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シャナと花のバラッド  作者: 藤和葵
第三章・玉響に咲く花
18/61

03.我が愛しのジオン

 

 三階にあるチェリウフィーの執務室からの眺めは十分良かった。

 眼前に広がる庭園は青々とした花と生垣。遠目に映るそれはバラのような薄紫色の大輪の花が咲き誇る生垣の迷路のような造りで、上から見下ろせば何かの紋章を象られているのが分かる。

 中世ヨーロッパの貴族が庭園に迷路を持つ流行があったと聞く。自分の世界と照らし合わせて、その文化に似ているなと雛菊は思った。


「似てる部分は色々あるんだけどねぇ」


 ポツリと呟くが、力のない声だった。

 始めから知らないことが多いことは分かっていたのに、それでも話に取り残されている現実が不服でならない。

 身勝手な意見だと思っている。

 何も聞かずに同行を決めたのは雛菊自身で、アサドの事情を追求するのはアサドを傷付けそうで今日まで何も聞かなかったのも雛菊自身。

 何が出来る訳でもないのに本能のまま動いても、何も知らない自分がいる理由は何処にあるのだろう。

 それでもアサドの事情を聞いてもいいのなら話を聞きたいと望んでいる。

 呆れる程の身勝手。

 そんな事を考えると自己嫌悪の思考がどんどん奥に進み、まるで目の前にある迷路にハマって行くのが分かる。

 それでも望んでいる欲求は理解しているつもりだった。


「ヒナ、待たせたな」


 テラスに出て来たアサドに、雛菊は何処かホッとした笑みを浮かべて迎える。


「ううん。それよりいいの? 私、一度聞くとなると遠慮ないかもよ?」

「俺こそ。後悔するくらい巻込む事になるぜ?」


 アサドは自分の首の後ろを撫でつけるながらそう言うと、雛菊の隣りに立って同じように手摺にもたれた。


「でも、何から説明すれば分からないんだよな。これからでいいか?」



 困ったように零して、握り締めていた指輪を出す。

 琥珀色の指輪。

 先程の三人の会話からこの指輪の入手が今回の騒動のきっかけだと言うことは雛菊も朧気ながら理解している。ただ、この指輪にどんな意味があるかは知らない。雛菊はそっと頷いてアサドの声に耳を傾けた。


「この指輪はプレヤード・ジオン。セラフィムの娘だった妹の形見だ」

「え――?」


 予想もしなかった言葉に雛菊は顔を上げてアサドを見つめる。


「ま、正確にはセラフィムの力の欠片を宿した巫女だった母親の形見だけどな。母親つっても親父の後妻で、俺の実の母じゃない。妹も連れ子だからな。王家の血も引いてない」

「それじゃあ妹さんは元々は普通の子なの?」

「ああ。義母も巫女だが生まれは農家の娘で、最初の旦那も下町の職人だったようだ。妹は何処にでもいる普通の子だったわけだ」


 ヒナと同じだなと言われ、雛菊も同意する。国王が雛菊を快く迎え入れたのも、セラフィムという肩書きの他に庶民出の妻を娶った寛容さもあるのだと納得もした。

 普通の女の子だったニタムはどんな子だったか興味が湧く。視線で先を促すとアサドは指輪を眺めて目の色を暗くした。


「普通と違うのは王族育ちで巫女の娘で特別な石、失われた光……プレヤード・ジオンを継いだってとこだ」


 淡々と話すアサドに表情は無く、どんな想いで話をしているのか知り得る事はなかった。


「妹さんは、どうして――?」


 形見と言っていた。不躾な質問は承知で雛菊は尋ねる。アサドはそれでも表情を歪める事なく答えてくれた。


「公式には病死。正確には生死不明の失踪人扱い。でもおそらく生きてはいない……」

「そ……」


 予測し得ない事実にかける言葉も見つからなかった。聞きたがった自分が馬鹿だったと早速後悔しながら、それでも雛菊は最後まで聞く所存で一拍呼吸を置いて心を整える。


「妹が母から譲り受けたプレヤード・ジオンはセラフィム信仰者には喉から手が出るくらい欲しい貴重な石だ。多分、そんな奴らに狙われたんだろうよ。だから十年前のある日、大量の血痕だけ残して妹……ニタムとプレヤード・ジオンは消えたんだ」


