の総髪の青年が、徳利を揺らしながら女を呼ぶ。
「あい」
女、緋雨は兵庫髷に小花の簪や笄をいくつも差し、香散見草を描いた打ち掛けを羽織った滑らかな肢体を青年に寄せて、先ほどの独白などなかったかのように微笑んだ。
袖口から細い指先を泳がせて、新しい徳利を手にとると、それを胸にかき抱く。
青年が猪口を緋雨に突きつけると、彼女はにっこりと笑んで、手の中の徳利を傾けた。
「そなたに入れてもらう酒は美味い」
満足そうに酒を煽る青年の名は、金子泰清といった。
上野沼田城を北条氏から預かる武将で、美丈夫な青年。
女には困らぬであろう端正な顔立ち。
武道にも秀でているのか引きしまった体格をしているのが、着物の上からもよくわかる。
しかし泰清はこの数日、城下にある遊郭に通いつめていた。美貌を競う女たちは皆、泰清が遊郭を訪れると喜色に満ちた笑みを浮かべて夜を乞う。
泰清も満足げに女を買っては色に耽り、楽しんでいたのだが。
ある夜、泰清は物憂げに佇む緋雨を見つけた。美しく、儚く、色香に満ちた彼女から目が離せなくなった。
女は位の高い太夫ではなく、張見世で格子越しに男を誘う娼妓だったが、そのときの泰清には花魁か太夫のような品を感じた。
清楚であったが、通りから目を離せないほどに美しく、華がある。
「……緋雨、そろそろよいか」
泰清が猪口を食膳に戻すと、緋雨は頬を仄かに染めて頷いた。
その初々しさがたまらない。
泰清は緋雨の腰を抱き寄せた。
「あっ」と、彼女が徳利をこぼす悲鳴さえも聞こえぬふりで、艶やかな色をした寝具に縺れるように倒れこむ。
どうしようもないほどに、泰清は緋雨に溺れていた。
*
ある夜、廊下を歩きながら泰清は聞いた。緋雨に逢うために、座敷へ案内される道すがらだった。
「――楼主、緋雨を身請けするには、いかほど必要だ?」
楼主は泰清を振り返り、困ったように眉をさげた。
「金子さま、この遊郭には沼田の花街に名高い朝露太夫がおります。一城の御代さまが囲われるは、太夫こそ相応しいと存じますぞ。太夫ならば千両の身請け料になりますが」
泰清の身分はこのような遊郭でさえ、明らかなようだった。むしろ、沼田城を預かる身の上であるからこそ、早々に楼主の耳に入ったのかも知れなかったが。
「わたしが身請けしたいのは太夫ではない。毎夜通っている、緋雨というあの美しいおなごだ」
泰清が言うと、楼主は困ったようにただ首を横に振る。
「なりません。金子さまほどのお方なればこそ、水揚げはぜひ太夫を。金子さまを慕う娼妓は多くおりますが、金子さまは一度は太夫にも面通しされたではありませんか。それを無視して、身位の低い娼妓を先に片付けたとあれば、朝露太夫の面目も潰れましょう。どうか――」
泰清は黙りこんだ。
朝露太夫に面通ししたのは、まだ緋雨に出逢う前の頃だ。美しく、気位も高く、芸事にも秀でた太夫は、確かに自分のような身分の者が貰い受けてこそ、誇らしくもあるだろう。けれど、泰清が焦がれ、他に奪われるのを恐れるほどに惚れこんだおなごは、緋雨ひとりだった。
床板を乱暴に打ち鳴らし、楼主を待たず、通い慣れた座敷へ入っていく。
それを見遣る楼主は深々と頭を下げながら、そっとため息を吐いた。
*
登楼した泰清が潜り戸を抜けると、白い雛芥子を散らした打ち掛けを羽織った緋雨が優しげな表情で出迎えた。
泰清はちらりと部屋の中を見渡し、緋雨の側に腰をおろす。すぐに禿が食膳を運び入れるのを見つめながら、泰清は一度だけ訪れた朝露太夫の絢爛な室内を思いだしていた。
