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シャナと花のバラッド  作者: 藤和葵
第一章・彼方にて
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04.空飛ぶ引越し

 

 空は快晴。

 市場もいつも通りの売り子の呼び声と、それに答える客の声で賑わっている。それなのに町の中に漂う違和感を雛菊は肌に感じた。


「……?」


 誰かの視線が自分の背中に注がれているような気がして振り返る。けれど買い物で賑わう人ごみの中、視線の送り主の特定には至らなかった。そもそも本当に自分が注視されていたかなど確証もない。


「……この格好だからかなぁ」


 これでも隠しているのだがと、雛菊は外套を掛け直す。

 登校中に異世界……ラキーアにやって来た雛菊には、身に着けているものが高校のセーラー服しかない。

 此処での生活も十日あまりになると、流石に下着類は購入して確保はしている。だが他の服やドレスまでには満足な数は揃っていない。シャナの大きめのローブを借りたりするがそれでは家事仕事がやり辛い。だからこうして外套を着てセーラー服で町まで赴くのだが、やはり異なる服装は少なからず人目を引いてしまう。あと、今日のような陽気だと少し暑い。

 これまでにも幾人かに服装について問われた雛菊は、注目を浴びるのも仕方がないと諦め、気持ちを切り替えて声を張った。


「オバチャンこんにちはー」

「あら! 島のお嬢ちゃん、今日もご贔屓ありがとうー。何が入り用だい?」


 赤いストライプのテントの下、日に焼けた赤い頬を満面に持ち上げ、恰幅のいい中年女性が一際大きな声を腹の底から出した。


「その人参みたいなのとジャガイモみたいなのと玉葱みたいなの、一袋ずつちょうだい」

「あいよ。カロとタムとニョキが一袋ずつだね」


 雛菊は指差す野菜をテキパキと取って、それらを麻の袋に女将は包む。


「どうだい、島のお嬢ちゃん。こっちには慣れたかい?」

「まだちょっと……。食べ物の名前とか私の地元と違うしね。字もまだ読めないから他の買い物も難しいんですよねー。でも今日は思い切って服も買っちゃおうかなって」

「ニンジン・ジャガイモ・タマネギだっけ? まあ、外の島から来たんじゃ仕方ないさね。その変わった服もアンタの故郷の衣装なんだし、気にするこたぁないよ。ここは交易も盛んだからお嬢ちゃんみたいに珍しい服も多いんだ。ま、お嬢ちゃんのは初めて見るけどね」


 品物とお金をそれぞれ引換えに言葉を交わす。

 この八百屋の女将には、雛菊は地方の島から来た少女と認識がされている。買い物の仕方、品物の名前、服装において異なる雛菊を見て、女将は雛菊を大陸外の“島の娘”だと思い込んでしまったからだ。雛菊の方も「異世界から来た」とは説明も出来ないのでそのまま島の娘で通しているが。


「それにしても、これからが心配ねぇ」

「え?」


 何が大変なのだろうと雛菊が首を傾げると、女将が声を潜めてにじり寄る。


「おや、アンタは知らないかい? どうやらこの町に高名な精霊師ウィッカ様が現れたらしくてね。城の使いが迎えに来てるってんだよ」

「ウィッカ……」


 確か、シャナから最初の日にその名を聞いたことを思い出す。

 精霊師か否か。そう問われた。

 正直、雛菊には精霊師がどのような存在かは具体的には分からない。“魔法使い”みたいなもの。その程度の認識である。


「でも、なにが心配なんですか?」

「……アンタの島に精霊師様はいなかったのかい?」


 頷く雛菊を半ば呆れた目で見て、女将はあのねぇと太い赤ぎれた人差し指を立てた。


「高名な精霊師様を城に呼ぶってのは、大概戦争が始まるのさ。アンタの島では平和だったかもしんないけど、十年前までは何年もけっこうドンパチやってたのさ。なーんでもこの国の資源がどうたら、国境がどうたらとか。何が理由だったか、いっぱいあってどれが本当の理由か分かんないんだけどさ。そういや、突然に休戦になったのもなんでだっけねぇ」


 お偉いさんらの考えるこたぁ、学のないおばさんにゃ理解出来ないからねぇと、女将は頭を掻く。


「でも、戦争がないのはいいことさ。うちの国は徴兵制度はないけど、王国騎士団は男の花形職業だからって若いのが飛び出たもんだからね。それでもただの兵士より、でっかい力を使う精霊師様は貴重な戦力だ。特に強い精霊師様は天変地異を起こせるらしいよ。戦時中はあちこちの精霊師への召集がかかったり、敵国のやつらに襲撃されたりもあったんだよ」


