06.宮廷精霊師
磯の匂いが含んだ空気を胸に溜め込み、雛菊は石畳の道を闊歩する。
「よう、お嬢さん。今日も買い出しかい?」
ゴンドラ漕ぎの男が日に焼けた肌から白い歯を零して雛菊に声をかける。
「オジサン、こんにちは。買い物は買い物だけど、今日はいつもとは違う買い物なんだー」
雛菊は片手を振り、水路を行くゴンドラ漕ぎの男と擦れ違い様に僅かな言葉を交わす。男も櫂を左手に持ち替え、右手を振り返しながら通り過ぎ様に別れを告げた。
暫く歩くと賑やかな界隈に着く。テントが軒を連ねる市場街だ。
「ああヒナちゃん、新鮮な魚が入ったけどどうだい?」
「オバサン、ごめんね。今日は別の買い物なの。また今度声かけてね」
「期待して待ってるよ」
目尻の小ジワを更に刻んで魚屋の女はあかぎれた働く人の手をヒラヒラと雛菊を見送った。
その他にも八百屋や肉屋、花屋までもが雛菊に一言声をかけて来る。
この街の住人が人好きする性格もあるが、当初、この世界の文字が読めない雛菊が目的の買い物の為にそれぞれの店主に声をかけていく内に親しくなったのだ。
雛菊は、一言一言にしっかり言葉を返しながら市場街を過ぎて行く。彼女のこの人当たりの良さもまた、一つの要因だろう。
そして、本日の目的地である本屋に着いた時、店番をする看板娘のマルーンに呆れた息を零させた。
「当店は飲食物持込み禁止なんですけどねぇ」
「だって八百屋のオバサンがお勤め品だからって……」
雛菊は果実の詰まった麻の袋を大事に抱え、眉尻を下げて笑う。マルーンはソバカスの乗った鼻の頭を人差し指で掻いて、その指の腹を上に突き出して口角を上げた。
「――半分、分けてくれるなら入店を許可してもいいわよ。ただし、この荷物は会計までカウンターで預かるけどね」
「あ、それなら全然オッケー。マルーンってば話が分かるなあ」
曇った顔を一転、花が綻ぶような笑みに変えて雛菊は手に持っていた果物をマルーンに預けて店内へと進んだ。
本を物色するには邪魔な荷物は言われた通りカウンターに預ける。
本屋の看板娘は渡された袋を早速物色し、自分の取り分を適当な袋に移し始めた。雛菊はそんな行動にも構いなく、目的の本を適当に選んではざっと内容に目を通す。
「しっかし、愛想のいい女の子は得だわねぇ」
取り分の果実を移し代えたマルーンが、わざと皮肉っぽく雛菊に言った。
「あたしももう少し社交的になれば、オマケで果物とか貰えるかしら?」
「うーん。私が社交的云々以前に八百屋のオバサンはアサド君のファンだから」
きっとお近付きの印なんだと思うよと苦笑混じりに雛菊はざっと目を通した本を棚に戻して行く。
「あの派手な色男は熟女まで落とすのか。許容範囲が広いのね、アンタの彼氏」
「彼氏じゃないって言ってるのに」
呆れて答えるが、これはいつものやり取り。マルーンも知ってて言っている。
シャナという本の虫により、彼のお使いで意図せず本屋のお得意さんになっている雛菊は、気付けば焦茶の長い髪のおさげと鼻の上のそばかすがチャームポイントと言い張る看板娘と親しい仲となっているのだ。
歳は雛菊より少し上のマルーンだが、彼女のさばさばとした性格はその差など気にはさせない。この世界で最初の同性の友人として、仲良くさせて貰っている。
「ところで、ヒナは何を探してんの? 例の本の虫向けの学書じゃないよね?」
普段とは違うカテゴリの棚を物色する雛菊に向かい、マルーンはカウンターから尋ねる。
