07.旅立ちの朝
狭い路地裏。
両脇は建物の壁に阻まれ、頭上に狭苦しい空は覗くが薄暗い。
路地を抜ければすぐそこは商店街。背後では賑やかそうな声が遠くに聞こえる。今は縁遠い賑やかなBGMがこの路地の人気の無さを際立たせた。
のどかな街の情景とは裏腹に緊迫した空気が張り詰める。
そこに対峙する男女が三人。
アサドは向かい合う少年から庇うように雛菊の肩を抱き、己の影に隠した。
「アサド君……」
彼の広い背中を前に、雛菊は困惑して金色の影を見上げた。突然目の前にいる人の素姓を、思いがけない形で知らされて思考が追いつかない。
たった今、王子という身分を明らかにされた人が目の前にいる。その事実をどう受け止めるべきか悩んでいた。
隠していた素姓について責める気はない。これが別の状況での暴露なら、違った反応もまたあっただろうが、アサドが悔やんでいる顔を見ただけで十分だ。
それに、今は明かされた身分について問う時じゃないと知っていた。
今、気にするべき事は王子という身分のアサドがこの場にいることでなく、王宮から使いが来た理由。この場はそれが優先される事項だと、雛菊は対峙する男二人を見て思った。
雛菊はゴクリと唾を飲込み、既に膝付体勢から立ち上がっていりランフィーの出方を伺う。
「――随分、親密な様子と窺えるのですが……王子、まさかこの女と交際してるという事ではないですよね?」
「だったらどうすんだよ」
「うっ、嘘だよ! 同居人なだけだもんっ」
挑発的な構えのアサドの答えにすぐさま雛菊は否定を入れる。その素早い返答にアサドは苦笑いを浮かべ、肩を竦めてランフィーに向き直る。
「まあ即否定されたんだが、そんな訳だ。王宮を出た俺は宿無しだからな、彼女には世話になってるだけだから余計な勘繰りは寄せよ。が、扱いは丁重にしろ」
言外にこれ以上雛菊を巻込むなという意味を込めて睨みを利かせる。
雛菊が聞いたことのない厳しいアサドの声音だった。思わず耳にしていて体が強張ってしまう。
しかしその脅しに屈する程ランフィーの使命感も軽いものではないらしい。
「彼女から手を引いたその後でも、王子一人ならいくらでも逃げる算段はお有りですよね? それに、そんなに睨みを利かせるとその娘が特別言っているみたいですよ」
アサドの魂胆など見えていると言ったような腹の探り合いに、雛菊はただおろおろと二人を交互に見やるしか出来ない。
二人の間柄をあまり知らずとも、自分自身が何かを左右させている事くらい肌に感じていた。
此処はアサドと逃げた方がいいのか、それともランフィーの話に耳を貸すべきなのか。
「大体、何年も城を出た俺に今更何の用があるってんだ。まさか王位を継げとか馬鹿なこお言うんじゃねぇよな」
雛菊が悩んでいる間にアサドが先に口を開いた。どうやら少しは事情を聞く気があったらしい。
「……そのまさかです。戦の話は耳に届いておりますでしょう?」
戦の一言に雛菊は身を固めた。
「話は聞いている。休戦協定から十年と保たない迷惑な国々だ」
「そう仰らずに」
苦々しく舌打ちをし、皮肉るアサドをランフィーは涼しい顔で宥める。
「王宮を出た貴方様ですが、国は十年前の貴方の英傑ぶりを覚えております。戦国の世は不滅の王を求めているのです」
「……戦の英雄がどういう存在かラン、お前、理解してねえだろ」
ラン――ランフィーの愛称なのだろう。過去にもそう呼ばれていたのであろうか、アサドに親しげに呼び掛けられてランフィーは子供のような明るい表情になり、声にも張りが出る。
「そんなことはありません! 戦の英雄は国に勝利やあらゆる恩恵を与える素晴らしき存在ですっ」
「だからそれが理解してないって――……」