 また戦争が始まるのかねぇ。

 力なくぼやいて肩を落とす女将に、雛菊はかける言葉が見付からなかった。

 女将の話を胸に、雛菊はぐるりと視線を周囲に這わす。

 子供連れの母親。家族の為に働く父親。

 優しい笑顔達。この笑顔も戦争で歪んでしまうのだろうか。

 色々な人が色々な物語を紡ぐ中、ふと雛菊はこの人だかりの中で奇妙な人影と目が合った。

 頭からすっぽりとフード付きのマントを羽織り身なりを隠してはいるが、澄んだ紫色の瞳がじっとこちらを睨んでいる。

 男か女か区別はつかないが、小柄な影で、雛菊が近付こうとするとさっと人ごみに紛れて見失ってしまった。


(見られてた?)

「どうかしたかい?」


 訝しむ雛菊の様子に怪訝そうに女将が声をかける。雛菊はすぐに笑顔で取り繕い、なんでもないと品物を抱えると店から離れた。

 少しでもこの場所から離れたかった。

 紫の目の人物が気になる。雛菊の服装が人目を引くにしても、外套を上から来て人ごみに入ったらそんな細かいところは見えないはずだ。ただ目が合ったとは考えにくい。しかし警戒する必要もあるのか思いとどまるところが、雛菊が平和な世界で生きた証なのだろう。けれど不安が拭いきれないまま、長居する気にもなれなかった。


(こっちの衣装はまた今度にしよう)


 嫌な予感がする。こちらを深いあなぐらからじっと見つめるような紫色の目が怖かった。

 見つかってしまった。そう思った。

 同時に、捕まってはいけない雛菊は全身に緊張を走らせる。どうしてそう思ったか根拠はないけれど、抗う気にはならない。

 まるで迫り来る恐怖から逃れるように、雛菊はこっそりと町の路地裏から家路に着いた。


 ガサガサと葉と葉に体をこすられながら森の中を走り抜ける。突き出た枝が腕をこするが大した痛みではない。とにかく町から早く離れようと走る。そして、勾配の中腹に差し掛かったところで徐々に速度を緩めて立ち止まった。


「はあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……」


 深く呼吸をして、雛菊は木陰に身を潜め、高台から町の様子を窺った。外に出て、露天商のところで感じた不吉な視線や気配は感じなくなったが、油断は出来ない。

 抱えていた両手一杯の買い物袋の重さに耐えきれず、荷物を足元に置いて体を休める。

 まだ呼吸が荒い。荷物を持って坂道を走ったので足も腰もだるい。

 人心地つくと屈伸をして伸びをする。体力は平均並だが、まるで逃げるように警戒しながら二人分の食料を抱えて野路を走るのは辛いものがあった。


「……此処まで来たら大丈夫だよね」


 追われていたわけではない。けれど雛菊は今来たばかりの道をもう一度振り返り、見つめる。

 それにしても雑草が目立つ、整備されていない砂利の転がる小道。山のように勾配のある獣道だ。

 今、雛菊が立つ場所から買い物に行った町が小さく視界に映る。此処から町を見下ろす度、雛菊は自分で自分を褒めたくなった。片道およそ四十分、往復一時間以上のこの小道を雛菊は買い物の度に歩いているのだ。ただの小道であれば往復一時間なんてものは苦でもない。