鮮やかな赤い壁、金の螺鈿細工、漆塗りの調度品に、絹の蒲団の傍らには高級和紙の竹を組んだ行灯。窓には色硝子が填められていて贅を尽くした美がそこにはあった。
一方で緋雨の部屋は、娼妓の持ち回りではないものの、質素な白壁、隅に寄せられた行李と箪笥。行灯の和紙は赤茶けていて、蒲団は薄絹で心地いいとはいえない代物。窓枠は木で、格子が嵌め込まれていて景観を損ねている。
「……泰清さまは、なにゆえそのように悩ましげなお顔でありんすか」
緋雨の言葉に、泰清ははっと我に返った。
「いや」
「わたしにお話しくだされば泰清さまのお心、晴れるやも――」
「気に致すな、仕事のことだ」
「さようでありんすか」
泰清は差し出された猪口を受けとって、緋雨の手酌を受ける。いつもと変わらないその日常に、安堵した。
箸を動かし、食を進めながら、眦のあがった緋雨の黒く煌めく瞳を見つめる。
「そなたも一献……」
緋雨のほっそりとした手の中に、猪口を握らせる。嬉しそうに受けとるのを見て、徳利を傾けた。
緋雨の白い喉が小さく動くのを見つめながら、問いかける。
「美味いか?」
「あい。泰清さまからの手酌なれば、格別に」
緋雨の言葉が、耳朶に染み入るあえかな声が、泰清を蕩けさせる。
*
「――泰清」
沼田城の渡り廊下を歩いていると、背後から呼び止める声があった。
声に覚えがあったので、泰清はすみやかに廊下の端に進み、頭を垂れる。
目の前に、縹色の着物を着た恰幅のいい年配の男が立っていた。同じ城代の猪俣邦憲だった。
「猪俣さま、おはようございまする」
挨拶を述べると、彼は含みありげな眼差しで泰清を見つめる。
なにか、仕事で不手際でもあっただろうかと、些か不安に感じていると、男は笑って泰清の肩を叩いた。
「泰清、その方、最近頻繁に城下におりているらしいな」
一瞬、泰清の背に冷たい汗が流れた。
「遊郭に通いつめていると」
「!」
そこまで知られているのかと、顔を青ざめさせた泰清は、しかし男が発した次の言葉に絶句した。
「朝露太夫にたいそう入れ込んでいるそうじゃないか。まあ、沼田一の太夫、落とせばたいした自慢にもなるわけだが」
「…………」
「泰清はまだ、正妻さえめとっておらぬ身、本来なら主家である沼田さまに良き縁を取り計らってもらい、正妻を迎えてから遊ぶのがよいのだがな」
「…………はぁ、面目ありません」
「はははっ! 遊び盛りゆえ致し方あるまいが、相手が太夫ではな。くれぐれも城を食い潰すような真似はしてくれるなよ!」
「それは、もちろん……」
豪快に笑う声が、城で働く者の耳に入らねばよいが、と慌てて渡り廊下を駆け抜ける。
自室に引きこもり、脱力したように座り込んでしまった。
泰清が懸想しているおなごは朝露太夫ではない。それなのに、噂ではそういうことになっている。
泰清にはわけがわからなかった。そして、不安が焦りを生む。
この噂が緋雨の耳に入れば、彼女は酷く傷つくのではないだろうかと。
自分が想うおなごは緋雨だけだと、信じてくれるだろうか。
身請けしたいほどに側に置きたいと思ったのは緋雨だけなのだと。
遊郭で暮らすには明るく、曇りのない黒い瞳、穢れを知らぬ無垢な仕草のひとつひとつに、小さな愛しさを感じるのだ。
娼妓にしては、あまりに澄んでいて。
その身がすでに男を知り、喜ばせる手管を持つ、そんな緋雨だから、娼妓に違いないのだろう。だが、ならばこそ、疑念がわく。――緋雨は本当に太夫ではないのか?