「ううん。今日は私でも分かるように書いてある教典が欲しいのよ。セラフィムについて書いてあるやつを特にね」
「あの黴が生えた神話に興味があんの、アンタ」
「黴って……。まぁ、ちょっと興味があるにはあるんだけどね」
多少口が悪いのはご愛嬌と、マルーンは茶化しながらも雛菊が見ている棚とは反対の棚を指差した。
「ガチな経典より、子供向けの棚を見なさい。アンタに分かる内容でごまんとあるから」
雛菊の読解レベルを知るマルーンは、流石看板娘よろしくといった様子で分類分けされている本の在処をよく把握している。
サービスはぞんざいだが、それでも庭同然のこの店については彼女に聞けばなんでも教えてくれる。その上彼女の紹介する本は外れがなく、シャナ向けの本を探す時も彼女の意見は事欠けない。
マルーンの言葉通りに児童書コーナーを探せば、確かに雛菊でも読める内容に要約された教典を題材としたが絵本が見付かった。
『はじめて読む聖書』と、いかにも分かりやすいタイトルも語彙も子供に分かりやすく表記されていて雛菊にも読める内容となっている。
「あった?」
「あった」
カウンターから頬杖ついて確認するマルーンに、雛菊は本をかざして頷く。
早速会計に入った時、手渡された商品の本を紐で括りながらマルーンがふと思い出したように口を開いた。
「それにしても、アンタって変な子よねー」
唐突に零すマルーンに、雛菊は顔をしかめて料金を差し出す手を引っ込める。
「変ってなにが。そりゃ、子供レベルの文章しか読めないけど、それは私の元いた所とは言語自体が違うからだって前にも言ったでしょ」
「だからそこが変だっつの。言語自体異なるから文字があまり読めないのは納得だけど、アンタ、会話に関してはなんら遜色ないじゃん」
「うっ」
流石にそこは「異世界から来た効果か、言葉だけは不思議と翻訳されているんです」と答えられず、雛菊は返答に詰まった。
マルーンを疑う訳ではないが、やはり公には出来ない己の素姓を簡単に話す事は出来なかった。第一、雛菊自身がセラフィムかもしれない身であるとなれば、必然的にも呼び出したシャナにも火の粉がかかる恐れがある。
マルーンは友人だとは思うが、やはりそこは秘密を抱える他はない。
「あ、いらっしゃいませー」
上手い言い訳を考えていると突然マルーンがカウンターから身を乗り出して、少し高い商売声を上げた。咄嗟に雛菊もマルーンに合わせて店の入口を見やれば、そこには上品な作りの藍色のマントを羽織った眼鏡の少年が踏ん反り返って入店するところだった。
歩くだけで柔らかそうな薄い茶色の髪がフワリと持ち上がる。
美少年と言える顔立ちだが眼鏡の奥の涼しげな灰色の瞳は不機嫌を顕にし、どこか見知った人を連想させた。
「この店の者だな?」
少年は本屋に来て本の棚に目もくれず、真っ直ぐカウンターに向かった。また、通常の本屋の客としてはいささか物々しい雰囲気がある。
「そうですが、あの、なにか?」
その空気を読み取ったマルーンも、やや緊張気味に相対する。少年は怪しむマルーンに説明をする代わりに懐から丸めた書状を広げて突き出した。
「アーシェガルド国が使いである。故あってとある人物を探しているのだが、心当りがあれば正直に答えて欲しい」
「人……探し?」
ドキリとしてその言葉に雛菊は思わず声を漏らす。
その声で雛菊の存在に気付いた少年は、今度は彼女にチラリと視線を向ける。