 振り返った町は雛菊の下にあり、これから帰る目的地は……。

 雛菊は町とは反対にある道を見る。

 今いる場所から、町の距離と同じくらいの距離を持つ道を、遠く見上げる。帰る場所は雛菊から見て上にあった。

 自然と溜息が零れる。雛菊は再び麻の買い物袋を抱き上げ、一歩踏み出す。

 とにかく急いで帰らなきゃ。

 町で感じた不安が雛菊を駆り立てた。

 雛菊が住む家は人里離れた森の中。何から逃げているのか、鬱蒼と茂る山路に生えた申し訳なさそうな獣道をまた一歩踏み締めて何度目かの溜息。


「……戦争、かあ」


 探し求められている精霊師を思い、雛菊は呟く。

 精霊師の力がどのようなものなのかはよく分からない。だけど、どんな力だって人を殺す道具に扱われたくはない筈なのに。

 そう思うのは、雛菊が戦争を知らないからなのだろうか。

 ほんの数日前だとテスト期間を戦争のように思ってもいたが、いざ身近でそんなきな臭い話を聞くとつい考えてしまうのだ。

 もし、探されている高名な精霊師が戦争が嫌で逃げているなら無事に逃げてもらいたい、と。


「……何処の世界でも、人は死んで欲しくないもんね」


 もしかして私が精霊師と間違われて追われているのだろうか。

 ふと思いついて、この珍しい服装が悪いのかもと考える。もしかしたら以前から目をつけられていらのかもしれない。

 町から離れた安堵感から、色々あれこれ想像しながら道中を進む。時折深く呼吸を繰り返し体力を温存させて歩けば、やっと見えてきた赤い屋根の家に向かって雛菊は足を早める。

 彼女の背中には小さくなった町が、紙吹雪の様な色の粒となり、喧騒を静めていた。




 * * * * *


「ーー遅い。買い物に出て何時間経っていると思ってるんだ。お茶も冷めた。新しいのを早く淹れてよ」

「…………」


 やっとの思いで家に着いたというのに、雛菊を迎えたのは心無い言葉だった。

 テーブル上に足を投げ出し、椅子を後ろに傾け腰掛ける態度のデカい家主。あげくに睨むなんてあんまりだと思うが、言い返す気力がない。労いの言葉くらい欲しいが、好きで勝手にやっているので催促も出来ないと、雛菊は無言でテーブルに荷物を置いたら暑かった外套を脱ぐ。彼は気にすることなく、読んでいた本に視線を戻した。

 赤い瞳に、寝癖をそのままにした無造作な黒い髪。雛菊を“間違い”でこの世に召喚した張本人シャナは、悠然と読書に勤しむ。雛菊が難儀にも町まで買い物の往復をしている間、彼は紅茶片手にずっとこうしてゆったりと寛いでいたのだ。

 子供のやることだからと目を瞑りたいが、今日は少し苛っとした。町で受けたストレスが尾を引いている。そのことについて話したいのに、本を読んでいるシャナは外部の音に極端に鈍くなるので言い出すのも迷った。

 それにしてもと、雛菊はシャナが読んでいる本を見る。革に金の箔押しの変わった装丁に見覚えがあり、あれは先日初めて町に降りた際に買った本の内の一冊だ。しかし、その日は持ち帰らなかった筈の本で、その後シャナが引取りにも行かず、配達が来た気配もない。誰か来たなら町からこの家までの道は獣道一本で雛菊でも気付ける。

 それについても詳しく聞きたいという好奇心。それを除いても聞きたいことは山程ある。だが文句も言いたい。


 おかえりくらい言えっての。

 配達サービスがあるなら食材もそんな手配しろ。

 足を机に投げ出さない。

 お茶が冷めた? 猫舌で熱いお茶なんか飲めないくせに。

 早く帰って来いと言うくらいなら、町に近い場所に住め。

 だいたい子供が一人でどうやって生活してたの。家族はどうしてる。


 敢えて口にはしない。行儀についてはともかく、家族については広いこの家に子供一人が暮らすなんてどんな経緯にしろ、事情があると思うからだ。

 例えば戦争で離れ離れになったとか。

 そう考えて、八百屋の女将の話を思い出す。この世界は十年前にも戦争があって、まだ歴史の話ではないのだ。しかも、それがまた起こるのかもしれないという噂だ。


「……戦争が起きるとどうなっちゃうんだろう……」

「戦争がなんだって?」


 独り言のつもりが声に出ていたらしい。気になる言葉だけ聞き取る都合のいい聴力なのか、シャナは読みかけの本から視線を外して雛菊を見た。


「町で妙な話でも吹き込まれたかい?」


 口調は穏やかだが、どこか冷めた目が探りを入れる。雛菊はその視線に居心地が悪いと思いつつも、女将から聞いた話をたどたどしく説明していく。


「だからね、高名なウィッカ……っていうの? が、あの町に来てたみたいで、そのウィッカを呼びにお城の使いが探しているんだって。だから、近々戦争が起こるんじゃないかって話を聞いたんだよ」

「そう……ほかに何かなかった?」


 雛菊の話に耳を傾けていたシャナは、眉間に険しい皺を寄せるとついに読んでいた分厚い本を閉じた。雛菊はほかと言われて思い当たる節がなくはないが、シャナがあまりに深刻な顔をするので、それが自分の勘違いだった場合を考えるとつい躊躇ってしまう。