どうしても拭えない疑念がそこにある。期待といってもいいだろう。
緋雨に落としていく銭は、ただの娼妓にしては、高価すぎるのだ。朝露太夫には劣るものの、格子女や部屋持ち女の値段ではない。
太夫にかまけて城を潰す心配はないが、普通だと思っていた娼妓に潰されるのは、自分の屋敷だけではすまないのではないかと怯えた。
*
釣り行灯の赤い光に誘われるように、賑やかな花街を歩く。
いつもの遊郭に着くと、赤い格子の中に何人もの娼妓がいた。白い化粧の乗った色っぽい顔で、過ぎ行く男たちを手招いたり、煙管を差し出したりしている。相手は商人だったり、泰清のように腰に刀を差した侍だったりと、金を持っていそうな者であれば様々だ。
緋雨は、泰清が相手をするようになってから、この張見世には姿を見せていない。
泰清がそうさせないために、毎夜、通いつめるのだから当然なのだが。
やはり、今夜もその姿がないことに安堵して、中へ入っていった。
「今日も緋雨を頼む」
帳場の番頭と目が合うと、泰清は当然のように言った。
番頭は帳簿から目をあげて、客が泰清であることに気づくと、ためらう素振りを見せたあと、頭を帳簿に擦りつけた。
「申しわけありません、緋雨には今、客が入っておりまして」
「なに!?」
泰清は青ざめた。
「わたしが毎夜、緋雨に通っていることは、おぬしも知っていよう!?」
「はっ、それはもちろん」
「ならば、どうして他の客など!」
泰清の声は悲鳴に近かった。
恐れていたことが起きたのだ。自分がもっと早くに今日の仕事を切り上げていれば、他人に客を取らせるなどしなかった。
いつものように緋雨を愛で、ともに酒を楽しめたに違いないのに。
あのしっとりと吸いつくような肌を、他の誰かと重ねていることを思えば、目眩さえした。
「客をさがらせろ」
「金子さま!」
ぎょっとなったのは番頭だ。よりによって泰清は、番頭を押し退けて緋雨の部屋へ向かおうとしていたのだから。
「それは困ります、お待ちください! 金子さま! どうか――」
「黙れ! わたしが緋雨を身請けしたいほどに思い入れてることを知っていて、おぬしたちは!」
止めようとする番頭を振り払い、まっすぐに緋雨の元へ向かう。
番頭の悲鳴を聞きつけた楼主が飛んできて、行く手を塞いだ。
「金子さま、これは一体なんの真似でございますか」
「わたしは緋雨に逢いに――」
「緋雨は今、閨の中でございます」
きっぱりと告げた楼主の言葉に、泰清の顔が怒りに染まる。
「なぜ、緋雨に客を取らせた!」
「緋雨はうちの商品にありますれば」
当然のように告げられた一言に、泰清の理性の糸がふつりと切れた。
「ならば、緋雨を身請けする。今すぐだ。だから客を帰らせろ!」
泰清は言ったが、先日と同じく楼主は首を横に振る。
「緋雨はなりません、賤しき娼妓なれば。金子さまにはどうか、朝露太夫を水揚げしていただきたく」
なぜだ。なぜそれほどに緋雨だと反対されるのか。
「……ならば、太夫を身請けいたせば、ともに緋雨も身請けさせてもらえるか?」
正妻もまだおらぬのに、遊女ふたりを囲うなど正気の沙汰とは思えない。
あまりに馬鹿げた質問だ。けれど、泰清はどうしても緋雨を手に入れたかった。
だが、泰清の懇願すら楼主は拒んだ。
「緋雨は駄目でございます」
わけがわからず泰清は立ちすくんだ。
なぜ、駄目なのか。自分が欲しいのはあの娘。他にはないというのに。
ふと足元に違和を感じて、泰清は目線を落とした。濃紺の袴の裾を紅葉のように小さな手が掴んでいた。
禿だった。見渡すと、部屋の潜り戸を細く開けてこちらを見ている数人の娼妓の姿。
皆、騒ぎを聞きつけて何事かと耳をそばだてていたのだろう。その目は好奇心で輝いている。
泰清は舌打ちしたくなった。
怒りのままに歩き出そうとすると、またも裾を引っ張られる。
そうだ、禿。その存在を思い出す。
可愛らしい装いの少女は、泰清を見あげると愛嬌のある笑みを浮かべて問うてきた。
「緋雨姉さまのところへ行く?」
泰清は頷きたかった。急ぎ、緋雨に逢いたかった。自分の醜い嫉妬心をぶちまけてでも、緋雨を身請けしたいと告げて、愛しいその身体を抱きしめたかった。
けれど、首を横に振る。愛らしい禿を目にして、泰清は次第に冷静さを取り戻していた。