 アサドは終始無表情だった。それでも表情とは裏腹にいつの間にかキツく握られていた拳を見て、雛菊は初めて彼が何でもないフリをしている事に気付く。


「後悔、しているの?」


 上手い慰めの言葉が思い浮かばないのに、口が勝手に動いていた。アサドは複雑そうに頷く。


「奪うなら石だけ奪えば良かったんだ。ニタムまで巻き込む理不尽さが許せねぇ。アイツは巫女の娘かも知れないけど、ホントにただの女の子だったんだよ。だから、プレヤード・ジオンを奪った奴を必ず暴いてやりたい。だけど当時は全く手掛りがなかったからどうする事も出来なくて……でも、今回何かが動き出した。十年潜めていたものが急に動き出すのには罠の気配があるが、それでも今度こそ俺は犯人を突き止めたいんだ」

「うん」


 腕組みをしたアサドは不意にそれを解き、自身の額に手を宛て苦悶の色を見せた。


「本音言うと、俺はランフィーから話を聞いた時に狙ってヒナの気を引いたんだ。出来ればヒナ自身が自分で選んだようにさせて此処に連れてくる為に……」

「普通に誘うんじゃ駄目だったてこと?」


 アサドは唇を歪めて言い淀む。聞いてはいけなかったかと雛菊も逡巡したが、なんとなく吐き出させたほうがいいような気がしてそっと力の篭っていた手に自分の手をあてがう。

 静かに促したのが届いたか、アサドは今度こそ腹をくくったように顔つきを固くした。


「ニタムの仇が見つかるかもしれない。そう思ったらセラフィムの存在がチラついたんだ。ニタムを狙った目的がプレヤード・ジオンなら、セラフィムにも食いつくかもしれない。……分かるだろ、俺はヒナを囮に使いたいと考えたんだ」


 一気に吐き出してアサドは固唾を飲んで雛菊を見た。雛菊は責めるでもなく、ただいつも話すように視線の高いアサドを上向き加減に見返す。


「直接頼まなかったのは迷ってたからでしょ。本当に狙ってお別れを言ったの? 来て欲しかったけど時間を伸ばせば私にすがりそうだったから嫌だったんじゃないの?」

「それは俺を良く言いすぎだ。最低なんだよ、復讐の為ならヒナだって道具にするんだよ、俺は」

「でも、その分アサド君は私を守ってくれるつもりでしょ?」


 自嘲気味のアサドに雛菊は平然と言い切る。


「当たり前だろ! つか、ヒナは怒らねぇのか?」

「怒ることなの?」


 逆に聞き返せばアサドが気抜けした顔を見せるので、雛菊は少しむきになって唇を尖らせた。


「そりゃあ最初から頼ってくれたら嬉しかったけどさ、言いにくいのは仕方ないでしょ。逆の立場なら私だってキツイよ、頼って嫌な顔されたらやっぱり辛いもん。アサド君が気にするのもそこなんじゃないの?」

「えーと……まあ……そうだけど……」

「でしょ。私だってある程度は事情を知らされないと困るけどさ、聞かなかったのも悪いし。ていうか勝手についてきた分際で詳細を話す義理もあまりないだろうけど……」

「いや、危険の可能性は提示するべきだった」

「だとしても無駄だよ。それを除いても私、世界一平和ボケしてそうな国で育ったから危機感だってきっと足りない。信頼出来るボディーガードがいるおかげもあるだろうけどさ、私の肩書きが利用出来るなら使っていいよ」


 ね、と雛菊は何ともないように笑った。

 心なしか清々しくなれるのは不謹慎だが、ほんの少しでもアサドが抱える現状を知れたからだろう。

 自分の置かれた状況を知って尚、笑えるなんて余程の鈍感に見えるだろうか。それでもこの状況でアサドも肩の力を抜いて負い目を忘れてくれたらいいと思う。今回の帰城に雛菊の囮が含まれていたとしても無碍に扱った訳ではないのだから。