「あるんだね」


 口にする前に悩む顔で筒抜けらしい。促すシャナに、隠す必要もないと観念した雛菊は「多分」「もしかしたら勘違いかも知れないけど」と不確定要素を強調して話した。確かに不穏さを感じて逃げ出しはしたが、おおごとにされるのも忍びない。


「ちょっと不穏な話のあとで神経過敏になってただけかもしれないんだけどね」


 ダメ押しの一言を加えるが、シャナは聞かずに席を立つ。どうしたのか見守っていると、シャナは自室から集めの外套を着ていた。


「ーー出かける用意をして」

「はい?」


 それは、雛菊が初めて聞いたシャナの外出への能動的な言葉だった。


「出かけるって、何処に行くの?」


 あの超出無精の少年が何処へ向かうと言うのか。雛菊は目をパチパチと何度も瞬かせる。


「……何をグズグズしてるんだ」


 この前とは逆の光景に戸惑いながら、雛菊も脱いだばかりの外套を取り敢えず手に取った。


「ほら早く」


 催促され、雛菊は渋々と後に続いて外に出る。


「引越すよ」

「はいっ⁉︎」


 寝耳に水の発言だ。雛菊の反応はもっともで、声が裏返るのも顔が変に歪むのも仕方がなく、納得がいかないのも当然だ。彼は今初めて突然に引越しの旨を伝えたのだから。


「ひ、引越しって荷造りはどうするのさ!」


 今の雛菊は買い物に行く時の外套を身に纏っただけ。財布も買い物袋と一緒にテーブルの上である。


「だ、だいたい次に住む場所は決めてるの? まさか歩いて今から引越し? これから夕飯作りに入らなきゃだよ? それに次住む家とか……」

「煩いなぁ」


 一気に捲し立てる雛菊を一瞥し、シャナは雛菊の背後に回ると不意にしゃがみこんだ。


「ーー荷造りはこれでいい」


 シャナが屈んで手に取った物。


「……なに、それ」


 シャナが持つ物に指を差し、声を震わせ尋ねる。

 一体いつ持ち出したのか、とても見覚えのある赤い屋根の家の精巧なミニチュア模型がシャナの手の中にあった。


「……。嘘でしょ……」


 視線をシャナの小さな手の中から彼の背後に移すと、とんでもない光景を前に雛菊は唖然とする。

 今しがたまでそこにあった玄関ポーチが、それどころか家そのもが消え失せ、不自然に草の生えていない土が剥き出しの空き地がぽっかり広がっていたのだ。

 赤い屋根の家など何処にもない。まさかとは思うが、それ全てがシャナの手中にある物なのだろうか。さっきの買い物の品まで全て今はシャナの手の中。あのミニチュアの家の中だ。


「あとは……」


 シャナは家の模型を無造作にポケットに詰め込んで、家の跡地の外周を眺めて歩く。


「シャ、シャナ?」


 家をそんな風に雑に扱っていいの?

 不安とパニックで狼狽える雛菊をシャナは気にも止めない。時折空を見上げてはなにかを伺っている。

 これから何か始めるのだろうか。

 たぶん今のは魔法だ。初めて見る魔法に、今頃雛菊の胸が高鳴る。

 シャナがどうしようもない怠け者だから忘れ掛けていたが、雛菊をこの世界に呼び出したのはシャナなのだ。シャナには雛菊の世界じゃ測れない不思議な力があるということを失念していた。


「……シャナはウィッカなの?」


 シャナの力が精霊師の力なのかは分からない。けれど、タイミング的に町の噂とシャナを引き離して考える事が出来なかった。


「シャナが町で噂の“城の使いが探している高名なウィッカ様”?」

「“高名”というか“悪名”だけどね」


 とても十歳とちょっとぐらいの少年が見せるとは思えないシニカルな笑みを浮かべ、シャナは空に向かって輪を作った指を吹き鳴らした。天を突き抜けるような高い音が響く。

 はじめは何も起きなかった。シャナも一度指笛を吹いただけであとは何もしない。近くの木の幹に背を預けて何かを待つようだった。雛菊は手持ち無沙汰にうろうろと動き回る。シャナに話しかけたいが、彼は目を瞑り、外界を閉ざしているようなポーズなので声もかけにくい。

 コミュニケーション力がいまいち欠けているのだと、不服をあらわに一つ物申そうかと雛菊が口を開いた瞬間、空気が震えた。鼓膜が震え、耳の奥が痛む。耳鳴りに顔を歪ませて雛菊はシャナの方を咄嗟に見やった。慣れているのか平然としたシャナが空を仰ぎ見るので続いて雛菊も真似る。