心底呆れたように息を吐き、アサドはランフィーを見つめた。
かつての英雄でもあるアサドを前に興奮でもしているのだろうか。何処か憐れむように見詰めているアサドの視線にすらランフィーは気付いていない。
傍で見ていた雛菊には、二人の価値観に対する温度差を感じた。
かく言う雛菊も平和な世界で生きて来た為、戦という単語はあまりに耳に馴染みにくいのだが、戦の手から逃げるシャナの姿を思い出し、事の重大さを受け止める。戦の噂の影に現れた城の使いらしき手から逃げた日はそう遠い過去ではない。
それはこの街に来る前。
アサドに出会う前の出来事だ。
三ヶ月も前の出来事で記憶の隅に追いやられていたのだが、とうとうこの街にまで戦の影が忍び寄っているのだと知る。
戦とは、戦争とはどんなものなのだろう。
昔見た映画などの記憶から雛菊は自分を当てはめて想像し、思わず体を震わせた。
「アサド君、やっぱり戦争始まっちゃうの?」
そんな怯える雛菊に、アサドは抱き寄せて優しく宥める。声はかけなかったが、浮かべた柔らかい笑みが雛菊の気持は幾分か和らいだ。
「ラン、俺は英雄じゃない。子供だったお前に、まだ子供のお前には理解らないかも知れないが、俺はお前の尊敬に値する人間じゃねーんだ」
「そんなご謙遜を」
「謙遜じゃなくて――ああっくそ! 拉致明かねぇなっ」
届かない言葉に苛々と頭を掻きむしり、アサドは脇に置いていた雛菊を急に抱き上げる。
「ラン、話が戦の話なら俺は聞き入らねぇ。お前から逃げ通す。勿論ヒナもだ。指一本でも触れて見ろ。噛み付いてやっからなっ」
人より少し突出した八重歯をちらつかせ、アサドは奮然と構えた。
「どんな脅しですか! 逃がしませんよっ」
ランフィーは小さく身構えて何やら口の中でぶつぶつ呟いた。それと同じく、彼の胸元を飾る碧石のブローチが内側から光り出す。
「精霊術かっ! が、俺のスピードには劣るぜっ」
不敵に口の端を持ち上げ、アサドは雛菊をより強く抱き締めた。
これから彼が何をするのかは雛菊にはよく分からない。
けれど、井戸の底から一回の跳躍で抜け出る運動能力の持ち主だ。街中であろうと壁を越え、屋根に上がり空から逃げるぐらいやってのけるに違いない。
「悪戯なるシルフの眷属よ、彼の者を捕らえる枷を――メッシドゥォール!」
詠唱と共にランフィーが翳した右手を振り下ろす。
刹那、一陣の風の塊が飛び交った。
しかし向かってくる気流の塊に顔色を変えずにアサドが腰を下げて、一気に壁を駆け上がり宙を飛んだ。
「きゃあっ!」
肌に感じる浮遊感。地上では狙いを外した風が暫し滞った後にすぐに消えていた。
人を傷付ける術ではないようなので、あれと同じ物を逃げる自分に使われたのかも知れない。
一瞬、雛菊はそう考えたが、それ以上に更に続く浮遊感が思考を遮り、ただアサドから振り落とされまいと彼の首にしがみつく。これに気を良くしたアサドは、近場の赤茶けた瓦が敷かれた屋根に着地をすると声高らかにランフィーに告げた。
「親父や大臣共に伝えろっ! 馬鹿な戦は何も生まないってなっ」
「王子っ! 貴方はどうしても帰らねばならぬのですよっ」
「知るかっ! 俺の力に頼るような戦に何の意義があるっ」
再び声音が厳しくなるアサドに、ランフィーは怯まずに反論した。
「他にも帰る理由があるのですっ! プレヤード・ジオンが戻って来たんです!!」
その一言でアサドの顔色が一気に変わった。
驚愕したのか、酷く青褪めた顔で先程の勢いなど何処吹く風と言わんばかりだ。まるで煌々と火花を散らして輝いていた線香花火が、突然火種を落としたような静まりようだった。
「……何処だ。今まで何処にあった」