「貴女も、心当たりがあるなら答えて欲しい。最近、この界隈で目撃情報があるのだが、ある男を探しているのでね。特徴的な男だ。金の長髪に金色の目、大層な美丈夫で両の腕から鎖骨にかけて目立つ赤い刺青のような紋様がある。覚えないだろうか」
「知りません!」
反射的に雛菊は答えた。
心当たりがあり過ぎた。
どの特徴をどう捕らえても浮かぶ人物はただ一人なのだ。
金髪の長い髪をたてがみのようになびかせ、金色の瞳を悪戯に輝かせ、両腕に不思議な紋様の刺青を刻んだ美丈夫がそう何人もいるとは考えられない。
シャナが追われているのは知ってはいたが、まさかアサドまで追われていようとは。事情は分からないけれど本能的に庇わなければならない気がした。
「マルーン、そんな人知ってる?」
敢えてマルーンに質問を振ると、少年は再びマルーンに向き直り彼女の答えを待つ。
マルーンもアサドは雛菊を通じて知っていた。それなりに言葉も交わしたこともあり、仕事柄、人の顔を覚えるのが得意な彼女が忘れている筈もない。しかし、そこは商売人らしく彼女の機転が利いた所。
「いいえ、存じ上げません」
マルーンはきっぱりと答えた。
「多少漁色家な部分もあるがわりと読書家でね……。本当に心当たりはないのか?」
「お得意様ならまだしも不定期に来られる方や一見様などはっきりとは……。刺青なんて衣服で隠せますし、金髪は珍しいですが、染髪されてる方もおりますし。金の瞳は……とても珍しいですが、毎度お客様の目を見て接客もしませんしねぇ。お力に添えず申し訳ございませんが――」
「そうか……」
困ったようにマルーンは頬に手を当てて肩を竦める。雛菊も感心する程の女優っぷりだった。
アサドをよく知る当人がしらを切るのだ。国の使いに嘘を吐かせるのは心苦しいが、直接関わりのない国のお偉方より、付き合いが少しでも長い方を取るぐらいの仁義と融通と気概はあるマルーンだ。
無論、アサドを悪人とも思っていないから庇うのだが、彼女の自然な対応に雛菊はほとほと感心して聞いていた。
一方で国の使いという少年も、マルーンの言葉にあっさりと引き下がる。
「分かった。ま、期待はしていなかったんだが……お忙しい所ところ邪魔をしてすまなかった。会計の途中だったのだろう? 客人も待たせて申し訳ないな」
「い、いえ……そんな……」
突然話を振られ、雛菊は慌てて頭を下げる。
あまりに仕事上の文句としての気遣いの言葉なのに、国の使いという肩書きからか、反射的に出た行動が小市民臭くて少し情けなかった。
けれども少年はそんなの全く気にした様子もなく、むしろ慣れているといったように社交辞令的に会釈を返す。
「貴女もその者を見掛けたらご一報を。それでは」
藍色のマントを翻し、少年は店を後にしようと一歩踏み出した。
「あの、ところで、その方はなにかなさったのですか?」
さり気なくマルーンが少年を呼び止め探りを入れる。少年使者は足を止め、ブリッジを人差し指で押し上げるとサラリと冷たく答えた。
「市民は知らずともいい事です」
そして、何事もなかったかのように少年は足早に店を後にした。
少年が去り、緊張の余韻が薄れた頃ようやくマルーンがぽつりと口を開いた。
「初めて見た。あれが離宮の使い……」
「離宮?」
聞き返す雛菊に、マルーンは知らないのと逆に言い返した。しかし雛菊の世間知らずが今に始まった事ではないので返事は待たない。
「書状見た時、金の箔押しの錫杖だった。あれは王宮の敷地内の離宮に住まう事を許された直属部隊の証ね。しかも、胸元に碧石のブローチ……宮廷精霊師なのはまず間違いないわよ」