 これは……。

 捲れ上がるスカートを押さえ、雛菊は飛び散る砂埃に目を細めた。

 強すぎる風だが、抵抗出来ない程でもない。雛菊は一歩踏み出し、シャナに近付く。シャナが遠くの空を見ているので雛菊も追って見つめた。

 うねる風が強さを増す。強い風が生まれる。強風に吹き込まれ、叩きつけられた大地が唸る。枝が踊り、木々がしなった。

 突然発生した竜巻に雛菊は悲鳴を上げる。シャナが余裕の顔でいるのが不可思議でならないが、巻き上がるスカートを抑えるのに必死で雛菊に余裕などない。背中に流したロングヘアがばたばたと仰がれて鬱陶しい。おまけにシャナの視線の先には何も見えない。明らかにおかしい風なのに、平然としているシャナの思惑が分からない。

 不安も覚えてもう一度シャナに呼びかけようとすると、風音に混じって別の音が聞こえた。

 シャナの指笛に似た甲高い音、鳴き声。物と物とが接触するような衝撃音。規格外の大きさだが、聞き覚えのあるこの音は羽音だ。

 鳥の羽ばたき。しかし鳥の姿を捉える前に雛菊は目を固く閉じ、息を止めた。

 砂嵐だ。

 突風に巻き上げられた砂塵が雛菊の足を叩きながら渦を巻く。

 暫しそれに耐え、凪いだ時、ゆっくりと瞼を開いた。そして風を生んだモノを見上げ、息を飲んだ。


「ーーおっ……きい…………」


 そこに現れたのは、西日を浴びて朱色帯びる純白の巨大な鳥だった。




 全長何メートルあるであろう巨大な鳥が、シャナの目の前に降り立った。象より一回りは大きい鳥が翼を閉じるだけで、雛菊のスカートの裾は持ち上げられる。

 風を生む鳥。白鳥のようにしなやかに長い首だが、嘴は鶏のような比率でそう大きくはない。それでも頭ひとつは飲み込める大きな口に、雛菊は怖じけて後ろに下がる。


「やあシルフィー、今回も頼むよ」


 未だかつて見たこともない規格外の鳥に気色ばむ雛菊をよそに、シャナは見たことのない柔らかい笑みを浮かべ手を延ばす。


「よしよし」


 シルフィーと呼ばれた鳥は伸ばされた掌に自ら首を寄せ、気持良さそうに撫でられる。甘えた声で喉を鳴らす音が、雛菊の腹の底にまで響いた。

 余程シャナに心を許しているのだろう。愛しげに翼でシャナを包むと、シルフィーは己の背に手ずから乗せた。


「シャナ、この子は一体なんなの?」


 いつも以上に声を張って尋ねると、シャナも今日に限ってすんなりと答える。


「風の精霊シルフの使者だよ。彼女に乗って引越すんだ」

「女の子なんだ。それになんともファンタジーだね」


 白無垢の、まるで粉雪を被せたような美しい鳥を見上げ、雛菊は感嘆する。


「……綺麗」

「シルフ自慢の使いだからね」


 シャナによく懐くシルフィーに怖さも薄れ、その姿に見惚れていると、自分を見下ろしていたシャナの視線に気付いた。


「ヒナギク……僕は君に話していないことが沢山ある。正直、話していいのかも分からない。精霊師すら君は知らなかったし、そもそも僕の誤りで此処にいるわけだし」

「ーーうん」


 白い鳥の背に乗る赤い目の少年を見上げ、雛菊は頷く。


「とりあえず、今の君に分かるように簡単に言うと、僕は精霊師で、故あって追われている身だ」

「そうなんだ」

「驚かないの?」


 落ち着いている雛菊に、シャナは意外な様子で目を丸くした。


「だって、実感ないもん。シャナなみたいな子供が追われてるとかさ、悪名だとか全然ピンと来ない」

「初めて君が来た時もそんな風に冷静だったね」


 苦笑にも似たシャナの小さな笑みに、雛菊は頬を掻く。冷静というより興奮していたと思うのだが、少年には顔色を変えずに聞く雛菊が珍しいようだ。


「僕は追われているんだよ? 僕の側にいれば君を危険に巻き込むかも知れない。だけど僕は君を元の世界に返す義務が一応ある。どうする? それでも僕と逃げるかい、ヒナギク」