「今この場では明かせません。本当なら王宮で落ち着いて伝えるべき内容なのですが、おばあ様が聞き分けないようなら切札に明かせと言われたので伝えたまでです」
「チェリウフィーの入れ知恵か。……はったりじゃねぇよな」
「王子に嘘を付く程、愚かしくはありませんよ!」
疑われたことにいくらか気分を害して答えるランフィーは、まるで子供のように不安そうな顔を見せる。
あながち切札というのも嘘ではなかったのであろう。手札を出し切った今となってはアサドを引止める手立てがないようだった。
今なら容易くランフィーからも逃げられるだろう。
だがアサドはすぐにそうはしなかった。
彼はおもむろに懐を探り、金の鎖状のペンダントを取り出す。それには琥珀色の石のついた指輪が通っていた。それをアサドはランフィーに投げて寄越す。
「王子?」
渡された指輪を訝しげに見詰め、ランフィーは逆光を浴びるアサドを目を細めて見上げる。その視線にアサドは冷たく、抑揚なしに答えた。
「人質変わりだ。それをお前に預ける。希望通り従ってやるよ。明朝、一緒に帰ってやるから今日は宿に引き返せ」
「アサド君っ!?」
あまりの身の翻し方に声を上げたのはその様子を傍で静観していた雛菊だ。
アサドは眉間に皺を寄せ、捨てられた犬のような顔をする雛菊の頭を軽く撫でながら力なく笑う。
「……ヒナの手料理を味わえるのも、今夜で最後だなあ」
* * * * *
アサドが最後といった食事は、いつもと変わらない風景だった。
シャナは無口でアサドは相変わらずお喋りで、食事の後には「ごちそうさま」と雛菊に感謝を込める。
今日の出来事をアサドはシャナには簡単に「明日、実家に帰る」と話しただけで、それに対してシャナは引き止めるといった素振りはなく、ただ「そう」とだけ頷いた。
アサドの追手に驚くでもなく、また目的がアサドだからなのか、以前のようにさっさと荷物をまとめて拠点を変えるといったこともしないらしい。
アサドは雛菊が作った夕飯を綺麗に平らげると、「明日は早いから荷物をまとめてすぐに寝る」と言い残して自室に籠ってしまった。
賑やか担当がすぐに引っ込んでしまうと、家内も火が消えたように静まり返り、雛菊は恨めしい気持ちでぼやいた。
「まとめる荷物なんて殆どないくせに……」
「僕は雛菊はアイツを引き止めるかと思ってた」
食事の後片付けで食器を洗う雛菊に、意外そうに言ったのはシャナだった。
食後のお茶のお代わりなのだろう。カップを片手にポットの前に立つ。最近、お茶を淹れる事を覚えた彼は、お気に入りの茶葉を自分で選びもするくらいには成長している。
そんな少年を雛菊は冷めた目で見ながら、反論した。
「……私に引き止める権利なんかないでしょ」
掌を返したように突然王宮への帰還を決めた王子様。
あまりの急変ではなかったら引き止めもしたのだろうけど、確かな目的を持って帰郷を決めた人を引き止める権利が誰にあるだろうか。
「シャナだって止めないくせに」
「君は僕がアサドに“帰るなよ、もう暫く一緒にいろよ”って寂しそうにすがりつく姿を想像出来るかい?」
言われて雛菊は暫し考えたが、すぐに胸焼けがしたので考えるのをやめた。
「でもシャナにはアサド君の体を元に戻す約束があるでしょ? 何もしないでバイバイでいいの?」
雛菊は拗ねた子供のように口を尖らせる。
「確かに僕はアイツの体を元に戻す責任はあるけど、アイツがそれを後回しにしてでも望んで出て行くなら止める必要ないだろ。アサドにはアサドの目的があるんだ」
「目的って?」
「それは僕からは言わないよ。本人に聞くべきだ。多分、君になら話すだろうから」
「私になら?」