「精霊師!? あの人が!?」
シャナ以外の精霊師の存在に目を丸くする雛菊にマルーンは首肯する。
「宮廷精霊師は皆、碧石を身に付けるらしいんだけど、噂通りならあの人、あの若さでエリート中のエリート様ってなるわね」
“宮廷精霊師は、精霊師の誰もが憧れる冠職なのよ”とマルーンは加えるが、雛菊は上の空で聞いていた。アサドがそんな偉い人に追われているというだけで大事過ぎて、頭が混乱しているのだ。
「――それにしても、宮廷精霊師に指名手配されるアンタの彼氏って何者?」
「彼氏じゃないってば。でも、ホントになんでだろう……アサド君がそんな大罪人には見えないけど、賞金稼ぎとか何でも屋とかやってるからなぁ。何かヤバい事に首突っ込んでるのかも」
そう思うと心が妙にざわざわして落ち着かない。雛菊はいても立ってもいられず、手に持っていた本をマルーンに突き返した。
「マルーンごめん! 今日は何もいらない。その果物も全部貰っていいよ。私、すぐに帰らなきゃ!」
「それが懸命ね。あまり町中をうろつかないように忠告しなきゃ。嘘みたいに目立つんだから、あの人」
「うん……そうだよね」
頷いて、雛菊は直ぐさま外に飛び出す。
石畳の上を緑のヒールで早足に進むが、もどかしくなり次第に駆け足になる。
アサドはシャナとは違い、よく出歩く。ただ、今日は家でのんびりと惰眠を貪っていたから、急いで帰れば間に合うだろうと雛菊は走った。
マルーンの書店は街の裏路地にある。光が差込まない高い壁に挟まれた狭い路地を突き進み、表通りの光が見えて来た。後は商店街を抜ければ町の門はすぐそこだと言うところで切らせた息を飲み込んだ時だった。
「何処へ行くのです」
凛とした声が頭に響く。
驚いて足を止めると背後に誰かの気配。慌てて振り返るといつから尾けていたのだろう。不敵に笑う、少年精霊師がそこにいた。
「いつ……から……」
「最初から」
驚愕する雛菊を前に、少年は眼鏡を押し上げる。
「それより、馬鹿みたいに惚けて見ないでくれますか。これが宮廷精霊師様の実力で、庶民には理解し難い力なのだから」
「なっ!」
カチンと来る物言いに、雛菊の動揺が幾分か冷めた。
この際、この少年がどうやってその場に現れたかはどうでもいい。ただ、初めから雛菊は疑われていたのだという事実だけで十分だった。
どうせシャナに精霊師の力の原理を聞いても意味が分からなかったと同様、少年の力を知っても意味は分からないだろう。
精霊師の力で雛菊の頭に直接語りかけ、忽然と姿を現せた。それだけの事。
「最初から私は容疑者だったんだ」
「そんな所です。大体、あんな目立つ人物がこんな小さな田舎で聞き込みをして情報が入らない訳ないじゃないですか。すぐ耳にしましたよ。よく一緒にいるという貴女に該当する少女の話をね。案の定、カマかけたらすぐに動いてくれて助かります」
「……」
灰色の目が小馬鹿にしたように雛菊を映す。
気に食わない態度だが、思い込んだら突っ走る、直情型な自分の性格も考えものだと少し反省した。
「あれ。でも、私にアサド君のこと聞くなら、もう少し泳がせて直接案内させた方が利口じゃない?」
少しでも少年より優位に立とうと、雛菊は思った事を口にした。馬鹿にされた皮肉も込めたつもりだったが、少年の鼻息一つでいなされる。
「浅はかですね。あの方と真っ正面から張り合うには、いくら宮廷精霊師の僕と言えどもリスクが大きい。貴女が黒だと確信を持った上で捕縛して、餌になって貰った方が簡単じゃないですか」