 探る視線。そして、まるで雛菊に選ばせるように手を差し出す。

 このまま手を取り、逃亡の道を選ぶか、安全かもしれないが一人の道を選ぶか。

 そもそもが選択肢は雛菊にはないようなものなのに、この少年はわかっているのだろうか。雛菊は受けて立つように真っ直ぐ赤い瞳を見つめ返す。


「考える必要はないよ」


 満面の笑みで雛菊はシャナの左手を握り締めた。


「言わなかった? 私は君に会いに来たんだよ」

「うん。聞いた」


 つられてシャナも少しだけはにかみ、雛菊をシルフィーの上へと引っ張り上げた。


「ふわあー」


 馬にすら乗ったことがない雛菊の乗鳥。普段とは違う高い視点に、これから逃亡すると言うのも忘れて見入ってしまう。


「ヒナギク、空の移動は危ないから」

「うっ?」


 身を乗り出す雛菊の体をシャナに引き寄せられた。


「へ?」


 間抜けな声を出したのは、すぐ隣りにシャナがいたからではなく、シャナが密着して固定するように左手で雛菊の腰を抱いたからだ。


「……シャナ?」

「なんだい?」


 他意はないにせよ、相手がまだ子供にせよ異性に腰を抱かれて戸惑う雛菊に、シャナは訝しげに見つめる。


「ううん……何でもなーーあで!」


 何でもないと答えようとして、即頭部に鈍い痛みが走る。


「うぅ~なにぃ?」


 視線を変えると、長い首を曲げてこちらを振り向き、鼻息荒く雛菊を睨むシルフィーと目が合った。どうやら彼女の嘴で突つかれたらしい。


「シルフィー、仕方ないんだから許してよ」


 雛菊が痛みに頭を擦っていると、シャナが宥めるようにシルフィーの長い首を撫でている。


「シルフィーは気難しいからね、君を背に乗せるのに抵抗があるらしい」

「……ヤキモチじゃないかな」


 雛菊をじっと睨むシルフィーの視線からは女だけに伝わるものを感じ、ボソリと呟いた。


「そうかい、飛んでくれるんだねシルフィー」


 一人と一羽にしか分からない言葉を交わし、シャナは蜜色の彼女の嘴に額を擦り親愛を見せる。きっと、雛菊が同じことをしようにも彼女は受け入れないだろう。シャナだけに許された行為を眺めていた。とても絵になる光景だ。


「じゃあ、行こうか」


 シャナの一声でシルフィーは大きな翼を広げ、砂を巻き上げて大地に暫しの別れを告げた。


「う……わぁ……」


 雛菊は歓声を上げる。

 真下は森林の緑の絨毯。森の向こうにある町からはぽつぽつ明りが灯り始めている。広い世界が小さく見えた。否、大きく見えるのか。自分が小さくなったのかとさえ錯覚してしまう。

 大気を切って風が生まれる。雲が間近で横を流れる。

 これは白昼夢であろうか。

 何処までも視界を埋める広大な大地。天まで聳えるビルなんて一つもない。暮れ泥む朱色の空と大地と森。ありふれた言葉を使うならそれは絶景。まるで夢でも見ているような幻想的な光景だ。


「ーー……さむっ」


 けれどこの景色が夢ではないことを体は教えてくれる。空を直に飛べば、薄手のセーラー服と外套だけでは寒過ぎるのだ。景観を楽しむのも束の間、雛菊は歯をカチカチと鳴らして身震いする。


「さーぶーいー‼︎」


 寒い寒いと連呼してさっきまでの情緒なんて知ったことではない。


「……はい」


 すっと渡されたのはシャナの質素な黒いマント。


「煩いからこれ着て温まればいい」


 まだ温もりの残るマントにはシャナの匂いが移っている。よく飲んでいるお茶の匂いと薬のような匂いだ。


「ありがとう」

「別に。煩いから黙っていて欲しいだけだよ」


 ぶっきらぼうな言葉だが、伝わる優しさがシャナらしくて嬉しい。そんな中、二人を乗せるシルフィーが「ギャア」と一言ジェラシーに火を付けた。




 * * * * *


 空の旅はあまり長いものではなかった。

 着いたのは沿岸部に面する大きな港町の近くの森だった。西日を正面に受ける海岸付近だ。気候とか周りの景色の色合いから、温暖地域のアーシェガルド国ではないかと、雛菊はうろ覚えのラキーアの地図を記憶から引っ張り出して検討付ける。それでも俄仕込みの知識に確証はない。