何故、と問いかける雛菊にシャナは意地悪く「さあね」とだけ首を竦め、お茶を注いだカップを持ってリビングへと引き返した。行きがけにセルス蔵から冷えたプリンを取り出すのを忘れない。
「なんにせよ、此処に留まるのも出て行くのも決めたのはアサドだ。不満なら君は自分で考えて動けばいいんだ」
「考えて引き止めても多分後悔しそうだよ」
「それなら諦めるんだね」
バッサリと切り捨てるシャナの言葉に雛菊はふて腐れながらエプロンのリボンを解く。
後片付けは終わっていた。磨かれて並べられた食器に話ながらでも手を休めないのが所帯臭いとシャナは笑った。大きなお世話だ。
家事を終えた雛菊は、自分のカップにお茶を注いでシャナの向かいに腰掛けた。悠々とプリンを頬張るシャナを軽く睨んで話を蒸し返す。
「シャナは寂しくないの?」
「君は寂しいんだ」
「寂しくない訳ないじゃない。アサド君はラキーアで数少ない家族なんだもん。急にいなくなられると、寂しいに決まってる。シャナは? 親友でしょ? また長い間離れても寂しくないの?」
あまりに淡泊なシャナに雛菊はムッとして言い返す。それでもシャナは涼しい顔をしたもので、聞き流すようにプリンを食べる。
「親友と声高に言われるのは青臭くて複雑だけど、アサドとは十年音信不通だったんだよ? 元々互いに個人主義なんだ。どうしようが勝手にさせればいい。向こうが片付いたら戻ってくるさ。此処にも大事な用件は残っているんだ。大体、どんな事情に関係なく別れってのは避けて通れないだろ。……僕はもう何度となく味わって来たよ。こういうのには慣れるしかないんだ」
「冷たいの」
深く息を吐いて、雛菊はカップのお茶を胃に流した。
シャナの言葉は達観していて雛菊にはいまいち分かり辛い。
自称、見た目以上に歳を食っているシャナの言う通り、彼には雛菊の知らない所でいくつかの別れを経験しているのだろう。アサドとは親友と言えど、シャナが彼の心臓を奪った後からは交遊はなく追う側と追われる側の関係。そんな二人が再会を果たしたのは十年ぶりのつい最近、雛菊の目の前で果たされた。
淡泊になれるものなのかも知れない。
納得はしないながらも雛菊はそう思った。
身近な親戚一同が健在で彼女の今までの十六年での別れと言えば小中学校の卒業式ぐらいなものだから、別れに対する認識は深くはなかった。それでもやはり頭で思うものと心で感じるものは大きく違うもので、素直に送り出せる気持には到底なれない。
「私が宮廷精霊師の子に不用意に近付かなければ、アサド君も急に帰るとか言わなかったかな?」
「さあ? 説得する材料があったみたいだから、君が関わろうと関わるまいと言葉を交わせば自ずと同じ結果になっていただろうよ」
「そうなの……?」
同じ結果という言葉が雛菊の胸に刺さる。
自分がどう抗おうとも、非力さ故に井戸から這い上がれなかった日を思い出した。
あの時も何の特別な力を持たない自分の無力さを嘆いていた。その後、セラフィムという役割に救われた気にはなっていたけど、特に変化も見られない状態はすぐに自信を喪失させる。
「……シャナ、私を呼んだことは失敗だったって思う? 何も出来ない、願いを叶える花なんて、さ」
椅子を引き、背中を丸め頭をテーブルの上にゴロンと寝転がりながら力なく雛菊は独り言のように言った。
シャナはプリンを食べながらチラリとその様子を窺うが、落ち込む顔を見られたくなくて顔を伏せる。質問に対して面と肯定されたくもなかった。
それだけアサドとの別れをにわかには受け入れ難い。
そんな雛菊の異変を察知したのか、彼女の足下では先程から真紅の毛皮を擦り寄せたルビが鼻で鳴いている。セラフィムに従うルビは雛菊の浮き沈みに敏感だ。結局は隠しきれない感情にシャナの戸惑いの息が聞こえる。