やれやれと大仰に見せられると相変わらず人を見下した態度に雛菊は苛つきを覚える。
「いかにも漫画や小説で“悪役”が使いそうな手だね。でも、私に人質の価値があると思うの?」
「まさか。ですが、手はいくつあっても悪くない。貴女だってお国の役に立てれば本望でしょう?」
「残念だけど愛国心がないもんで」
元々、別世界の住人である雛菊にはこの世界で“国”という意識はほぼないに等しい。そもそも雛菊の故郷自体、愛国心といった理念が低い風潮にある。故に少年の言う言葉には共感を覚えない。覚えるとしたら、権力を笠に着るような物言いへの嫌悪感ぐらいだ。
「――まったく。男は仕事に忠し、女は男に忠する生き物だって話は本当のようですね。嫌なものだ」
わざとらしく溜息をついて少年は斜に構え、腰に手を当てて立つ。
「貴女もさ、少しあの方に可愛がられたからっていい気にならない方がいいんじゃないですか。どうせ不特定多数の女の一人なんだから」
「……はい?」
突然なにを言い出すのかと思いきや、少年は頭から爪先まで雛菊を一瞥した。
「貧相。顔は美人には程遠くて地味だし、艶やかさもない。体も平均的で目を見張るものもないし。貴女、あの方のなんです? あの方の情婦にしては趣味悪くないですか?」
「し、失礼だなぁっ! 私はアサド君の彼女じゃないし、そこまで悪し様に言わなくても美人じゃないのは自覚してるよっ! とゆうかなに! 勝手に人の後尾けて嫌味零して乙女心傷付けてさっ! 腹立つ、めっちゃ腹立つ!」
著しく女としてのプライドを傷付けられ、雛菊は相手の身分を忘れて息巻く。思わず詰め寄って怒鳴り、雛菊は改めて間近で少年の顔を目にする事が出来た。
あまり背は高くなく、雛菊より少し目線が上なぐらい。日に当たらない暮しなのか、不健康的に白い肌。髪は淡い茶色の細く、中性的に整った顔。銀縁の眼鏡の奥には不機嫌そうな灰色の瞳。
その終始不機嫌な態度は、最初も思ったが何処かシャナと似たような印象を与えなくもない。精霊師という職柄がそう思わせるのだろうが、それはそれこれはこれ。
気は許せない。
怒りで思わず近付いてしまったが、雛菊は少年精霊師を一睨みしてゆっくりと後退りする。
「何処へ行く気です」
「わっ」
少年は目敏く雛菊の左腕を捕まえ、我が身へ引き寄せる。その動きと同時に素早く雛菊の腕を捻って背中へ回し、余った自分の左腕を雛菊の首に絡めた。
「簡単に逃がすとでも思いましたか。残念ですが貴女があの方への今の所一番の手掛りなんですよ」
「ちょ、痛い! 離してよっ」
「こういう時、言われて離す馬鹿はいませんよね」
「くっ……」
捻られた腕を更にキツく締上げられ、雛菊の口許が苦しさで歪む。華奢に見えてもやはり異性。雛菊の力では対抗のしようがなかった。
「僕の質問に答えたらすぐに解放してあげますよ?」
「質、問……?」
苦しさに少し喘いで聞き返すと、微かに雛菊の視線の端で捕らえた少年は薄く微笑う。
「そう。あの方は今、何処に潜伏しておいでか」
「それを知ってどうすんの」
「貴女には関係のない話だ。――で、答えは。分かるのか、分からないのか」
質問を質問で返されて機嫌を損ねた少年が爪先で何度も地面に踏み鳴らして苛々を強調する。首を締める腕まで力が入り、雛菊は更に危機に追い込まれた。
(首を締められたらまとめに話せるかってーの!)