「ヒナ……」


 アサドの目の奥が熱くなったように色味を濃くしたので、雛菊は納得してくれたのかと安堵する。現状としては手がかりが少ない分、セラフィムとして表に立つ決意がもっと求められると理解した。話もいい頃合かと、中に戻ろうかと合図仕掛けた手を取られた。


「何、アサド君」


 雛菊はアサドを見上げ、指に渡る感触に一気に目を丸くした。


「プレヤード・ジオンは貴重な石だ。巫女が持つと奇跡を起こす。だから一般的にはそれを模した石を女性に渡すのがいつしかこの世界の習わしになってな――これは本物だけど、男はプレヤード・ジオンを模した琥珀色の石を気持と共に贈り奇跡を乞うんだよ」


 静かに、心なし艶っぽさを帯びた声に身を竦ませて雛菊は己の左手の薬指に通されたプレヤード・ジオンの指輪に視線を落とす。


「あの……これ」


 指輪の位置が特別過ぎるが、此処は違う世界だから考え過ぎだと雛菊は自分に言い聞かせ、震える声でもう一度アサドを見つめた。視線が交わるとアサドはより一層目に光を宿して輝きを増して顔を近付けてくる。堪らず息を飲んで顔を背けると、雛菊の耳にアサドは笑いかけた。


「今更逃げるなよ。ヒナは俺を選んでくれたろ?」

「それは……! でも……」


 全く違うとは言い切れずに言い淀んでしまうと、アサドは更に気を良くして雛菊の左手の薬指に唇を乗せた。膝を突き、手を取ってそこに口付けなどという倒錯的な光景に雛菊は目を回す。


「――知らないだろうから教えるけど、この世界の男は皆、愛しい女性をセラフィムに見立て特別に“ジオン”と呼ぶんだぜ?」

「アサド君、私……」


 囮にされた話には顔色一つ変えなかったのに、薬指に口付けされたら狼狽える雛菊をおかしそうに見つめてアサドは腰をやんわりと抱き寄せた。


「ヒナ、俺のジオンになってくれ」


 たった今教えられた通りなのだとしたら、それはその言葉の意味通りなのだろう。

 雛菊はこれ以上ない程顔を赤くし、声を忘れた小鳥のようにただアサドを見つめただけだった。

 手に手を取り、王子様から愛の言葉を受ける。

 物語の世界に憧れるような雛菊には夢のような言葉なのに何故だか急に泣きたくなって、慌ててそれを飲み込んだ。

 雛菊自身、自分は肝っ玉が大きい方ので並大抵の事には動じない自信があった。

 ラキーアに来た時でさえ物心ついた頃から予感していた所為と、シャナという少年を知っていたこともあって動揺なんて殆どなかった。

 井戸に落ちた時も、ランフィーに軽く手を加えられた時も悲鳴一つ上げない、国王との謁見でさえ無事に済ませてきたばかりである。自分は同年代の少女の中ではしっかりした部類だと、少し自慢に思ってもいた。