今、部屋に乱入して困るのは緋雨なのだ。
緋雨の曇る表情を見たくない。今宵の客を気遣って、寄り添う姿を見たくない。
落胆のため息の代わりに、泰清の目から涙がこぼれた。
*
緋雨は客のいない室内にひとり座り、その喧騒に耳を傾けていた。
自分を身請けしたいと言ってくれた。――あの人が。
優しい笑みを浮かべて酒を飲む、彼の姿が好きだった。閨の中でかき抱く腕は力強く、その抱擁に幾度満たされたことだろう。
しんと静まり返った遊郭の状態に、張り詰めていた緊張をほどくように、緋雨はそっと目を開けた。
「……泰清さまは、お帰りになったのじゃな」
名残惜しいと思う。楼主が泰清に緋雨を逢わせないということは、未だ迷いがあるからなのだろう。
「なれど、いまさらどうにもならぬ」
緋雨は硝子玉のような黒い瞳を窓に向ける。格子に遮られたこの部屋に閉じこめられて、どれほどの月日が経っただろう。
格子を掴み、外を眺めると、名残惜しそうに泰清が遊郭を出ていくのが見えた。
「泰清さま」
緋雨はあえかに呼びかけたが、その声は届いてはいない。去っていく、気の落ち込めた泰清の背を見送って、彼と擦れ違う笠を被った男に目を止めた。
腰に刀は差していないから、侍ではない。といって、商人にしてはその気配は不穏すぎた。男は含みありげに泰清の背を見、再び前を向くと顔をあげた。
「――――……」
鋭いその眼差しと、目が合う――。
黒い着物が店先に近づいて、止まった。
*
「――緋雨の邪魔をしたな?」
黒麻の着物に身を包んだ男は言った。玄関口に正座して、平身低頭で詫びるのは遊郭の主人。
「申しわけありません。ですが、やはり城代さまを罠にかけるような恐ろしい真似、わたしには――」
「金が足りぬか? ならばいくらでも出そう。おまえの決断で沼田城下が焼け落ちるのを回避できるのだ、安いものだろう?」
隙のない男の言葉に、楼主は手に汗をかいて頷く。
「は、はい、ですが――」
なおも抵抗を見せる楼主に、男は囁くように言った。
「金子泰清が太夫に入れあげているなどと、くだらぬ噂を流すな。あの男を緋雨に逢わせろ」
「ですが、真田さま――」
思わず名をあげた楼主を睨み、男は端的に告げる。
「次が最後だ」
「は、はいっ……!」
楼主は目で射殺されるのを恐れるように、床に頭を擦りつける。
ごくりと唾を飲み込み、そろそろと顔をあげると、すでにその姿はなかった。
腰が抜けたように屋敷の中を振り返る。
青ざめたまま動かない楼主を、廊下の中ほどに立ち尽くす緋雨がじっと見ていた。
客をもてなすときのような柔らかさは、そこにない。鋭い切れ味を持つ刃物のような目が、楼主を見ていた。
思わず、ひっと漏れた悲鳴を聞きとって、緋雨は笑った。艶やかに――。
「楼主どの、真田家がため、よく働いてくだされた。いましばらく、協力お頼みしますわぇ。……沼田城が真田のものとなる日まで」
微笑む緋雨は、格子に閉じ込められた弱々しい娼妓などに見えない。したたかでいて、妖艶な毒を持つ花。
「明晩、泰清さまを殺すわぇ」
凛とした言葉を残し、緋雨は部屋に戻っていった。
自分は取り返しのつかないことをしているのではないだろうか――楼主は思ったが、時はすでに遅すぎた。
*
泰清は遊郭への道を急いでいた。
今宵は緋雨に逢えるだろうか。あの美しいおなごに笑んでもらえるだろうか。
泰清は決めていた。もしも、今宵彼女に逢えたなら、あふれるようなこの想いを伝えようと。
緋雨を愛していると。
側にいてほしいと。
いくらでもかまわない、身請けしたいと。
――傾城という言葉がある。傾倒のあまり、一城を傾けるほどの財を注ぎ入れてしまう女性。
泰清にとって、それは緋雨だ。
なによりも手に入れたい。苦しいほどの独占欲。
遊郭に入ると、緊張した面持ちで楼主が出迎えた。
今日も駄目なのか。一瞬落胆したが、楼主はかたい面持ちのまま、泰清の刀を預かった。
「……緋雨が待ち焦がれております」
楼主の言葉に、ぱっと顔をあげた。
泰清は強ばったままの表情の楼主を訝しむこともせず、緋雨の部屋に向けて歩きだした。