「もし、例え君がセラフィムでなくても君が必要だと、守りたいとアサドは言っていた。君という存在に救われている人間もいるんだ。それをどうして君を呼んだのを失敗だなんて言えるのさ。それに、今日、やけにルビが騒ぐものだから、君の身に何か起きてるんじゃないかって真っ先に家を飛び出るくらいアイツは――」
「心配してくれてるんだね」
「え、ああ……うん、そう」
そんな風に大事に思われていたことに気持ちが和らいで雛菊は勇んで聞き返せば、シャナは出鼻を挫かれたような妙な顔をして首肯した。
「君がセラフィムより大事なんだよ」
その言葉に雛菊は堪らず破顔した。慰め下手の少年の少年なりの素直な言葉がささくれた気持を落ち着かせた。
「ねえ、シャナの言う通りなら私は私のままでも必要とされているんだよね? セラフィムじゃない私でもアサド君の力になれるかも知れないんだよね」
「ヒナギク、何……考えてるんだい?」
雛菊の言葉に何処か不穏な空気を感じたか訝しげにシャナに見詰められる。
「アサド君ね、私の手料理を食べるのは今夜が最後って言ったの。それって、此処には帰って来る気がないって意味だよね?」
「そうなんだろ。腐っても家出した王位継承者が戻って来るんだ。戦争が始まりそうなこんな時期だし、簡単には逃げられないだろうね。アイツの古巣はこの国一の欲望集まる場所だ」
「それじゃあアサド君余計に一人で心細いよね」
ぽつり零した言葉に、シャナは雛菊の目的に予想がついたようでじっと睨めつける。これからの話の流れで辿り着くのは反論だと雛菊でさえ用意に想像がついた。
「……君、アサドについて行くつもり?」
「うん」
雛菊はシャナが呆れるのも構わず、あっさりと頷いた。
「アサド君を一人で帰したらもう会えないんでしょ? なら私が行けば私を帰すつもりで一緒に戻って来るかなってさ。そりゃあ、普通の小娘が王子様と同伴でお城に入れるとは思ってないよ? 実際問題今のとこなーんも力もないけど、私がアサド君の力になる為にはやっぱりソレ利用するしかないと思うのね」
「離宮の使いにセラフィムだとバラす気?」
険しくなるシャナの言葉に雛菊は難しい顔をする。
「信じてくれるかは微妙だけど、普通は人に懐かないルビさんを見せようと思うんだ。それに情勢が不穏ならよりセラフィムという可能性がある人は一度くらい検分する可能性がないかな」
「セラフィムじゃないと判断されたら、聖なる名を騙った罪で教会にしょっぴかれるかも知れないとしてもかい?」
「だから明日は元の世界の制服を着るし、学校鞄も持って行くよ。ケータイとか、少しは珍しい物があるし」
賭けだけどねと笑えばシャナがあからさまに呆れた顔をしたのが分かった。
「それで逆に信じられたらどうするんだ! なんの力もない君がどうやって力の証明をするんだ!」
「そこはほら、“アサド君の願いしか叶えない契約です”とかもっともらしく言って誤魔化してさ」
「君がそこまでする必要はないだろうっ!」
「あるよっ」
あっけらかんと答える雛菊に対してシャナは声を荒げた。反射的に雛菊も声を上げるが、珍しく激しくなるシャナの真紅の瞳に一瞬怯んで勢いも長くは続かない。けど意地は通すつもりだった。これだけは言っておきたい一言があった。
「アサド君、とても寂しい目をしてたんだよ。夢で見た、シャナみたいな寂しい目……」
「僕、みたいな?」
か細く震える声で今にも泣きだしそうになったので、シャナは言葉を飲み込む。
真っ直ぐ雛菊を見詰めて顔色を窺うので、少女はシャナの怒りが落ち着いたのかどうかと少し視線を上げた。
