01.白の部屋と黒の部屋
一歩、雛菊が足を踏み入れた世界は真っ白い空間だった。
床や壁の境目も見えない、天井がどこなのかも分からない。上下がどこかも怪しい何も存在しない空間の中を、雛菊は彷徨い歩いた。しかし、果たしてそれも歩いていると言って正しいのかとさえ考える。
水の中を掻いて進むような浮遊感がまとわりつき、踏みしめる歩みに地面の確かな感触はないからだ。それでも歩いていると前提にして進んでみるが、何処に向かって歩いているのかも分からなかった。おろか、その先が正しいのか前なのか後ろなのかさえもあやふや。真っ直ぐに進んでいるつもりだが定かではない。
目印もない、白い空間に道らしき道は存在しない。それでもひたすらに進むしかないのだから、とにかく体の向いている方向へと突き進んだ。
どれくらい進んだだろか。時間の感覚もないと距離感も測れない。五感はあるはずなのに何も感じない。目は見えている筈なのに、漂白されたような空間に影すら浮かばないので疑いたくなる。
徐々に不安になり、己の右手をかざせば指が五本当たり前に確認出来て胸を撫で下ろす。次に思い切り声を上げてみた。自分の声も耳に入る。頬をつねれば痛い。自分の存在の証明と、これが夢ではないのだと確認出来て雛菊は安堵した。半ば、やはり夢だったのかと疑いかけていたのだ。
もしかすると実はまだベッドの中で、朝の風景からそのままリアルな夢を見ていたのかもしれないと。
普通に考えれば虹の麓なんて存在しないし、道の真ん中に一枚だけの扉が立っているのもありえない。
だが、そのありえない世界を信じ続け、今日、やっと報われたのだ。
何者かの存在に誘われるように、異なる次元の扉を開いて今この場にいる。
最初から呼ばれるために今までがあったのだ。雛菊はそう信じている。
扉を開ける時には分かっていたのだ。扉の鍵は自分自身なのだと……。
「これは迷子……なのかな」
疲れはないが、酷く長く歩いたような気がしてようやく雛菊は現状を考え始める。
足を止めて周囲を見回す。何もないだだっ広い白い世界が限りなく見渡せただけだった。
シャナは何処だろう。
何処か異変はないものかと、雛菊は右を左をと屈んでは地面とも天井ともつかない宙を探る。
前、後ろ、上。下を見ようと頭を下げた時、頭上に温かな光りを感じた。咄嗟に視線を上げてそれを確かめる。
目の前に浮かんでいたのは一滴の涙、だった。
否、それが涙なのかは定かではない。ただ雛菊にはそれが涙の一雫に見えただけだ。
薄く光る透き通った涙の滴を、雛菊は優しく指先で触れる。
――その刹那だった。
雛菊が涙に触れた途端、瞬く間に白い空間に幾筋もの亀裂が入り、枝分かれする皸が破裂し、花吹雪のように白く小さな欠片が霧散して行く。
白い空間は一瞬の内に散り散りになっていった。
縮まり、広がる。凝縮して膨張する。
瞼が焼かれそうな程の眩しい光を放ち、白い世界はなくなった。
視界を奪われながら、「宇宙誕生の瞬間もこんな感じなのかな」と、雛菊はぼんやりそんなことを考えていた。
* * * * *
周りを取り囲んでいた世界がなくなってどれだけ経ったのだろう。
長いような短いような時間の中で、雛菊は気付けば己を纏う空気の変化に気付いた。
未だ光りが張り付いてよく見えない目を擦り、なんとか次の世界を映そうと試みる。その間、視界が閉ざされているからか、他の五感がやけに刺激された。
埃っぽく渇いた空気。薬品の匂いに、蝋燭を燃やした焦げ臭い。それから僅かに混ざる花の匂い。
ようやく目が慣れてきた頃、まず足下にあった紋様が目に入った。覚えのある図柄だった。意味の分からない文字の羅列に、幾何学模様。雛菊はその中心に立っていた。
この紋様を知っている。
狭くて四方を壁に囲まれて埃っぽい部屋も、蝋燭で照らされた薄暗い部屋も全部知っている。
それから、雛菊の目の前で膝をつき、胡乱な表情でこちらを見上げる緋色の双眸の少年も雛菊は知っていた。
「……シャナ」
やっと会えたね。
名前の後に続けたかった言葉を上手く発せず、空気の塊が喉に引っかかる。
心の底から感動すると、咄嗟に言葉が出てこない仕組みになっているらしい。
雛菊は上手く言葉を紡げないまま、シャナに静かに歩み寄った。
シャナは魔法陣の縁に跪き、埃被った床に無造作に伸びた長い髪を這わせ、覚束無い視線で雛菊を見つめていた。
透き通るような緋色の瞳。
けれどシャナは切れ切れに苦しそうに呼吸を繰り返し、汗ばんだ額の滴を落として意識が朦朧としているのが見て取れる。
「セラ……フィ……?」
掠れた声で呟き、そこで力尽きたかシャナは意識を失った。雛菊は慌ててその体を抱き留める。
精も根も果てたとぐったりとする腕の中の少年を見つめ、雛菊は呟く。