緋雨のいじらしさを思わせる言づけに浮かれていた。彼がなぜ、かたく表情を強ばらせているのか。なぜ、緋雨に逢わせてくれるよう心変わりしたのか。それらは泰清にとって、どうでもいいことだ。
暗い顔で見送る楼主を振り返りもせず、潜り戸を開ける。
はたして――緋雨は緋色の曼珠沙華を咲かせた艶やかな打ち掛けを纏い、泰清を迎えると嬉しそうに微笑みかけた。
酒を注ぐ緋雨の細い指を見つめる。ひらひらと蝶のような動きを見せるその指先を物珍しそうに眺め、泰清は呟いた。
「綺麗な指だな」
「わたしの?」
「そう、そなたの」
言って、その手を引き寄せる。唇を寄せて、おそるおそる問うた。
「……緋雨、わたしが身請けしたいと願えば、そなたは頷いてくれようか?」
「…………」
返事がもらえないことに不安になる。
「張見世で初めて目にしたときから、わたしの心はそなたのもの。緋雨の笑顔が愛しい、ずっと見ていたい」
「――――……」
「わたしの伴侶になってくれないだろうか。そなたが望むなら、正式なわたしの妻に――」
泰清が言いつのると、緋雨は驚きに目を見開き、かたまっている。突然すぎたかと苦笑して、泰清は優しく緋雨の頬を撫でた。
触れるとなおさら愛しさがつのる。
「緋雨、愛している……」
抑えきれない想いで、傾城の花を包む。緋雨はわずかにみじろいだあと、そっと泰清の背に腕をまわした。
「嬉しい……」
緋雨のあえかな声が耳朶を打つ。泰清は喜びを噛みしめた。
手に入れたのだ、なによりも欲した愛しい人を。
緋雨が甘えるように寝具へ誘った。恥じらいと色香に酔いながら、泰清は緋雨をかき抱く。
緋雨が笑んだ。美しく、斬れるような眼差しにきらりと光るものが映る。
「泰清さま、愛しております。……ゆえに先に地獄でお待ちくだされ」
緋雨の凛とした声が、胸に刺すような痛みをもたらした。
寄せた唇から血がこぼれる。
なぜ――と疑問を抱く間もなく泰清は絶命した。
仄かに揺れる行灯の光、それが血飛沫に染まって影を作った――。
*
「――終わったか?」
男の問いかけに、緋雨は仄かに笑って頷いた。
「つつがなく」
「ご苦労だった。では、あとは昌幸さま次第」
男は以前、遊郭で目にしたような黒い着物姿。一方の緋雨は、艶やかな打ち掛けを捨て去って、こざっぱりとした小袖を身につけていた。
「殿は沼田を攻めるかの?」
「それは早計だ。もうひとり城代がいるしな」
「ならばもう一度、あの遊郭を利用なされるか?」
「同じ手を二度続けるは危険だ。残りひとりは俺がやる。暗殺は戦忍びの得意とするところ、すぐに片付く」
「真田忍びの長自ら――それが済めば開戦?」
「ああ、その頃には沼田の兵の士気も下がっていよう。――一度、岩櫃城へ戻る、緋雨も来い」
男は笠を被り、踵を返す。緋雨もそれに付き従いながら、ふと呟いた。
「……愛している」
「なんだ?」
怪訝な顔をする男に、緋雨は続けた。
「泰清さまが、わたしを愛していると申された」
「……」
「嬉しかったわぇ」
嬉々とした表情を浮かべる緋雨を、男は感情の欠片もなく見ている。
緋雨の恋はいつもその場限りの儚いもの。今回もくの一として、仕える真田家のため、沼田城調略に一役買っただけ。偽りに満ちた恋に過ぎなかった。
男は沼田城下の遊郭に城代の金子泰清が出入りしていることを調べあげ、緋雨はその泰清を籠絡せんと、すでに真田の手に落ちた遊郭に、娼妓としてもぐり込んだ。
かくして泰清は緋雨の手にかかり、真田家の沼田城攻めは楽なものになった。
けれど、緋雨は微笑む。 愛されて嬉しいと。抱きしめられたそのぬくもりを想い出すように、指先を夜空に舞わせる。
蓮華躑躅の咲く小袖の薙口から飛び立つは、一匹の蝶。ひらひら、ひらひらと掴みどころのない動き。
それを慈しむように見つめていた、あの人の愛しい眼差し。
それが手の届かない場所へと旅立ってしまったことを寂しく思う。
「待っていてくだされ」
緋雨は微笑みを浮かべたまま呟く。
「いつか、きっと……。わたしも地獄へ参りますゆえ」
緋雨は愛しい人が口づけた指をそっと握りしめて囁く。そして男の背を追った。
蝶のように軽やかな足取りで。花のように甘い血の香りを残して――。
―おわり―
お読みいただき、ありがとうございました。皆様の反応次第では、これからも短編落選作をUPしたいです。