「私、悔しいの。目の前であんなに寂しそうな目をしている人がいるのに、何も出来ないのが凄く悔しいの。悔しかったの。でも、今は私の手の届く所にそんな人がいるんだよ。今度こそ力になりたいじゃない」
シャナを見て、雛菊は昔の気持を思い出していた。
物心ついた頃から見ていたシャナの夢。
夢の中のシャナはいつだって孤独で、寂しそうだった。
目の前にいるシャナを雛菊はいつだって救いたいと願っていた。
昏い淵にいる少年の手を引いて、陽の刺す方へ共に歩きたかった。
抱き締めて、人の温もりを教えたかった。
けれど、夢の中のシャナにはいつだって手が届かないから雛菊の胸は不甲斐なさで苦しくなるばかりだったのだ。
「独りぼっちで肩を落とす人の前を通り過ぎる事なんて出来ないよ」
「そんなの、君の自己満足なんじゃないの?」
気を落ち着かせ声のトーンは落ちたが、まだ責めるように冷たいシャナの言葉に雛菊は悲しそうに笑った。
「そう思われても性分だから仕方ないよ。それに――」
「それに?」
言い掛ける雛菊に続きを促してシャナは首を傾げる。
「アサド君と行かなきゃいけない予感がするの。こう……シャナに召喚された時みたいな感じと似てるんだ」
「僕に喚ばれた時みたいな……?」
あまりに感覚的過ぎるので説得力にかけると思った。だんだん自信がなくなって肩を落とす。
「直感で動くなんてシャナには馬鹿みたいに見えるかも知れない。でも、行って後悔するような危険があるとしても行かなくても後悔しそうなんだよ」
「君は自分の立場を分かってる?」
「正直あんまり」
政の中心地がどう危険なのかというのはシャナの言い分なので雛菊としては危機感はほぼ皆無だ。
昔からそうで、迷ったらとにかく進める道を歩くのが雛菊の性分だった。
性分は何処の世界にいても簡単に変わるものでなく、異世界とて例外じゃない。
シャナに何を言っても納得はしないだろう。説得という術を得意としない雛菊は早々に強行手段という名の身支度を始めた。
「ちょ、ヒナギク……!?」
「あ、私が留守のシャナのご飯どうしよう!」
ロフトに上がった所ではたと気付いて雛菊は声を上げる。
まるで「旅行中のペットはどうするか」の発言に内心シャナは面白くないだろう。失言だったとこっそりどんな様子か盗み見れば少年は背中を丸めて大きく息をつき、不本意という意思表示か一言吠えた。
「あーもうっ! 僕も行く!!」
半ばやけくそでがなり立てたのでロフト上にいた雛菊にまではっきりと聞こえる。階下に顔を覗かせれば、こちらを見上げるシャナが仏頂面で鼻を鳴らす。
「言ったろ。君を無事に元の世界へ帰すまで、君を守るって」
「念の為に聞くけど、シャナはお城からの使いに追われてるんだよね。問題はない?」
申し出はとても心強く嬉しいけれど、やはり不安で尋ねると雛菊に対してシャナも苦々しく小さく唸った。
「まぁ、十年前まで向こうの宮廷精霊師をやってた僕がそのまま帰る訳には行かないだろうけどさ、手がない訳……でもないし。多分、大丈夫」
「宮廷精霊師!? シャナもランフィー君って子みたいに王宮に仕えてたの!?」
こんな時に知った過去に雛菊は目を丸く声を大にして問い返せば、シャナは少し煩わしそうに一瞥し右手を放るように払った。
「――昔取った杵柄みたいなものだよ。あそこで精霊術以外のものを学んだんだけど……これもその応用みたいな……もう少しマシな手段があれば良かったんだけどね。……ヒナギク、笑うなよ」
どうも歯切れの悪い調子でシャナはさらりと自分の頭を撫で、両手を肩にかけて体の線をなぞるように上から下にすっと下ろす。ラジオ体操の深呼吸を気怠くやっているような動きだなとぼんやり考えながらも、雛菊は目の前に起きた現象に唖然として笑うどころではなかった。