「シャナ」
名前を口にする。何度も何度もその名を口にする。
ずっとずっと見守っていた少年。
「大丈夫だからね」
正直、これから何をしたらいいのか分からないけど雛菊は言った。
「大丈夫」
ギュッと抱き締める。細く骨張った体が痛い。
小さな小さな男の子、シャナ。
雛菊はシャナの顔にかかる前髪を避け、手の甲で額の汗を拭った。
「さて、どうしようか」
考えなしに扉の向こうに飛び込んでみたものの、雛菊がやるべき役目は見当もつかない。腕の中には具合が悪そうな少年。
(とりあえずシャナの介抱が先だよね)
そういう結論を出して、雛菊はシャナを抱えて立ち上がる。いくら自分より小さい子でも、細くてもおそらくは十二歳前後だろう年齢の子供の体を女手で持ち上げるのは重労働だが、背負えばどうにかなりそうだった。
とにかく何かしないことには始まらないと、雛菊はこの暗い部屋から出るべく新たな扉に手を掛けた。
持っている知識から引き出した印象から勝手に名付けた黒魔術部屋を出た先は、書庫だった。
否、正確には廊下だが、通路としての機能は殆ど果たしていない。書庫というのも失礼か。乱雑に積み上げられた本が所狭しと廊下を埋めている。
足元には気をつけるが、数冊は靴跡から免れなかった。それでも構いなしに本で埋もれた廊下を進む。白い世界とは違い、重力も疲れも感じる世界はなかなか厳しい。少しだけ白の世界を懐かしく思いながら、雛菊はシャナを寝かせられる場所を探した。
廊下は湾曲していて石造りの壁をぐるりと囲って廊下が続いている。頑張って歩いたが、円筒状になっているのか、また黒魔術部屋の扉の前に戻ってしまった。廊下にはあと三つの扉があるが、どれも全て本で潰されてしまい、開けることすら叶わなかった。シャナを担いで徒労に終わったところで別の道を探す。
当たりをつけるとしたら残りの扉だ。
本を掻き分け歩きながら、比較的本の障壁が低く、手近な扉を開けると幸運にも上へと登る階段に行き当たる。
「ラッキー……?」
人一人背負っての階上に行き、この場より酷い様子なら果たして本当に幸運かは言い難かったが、可能性を捨てるのも愚かしい。
見上げれば僅かに光が刺していた。現在地の廊下は僅かな照明を頼りに、なんとか身の回りが確認出来る程度であった。先が明るいならこの息苦しい空間よりは随分マシだろうと、自身を奮い立たせて雛菊は一歩一歩と階段を上がった。そして、階上に出て雛菊はうっすらと笑った。
今までいた所は地下だったのだと窓から見える景色で気付く。上がった先はリビングと思わしき開けた空間だった。――本来は。
「……此処は本の虫の巣窟……?」
上がった先も本の山。人を寝かしつけられそうな寝具がまったく見当たらないのだ。
リビングとしての機能は皆無と言っていいくらい本で溢れかえる家。小さな照明器具の灯りが差し込むだけ地下よりは何倍も快適には見えるが、蔵書にまみれた部屋の埃の量は公害レベルに達している。
この少年は今まで一体どんな暮らしをしていたのだろう。
薬品でごった返すテーブルに、積み上げた山から崩れ落ちたか付箋をばらまいて開きっぱなしの本、くしゃくしゃに丸められた書き損じのような紙、汚れたカップ。
シャナの生活ぶりを想像するだけで雛菊は身震いした。
他の人の気配はなく、頼れそうな存在はなし。あるとすれば己の可も不可もない腕だけ。
仕方ないので雛菊は本の山をベッド代わりにして、そこへシャナを横たえさせる。よくよく見渡せば本の山に埋もれるソファーを発見し、なんとか掘り起こした後、もう一度シャナを抱えて静かに寝かせた。ソファーカバーも誇り臭いが大目に見て貰いたい。
そんな言い訳を胸に、雛菊は今度は濡れタオルの準備にかかる。――が、
「もう、なんなのこの家は」
呆れた声が口をついて出る。
タオルはクローゼットから難なく見付かった。問題は、次に洗面器を探そうと風呂場で目にした光景である。
本来なら水場である風呂場にも本の群れは押し寄せていたのだ。
「うう……本の虫の巣窟じゃなくて、本そのものが主なのかも……」
風呂場も書庫の一部となってしまったからか、通常なら常に湿気を帯びている筈の場所もからりと乾いて埃の匂い。
「あった……洗面器」
なんとか書物に紛れた洗面器を手に、雛菊は風呂場を出る。本が積まれた風呂場などでは水が使えない。本の山の道を縫うように脱出した家の外でつるべ井戸を見つけ、慣れない作業に四苦八苦しながら水を汲上げて急場を凌ぐ。しかし風呂場があの状態でいい筈がない。
「まずは掃除かなぁ」
シャナの額に絞ったタオルを乗せてぼやく。
ずっと夢で見続けた少年は、生活力が全くの皆無なのだと教えられたから。