 シルフィーが着地した場所は、森の中でポッカリと口を開けたような広場の中だった。丸太木を簡単に積み上げたようなみすぼらしい森小屋が建っているが、人が住んでいる気配はない。しなし使えそうな井戸があり、なんとか生活出来そうな状態ではある。シャナはシルフィーの背から飛び降りるので雛菊もあとに続く。乗員すべての下車を確認するように背中の毛繕いをすると、シルフィーはシャナに一声鳴いた。


「ありがとう。また困ったときは君の力を貸してくれ」


 シルフィーは名残惜しそうにシャナに身を擦り寄せていたが、シャナに諭されたのか空の彼方へと飛び去って行った。「側には置かないの?」と雛菊の質問に、「シルフィーには帰る場所があるから」とだけシャナは答えた。

 あんなに大きな鳥の住家とは何処だろう。うちの近所にあんな巨大な鳥が巣を作っていたらパニックが置きそうだ。

 自分の世界に置き換えて考えながら、雛菊はふと気付いた。


「今頃町では巨大な鳥の旋回が話題になっているんだろうね」

「シルフィーはそう簡単に認識はされないんだ。普通の人間には風としか感じないよ」

「ふーん」


 わかったようなわからないような、とりあえず頷いて、それならこの派手な引越しが追手にバレるなんて心配はないのだとだけ理解した。

 ラキーアでの生活は雛菊の初めての経験ばかりで、いつも胸を躍らせる。知りたいことはたくさんあるし、聞きたいこともいっぱいあるが、それを一気に全てを知ってしまっては勿体ない気がして、これ以上は尋ねなかった。

 シャナの身の上も少しだけ分かっただけでも収穫だ。

 あまり一気に全てを明かせる事情でないとはなんとなく感じている。シャナが自分に手を差し伸べてくれただけで雛菊は満足だった。


「それじゃ、最後の大仕事だ」

「何するの?」


 雛菊の問いには答えず、シャナは其の辺から拾った長い枝を手に取る。細いが簡単に折れるほど柔くなく、杖にするには強度がなさそうななんの変哲もないただの枝だ。

 一体何が始まるのか。

 雛菊はシャナの行動をじっと見守る。

 シャナは枝の先端を地につけると中腰になって、森小屋の外周に大きく円を描きながら歩く。辺りは殆ど暮れかけて足元は影が覆っているのに、なにも便りにせずに器用に数式のような幾何学模様を円の内側に沿って描き足していく。


「ーー出来た」


 腰を上げ、シャナが枝を放り、役目を終えた枝は乾いた音を立てて雛菊の足元まで転がった。


「危ないから後ろに下がって」


 言われるままシャナから離れ、雛菊は近くの大木の幹に背中を預けた。


「どうなるの? これも魔法?」

「正確には精霊術ウィスって言うんだけど、まあ見てれば分かるよ」


 シャナはそう言うが、雛菊には見ていても分からない。分かるのは、シャナが円陣に両手を翳して何か呪文をぶつぶつ唱える見たままのものだけ。特別な術だろうとは思ったが、一見変わったところは何もない。


「………………あれ?」


 しばらくして雛菊は目を凝らした。シャナがまじないを編み出していくにつれ、小屋を囲んだ円の淵からじわじわと淡白い光が溢れ始める。下から陽炎のように伸びる光がシャナの膝ほどまで届いた頃だ。


「……頃合か」


 ボソッと呟くシャナの声。

 光が十分満ちたのを見計らってシャナはポケットを探り、赤い屋根の家のミニチュアを取り出した。


「よっ」


 それを円の中の小屋に向かって放り込む。その瞬間、空気が弾けたような破裂音を立て、森小屋に上書きしたようにあまりに呆気なく家は元のサイズに再生した。


「うはあっ‼︎」


 思わずひっくり返った雛菊の声。

 家である。この世界に来てからずっと住まいとしていた愛着のある赤い屋根の家が現れたのだ。

 ポケットに入るくらいのミニチュアだったのに、終わって見ればほんの一瞬の出来事で、あまりにも簡単だった。


「簡単に見えるのは僕の腕がいいからだ」


 雛菊の心を読んだかのタイミングで言うと、シャナは平然と玄関の扉を開けた。

 傷一つない扉。とてもさっきまでミニチュアとして丸められてポケットに突っ込まれていたとは思えないくらい変わりのない佇まいだ。


「……アレ、違う。なんか違う」


 さり気なくて見落としていたが、引越し前まではなかった天窓が赤い屋根を割ってと覗いているのに気付く。


「シャナ、あの窓は……」

「ああ。ロフト加えたんだ。誰かさんが地下の部屋を、埃臭いだの陰気だの空気が重いだの散々文句言ってた気がしたからね」


 これで文句はないだろ?