 それでも、今日のことは今までとは別らしい。これ程まで頭が真っ白になるなんて、雛菊の十六年の人生にはなかったのだから。

 今、人生で初めてのプロポーズというものを雛菊は受けていた。相手は、この世界に来てから程なくして一緒に同居していたアサド。

 真っ直ぐ金色の瞳に見据えられ、雛菊は視線を外す事が出来ず、硬直したままアサドを見つめる。

 いつになく真剣な瞳に彼の本気が伝わり、雛菊の体全体が熱くなる。

 元の世界で彼氏はおろか、告白をしたこともされたこともない雛菊にとってプロポーズは全ての段階を飛び越えたものだった。

 まさかアサドの言葉でこんなにも動揺するとは思ってもみず、まさに青天の霹靂だ。


「――えと、改めて確認するとアサド君は私の事、その、好き……なの?」


 子供染みた質問に緊張で掠れて震える声が情けない。

 そんな雛菊の狼狽えぶりを見透かしつつ、アサドはわざと更に動揺を誘うように雛菊の肩にかかる髪を右手で掬いあげて小指でうなじをなぞった。


「――っ」


 ぞくりと走る寒気に吐息を漏らせば、アサドはしたり顔に口の端を上げた。


「好きでもない女に大事な形見を預けたりはしねぇよ。今のは男の純真を疑った罰な」


 “今の”とは、首筋の辱めなのだろうが、罰というより下心が透けて見えてきそうなのは何故だろう。

 恨みがましく雛菊が睨むと、アサドの顔はいつもと同じ明るい顔に戻っていた。


「――風が出て来たな。今日のとこは堅苦しい話を終いにして、部屋で休むか。旅の疲れもあるだろ?」


 日が傾き始め冷えて来た空気に気付いたアサドがそう言って、室内を軽く親指で帰るジェスチャーを見せる。


「私の返事は聞かなくていいの?」


 思わず口をついた言葉に答えなど決まっていない雛菊は内心しまったと呟くが、アサドはしれっとした態度で雛菊の頭をくしゃくしゃに撫で回した。


「気にすんな。すぐに返事を乞う程余裕のない男じゃねーよ、俺は。ま、イエスなら即初夜まで迎えても構わないがな」

「馬鹿っ」


 こんな時にもふざけるアサドにいくらか雛菊は拍子抜けして、つい吹き出した。


「あ、でも渡した指輪は預かっててくれ」

「大事な形見なのに?」


 外す気でいた指輪を制され、雛菊は戸惑いながら伺うとアサドは苦笑しながら徐ろに自身の懐からネックレスを引き出し、鎖に下がった指輪を見せた。それはランフィーと出会った日にアサドが彼に人質のように渡した物と一致した。


「大事だからだ。と言っても、この石は巫女が持たないと効果を発揮しない代物なんだが、本物を模したジオンは一個の石を二つに分けて一対の宝飾にして男女の手に渡るんだ。亡くなった義母はそれに倣い、この石もそうするように願って娘に託した。つまりはこの指輪は母親からの婚約指輪なんだよ」

「アサド君の指輪もその一つなんだね」


 だから二つの指輪は酷似しているのかと納得しながら、雛菊は余計に受け取れないと思った。


「だったら尚の事預かれない。これはニタムさんの物でしょ。私がアサド君から貰っていい物じゃないよ」 

「……俺は番いの指輪を奪われた時、必ず取り戻すと誓ってこの指輪を手に取った。ヒナも俺に強力するなら持ってくれてもいいだろ?」

「そんな言い方狡い」


 これで拒否しては協力を断るみたいだと頬を膨らませれば、アサドはほくそ笑む調子で言った。


「ご理解頂けたところで今後の部屋を案内して貰いましょうぜ、ヒナ」


 いつもの気張らない口調で、アサドは雛菊の肩を抱いて室内へと促す。

 不思議な感覚だったのは、普段から戯れてアサドが雛菊の肩を抱き寄せる事が盛んにあったのに、今に限って触れる肩がとても熱く感じた事だった。



 * * * * *


 司令のチェリウフィーが先頭を歩き、雛菊とシャナの部屋へと案内をする。

 普通ならメイドの仕事だろうところだがセラフィムと言う特別な扱いである為、警護を兼ねて司令御自らの案内という高待遇だ。

 ただ、まるでアサドに顎で使われているみたいだと腹を立てたチェリウフィーが終始悪態をついていた。恐れ多くも殿下への罵詈雑言をものともしない老婆の言葉に耳を傾けながら、雛菊はそれが彼女なのだと理解させられる。


「さて、此処が嬢ちゃんの部屋だよ」


 チェリウフィーに案内された部屋に雛菊は目を見張った。


「すご……っ」


 通された廊下の長さもさることながら、この広い城内に相応しい一室だった。

 まず扉を開いた正面にはテラスへと続く大きな観音開きの窓。一歩踏み出すと外へと繋がっているそこは海が一望出来るリゾートホテル並みの眺望。きっちり脇に束ねられたカーテンも細かな紋様の刺繍があしらわれていて大変お見事な品である。