空しい心の悪態は誰にも届かず、雛菊は黙って首だけを横に振る。
最初から答える気は毛頭なかった。どんな事情があるにせよ大切な人を売る真似は出来ない。
「案外、強情ですね」
腹立たしげに舌打ちし、少年は少し雛菊を拘束する腕の力を緩めると首に絡めた腕を解いた。それでも解放された訳ではなく、腕の拘束はまだそのままである。
「僕は優しいから拷問とか面倒臭いのは見逃してあげましょう。ですが、宿までご同行願いますよ。自白剤がありますから」
「じ、自白剤って何よっ。エッチ! 変態っ!」
「煩い! 誰が貴女などに変な気を起こすものか」
暴れようとする雛菊の腕を強引に引っ張り、少年は有無言わせずに歩き始めた。進行方向は人通りが多い表通りは逆の道。
このままでは助けを呼ぶこともままならい。第一、誰かと遭遇したところで国家権力を持つ者に逆らう人は稀有だ。
誰かを頼る手は望みが薄い。
雛菊は自力で何とかする方法を必死で考えた。誰かを頼るのは難しいが、自力で逃げるにもやはり人込みに紛れた方が無難である。
このまま少年にされるがまま歩けば、人通りは更に遠くなる。逃げるなら表通りが目と鼻の先にある今しかなかった。
一か八か。
雛菊は深く呼吸をし、右足を上げる。そして、歩行に合わせて思い切り少年の爪先に向かって踵から振り落とした。
「――っ!」
言葉にならない痛みに少年の腕の力が緩むと同時に雛菊は駆け出した。
この道を一直線に走ればすぐに人通りの多い商店街。
そこまで抜け出れば、後は人込みを縫って逃げ切るだけだ。
いつもよりやけに長く感じる道を雛菊はひたすら走る。
「――なめた真似をっ!」
「んわっ」
背後から少年の怒声が聞こえた。かと思えば、雛菊の足に何か空気の塊のようなものが足に絡み付き、バランスを崩してしまう。
このままでは体を思い切り地面に叩き付けてしまうと、数秒後の痛みに反応して雛菊は目を閉じた。
痛みはなかった。
ただ、柔らかな温もりにぶつかり、背中をふわりと抱き留められていた。
「おう、ヒナ。大丈夫か?」
「ア、アサド君……」
雛菊は目を細めて目の前に立つ人物を見上げた。
影が覆う薄暗い中道に僅かに刺す光を背負い、普段以上に輝きを増す黄金色の髪がやけに眩しい。
「なーんか嫌なにおいに不安で来てみたら、案の定既に巻き込まれてたな。怖い思いしなかったか、ヒナ。怪我は?」
「怪我はないよ、大丈夫。それよりアサド君……」
何故示し合わせたようにこの場にいるのだろうかと、雛菊は不安そうにアサドを見詰めた。
しかし雛菊の視線がアサドと交わる事はなかった。アサドの視線はその先にいる少年精霊師に向けられていた。
「まさかお前が来るとは思わなかったな、ランフィー……だよな? 誰の差金だ。親父か? 兄上か?」
「国王直々からでございます」
少年の態度が打って変わって丁寧なものとなる。
それよりもに雛菊は目を丸くして息を飲んだ。
先程まで雛菊に傲慢と思える嫌味な態度を取っていた少年が、片膝をついてすっかりかしこまっていたのである。深々と頭を下げ、右膝を立てて右腕は胸に添えてかしずく。
その姿はまるで西洋の騎士だった。
勿論、少年――ランフィーがかしずく相手はこの場で心当たりのある人は一人しかいない。
雛菊はランフィーの態度を一変させたその人物を恐る恐る見上げる。
「目的は?」
見慣れない険しい顔でアサドが尋ねた。
金色の瞳は細められ、まるで王者のような威厳を出している。
この二人はどういった関係なのだろう。
聞きたくても聞けない雰囲気に、雛菊はただ双方の様子を伺うしかなかった。
だがその疑問はすぐに明らかになる。
ランフィーはかしずいて尚、こう答えたのだ。
「我が国は貴方様の帰りを待ち望んでおいででございます。“王子”――」
「王……子?」
その呼び名にアサドが一瞬顔を歪ませたのを、雛菊は見逃さなかった。
嫌な顔を見せた後、何故かすまなさそうに雛菊を見下ろし優しく頭を撫でる。雛菊は撫でられた頭を不思議そうに押さえ、首を傾げてアサドを見上げた。
申し訳なさそうなアサドの瞳が語る。
“黙っていて悪かった”と。
雛菊はなにも言い返せなかった。
突然告げられた真実に思考回路が追い付かず、ただぼんやりとアサドを見詰める事しか出来なかった。