夢でも見ているのかと未だに目の前の光景を受け入れられずに瞬きを何度も繰り返す。
さらりと頭を撫でた時、雛菊の黒い髪とは色合いが何処か違う、光の加減で暗い青味を混ぜた複雑な色合いを見せる艶のある髪がサラリと肩まで伸びた。
肩から下に両手を下ろした時、着古したローブはしなやかに波打ってシンプルな作りの修道女を思わせる濃紺のドレスに形を変える。
肉体に変化があった訳ではない。
ただ髪を伸ばし、着る服を替えただけでガラリと印象を変えた少年がそこにいた。
否、少女と呼んだ方が相応しいくらいのシャナが暗い面持ちでそこにいた。
目の前で姿を変えなければ、雛菊でさえすぐには誰かと気付けなかったかも知れない。
それぐらい少女の出で立ちをしたシャナは、愛らしかった。
「アサドにまた笑われるなぁ」
死んだ方がマシ。
そう言っても過言ではない沈痛な面持ちでシャナは重く零す。
雛菊は開いた口が塞がらないという状況を、まさに身を持って体験した所だった。
* * * * *
まだ日も昇りきらない暁の刻、アサドは笑い過ぎてよじれた腹を痛そうに抱えてヒーヒーと喘いでいた。
「……笑い過ぎだ」
ブスッと膨れ面のシャナがうざったそうに伸びた髪を掻き上げてアサドの脛を蹴る。
「いって! いや、でもだってシャルーンの姿で出て来るとは思いもしなかったから……」
「煩いなっ!」
「シャルーン?」
首を傾げる雛菊に、アサドは涙で滲んだ目尻を拭った。
「シャルーンはシャナの源氏名。昔、一度ある理由で女装したことがあんだよ。これが思いの他当たりでな、不思議と誰にも正体がバレねーのなんの」
「へぇ、意外だね」
「有り得なさそうな奴の意外な姿だから余計気付かれねぇんだろ」
まだ微かに息の整わないかすれた声で説明をするアサドの傍、シャナが腕を組んでは不機嫌に舌打ちする。話す気もない程いじけているらしい。
アサドはまだ緩む口許を上手く隠しきれない顔で、そんなシャナの肩を叩いた。何処か慰めるような仕草にシャナはまた苦々しく舌打ちをする。
「……心の何処かでヒナが来てくれること、望んでいたんだよな、俺。でも政治のど真ん中に連れ込んで隠し通すもっともな理由が浮かばなかったし、断られたり渋られたりしたらやっぱり痛いなって思って言い出せなかったんだ。シャナがプライド捨ててまで一緒なのは予想外だが」
アサドが臆面もなく素直に喜ぶものだからシャナは余計気まずげに顔を背けた。
雛菊がアサドについて王宮まで行くと申し出たのは、つい先程の事。
最初は戸惑いもして繰り返し何度も聞き返したアサド。雛菊はセラフィムの肩書きを利用するときっぱり断言したのには流石に驚いたようだった。
アサドはそれをどうやって証明するのかとか、本気で信じられたらどうするのかとか敢えて厳しい声で問い質しもした。しかし、昨晩のシャナと同じやり取りをした雛菊にはそんな同じ言い分は通らず、ついには衝撃的な女装シャナを護衛につけるからと反則技の切札を出したのだ。
アサドのシャナへの信頼は厚いようで、また緊張していた糸がこの女装で切れたのか大笑いの最中ついには丸め込まれて雛菊の同行を許して今に至る。
案外あっさりと追従を許された雛菊は、まるでピクニックにも行く陽気でルビを抱き上げ、ニッコリとアサドに向かって微笑んだ。
「それじゃあ、行こうか」
ランフィーが港で待っている。あまり待たせると神経質そうな少年が小言を言いそうな気がしたので雛菊は早足で進んだ。
ゲームのような新たな展開に浮き足立っているであろう、鼻歌混じりで歩く後ろ姿を見ながらシャナは重い溜息を吐いた。
まだ鳥も囀らない早朝の森を、少女に続いてシャナとアサドは歩く。