 そう言いたそうな顔で雛菊に振り返り、シャナはふわりと微笑う。その笑みにどきりとしつつ、年下相手に何ときめいてるんだとすぐに頭を振って雛菊も満面の笑みを浮かべた。


「ありがと!」


 初めてシャナから貰ったプレゼントに惜しみない感謝を表す。


「……お礼なら言葉よりプリンにして。……この前作って貰ったアレ、美味しかったから」


 普段ふてぶてしい少年は柄になく照れて、雛菊に背を向けて先に家内に入ってしまう。ちょっとして家の中に温かい明りが灯って外に漏れた。


「……へへ」


 なんだか胸にほっこりと何かが咲いたように温かい気持になって、雛菊は頬を緩ませて後に続く。

 お礼のプリンを如何にデコレートするか考えながら。




 * * * * *


「シャーナーーーーーーーーッ!」


 淡い気持ちはものの数分後砕け散り、雛菊の怒号が木霊する。

 増築されたロフトが楽しみで、いそいそと家の中に入ってみればどうも拭いきれない違和感。それもその筈。家の間取りから“浴室”が消え去っていたのだ。


「なんでお風呂がないのさ! お風呂何処にやった‼︎」

「ロフトを増築する際に邪魔だからそこを削っただけだ」

「なんで真っ先にそこをチョイスするかなぁ! わざとでしょっ、このお風呂嫌いっ‼︎ 戻せっ今すぐ風呂場を返せっ」

「風呂に入れないくらいで喚くな。死にはしないだろう」

「女の子は皆しずかちゃんなの! お風呂がないと死んじゃうもんなのっ」

「誰だよ、しずかって」

「日に何度もお風呂に入る、うちの世界の女神様だよっ。お風呂に入らない悪い子には煮えたぎった湯を被せるんだからねっ」


 雛菊がシャナの世界を知らないように、シャナが雛菊の世界を知らないのをいい事に適当を並べる。

 しずかちゃんは覗きをするのび太にお湯をかけても、風呂を入らない悪い子に煮えたぎった湯を被せるなど、包丁持って子供を脅すナマハゲのような所行は行わない。


「とにかく戻せ今すぐ戻せさぁ戻せ!」

「嫌だ。今日は外出して疲れたんだ。それよりご飯、その後プリン!」

「作る訳ないでしょ! お風呂戻すまでプリン作らないからねっ」

「君は悪魔だっ」


 ギャアギャアギャアギャア馬鹿げた口論は続く。ほんの少し前までの甘酸っぱいような仄かな気持は何処へやら。

 二人は小さい子供のように向き合って互いに威嚇しあう。


「大体、引越しなんて始めるから普段やらない風呂場を消す面倒までついでにやっちゃうんだよ。別に追われているからって、引越す必要ないでしょ。追われているって知ったら私もこの前みたいにシャナを強引に町に引っ張り出したりしないよ」

「僕が町に行かなくても、君が町に下りるだろ」

「だからってこんなしてまで引越しなんーー……え?」


 反論しようとして、雛菊は息を飲んだ。勢い余って聞き逃しそうになったが、思いとどまってシャナの言葉を反芻してゆっくり聞き返す。


「……私の為?」

「言ったろ。僕の側にいれば君を危険に巻き込むって。だけど帰す義務はあるんだって。君が僕についてくるのを選んだ以上、僕は責任を真っ当しなきゃいけない。そうだろ?」

「ーー……うん」


 小さな男の子に守られている実感。さすがにこれ以上怒る気にもなれず、雛菊は静かに頷いた。

 プリンぐらいなら作ってあげてもいい気になる。

 そんな甘い気持にさせられる一言だ。


「でも、お風呂は明日にでも戻してね」


 やはりそこは引けない乙女心。渋るシャナに“プリンは作るから”と言えば了承は得られた。

 結構シャナは扱い易いタイプなのかも知れない。難しそうな本ばかり読む、生意気な子供だと思ってもそんなに難しい人でもないようだ。

 異世界生活、十日とちょっと。また少し、シャナと仲良くなれたと思った一日だった。


 

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