 その他にも天蓋付きのベッド、チェスト、テーブルに布張りの椅子。どれを取っても見事な調度品であるのは素人目でもすぐに分かった。

 まるで雛菊が理想とする絵に描いたようなお姫様の部屋だ。


「取り敢えず最低限の調度品は揃ってるが、足りない物があればそこらのメイドに伝えればいい。後、護衛の観点も考えてシャルーンの部屋は中の扉で繋がっているが、一応気を付けなよ。シャルーンも分かってるね」

「……何が言いたいんだい」


 茶化すチェリウフィーに女装したシャナは不機嫌に睨むが、幾多の修羅場を潜り抜けて来たであろう騎士の前では痛くも痒くもない。


「そんなの、枯れた年寄りに言わせるんじゃないよ。護衛以外で扉を使うなって事さね」

「当然だろ。他に話がないなら僕は隣りの部屋を勝手に使わせて貰うから」


 それだけ早口で捲し立てると、シャナはさっさと与えられた自室に鍵をかけて籠ってしまった。

 チェリウフィーはやれやれと頭をがしがし粗雑に掻いて、雛菊にメイドや衛兵の呼びつけ方など細かな説明を続ける。


「シャナのことは気にすんじゃないよ。アイツにも此処は色々あった場所だから、思う所があるんだろうさ。気に病んだところで損だからね」


 そう言ってチェリウフィーはシニカルに笑い雛菊の背中を叩いた。


「ま、嬢ちゃんは嬢ちゃんでセラフィムとしての危機管理と、プロポーズの返事を考えるのでそんな余裕はないか」

「何で知って――」


 アサドにプロポーズをされた事は誰にも話していないのに、見事言い当てられた雛菊は驚きで目をしばたかせる。チェリウフィーは軽く雛菊の左手を細い顎で差して答えた。


「指輪見りゃ一目瞭然さね。大昔にあたしも似たような気持を抱えてた――気がしないでもないからねぇ」


 雛菊の肩を軽く叩き、チェリウフィーは部屋を出る。


「ま、今日は余計な事なんざ忘れてゆっくり寝るんだよ」


‘でないと、たちまち枯れちまうよ’と、軽口を叩いて扉は閉まった。

 一人になった部屋で雛菊は直ぐさまベッドに直行して倒れ込む。普段の雛菊なら海が一望出来るテラスへ真っ先と向かうのだろうが、今はそんな気も起きない。

 肌触りのいいシーツに羽毛の枕が心地良く、体がどんどん沈んで行く。それに比例して思考まで深く沈んだ。

 チェリウフィーは一晩忘れてゆっくり体を癒せと言いはしたが、それが出来たら苦労はない。

 よく友人達から所帯臭いと揶揄されたりもしたが、雛菊とて年頃の少女。人生初のプロポーズを乙女としてそう容易く忘れられる程鈍感には出来ていないのだ。


「大体、決めるって、考えるってどうしたらいいのさ。こっちで結婚しちゃったら日本に帰った時は再婚とか重婚とかになるのかな」


 思考回路もまともに働かず、独り言も明後日な方向へと向かい出す。

 寝返りをうち、はしたなくスカートが捲れて太股が露わになるが見る者は誰もいない。制服に皺が多少入った所で使い道も殆どない今はさして困りもしない。


「こっちでも大切な指輪は薬指にハメるんだなぁ」


 左手の指輪を眺め、取り留めのない事をぼやいてまた寝返り。その拍子に深い溜息が出る。

 真剣に求婚されたのだから真剣に返さなくてはならない。

 アサドのことは好きである。

 それは率直な気持だ。けれどその感情が恋慕の情なのか友愛なのかの判断が心の幼い少女には分からなかった。

 例えばこれが同級生からの告白で付き合うか否かを悩む場合、その時はどうするのだろう。

 ふと雛菊は自分の世界に置き換えて考えた。答えはすぐに出て、友人に相談するという選択になる。無論、同じ歳の同性の友人である。しかしこの世界にそんな友人はいない。歳は違うがそういった話が出来そうな本屋の看板娘のマルーンはこの場にはいない。