「――君が王宮に帰るなんて余程の理由と見たけど、強くヒナギクを拒まなかったのもそれが原因の一つ?」
並んで歩きながらこちらを見ずに質問するシャナをアサドはチラリと横目で見下ろした。
シャナの性別など確認するまでもなく分かってはいるが、一見どう見ても少女のような出で立ちを見て嘆息をつく。
「……プレヤード・ジオンが戻ってきたそうだ」
小声の答えにシャナはぴくりと反応を示し、伸びた髪を揺らしてアサドを見上げた。
「まさか……それじゃあ犯人も?」
「そこまでは聞いてねえ。聞いたところでランは知らないだろうしな」
頷いて、アサドは影を落とすように俯いた。
シャナは他人事ではない面持ちになる。そんな予想通りのシャナの反応にアサドは複雑そうに眉をひそめた。
本当は、シャナには事実を告げたくはなかったのだ。
けれど雛菊を守る為にアサドとの同行を選び、彼からすれば苦い後味の残った思い出の場所に乗り込む事を決めた。その上その術として男のプライドも捨てた覚悟を前にすると黙っておくのはフェアではない気もした。(思う存分笑い飛ばした後では説得力に欠けはするが)
アサドにとって決着をつけたいものは自身の呪い以外にももう一つあった。その為に雛菊の存在は渡りに船だったのだが、同時に不安だった。
アサドの本意など知らずに無邪気に進む雛菊の背中に酷く罪悪感を覚える。
別れを告げながら優しい少女が釣れることを狙っていた。危険は承知だったので釣れなくても仕方ないと思ったのも本心で、でも雛菊が自分を選んでくれた事は嬉しくて、シャナが付随したのも身辺警護の面で心強かった。
「最低だと思われても仕方ない。けど、俺はジオンを奪った奴を……ニタムをあんな目にした犯人を許す訳にはいかねーから」
「格好の餌になるヒナギク同伴の方が都合がいいのは否定しないよ」
咎めるでもないが感情を隠すような淡々とした言葉にアサドはより胸が痛む。
「本心知られたら嫌われるだろうな、俺」
「どうだろう。彼女が誰かを嫌う姿は想像が出来ないな」
「優しいもんな」
「甘いんだよ」
肩を竦めてぼやく視線の先は軽い足取りの話題の君。時折遅れる二人を振り返るが、話している様子を読んでか放っているみたいだ。そういう気遣いもアサドはとても気に入っている。
「俺だってあの子を守る気は強いけど、お前がいるのは本当に助かるんだ。ヒナを傷つけたくはないんだ。だから……ありがとな」
「――っ」
アサドが漏らした言葉にシャナは一瞬呼吸を忘れたように目を白黒とさせた。
照れさせてしまったようだ。きつく眉間に皺を寄せて作られた顔に懐かしさを感じながら低い位置にある少女姿の少年の頭に手を置く。
「協定を組もう。何事も優先一位はヒナだ」
「あたりまえだ」
身長差を意識させる手を乱暴にどかしてシャナは同意する。
「嫌なら大人の形取りゃいいのに」
喉の奥で笑いながら指摘すれば少年はふてくされながら首を振った。
「あれは燃費が悪い。それに少女姿は油断を誘えるだろ」
不本意には違いないのに随分我慢強い態度に感心しつつアサドはつい意地の悪い言葉を思いついてしまう。
「女の子に守られたら意識はされにくいんじゃないか」
「それってどういう意味?」
「分からないならいい。俺が先に動くから」
訝しむシャナを置いてアサドは歩幅を広げ先に進む。いい加減女の子を一人にするわけにも行かず――というのは建前で、前に立つことで優位に立っていると思いたかったのかもしれない。
「こっからが本番だな」
一人ごちて少女の手を取った。
後ろから急に手を握られた少女は驚きつつもこの状況を許し、顔を綻ばせる。
広がる花の匂いにアサドは抗えない感情を強く確信した――。