 それでも誰かにこの話をしたかった。相手に話す事で自身の気持の整理がつきそうな気がしたからだ。


「う~ん」


 三度目の寝返りをうって雛菊は唸る。

 話相手は誰でもいい訳ではない。もう少し身近な人が適任である。そうなると思い浮かぶ人は一人しかいない。


「……やっぱそうなるよね」


 意を決して雛菊は勢いよくベッドから飛び起きたのだった。



 さらりと伸びた髪をうっとおしそうに後ろで一つに束ねる。

 乱暴に背中のファスナーを開いてドレスを脱ぎ捨てれば、下から着ていた薄手の長袖のシャツと七部丈のズボンの少年の姿に即座に変わった。即席の女装もせめて与えられた部屋ぐらいでは解除したいのがシャナの男としての矜持である。

 実は髪を伸ばしてスカートを履いただけで男とバレないという事実自体癪なのだ。

 事の発端を思い出すは十年以上前。アサドとチェリウフィーとの三人での酒席で、寝ている隙に加えられた悪戯だった。思いの他、申告されない限り誰にもシャナと見分けられなかった為、今回の潜入には役立ったはいいが、面白くないものは面白くない。


「くそっ」


 苛立つ気持から八当り的に倒れ込んで体をベッドに沈める。

 女装の発端から連鎖して思い出したのは、今より少し幼いアサド。若干皺が薄く見えるチェリウフィーに、アサドの血の繋がらない妹、アル・ニタム。

 鈴を転がしたようにコロコロよく笑う少女で、彼女が場にいるだけで辺りが華やいだ。あの時はまさかこんな自体になるとは誰も予想などしなかった。

 ニタムが消え、戦が始まり、シャナ自身はアサドの鼓動を奪って逃走した。

 この城に戻るつもりはなかった。アサドとの直接の再会でさえ望んでいなかったのに、全てを覆されたのは一人の少女と出会ってからだ。


「何処で狂ったんだろう」


 ポツリと呟く。

 セラフィムを望んだからだろうか。

 セラフィムさえ呼ばなければ雛菊は現れはしなかった。

 漆黒の髪と瞳はまるで夜の精霊なのに、その中身は太陽のように眩しい。

 雛菊が飛び出すからアサドに掴まったし、結果それがランフィーを呼び寄せるきっかけになって今に至る。

 否、そうならない選択もあった。シャナが最初に雛菊を突き放せばよかったのだ。

 雛菊がラス・アラグルへの同行を決めた時も、護衛を考えるならアサド一人でも力は十二分にも足りている筈だった。

 アサドが雛菊を必死に守るであろうくらい言われなくとも知っている。

 いつの日からか、気づいた頃にはアサドは微弱ながらも雛菊に秋波を送っていた。ここに来てより強くなった。雛菊の左手の指輪を見れば、誰だってアサドが雛菊をジオンとして選んだ事くらい分かる。

 後押しをしたのはシャナ自身である。

 これは償いである。

 喚ぶべきではないものを喚んだしまい、出会うはずのない二人が出会ってしまい、一方は心を囚われてしまった。

 これ以上アサドから奪うことは躊躇われる。

 そして自身の身勝手で巻き込んだ雛菊への責任も考えなければいけない。

 それならと双方が望む流れに沿うのがいいのだと考え、己の古傷を抉るのを承知で此処まで来たのだ。

 後悔はしても遅いし意味がない。全て自分自身で蒔いた種だと自覚しているから自分が傷つくのは間違っていると思っている。それなのにだ。

 どうにも腹の虫が治まらない。

 腹……というよりも胸。ぐるぐると渦を撒いてどうにも気分が悪かった。

 それは宮殿に足を踏み入れる前から感じ、最高潮なのは今だった。込み上がる思いが無意識に右手を持ち上げ、重力のまま下へ叩き付ける。上質な羽毛で作られた枕は衝撃を吸収し、呆気なく振り下げられたシャナの拳を吸い込んだ。これでは八当りも満足にならない。


「情けな……」


 自嘲気味に吐き出してシャナは枕に顔を埋めた。光が閉ざされ、耳が塞がる。このまま眠りに就けそうだと微睡み始めた頃、枕ごしにくぐもったノック音が聞こえた。

 城内のメイドかと今の格好を思い出して慌ててシャナは飛び起きるが、扉は別の所から開かれた。

 部屋と部屋の間に立つ壁にある一枚の扉。

 シャナの部屋と雛菊の部屋を結ぶ扉からひょっこり顔を出したのは太陽のような笑みを零した少女だった。


「ちょっといいかな?」


 はにかみながら雛菊は部屋に入る。


「あまり私の部屋と変わらないんだねぇ」


 シャナが横たわるベッドへと進みながらキョロキョロと内装を見渡して呟く。


「沢山ある内の客室の一つだからだろ」


 シャナが返せば雛菊も納得して、同じベッドに腰を下ろす。その反動で揺れるベッドからシャナも身を起こして腰を落ち着けた。


「――着替えたんだね」

「ずっと女装したままでいろって?」

「違うよ。やっぱ見慣れた姿の方が落着く」


 そう言って雛菊が左手を伸ばし、シャナの頬の横を過ぎて後ろ髪をさらりと撫でる。伸びた髪がそのままなのが気になるらしい。


「……女装を解く度に髪まで揃えるのは面倒だろ」


 聞かれる前に答えてシャナは雛菊の手を払う。雛菊が触れた首筋から熱が籠ったような気がするのに、一瞬触れた彼女の指輪がひやりと氷のように冷たくも感じた。

 雛菊はシャナにはたかれた左手を空中で所在無げに漂わせ、瞬きを二、三回繰り返して目を見開いた。何故シャナが怒っているのか戸惑っているのだ。


「シャナ――?」


 不安そうに雛菊が顔を覗いて来るので、シャナは不自然に目線を逸らす。視界に飛び込んだのはテラスから覗く大洋の景色で、夕陽が海に熔けるように沈んでいる途中だった。

 赤く染まる海に朱色の空から濃紺の夜へと続くグラデーション。夕と夜の狭間の曖昧な時間は、今の自分のはっきりしない気持と似た色だとシャナは思った。


「何の用だい。大した用もなしにみだりに男の部屋に入るものじゃないだろ」


 シャナの言葉に雛菊は再び瞬きを繰り返して、今度は首を傾げた。


「何マセたこと言ってんの。家ではよくシャナの部屋に入ってたじゃない」

「家と此処は違うだろう? 第一、アサドにも悪い。君は彼のジオンなんだから」

「その、アサド君の話なの――」


 そこで雛菊は歯切れが悪く話を切出す。


「やっぱりシャナもジオンの意味、知ってるんだね。私とアサド君の話、部屋の中まで聞こえてた?」


 恥ずかしそうに頬を染めて話す姿が何故か癪に障り、シャナは適当に言葉を返す。


「指輪を見れば僕だってそれくらい分かるさ。それで何の話だよ、惚気なら聞かないよ」

「シャナまで茶化さないでよ。その返事に悩んでるから相談に来たのに……」

「成程。それなら相談の意味はないよ、帰って」

「は?」


 素っ気なく即答され、雛菊は思わず声を裏返した。シャナは気怠そうに頭を掻いて、右足の半分だけ胡座の姿であくびを掻く。このままつれなくしてさっさと雛菊を部屋から追い出したかった。


「求婚に対する答えを決めるのは君自身だろ。僕が左右してもいいのなら受けなよ。悩む必要があるとは思えないんだけど」


 どうしてイライラしてしまうのか剣のある声でシャナは言ってしまう。


「――……なんでそんな風に言うの」


 たっぷり間を置いて雛菊が聞き返す。彼女の声にもいつもの明るさはない。


「なんでって相談を持ちかけてきたのは君の方じゃないか。だから僕も君を思って考えて言ってるんだ。君の為だからアサドの話を受けなよ。君の守りはより強固になる」

「私、保身の為の婚約なんて嫌だよ。それに、シャナは私がこの世界にいる限り守ってくれるんでしょう? それじゃ足りないの?」


 真っ直ぐ。濁りない黒い瞳に見つめれ、シャナは口許を歪めて結んで目を逸らす。

 いつだって雛菊は真っ直ぐに顔を覗き込んでくるので、シャナはそれがとても居心地悪く苦手だ。


「どうして君はいつもこう――直球に言ってくるんだ……」


 俯いて目を背けたが顔が熱いのが自分でも分かったし、逃げても雛菊がまだじっと見据えているのを肌で感じた。

 ちらりと視線だけ上げて盗み見ればさらりと肩から流れて落ちた黒髪が夕暮れの陽射を浴びて何とも言えない光沢を帯びていた。柔らかそうな女の子の髪だ。

 更にシャナはばつが悪くなって完璧に体ごと明後日を向き、雛菊を完全に視界から外す。その行動にわざとらしさを感じた雛菊は手元にあった枕を力のまま投げ付けた。


「なっ――」

「シャナの馬鹿っ!」


 死角からの不意打にシャナが対抗しようとした瞬間、雛菊の怒号が飛び交う。


「何を怒ってんのよっ! 私、気を悪くするような事した!?」

「関係ないだろ。大体君こそ何だ! 普通、婚約の相談を異性にするものかよっ」

「仕方ないじゃない、シャナしかいないんだからっ。大体、シャナを異性として意識するなんて今更――わぷっ」


 言い掛けて雛菊は顔面に強襲を受けて言葉を切った。シャナに投げた枕の逆襲に遭ったのだ。


「何すんのっ!」


 羽毛といえど不意打はかなりの効果で、痛みはなくとも腹は立つ。更に枕を投げ返されるが今度は正面からの攻撃の為、シャナは難なくとそれを避けた。


「出て行け」


 雛菊が何か言い返そうとしたのが分かったのでシャナは先手を打って冷たく突き放す。


「出て行けよ。暫く君の顔を見たくないんだ」


 腹が立つ。

 何にこんなに心を掻き乱されるのか分からず余計に腹が立ってシャナは雛菊を睨んだ。一瞬雛菊は怯えて泣きそうな顔を見せたが、生来の負けん気でぐっと飲み込み拳を握り締め、目尻を吊り上げた。


「出て行くよ出て行けばいいんでしょ! それで満足!? シャナなんか勝手にひとりで怒ってればいいんだからっ」


 理不尽に始まった喧嘩に雛菊は怒りに身を震わせてベッドから腰を上げ、そのまま廊下へと続く扉の方へと向かう。


「――何処に行くんだよ。君の部屋は隣りだろう。勝手に歩き回って何かあったらどうするんだ」


 単に雛菊の身を案じて言いたものではないのを言外に伝わったのだろう。雛菊は扉を開けて振り向き様にシャナを思い切り睨み付ける。


「ルビさん、探しに行くの! 謁見の前に勝手に放しちゃったから保護すんのよ。私しか捕まえられないんだもん。それに、これで何か私にあれば二度と顔合わせなくなるよ、良かったねっ!」


 早口で捲し立て、扉は乱暴に閉められた。

 滅多に粗雑な扱いを受ける事がないだろう王宮の客室の扉は今までに立てた事のない音の余韻に僅かに震えていた。

 部屋に一人残ったシャナは防音の良い壁と絨毯のおかげで遠ざかる雛菊の足音を確認する事もないまま、憤りに任せてベッドを殴った。まるで手応えのない柔らかなマットに掴み所のない感情とタブって余計に気分が悪くなる。


「――馬鹿なのは分かってるさ」


 一人、悪態を零してシャナは下唇を噛み締めた。


 

 

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